夜の声

神崎

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二年目

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 「虹」にくるのは久しぶりだった。少し模様替えしたようで、テーブル席が少なくなっている。そして向こうのドアを開けると、男装用と女装用の衣装がかけられていた。
 その中に松秋さんは私を案内して、かけられている衣装を手に取る。派手なものが多い。まぁそうだろうな。こういう店だから派手なものも多いのだろう。
「洋服?和服?」
「松秋さん……あの……。」
「和服は去年俺たちが着たし、お前が着ても問題はないだろう。ただ細すぎるな。」
 松秋さんは私に近づくと傷跡だらけの手が、私の腰に触れた。
「ひゃっ!」
「これくらいでがたがた言うな。だいたい俺は女だぞ。」
「そうでしたね。すいません。」
「梅子が選ぶと、どうしても派手になるからな。シックな大人感が欲しい。背伸びしているのを助けてやるよ。」
 彼はそう言ってニヤリと笑う。
「これが良いな。合わせてみようか。」
 洋服ではなく和服。それもまるで喪服のような黒い着物だった。裾の方に椿の花があしらっている。
 着物なんか着たことがないけれど、少しもきつくなかった。それはきっと着せて貰う人の腕なんだと思う。そして帯を締めて貰うと、松秋さんは出て行った。入れ替わるように来たのが、梅子さんだった。
「あら綺麗な椿。椿って春の花なのに、雪がかぶってるから今の時期に良いわねぇ。やっぱ、松秋だわ。そういうところは気が利いてる。」
 鏡の前に座ると下地やファンデーションを塗り、上向いて、下向いてと、何かされているようだけど私にはわからない。
「あまりお化粧しないのね。肌が綺麗だわ。」
 松秋さんと違って梅子さんは饒舌だ。だから、いろいろ話してくる。
「そうですね。面倒で。」
「若いウチから化粧をしてると、三十代、四十代になったとき後悔するわ。」
「そんなものですか。」
「でもあなたは相手を早いウチに決めたんでしょ?」
 それが柊さんのことだとわかって、私は頬を染める。
「そうですね。」
「でもあなたの回りにはあなたを狙っている人がいる。葵はあなたに本気なのか、よくわからない。だけど今日会った……。」
「茅さんですか。」
「えぇ。あの人はあなたに本気のようね。それも強引に奪おうとしている。」
「迷惑です。」
「まぁ……そんなこと言わないの。いい人に見えたわ。純粋で、あなたのことを一番に考えてくれている。柊さんよりはもっと違った意味で楽でしょうね。」
「……楽ですよ。私のしたいことを考えてくれて。歳だって近いし、いろいろと助けてもらえました。だけど彼じゃないんです。」
「贅沢な子。そんなに柊さんがいいのかしら。」
「はい。」
「あたしもね、そういう時期はあったわ。一人しか見えてない時期があったわ。」
「松秋さんですか。」
「残念ながら違うの。松秋はその人を失ったときに、手を貸してくれた人。今考えると打算的な人だって思うけど。」
「……。」
「柊さんをもし失ったら、あなたは一人で生きていくの?」
「失うことを想像しながらつきあってませんよ。」
「いいえ。想像しなければいけないわ。二人で一緒に死ぬ訳じゃないの。いつかは死ぬ。そしてあなたの年齢では、柊さんが先にいなくなる可能性が高いもの。子供でもいれば別かもしれないけれど。」
「子供……。」
 ふと芙蓉さんを思い出した。彼女は柊さんの娘かもしれないと言うこと。もし彼と結婚したら、芙蓉さんは私の娘になるのだろうか。
「あなたは若いからね。子供はいつでも良いって思っているかもしれないけれど、柊さんは違うわ。」
「前に誰かからも言われましたね。卒業したらそういうことも自由になるのかもしれないけれど……まだ想像が付かなくて。」
「のんびりしたいなら、柊さんとはやめた方が良いわ。それとも子供は作らないつもりなの?」
 子供を作らないのにセックスをしているというのも変な話だ。だけど「子供が欲しくないのならしない」とはいえない。もっとも自分がそれで持つとも思えないし。
「茅さんならそれで良いかもしれないわね。」
「彼は……。」
「歳が近いんじゃないの?」
「彼は、就職先の直属の上司になります。そんな感情はありま……。」
「どうしたの?」
 ブラシを手にした梅子さんは、私の目に涙が溜まっているのに気が付いたらしい。
「……ごめんなさい。ちょっと色々あって。」
「あんたが色々ない、平々凡々にいることなんかいつでもないでしょ?ほらティッシュ。」
 そういって彼女はティッシュ箱を手渡してくれた。
「ありがとう。」
「あたしが何を言える訳じゃないけどさ、そんなに抱え込まないで。一人で出来ることなんか限られるんだから。」
「……そうですね。」
「あの男と何かあったんでしょ?」
 向かいのいすに座り、私の方をみる。滲んだ先には梅子さんがいる。マスカラとつけまつげの目元が私を見ていた。
「ありました……。」
「好きだとか言われたの?」
「……それは秋に……。それより前から茅さんはずっと私にちょっかいを出してきて……。」
「した?」
 唇が震える。正直に言って良いのだろうか。でももう私の肩に乗ったその荷物が、重く、私を潰そうとしている。
「最初は……無理矢理だった。」
「強姦したってこと?」
「違うんです。拒否しようと思えば出来た。でも……ちょっと私を不安定にさせることがあって。」
「……寂しさにつけ込んだの?最悪な男じゃない。」
「でも……おかしくて……。私が私の体じゃないような感じがして。求めているのは絶対、彼じゃないのに……。」
「それ柊さんは知らないわね。」
「この間……茅さんは柊さんに宣言しました。「好き」だと。それまで柊さんは、茅さんを弟のようにかわいがっていたから、寝耳に水のような出来事だったと思います。」
「ショックかもしれないわね。柊さんも。彼もまた苦しいと思うわよ。だからそんなときだから、あなたが柊さんの元にいるのが一番良いわ。」
「柊さんの元に?」
「もし茅さんとこのまま続けたいなら、死ぬまで、裏切り続ければいい。でも手を切りたいんじゃないの?」
「わからないんです。柊さんが一番好きだと思っているのに、何度も茅さんに好きだと言い掛けました。」
「セックスの時に言う好きは、嘘よ。愛情が無くてもセックス出来るもの。私もほかの女性とセックスできるわ。それが体の相性が良ければ、さらに口走るし。」
「……そんなものなんですか。でも……私、葵さんの時は全く何も思わなくて……。」
「そりゃそうよ。彼の「好き」は誰よりも軽いもの。竹彦より軽いわ。そりゃそうね。あの子は、軽々しくいつも言っていたから。信用もされないか。」
 涙を拭われ、梅子さんは笑う。そしてまた立ち上がった。口紅を手に取ったのを見て、私は顔を少し上に上げた。
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