夏から始まる

神崎

文字の大きさ
上 下
238 / 265
腐った世界

238

しおりを挟む
 蓮は菊子の部屋に来て、菊子をベッドに座らせた。そして自分はいすに座る。外は少し曇ってきた。菊子の心を映したかのように。
 見上げれば蓮がいる。いつもの様子とは違う。怒っているような、何かを期待しているような顔だった。
 蓮も菊子が何をいいたいか、だいたいわかっていた。きっと棗のことだろう。二人で行動することが多かった。自分のいない間に、棗はきっと手を出している。それは菊子の体に聞けばすぐにわかることだ。
「あのね……蓮。」
 菊子は手を前で組み、わずかに唇をかんだ。
「……昨日……棗さんと出たとき……。」
 すると蓮は手を伸ばして、菊子の右の首に触れた。そこにはまだ跡が残っている。
「こんな跡くらいでは、あいつは大人しくしていないだろう。あのホテルの部屋でお前の体を見たときは、もっと沢山付けたはずだからな。」
 すると菊子はゆっくりとうなづいた。蓮は知らなくても感じていたのだ。それがわかり、菊子の手が少しずつ震えていく。それが見えて、蓮はその手を握った。
「菊子。一つ聞きたいことがある。」
「……うん。」
「お前も求めていたのか?」
 すると菊子は首を横に振った。
「求めたことなんか一度もない。でも……怖かった。」
「棗が?」
「ううん。自分が怖かった。イヤだって思ってるのに変に感じてしまうから。」
 言葉で責められて触れる手が熱くて、棗が自分を呼ぶ声が自分を高ぶらせたような気がする。
「菊子。」
 蓮はいすから立ち上がって菊子の横に座る。もう菊子が泣きそうだったからだ。
「俺は、お前が好きだ。ずっと美咲のことが心の中にあって、それを一気に忘れさせてくれたし……だから、俺もお前をきっと利用した。忘れさせるために。」
「……。」
「棗もそうだった。詳しくは知らないが、あいつにも忘れられない人がいると言っていた。」
「……棗さんも……。」
「いつか言ったな。好きという言葉を使って美咲を縛り付けて、檻の中に閉じこめた。あいつの望みを省みないまま……。だから今度はそんなことをしたくなかった。」
「……。」
「けど、お前は檻の中に閉じこめなければ、他の奴に奪い取られたんだな。」
「私は……。」
「だから一つ、お前を縛り付けようと思う。」
 ベッドから立ち上がると、蓮は部屋の外へ向かう。リビングは妙に静かだった。だが今はそんなものにかまっていられない。
 菊子の部屋に戻ると、不安そうな菊子の顔がある。その様子に蓮は菊子の隣に座ると手のひらに鍵を乗せた。
「鍵?」
「あぁ。いつでも来ていい。というか……来い。」
「……。」
「心配していただろう。学校が始まったら会える時間は少なくなるって。だから学校が終わったら来ればいい。」
「あまり会えないわ。」
「それでもいい。いなければ「rose」を訪ねろ。いるから。」
「……。」
「嬉しくないか?」
 その言葉に菊子は首を横に振る。そして蓮の体に体を寄せた。こんなに自分のことを考えてくれている人がいるんだ。そんな人をこんな形で裏切りたくなかった。
「ごめんね。蓮。」
 すると蓮は菊子の体を抱きしめた。
「手を出すなといってもあいつは手を出すんだろうな。」
「もう棗さんの家には行かないわ。」
「そうしろ。それから二人になるときは気を付けろ。」
「うん。」
 頭をなでて、蓮は菊子を離すと顔をのぞき込んで唇を重ねた。
「女将さんはパンを買ってくると言っていたな。」
「大将の病院帰りね。」
「具材を用意していよう。手伝うから。」
「ありがとう。」
 菊子はそう言って蓮に手を引かれながらベッドを立ち上がった。

 リビングへやってくると梅子はいなかった。何も言わずに帰って行ったのだろうか。棗はソファーで新聞の続きを読んでいるようだった。
「梅子はどこへ行ったんですか?」
「帰った。ん?何だよ。蓮。」
 菊子の手を離して蓮は向かいのソファーに座ると、棗を見据える。
「棗。こいつにあまり手を出すな。」
 すると棗は新聞を閉じて言う。
「あまりってことは、手を出してもいいってことか。」
「そういうことじゃない。」
 剥きになる蓮を鼻で笑い、キッチンへ向かっていった菊子に棗は声をかける。
「菊子。サンドイッチの具材用意するのか?」
「えぇ。」
「手伝うよ。」
「いい。俺がするから。」
 そういって蓮はため息をつく。
「お前にも忘れられない奴がいるんだろう。それに菊子を重ねているんだな。菊子にとっては失礼な話だ。」
 その言葉に棗の表情が険しくなる。新聞をテーブルに置くと、棗は蓮をみた。
「外行こうぜ。」
「いいや。ここでいい。菊子にも関係がある話だ。というか……当事者だろう。」
 蓮はそういってポケットから指輪を取り出した。細い銀色のリングは、鈍い光をたたえていた。
「裏にイニシャルが書いてある。A,Nとな。」
「……。」
「西川天音のものだろう。そしてNの文字は、西川とも読めるが、永澤とも読める。」
「……そうだよ。西川天音は、永澤剛の前妻だ。そんで天音は、西川の家で生まれた。俺が十歳にもならないくらいの時に引き取られたときには、まだ天音がいた。」
 細くて背の高い女だった。十も年上のくせに、棗の目線に下がって言い合いをよくしていたのを覚えている。
「その女にお前は菊子を重ねているんだろう。」
「違うね。俺は、天音に菊子を重ねたことなんかない。俺は菊子だから好きなんだ。お前みたいに美咲を重ねたりしてねぇから。」
 思わず手が止まってしまった。だが信じたい。キッチンで菊子はトマトを洗い、それを輪切りにしていく。
「なぁ。蓮よ。」
「何だ。」
「こんな時は、菊子をシェアすればいいと思わないか。」
「思わないな。」
 まさかそんな提案が来るとは思ってなかった。
「だったら、お前は菊子を捨てるだろう?まだあの話生きてんだからな。」
「あの話?」
 不安そうに菊子は蓮の方をみる。卵のはいった鍋は沸騰を始めている。
「西さんとは別のレコード会社だ。中本さんとも懇意にしている。それに戸崎の家とも繋がりはない。親会社は、お前のところの会社だし、プロになるならそっちだろう?」
「……行かない。」
「蓮。」
 思わず菊子が声を上げた。
「行くなら菊子と一緒に行く。」
「へぇ。菊子を部屋の中に閉じこめて置いて、味噌汁作りながらいつ帰ってくるかわからないお前を待つ生活をさせるのか?」
 その言葉に菊子の心の中に一つの言葉が蘇った。菊子が蓮の足を引っ張っているのだということ。
 不安がまた蘇る。
しおりを挟む

処理中です...