触れられない距離

神崎

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ポテトコロッケ

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 ドラマ部分の撮影が終わり、沙菜は私服に着替えるとスタジオをあとにした。その前に、そのスタジオの予定表を見る。何かのドラマの撮影が別スタジオで行われているらしい。二時間ドラマで、どうやら殺人事件のモノだ。頭の切れる警察官が、犯人を割り出すようなモノでこの主人公の刑事は小さい頃から沙菜も沙夜もおそらく知っている人だ。まだ幼い頃に、父親がこの人が出ている時代劇を見ながら酒を飲んでいたのだから。
 おそらく慎吾はこのドラマに出ていたと思われる。役者の卵だと言っていたからだ。だがそれが本当なのかもわからない。翔に真実を聞きたいが、どうして知りたいのかとかどこで知り合ったのかなどは言いたくなかったから聞けない。自分がしたことだが、後悔している。
 沙夜に近づいて欲しくない。沙菜に発せられたあの一言を思い出すから。
「嘘つき。」
 沙夜はそう言ったのだ。それは自分が仕掛けたこと。そしてお節介だった。それを沙夜は理解してくれなかった。沙夜にとってはあの行動は嫌な気持ちにしかさせなかったのだろう。
 自分が良いと思っていることを強制するのは、傲慢だと思う。それを沙夜に言ったとき、沙夜は冷たい口調で言った。
「ご飯は用意しているけど、私が美味しいと思ったモノだから、あなたの味覚に会わなければ食べなくても良いわ。今時は買ってきたものも美味しいし。」
 だが沙夜が作るものは沙菜の口に合う。そしてそれはずっと美味しいので、沙菜は文句を言わなかっただけだ。そしてその食事が、沙夜と別れたくないと思わせてくれる。
「……今日、ご飯何をしてたっていってたっけ。」
 沙菜はそう呟くと、携帯電話を取りだした。そこにはメッセージが何件かある。そしてその中に慎吾のものがあった。
「終わったら連絡をして欲しい。」
 連絡なんてするわけがない。おそらく慎吾を沙菜に近づけたのは罠だと思うから。自分の地位を脅かそうとしている人が居るのはわかる。つまり単体女優の地位を沙菜から奪いたいと思っているのだ。
 AV女優というのは、相当数が居る。その中でメーカーと契約している単体女優になれるのはごく一部で、ほとんどが企画女優になるのだ。企画女優も悪くない。出れば出るほど実入りが良いから。
 だが単体女優は、あまりガツガツ撮影することはない。一本の単価が高いからだ。それだけ収益があるのだろう。沙菜はその中でも相当売れている方だと思う。デビュー当時から、注目されていたからだ。それは「元アイドル」という触れ込みだったからかもしれない。
 アイドルからAV女優になった人は多いが、沙菜のように数年間も第一線でいれる女優は少ない。だから足を引っ張ろうという人は多いのだ。友達面をして近づいてSNSなんかで仲が良いことをアピールしたりしていても、割とその内面はギスギスしているのは日常だろう。
 沙菜に慎吾を近づけたのはおそらくそういったところだ。あの飲み会の場にいた誰か。そう思うと繋がりを持ちたくないと思うが、そうはいかない。イメージというのは大事で、女優が沢山出てくるような作品にもまだ需要があるからだ。
 そう思いながら、スタジオを出て行くと駅の方へ向かう。やっと帰れるからだ。
 その時、駅前の時計台の前をさしかかった。そこはナンパスポットで、女性の二人組などが男を待っているように見える。沙菜も同じようなことをしたことがあるが出演したAVの作品の話だ。
 逆ナンパをして、そのままホテルへ行って男とセックスをする。もちろんノーマルなものもあれば、足蹴にするような女王様を演じるときもあった。だがそれをしたのは仕事だから。気が乗らなければ、ナンパに乗ることもない。今日はそんな気分ではない。それより帰ってご飯が食べたいと思う。
 昼に出されたビュッフェは美味しかったが味が濃い。沙夜の食事で口直しをしたいと思っていたのだ。
「あれ?」
 男が沙菜に近づいてきた。金髪が伸びて根元が黒いところからあまりナンパという感じには見えないが、こういうワイルドなタイプが好きな人もいるだろう。だが沙菜にとってはタイプでは無い。あくまで好きなのは翔のようなすらっとした清潔感のある男なのだから。
「もしかして日和ちゃんじゃない?」
「えぇ、そうだけど。。」
 やっぱり作品を見ている人だ。こういう人から声をかけられることは多い。そして後ろにいた同じような男とにやっと笑い合った。
「これからどこか用事があるの?」
「帰るの。」
「孵る前に一杯飲みに行かない?」
 その言葉に沙菜は首を横に振った。
「ごめん。今日は撮影で疲れているから。」
 撮影という言葉に、男達はにやっと笑う。AV女優の撮影であれば、おそらくセックスをしてきたのだと思っていたのだろう。一人なのか二人なのかわからないが、そこから何人増えてセックスをしても変わらないだろうと思っていたのかもしれない。
「えー?せっかく日和ちゃんと飲めると思ったのに。酒が美味しくなるだろうしさ。」
「そもそも、あたしお酒飲めないの。」
 姉である沙夜はざるだが、沙菜は一滴も飲めない。飲めばすぐに顔が真っ赤になるのだ。それは、すき焼きに入っている酒程度でも赤くなるのだから本当に耐性がないのだろう。
「えーもったいないな。」
「って事だから、帰るね。バイバイ。」
 そう言ってその場を離れようとしたが、男達は引き下がらない。せっかくAV女優とセックスが出来るかもしれないのだ。しかもそれは淫乱を絵に描いたような沙菜なのだ。何人しても足りないというような顔をしているのだから、その味を知りたいと思う。
「良い店があるんだ。日和ちゃんも気に入ると思うよ。」
「んー。ごめんね。」
 その時、沙菜に一人の男が近づいてきた。
「日和ちゃん。ふらふらどっか行かないでよ。」
 上から声が聞こえて、思わずそちらを見上げる。そこには慎吾の姿があった。男連れだったのかと、男達は舌打ちをする。
「何か用事?」
 すると男達は先ほどの柔らかい態度を一変させて、沙菜に言う。
「くそ。便所女のくせに。」
「だよなぁ。病気になるわ。」
 ナンパ出来なかった憂さを言っているのかもしれないが、ひどい言葉だと思う。思わず慎吾は男達を呼び止めようと思った。だがそれを沙菜は止める。
「いらないことを言わないで。」
「でも……。」
「真実だから。」
 誰でもセックスをするのがAV女優のイメージで、そしてその席を奪い合う世界なのだ。沙菜の周りには味方がいない。唯一の味方は姉とそして同居している翔と芹。それだけしか居ないような気がしていた。だから三人と離れたくない。
「あんなことを言われて黙っているのが女優なのか。」
「そうよ。あんたには理解出来ないかもしれないけどね。それにこんな公共の場であなたはあたしに話しかけたら、あなたのイメージも悪くなるんじゃないのかしら。さっさと帰ったら?」
 すると慎吾は少し笑って言う。
「どうしてそれを知っているんだ。」
「姉から聞いたこと。そしてその姉は翔から聞いたっていっていた。」
 「二藍」の担当者なのは知っている。この間の歌番組で、翔と一緒に居たからだ。翔とはあまり会いたくない。なんとかして翔と話すことは出来ないだろうかと思っていたが、それはおそらく無理なのだ。
 つてがあって沙夜が「二藍」の担当を降りて別のバンドの担当になるかもしれないと聞いたが、それは立ち消えたのだという。どうやら「二藍」のメンバーが沙夜ではないと話にならないとまで言っているらしい。それは翔だけの考えで、翔が個人的な感情があるからかと思っていたが、事情は違うらしい。二藍のメンバーみんなが沙夜を女としてではなく音楽を作るモノとして離したくないと思っているのだ。
 音大を出てこういう会社に入る人が多い中、どうしてそこまで優遇されているのかはわからなかったが。
「だったら……。」
「無駄よ。あたしに何かしようと思っても。」
「無駄?」
 すると沙菜は少し笑って言う。
「今度、新しい試みの作品に出るわ。緊縛されて何人もの男を相手にするの。さっきの男達が言っていたように肉便器になるわ。」
 嵐というこの世界では有名な監督が、沙菜をそういう風に取りたいと言ってきたのだ。今まで女王様で、男を足蹴にしていた女が男から道具のように扱われる。
「そんなことを?」
「するのよ。その新しい世界を見せてくれたのはあなたよね。」
 道具のように扱い、ただ自分が満足すれば良いというような扱いのセックス。それでも沙菜はどれだけセックスをこなしてきてもあまり満たされたことはなかったのに、あの夜だけは相当感じることが出来たのだ。
「……。」
「これであたしがまだこの世界に居ることが出来るわ。せめて三十くらいまではしたいわね。そうしたら熟女枠かしら。」
「熟女ねぇ……。」
「狙いは外れたわね。残念だけどあなたの後ろにいる人にもそう言っていてね。」
「後ろ?」
「誰に頼まれたのかわからない。具体的な名前を言えばきりがないもの。」
 その言葉に慎吾はぎりっと奥歯を噛みしめる。具体的な誰かというのはわかっていないが、頼まれてしたことだとは気がついたらしい。
「だったら姉に……。」
「姉さんに手を出したら、翔が黙っていないわ。そして二度とこの世界には居られないわ。」
「あの女にそんな力があるのか。」
「姉さんがあなたについて行くことはない。もし無理矢理したとしたらレイプね。そんな犯罪者がのうのうと表を歩けるわけがない。ましてやテレビなんかに出れるわけがないもの。」
 沙夜は男について行くことはない。それは確実に言えることだった。
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