魔法のステッキ

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8 二人の夢

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 失敗することは、怖くない。

 そう思っていたのに、本番直前、なぜか足が震えた。

 空を見上げると、雲一つない快晴。まさに運動会日和だ。

「美咲ちゃん、緊張してる?」

 出番を待っている時、亜紀が聞いてきた。

「別に」

 答える声が、わずかに震える。

「わたし、めっちゃ緊張するよー」

 そう言うわりに、亜紀の顔には、満面の笑みが浮かんでいる。

 赤いトップスに、白のプリーツミニ。衣装を着たら、亜紀は見違えたように、女の子らしく可愛かった。

 ショートヘアに、キラキラした大きな目。本当に幸せそうだ。

「練習どおりにやれば、大丈夫だからね」

 さおりとちえみが、亜紀にささやく。

(一人でコンテストに出た時だって、緊張しなかったのに)

 美咲は、ギュッとバトンを握りしめた。

 運動会でバトントワリングを踊るのは、初めてだった。

 新しい学校に来てバトンクラブに入って、先生になってと言われて、全部が初めてのことばかりだった。

 だが、振り付けだって美咲にとっては簡単すぎるくらいだし、失敗するわけなどないのだ。

 美咲は、他の三人をチラッと見た。三人とも、少し不安げな、でも、自信に満ちあふれた顔をしている。

 みんなの顔をみたら、とたんに気持ちが落ち着いてきた。

(全員が無事、成功しますように)

 美咲は、両手を胸の前で組み、ドキドキしながら祈った。

「お姉ちゃん、頑張って!」

 振り向くと、友里がお父さんとお母さんに手をつながれて笑っている。

「わたしも、バトンやりたい」

 飛び跳ねる友里に、お母さんが、
「小学校4年生になったら、入れるのよ、バトンクラブ」
と、言っている。

(これは大変! わたしの代で、バトンクラブ、絶対につぶすわけにはいかないなぁ)

 美咲は、運動場をまっすぐに見た。白い砂が、まぶしいくらいに輝いている。

 次は、鼓笛隊とバトンクラブのパレードです、と放送が入る。

 鼓笛隊の演奏に合わせて、バトンクラブの四人は、入場行進の先頭を切った。

 グラウンドを一周して最初の位置につくと、1曲目が終わった。

「亜紀ー! ガンバレー」
と、甲高い声が聞こえた。

 亜紀をそのまま大人にしたみたいな、パワフルな女の人が、正面の席で両手を振っている。

「もう、お母さんったら」
と、亜紀がつぶやくのが聞こえた。

 一瞬の静けさののち、鼓笛隊の軽快なリズムがグラウンドを包み込んだ。

 四人は、同じタイミングで、バトンを回し始める。

(よし、出だしは完璧!)

 心の中でカウントをとりながら、ステップを踏み、バトンを頭上で回す。

 他の三人のことも気になったが、美咲はまっすぐ観客の方を見た。

 とびきりの笑顔でツーステップし、可愛くポーズを決める。

(みんなのこと、信じているから大丈夫)

 美咲は、自分の演技に集中した。素早くバトンを回転させながら、リズムに合わせて踊る。

 ここまでは、6年生が考えた演技で、難しい技は一つも入っていなかった。

 勝負はここから。

(ワン、ツー、スリー!)

 空高く、一斉にバトンが投げ出された。4本のバトンが回転しながら、真っ青な空にきらめく。

 クルっとワンスピン。

 約束されたかのように、美咲の手の中に、バトンが戻ってくる。

 他の三人も、キャッチしたようだ。

 会場からわきおこる拍手が、心地よく耳に響く。

 そのままバトンを回しながら、ダイヤの形に移動する。

 亜紀も、さおりもちえみも、さわやかな笑顔で演技を続けていた。

 向かい合った亜紀と目が合い、ニコッと笑いあう。

(せーのっ!)

 再び4本のバトンが宙を舞う。

 空中で、それぞれのバトンがぶつかることなく交差していく。

(ぬけた!)

 美咲は、自分がつかむべきバトンを探した。

(この位置じゃダメだ!)

 美咲の体が緊張した。

 亜紀が投げたバトンは、力が入りすぎたのか、美咲の立ち位置から、さらに後方へ飛んでいく。

 とっさに美咲の体が動く。後ろに向かって、走り出す。

 間に合わないかもしれない。でも、最後まであきらめない。

 美咲は、野球選手のようにスライディングした。

 バトンの先が、手に触れる。地面に落ちる前に、つかんだ。

 美咲は、パッと飛び上がるように体勢を立て直した。

 曲はまだ終わっていない。

 曲のラストで、四人同時に、最後のポーズを決めた。

 拍手と歓声を浴びるようにして、四人は鼓笛隊の演奏に合わせて退場した。

   ◇

 外の水道で、美咲は血の出た膝小僧を洗い流した。

「ごめんねぇ」

 亜紀が、泣きそうな顔をして、美咲のそばにしゃがみこんでいる。

「いいって。結局全員、キャッチできたんだし。ラストのポーズも決まったし」

「わたしが失敗しなければ、美咲ちゃん、こんな怪我しないですんだのに」

「失敗じゃないよ。うまくいったじゃん。大成功だよ」

 美咲は、ポンポン、と亜紀の肩を叩いた。

「ばんそうこう、保健室からもらってきたよ」

 さおりがとちえみが戻ってくる。

「ありがとう」

 亜紀が、ばんそうこうを受け取った。

「二人は、6年生のリレーがあるから、先に行ってて」

 美咲が言うと、
「本当に大丈夫?」
と、さおりが顔をしかめた。

「ただのすり傷だから」

 美咲は膝小僧を指さした。

「じゃぁ、悪いけど、先に行かせてもらうね」

 美咲は、近くのタイヤ遊具に腰かけて、濡れた膝小僧をハンカチでふいた。白いハンカチに、赤い血が染みていく。

 亜紀が、美咲の足元にしゃがみこんで、膝小僧を見た。

「やっぱり大丈夫じゃないじゃん。こんなに血が出てる」

 美咲の膝に、亜紀がばんそうこうを貼ろうとした。

「いいよぉ。自分でやるから」
と言ったが、亜紀は首を横に振った。

 亜紀は、美咲の膝に、ばんそうこうを優しく貼ってくれた。

「ありがとう」

 美咲が言ったが、亜紀は、うつむいたまま、顔を上げない。

「亜紀ちゃん、泣いているの?」

「泣いてない」

 そう言う亜紀の声は、やっぱり涙ににじんでいるみたいに聞こえた。

 運動場の方から、パーンとピストルの音が聞こえてくる。

 運動会定番の、アップテンポな曲が流れ始めた。

 美咲と亜紀のいる場所だけ、運動会の賑やかさから、取り残されたみたいだった。

 亜紀の手が、助けを求めるようにふらふらと宙をさまよった。ようやく、足元に転がっていたバトンをつかむ。

「前にね、将来の夢、まだ決まってないって言ったでしょ?」

「うん」

「あれ、嘘。わたし、本当は、お医者さんになりたいの。それなのに、治すどころか、怪我させちゃうなんて……」

「だからこれは、気にしなくていいって。それより、将来の夢、教えてくれてありがとう」

 美咲が言うと、亜紀が顔を上げた。

「でも、夢は夢。これは絶対に叶わない夢なの」

「どうして?」

「わたしが5歳の時ね、お父さん、病気で死んじゃったの。だから、病気を治すお医者さんになって、みんなを幸せにしたいって思ったんだ」

 亜紀はまた、頭を落とし、しゃがんだ膝の上に乗せた。

 5歳といえば、美咲がお父さんとお母さんに連れられて、バトン教室の見学をしていた頃だ。

(同じ頃、亜紀ちゃんは……)

 想像するだけで、美咲は胸が苦しくなった。

 のどの奥につかえたものを吐き出すように、美咲は一息に言った。

「じゃぁ、お医者さんになればいいでしょ? 夢は叶うって、わたしにも言ってくれたじゃん」

 亜紀は、力なく首を横に振った。

「お医者さんになるにはね、大学に行かなくちゃなんだって。それには、すっごいお金がかかるんだって、親戚のおばさんが言っていたもの。うちには、そんなお金ないから。」

 亜紀は顔を膝にうずめたまま、こもった声で話す。

「そんな! 亜紀ちゃん、言ってくれたじゃん。あきらめたら、そこで終わり。でも、あきらめなかったら、夢は絶対叶うって」

「美咲ちゃんの夢は叶う夢。わたしの夢は、最初から叶わない夢なの」

 力の抜けた亜紀の手から、バトンが地面に転がり落ちた。

「そんなことない。わたしの夢も、亜紀ちゃんの夢も、一緒だよ! 頑張れば」

 そこまで言って、美咲は息が苦しくなって、深呼吸した。

 亜紀のバトンをひろって、強く握りしめる。

「頑張れば! 叶うんだよ! 一緒にさがそうよ。お金なくても、大学行く方法。お医者さんになる方法。亜紀ちゃんだって……亜紀ちゃんだって、わたしのために調べてくれたでしょ?」

 美咲と亜紀。二人は全然違う。

 バトントワラーとお医者さん。二人の夢も、全然違う。

 だけど。

「誰かを幸せにしたい、その気持ちは亜紀ちゃんもわたしも一緒だよ。わたしの夢も、亜紀ちゃんの夢も同じなんだよ!」

 亜紀の見てきた世界を、美咲は知らない。美咲の見てきた世界を、亜紀は知らない。

 でも、バトンが、二人を出会わせてくれた。バトンが、二人を友だちにしてくれた。

 胸の奥がジンジンしびれて、熱い涙があふれだす。

「ねぇ! 亜紀ちゃん!」

 美咲は、タイヤから降りて亜紀と同じようにしゃがんだ。

「一緒に夢、叶える方法さがそうよ。一緒に頑張ろうよ!」

 亜紀の肩をゆさぶる。

「亜紀ちゃん! ねぇ、亜紀ちゃん!」

 亜紀が、ゆっくりと顔を上げた。

 目も鼻も、真っ赤になっている。

 美咲は、思わずふきだした。

「亜紀ちゃん、真っ赤なお鼻のトナカイさんみたいだよ!」

「美咲ちゃんだって、ひどい顔!」

 亜紀が、泣き笑いしながら、立ち上がった。

 美咲も立ち上がると、さっきひろったバトンを亜紀に渡した。

 亜紀が、思い切りバトンを高く放り投げる。ワンスピンして、キャッチ。

「やった! できた! もう簡単だよ! こんなの簡単!」

 美咲も、バトンを空高く投げた。

 ワンスピンの後、そのままバク転して、キャッチ。

 指先とバトンは、透き通った糸でつながっている。

「こんなことも、できるようになったら、簡単だよ! 亜紀ちゃん!」

「本当だね! 美咲ちゃんが言うなら、本当!」

 美咲は、しっかりとうなずいた。

 亜紀が、バトンを回しながらうつむいて、小さな声で言った。

「ねぇ、美咲ちゃん、一緒に……」

 顔を上げた亜紀と、美咲の目が合う。

 亜紀と美咲の胸の奥も、透き通った糸でつながっているみたいだった。

 二人の声が、重なった。

「「一緒に夢、叶えようね!」」
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