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第1章
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クリスマス。それは12月25日。
ひと月も前から街ではクリスマスソングが降り注ぎ、誰も彼もに歌えや踊れやと強要するような異様な冷気が充満する。日本ではとうの昔から商業に成り下がった日。
強制消灯されたオフィスに1人、珈琲をすすりながらため息がこぼれる。決算月が12月の企業からすれば、こんな年度末に浮かれている余裕は本来はない。ないはずなのだ。
ーーーーー
「九条先輩。申し訳ないんですけど、クリスマスはディナーを予約していて、行けないと嫁に何を言われるか……」
「あのな。そんな毎日拝みに来なくてもちゃんと俺が帳尻合わせとくから」
俺の元には毎年、この時期になると部下や後輩が拝みにやってくる。クリスマスの夜、定時であがりたいとの懇願のため。経理課でパートナーがいないのは何度メンバーが変わっても常に俺一人だからだ。
「本当にすみません。うちの夫婦仲が崩れないのは九条先輩のおかげです」
「パートナーがいない俺からそんなご利益が出てたまるか。俺も早く、か、相手が欲しいもんだね」
彼女、と言いかけたのはなんとかごまかした。もう34歳。この年で彼女が欲しいなどと騒ぐのはいささかみっともなさを感じてしまう。
同級生は一様に、時が来れば結婚を約束されていたかのように所帯を持っていた。
「俺も鬼じゃないからな。その代わり年末に何かあったらお前らで対処してくれよ」
ーーーーー
理解がある振舞いを続ければ、いつかは自分も恩恵を受けられる。そう考えて徳を積んだつもりが、このありさまだ。ため息が止まらない。文豪が丸めて放り投げた原稿用紙のように、オフィスの床に俺の憂鬱がいくつも落ちているような気がした。
だが、今日だけは違う。34年もクリスマスにいいようにやられてるだけじゃあ気が済まない。俺は今日、みじめなクリスマスを終了させる。もはや平日と言うなかれ。目の奥が熱い。これは復讐の炎だ。涙じゃない。炎だ。ささやかな復讐を。そして、自身の聖夜にもドラマを。
今日こそは、クリスマスに一矢報いてやるのだ。
午後8:30
コートに首を埋め、ポケットで手を温めながら駅前通りにたどり着く。人通りの多い駅前広場には特設コーナーが設営され、何号だかわからないが無駄に大きいケーキの箱がうず高く積み上げられている。サンタの衣装に身を包み、半ば諦めながらも必死に声を出して販促をしている、大学生くらいだろうか、の女の子に俺は迷わず近づいていった。
復讐の、始まりだ。
「すみません。ケーキが欲しいんですけど」
彼女は販促をやめ、ひときわ笑顔で俺に声を向けた。
「はぁい、あっ、こんばんは、おひとつですか?」
俺の顔を見て少し驚いたような反応をされる。はて、初対面のはずだが今の反応はなんだ。男がケーキは珍しいのか? と思いながら俺は個数を伝えた。
「いや、全部」
「……はい?」
「いや、ここにある全部。大体、20箱くらいかな?」
「……業者さんですか?」
「この時間にケーキの発注が20も必要なドラマは別にないんだけど……」
クリスマスに一矢報いる。これが、俺がみじめな34年間を煮詰めて作り上げた復讐だった。駅前ではける見込みのないケーキを売り続ける女性を、颯爽と現れた俺がすべて買い切り、1秒でも早く寒さと苦行から解放する。たった1人のヒーローになる。気持ち悪さなどは知らん。
帽子の下で揃えられた明るい前髪の下の大きな瞳に明らかな動揺が浮かぶ。
「えっと、袋はどうしますか、どう持って帰りますか、とか聞きたいことはいくつもあるんですけど、そこはどうされますか」
「あ。電車通勤だから、まず持ち帰れない……」
俺の復讐終了。いつもより楽しい退勤だった。ものの10分か。楽しかった……。
黙りこくった俺の前で、彼女も次に継ぐ言葉が見つからず、二人でその場に固まる。
やや時間が過ぎ、声を発したのは先に解凍された彼女からだった。
「とりあえず、質問します」
「はい」
「20個買う意思は変わりませんか?」
「はい」
「カードは使えませんが現金はありますか?」
「はい」
「なるほど……深くは聞きません。このケーキをどこかに届ける予定はあるってことですよね?」
少しずつ、彼女の声がイキイキしてきている気がして顔を上げると、俺とはまた違う、使命を帯びたような光を目に宿していた。
「私、ここまで車で来てるんで20箱積んで動けます。バイトも全部売れちゃったから、担当さんに言えばすぐ上げてもらえます! 何か事情があるんですよね? きっと間に合わせますから!」
「事情もなく、道楽なんです……。配るアテもないですし……」
俺がありのままに答えると、彼女はみるみる頬を赤らめていき、話しながら意気揚々と振り上げた手をゆっくり下ろした。
彼女の使命感終了。あまりにも短い使命だった。俺より短かった。
「あの……じゃあ、このケーキどうする気だったんですか……」
「……どうしようね」
「えっと、もしかして、買うことだけが目的だったんですか?」
「そうだね。買えば満足だった。食べる気も配る気もない」
彼女はううん、とうなった後、それでもなぜか明るく話し始めた。
「正直、意味不明なんですけど、それってつまり、私がこの20箱のケーキを無償で譲ってもらうこともできたりしますか?」
「まぁ、処理してもらえるなら俺としては大歓迎だからいいけど……」
「私、このあたりに大学の友達がたくさんいるんです! こんな日に1人寂しくしてたり、同性同士のバカ騒ぎで終えようとしている子たちがたくさん! たくさん!」
そうまくし立てて「先! お会計お願いします!」と手を出す彼女に気圧されながら、俺は財布から万札を何枚も取り出し支払いを済ませた。
「はい! 確かに! ではここでちょっと待っていてください! 業務済ませて着替えて車とってきます!」
そう告げて、彼女はどこかへ走っていった。
さっきの内容で合意したなら俺が待つ意味はないが、このまま姿を暗まさなくても不審者には変わりないのに、輪をかけて不審な行動をする気持ちの強さはもうなかった。思えば計画時に勇気は全て絞りつくしたのだ。俺は諦めて再度ポケットに両手をしまい込んだ。
彼女が戻ってきたのは15分後だった。ブラウンの軽自動車をロータリーに停車させ、小走りに俺の元へとやってくる。
「とりあえず全部、後ろに積みます! 手伝ってください!」
「あぁ…はい」
2人で20箱のケーキを積み込み、彼女は担当と思しき人と何かを話し、大きな紙袋を1つ受け取って戻ってきた。
「では、ちょっと話しましょう。助手席へどうぞ」
「あの……1つだけ質問なんだけど。美人局とかじゃないよね?」
「違います。なんなら一気に20箱買うことを条件に何かされる危険性の方が確率が高いと思うんですけど……何かするつもりでしたか?」
きょとんとしてそう聞く彼女に毒気を抜かれ、俺はホールドアップで首を横に振った。
「いや、そんな気はさらさらないけど……。この年の社会人はね、その、何かってやつ。それが一番社会的に怖いんだよ」
「では、助手席にどうぞ。ちょっと協力いただきたいことがあるんです」
ひと月も前から街ではクリスマスソングが降り注ぎ、誰も彼もに歌えや踊れやと強要するような異様な冷気が充満する。日本ではとうの昔から商業に成り下がった日。
強制消灯されたオフィスに1人、珈琲をすすりながらため息がこぼれる。決算月が12月の企業からすれば、こんな年度末に浮かれている余裕は本来はない。ないはずなのだ。
ーーーーー
「九条先輩。申し訳ないんですけど、クリスマスはディナーを予約していて、行けないと嫁に何を言われるか……」
「あのな。そんな毎日拝みに来なくてもちゃんと俺が帳尻合わせとくから」
俺の元には毎年、この時期になると部下や後輩が拝みにやってくる。クリスマスの夜、定時であがりたいとの懇願のため。経理課でパートナーがいないのは何度メンバーが変わっても常に俺一人だからだ。
「本当にすみません。うちの夫婦仲が崩れないのは九条先輩のおかげです」
「パートナーがいない俺からそんなご利益が出てたまるか。俺も早く、か、相手が欲しいもんだね」
彼女、と言いかけたのはなんとかごまかした。もう34歳。この年で彼女が欲しいなどと騒ぐのはいささかみっともなさを感じてしまう。
同級生は一様に、時が来れば結婚を約束されていたかのように所帯を持っていた。
「俺も鬼じゃないからな。その代わり年末に何かあったらお前らで対処してくれよ」
ーーーーー
理解がある振舞いを続ければ、いつかは自分も恩恵を受けられる。そう考えて徳を積んだつもりが、このありさまだ。ため息が止まらない。文豪が丸めて放り投げた原稿用紙のように、オフィスの床に俺の憂鬱がいくつも落ちているような気がした。
だが、今日だけは違う。34年もクリスマスにいいようにやられてるだけじゃあ気が済まない。俺は今日、みじめなクリスマスを終了させる。もはや平日と言うなかれ。目の奥が熱い。これは復讐の炎だ。涙じゃない。炎だ。ささやかな復讐を。そして、自身の聖夜にもドラマを。
今日こそは、クリスマスに一矢報いてやるのだ。
午後8:30
コートに首を埋め、ポケットで手を温めながら駅前通りにたどり着く。人通りの多い駅前広場には特設コーナーが設営され、何号だかわからないが無駄に大きいケーキの箱がうず高く積み上げられている。サンタの衣装に身を包み、半ば諦めながらも必死に声を出して販促をしている、大学生くらいだろうか、の女の子に俺は迷わず近づいていった。
復讐の、始まりだ。
「すみません。ケーキが欲しいんですけど」
彼女は販促をやめ、ひときわ笑顔で俺に声を向けた。
「はぁい、あっ、こんばんは、おひとつですか?」
俺の顔を見て少し驚いたような反応をされる。はて、初対面のはずだが今の反応はなんだ。男がケーキは珍しいのか? と思いながら俺は個数を伝えた。
「いや、全部」
「……はい?」
「いや、ここにある全部。大体、20箱くらいかな?」
「……業者さんですか?」
「この時間にケーキの発注が20も必要なドラマは別にないんだけど……」
クリスマスに一矢報いる。これが、俺がみじめな34年間を煮詰めて作り上げた復讐だった。駅前ではける見込みのないケーキを売り続ける女性を、颯爽と現れた俺がすべて買い切り、1秒でも早く寒さと苦行から解放する。たった1人のヒーローになる。気持ち悪さなどは知らん。
帽子の下で揃えられた明るい前髪の下の大きな瞳に明らかな動揺が浮かぶ。
「えっと、袋はどうしますか、どう持って帰りますか、とか聞きたいことはいくつもあるんですけど、そこはどうされますか」
「あ。電車通勤だから、まず持ち帰れない……」
俺の復讐終了。いつもより楽しい退勤だった。ものの10分か。楽しかった……。
黙りこくった俺の前で、彼女も次に継ぐ言葉が見つからず、二人でその場に固まる。
やや時間が過ぎ、声を発したのは先に解凍された彼女からだった。
「とりあえず、質問します」
「はい」
「20個買う意思は変わりませんか?」
「はい」
「カードは使えませんが現金はありますか?」
「はい」
「なるほど……深くは聞きません。このケーキをどこかに届ける予定はあるってことですよね?」
少しずつ、彼女の声がイキイキしてきている気がして顔を上げると、俺とはまた違う、使命を帯びたような光を目に宿していた。
「私、ここまで車で来てるんで20箱積んで動けます。バイトも全部売れちゃったから、担当さんに言えばすぐ上げてもらえます! 何か事情があるんですよね? きっと間に合わせますから!」
「事情もなく、道楽なんです……。配るアテもないですし……」
俺がありのままに答えると、彼女はみるみる頬を赤らめていき、話しながら意気揚々と振り上げた手をゆっくり下ろした。
彼女の使命感終了。あまりにも短い使命だった。俺より短かった。
「あの……じゃあ、このケーキどうする気だったんですか……」
「……どうしようね」
「えっと、もしかして、買うことだけが目的だったんですか?」
「そうだね。買えば満足だった。食べる気も配る気もない」
彼女はううん、とうなった後、それでもなぜか明るく話し始めた。
「正直、意味不明なんですけど、それってつまり、私がこの20箱のケーキを無償で譲ってもらうこともできたりしますか?」
「まぁ、処理してもらえるなら俺としては大歓迎だからいいけど……」
「私、このあたりに大学の友達がたくさんいるんです! こんな日に1人寂しくしてたり、同性同士のバカ騒ぎで終えようとしている子たちがたくさん! たくさん!」
そうまくし立てて「先! お会計お願いします!」と手を出す彼女に気圧されながら、俺は財布から万札を何枚も取り出し支払いを済ませた。
「はい! 確かに! ではここでちょっと待っていてください! 業務済ませて着替えて車とってきます!」
そう告げて、彼女はどこかへ走っていった。
さっきの内容で合意したなら俺が待つ意味はないが、このまま姿を暗まさなくても不審者には変わりないのに、輪をかけて不審な行動をする気持ちの強さはもうなかった。思えば計画時に勇気は全て絞りつくしたのだ。俺は諦めて再度ポケットに両手をしまい込んだ。
彼女が戻ってきたのは15分後だった。ブラウンの軽自動車をロータリーに停車させ、小走りに俺の元へとやってくる。
「とりあえず全部、後ろに積みます! 手伝ってください!」
「あぁ…はい」
2人で20箱のケーキを積み込み、彼女は担当と思しき人と何かを話し、大きな紙袋を1つ受け取って戻ってきた。
「では、ちょっと話しましょう。助手席へどうぞ」
「あの……1つだけ質問なんだけど。美人局とかじゃないよね?」
「違います。なんなら一気に20箱買うことを条件に何かされる危険性の方が確率が高いと思うんですけど……何かするつもりでしたか?」
きょとんとしてそう聞く彼女に毒気を抜かれ、俺はホールドアップで首を横に振った。
「いや、そんな気はさらさらないけど……。この年の社会人はね、その、何かってやつ。それが一番社会的に怖いんだよ」
「では、助手席にどうぞ。ちょっと協力いただきたいことがあるんです」
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