夏から始まる

神崎

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 何と声をかけて良いかわからなかった。菊子は泣いている武生に、「そんなことはないよ」とか「大丈夫」何ていう無責任な言葉を発したくなかったのだ。かといってそのままベッドの上に座っている武生の体に触れることも出来ない。そんなことをすれば、弱っている武生の傷に塩を塗るようなものだ。
 幼なじみで何でもわかっているようだと勘違いしていたのかもしれない。梅子と三人で、一番の理解者だと思いこんでいたのだ。恥ずかしい。
「菊子さん。」
 部屋の外で女将さんの声が聞こえた。菊子は立ち上がり、ドアを開ける。泣いている武生を見せたくなかったからだ。
「はい。」
「棗さんが見えてますよ。」
「棗さん?」
 こんな時に何の用事だろう。ちらりと武生を見るが、やはりまだ落ち込んでいるようだった。
「お客様が見えているっていいますか?」
「たぶん……お客様がいるといっても、中に入り込んでくると思います。裏口にいらっしゃるんですか?」
「えぇ。」
 武生に少し声をかけて、菊子は階下に下がる。裏口の玄関にいた棗の手には薄い青の瓶が握られていた。
「よう。」
「どうしました?連絡がありましたかね。」
「いいや。いきなりきた。これさ、大将に渡しておけよ。」
 そういって瓶を手渡す。ラベルも何も貼っていない。
「何ですか?」
「酒だよ。知り合いの酒造会社の発売前のヤツ。気になるって言ってたから。」
「……ありがとうございます。」
 菊子の表情が浮かない。瓶を手にしても笑顔一つ無かった。
「……お前……。」
 そのとき階段を下りてくる音がした。それは湯上がりの大将だった。
「棗君。例のヤツを持ってきてくれたのか。」
「えぇ。いいヤツが出来たみたいですよ。冷酒が美味いって言ってましたよ。」
「それはいい。棗君。今日は車か?」
「えぇ。そのまま帰ろうかと思って……。」
 出来ればそのとき菊子を連れていきたい。今日も蓮に抱かれるのかもしれないと考えると、身を引き裂かれそうな思いだ。毎日そう思っていたから、だったら抱けるときに抱きたい。
「帰るくらいなら、味見をしていかないか。菊子、酒の用意をしてくれ。」
「え……でも、私もお客様が部屋にいて……。」
 客と言う言葉に、蓮かと思って棗は少し怪訝そうな顔をした。しかし、大将は笑いながらいった。
「連れてきなさい。武生君も自分の殻に閉じこもってうじうじしていても、何の解決もしないだろう。それに菊子にいってもわからない問題もある。」
「はぁ……。」
 いつか「風見鶏」であった男が、ここにいるのだ。知加子と出来ているのではないのか。それを思うと、思わず棗は靴を脱いでいた。
「邪魔するぞ。」
 棗はそういってずかずかと家の中にあがっていった。
「女将さんにな、酒の肴は肉と魚、どっちも用意しておいてくれって言っておいてくれないか。」
「はい……。」
「とっておきもあるんだよ。」
 にやっと笑い、止める間もなく階段を上がっていく。その後ろ姿に、菊子は初めて蓮を重ねた。蓮でも同じことをするかもしれない。もっとも蓮はもっと自然に上がり込んでいたかもしれないが。

 風呂から上がってきた女将さんに、それを伝えて自分の部屋に戻っていこうとしたときだった。部屋から武生と棗が出てきた。武生の顔は少しまだ暗く沈んでいたが、それでも立ち上がれないくらい落ち込んでいたときとは雲泥の差だ。
「飲んで忘れろ。」
「は?」
 その言葉に菊子は棗に聞き直した。
「未成年ですよ。」
「堅いこと言うなよ。外で飲んでいる訳じゃねぇんだし、こんな時に飲めないのは、地獄だよな。武生。」
「……。」
 武生の方が少し背が低い。その肩に手をかけると、武生はうなずかなかったがリビングの方へ歩いていく。

 飲みたいと言っていた皐月も加わり、四人でテーブルを囲んだ。その様子を葵も羨ましそうに見ていたが、女将がそれを止めていた。
「葵さんと菊子さんは駄目ですよ。」
「女将さん。俺も味だけでも見たいです。」
 葵の言葉に菊子は呆れたように言った。
「葵さんは飲まない方が良いですよ。」
「えー?」
「アレルギーだって言ってましたよね。」
「あ……あれは、たまたまですよ。」
 葵は健康診断へ行ったときに、採血の時のアルコール綿で派手にかぶれてしまったのだ。それでアルコールのアレルギーだと判明して以来、酒は飲ませられないと止められている。
 そして菊子もその酒宴に加わることはない。焼き終わっためざしを載せて、テーブルに運んだ。
「美味しいな。水みたいだ。」
「しっかり度数は高いですよ。武生。ぶっ倒れるなよ。」
 おいしい酒だと思った。だがあのとき、初めて知加子と体を合わせたときに、半分こしたビールの方が美味しいように思える。それは一緒に飲んでいる人によるのかもしれない。
 大将も、皐月も、そして棗も悪くない。気を使ってくれているのかもしれないが、驚くほど自然だ。
「武生君は飲めるみたいだな。」
「はい。でもあんまり美味しいと思ったことはないんですけどね。」
「これからだよ。そんなにしょっちゅう飲んでいるわけじゃないだろう?」
「えぇ。」
「そういえば、外国には九十度以上のアルコールもありますよ。」
「九十度?それは喉が焼けるな。」
「と言うか、そんなモノを飲んでもアルコールの味しかしないんじゃないんですか。」
 武生も驚いたように言うと、棗は少し笑って酒を口にする。
「そのままは飲まない。あっちでは消毒用として使うときもあるんだ。普通に酒だな。」
 今、四人が飲んでいる酒には肴がよく合う。魚の生臭さをすっと消してくれるようだった。
 一時でもいい。武生はその酒をぐっと飲む度に、知加子を忘れられないかと思っていた。
「武生。」
「何ですか?」
「明日、菊子と一緒に塩を作りに行くところに行くんだ。」
 その言葉に菊子は思わず棗の方をみた。そんな話聞いていない。
「お前も行かないか。」
「え……。俺行っていいんですか?」
「良いよ。」
 その言葉に菊子はつまみを置いて、棗をみて言う。
「棗さん。私、明日そんな予定聞いてないですよ。」
「言ってねぇもん。でも学校始まったら行けねぇだろ?」
「バンドの練習しないと。」
「夜しろよ。」
 そういってそしらぬ顔でまた酒に口を付ける。その様子に菊子は少しいらっとしたように、棗を見ていた。そんな菊子に女将さんが声をかける。
「菊子さん。」
「はい。」
「二人分の布団を用意して。空き部屋に用意なさいな。」
 弟子のために用意しておいた部屋がちょうど二つ空いている。そこに二人とも泊まらせようと思っているのだろう。
「はい。」
 その場を離れて廊下にでると、女将が菊子に声をかけた。
「……それにしても武生さんは、あのお母さんのところでは苦労するでしょうね。」
「え?」
 女将も知ってしまったのだろう。武生に義母が何をしているのか。
「だいぶ言われましたよ。人の息子を菊子がたぶらかしているんじゃないかとか、未成年に酒を飲ませるとか。」
「……そんな人だと聞いてます。」
「未成年に酒を飲ませているのは真実ですけどね。このままじゃ、あの子は自殺するか、あのお母さんを刺してしまいますよ。」
「それが狙いなのかもしれませんね。」
 死ねばそれでいい。刺し殺せば、武生は前科一犯がつく。数年は外に出られないのだ。出られたとしても残る道は、家業しかない。そこまで計算していたのだろう。
 そこまでしてどうして嫌がる武生をヤクザにさせたいのか、菊子にはわからなかった。
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