夏から始まる

神崎

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夏休み

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 手を出しても良いと言うことだろうか。蓮は少し戸惑いながら、菊子を見下ろした。彼女も頬が染まっている。
 我ながらどうしてそんなことを言ったのだろう。菊子もまた戸惑っていた。手を出されないから、どうして手を出さないのかと聞くというのは、出しても良いということにならないだろうか。こういうことは互いの感情が通じ合ってすることだ。蓮にそんな感情があるかどうかわからない。
 ただこの間迫られて、とても驚いた。自分が子供扱いされていたと思っていたから。だから弁解した。誰でも股を開く女ではないということをわかって欲しかったから。
 頬が赤くなりながら戸惑っている。そんなときどうすればいいのか、彼はわかっていなかった。女には縁がなかったわけじゃない。それなりに言い寄られたり恋人がいた時期もあったが、結局彼の音楽に対する姿勢で全てが壊れた。
 今は一人だ。
 女にかまっていられなかった自分が悪い。もっと気を配れれば良かった。
 でも今なら大事にできるかもしれない。
 CDが終わり蓮は一度立ち上がると、CDを変えた。この国の音楽だが、全編英語で歌っていてゆっくりとしたリズムのフォークロックのような音楽だった。
 だが今はその音楽すら耳に入らない。蓮はまた菊子の隣に座ると、思い切って彼女の肩に手を置いた。
 すると菊子はびくっと体を震わせた。来るのかもしれない。唇が震えて、蓮の方を見れなかった。
 考えてみれば初めて会ってからそんなに時が経っているわけではない。おそらく一ヶ月も経っていないのだ。それに蓮のことを何も知らない。なのにこんなに身を委ねていいのだろうか。迷う気持ちがきっと体を震わせている。怖かった。
「菊子。」
 名前を呼ばれ、菊子もまた彼を見上げる。すると目が合った。蓮もまた戸惑っているような表情に見える。迷っているのかもしれない。考えてみればまだ高校生なのだ。成人した男が手を出すべきではないのかもしれない。言われたからそうしようと思っているだけなのか。
「……。」
 でもして欲しい。菊子はその震える手を伸ばすと、蓮の手に手を重ねた。蓮の左手の指は弦を押さえるのに、固いタコができている。それをなぞり、そして手のひらを重ねた。
 そのとき肩に置かれた手がぐっと蓮の方に引き寄せられた。
「あっ……。」
 わずかに声を発した。それでも菊子は蓮の胸に抱かれて、じっとしていた。筋肉質で少し固い体からは、心臓の音が聞こえる。緊張しているのかもしれない。
 自分で骨っぽくて女らしくない体と言っていた。だがとても柔らかい。手を離して、彼は両腕で包み込むように彼女を抱きしめた。温かくて、柔らかい体をずっと抱きしめていたいと思う。
「菊子……。」
 耳元で聞こえる自分を呼ぶ低い声。菊子もまた蓮の体に手を伸ばし、ぐっと抱きしめた。
「蓮さん……。」
「蓮って呼べ。お前とは対等でいたい。少なくとも今だけは、そうしたい。そうじゃないと、俺が菊子さんって呼んでやる。」
 すると菊子は安心したように少し笑い、蓮の名前を呼ぶ。
「蓮……。」
 やばい。抱きしめて名前を呼ばれただけなのに、キスがしたくなる。そこまで菊子が求めているだろうか。いいや。たぶん何もしたことがないと言っていた。これだけで精一杯かもしれない。
 だがしたい。
 蓮は菊子の体を少し離すと、彼女もその力を緩めた。顔を赤くさせて、彼女はうつむいている。だから彼は思い切ってその頬に手を添えた。やはり柔らかくて、張りのある肌だ。その手を下に下げて、顎に手を添えた。そして上に持ち上げる。
「慣れてます?」
 思わず言ってしまったことに、菊子の表情が強ばった。こんなことを聞くつもりはなかったのに。思わず彼から離れると首を横に振り、恥ずかしそうに自分で自分の頬を包み込んだ。
「すいません!余計なことを。」
 すると蓮は少し笑い、菊子の肩にまた手を置いた。
「菊子。俺はこういうことに慣れてない。なんせ、彼女とかが出来てもずっとおざなりにしていたからな。」
「……。」
 恐る恐る蓮の方をみる。彼は全く怒っているように見えなかった。こんなに失礼なことを言ってしまったのに、彼は気にしないように菊子を正面に向かせる。
「言い寄られて、付き合って、怒鳴られて、別れて、その繰り返しだった。」
「蓮……。」
「よくわからなかった。でも今は……お前が欲しいと思う。悪いな。こんな言葉しか出ない。玲二ならもっとスマートに言えるんだろうが。作詞は出来ないし。」
 すると菊子は手を伸ばし、蓮の首にしがみつくように体を寄せた。
「私も……こんな気持ちになったのが始めてで……。」
「初めてが俺でいいのか?結構クズだぞ。音楽しか見てないし。」
「私も料理しか見てませんから。」
「それから音楽だろう?」
 その言葉に、彼女は少し笑った。やはりこの人は、自分の声が好きなだけだ。だからこうしているのだ。自分で縛り付けて、歌を歌って欲しいだけだ。
 それでもいい。こうして貰えるなら、それでいい。
 オペラのアリアと、ピアノを強制した両親に少しだけ感謝をした。それが出来なかったらきっと、彼は振り向いて貰えなかったから。
「菊子。」
 体ごと少し離されて、蓮はじっと菊子をみる。目が離せなかった。もう逃げられないのだと、菊子は覚悟を決めた。
 すっと蓮は菊子の額に唇を寄せた。額に柔らかい感触が伝わり、離されると熱を持ったように熱くなった。
 そしてそのまま右の頬に唇を寄せた。後ろ頭に手を当てられて支えられる。そしてそのまま蓮は、その唇に唇を重ねた。
 煙草の匂いと香水の匂いがしてくらくらしそうだ。いいや。くらくらしているのはきっと、この行為からだと思う。柔らかい唇が軽くふれて離れた。
「……蓮。」
 俯いた菊子は恥ずかしくてまともに蓮の顔を見れなかった。だが彼は彼女をまた抱きしめる。
「ずっとこうしたかった。菊子。きっと初めて会ったときから、こうしたかったんだ。」
「初めて?」
「初めて会ったときから、少なくとも気になってた。」
 その言葉に菊子は嬉しそうに、蓮の体を抱きしめた。
「……どうした。」
「私も気になってたんです。初めて会ったときから、また会えないだろうかって思ってました。」
「菊子。悪いんだがな。」
「どうしました?」
 体を少し離し、不思議そうに蓮をみる。すると蓮は、少し笑っていった。
「もっとしたい。少し驚くかもしれないが、受け入れてくれるか?」
「え……?あ……はい。」
 すると蓮は菊子の頭を支えると、唇をまた重ねた。先ほどのこととは違うのだろうか。彼女はそれをわからないまま、彼の唇の温もりを感じていた。
 ふと唇が割られる感覚がして、驚いた。舌だ。それが口を割り、口内に入ってきたのだ。
「ん……。」
 煙草のコーヒーの匂いがした。そして蓮は探るように、菊子の舌を舐める。彼女もまたそれに答えるように、舌をつきだした。
 ぎこちなくキスは、何度も繰り返される。一度離しても蓮がまた求め、そしていつか菊子も求め始めていた。
 やっと離されて、菊子は一息ついた。
「窒息するかと思いました。」
 すると蓮は少し笑い、菊子の頭を撫でた。
「息をしていいんだ。」
 煙草に手を伸ばして、蓮は時計をみる。
「そろそろ行かないといけないな。」
「あ……こんな時間だったんですね。」
 煙草をくわえて、彼は火をつける。
「もっと居たかったな。」
 先ほど、詩人ではないのだから上手く言葉が見あたらないと言っていたが、十分だと思う。
 その言葉は、初な菊子を赤くさせるのは十分だった。
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