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最終章

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連打されるチャイムとドアを叩く音で目が覚める。スマホをみると、通知が50件以上たまっていた。『なに』『どうしたの』『ガチ?』『そういえば前に咳してたし風邪?』『おーい』『おい』『何買っていけばいい』『寝てるだけだよね』『いく』などのメッセージが来ており、直近は『開けろ』になっている。


『いまあける』


と返信すると、扉の向こうでピロンと音が鳴り、チャイムが止んだ。おぼつかない足取りで玄関へ向かい扉を引くと、柏木が立っていた。できれば今は嗅ぎたくないソースものの匂いが一瞬鼻をかすめる。


「……ねぇ。バイクないんだけど」


柏木の開口一番はそれだった。


「いや……毎年この2日間だけは駐輪場に預けてて……」


「なんで?」


彼女の腕には、スーパーの袋がぶら下がっていた。うっすらと、ペットボトルや桃やリンゴの類が見える。


「入れてよ」


「いや、風邪だし。インフルかもしれないし。すっげぇありがたいけどそれだけ置いて帰って」


「いいから入れろ! 助けろって言ったのあんただろ!」


 押し返そうとするが全く歯が立たず、難なくリビングまで柏木の侵入を許してしまう。


「いいからベッドに行って寝てろ。あたしが色々やるから」


別に入り浸っているほどではないが何度も来ていたからだろう。彼女は俺に何一つ質問することなく皿やまな板、包丁を取り出して慣れた手つきでリンゴを剝き始めた。


「熱は?」


「昨日がピークだった。今は37.8度くらいだ、多分」


「じゃあ昨日連絡して来いよ馬鹿。それか……毎年泊まり込みまでしてる女でも呼べばよかったじゃねぇか」


リンゴを洗いながら、柏木が吐き捨てるようにそう言った。俺は一瞬何のことだかわからず「なんだそれ、誰の……」と言いかけたが途中で思い出し「あー、馬鹿だな。俺が休むことになったから代わりに勤務してるに決まってんだろ」と言った。ごとん、とリンゴが床に落ちた音がして、柏木が硬直する。


「え、ちょっと大丈夫か。落としたの包丁じゃないよな怪我ないか」


「うるせぇ近づくな安静にしてろやっぱり女いるのかよ何であたしに連絡よこしたんだよ」


「嘘だよ嘘! 悪かった嘘だ! そんな女いるわけねぇだろ!」


大きい声を久しぶりに出したせいで咳こんでいると、柏木が近付いて俺の背中をさすった。そのまま、おでこに手のひらを当てられる。前髪を上げられたせいで、真正面から柏木の瞳を見据えてしまう形になる。


「……熱はあるけどだいぶ引いたみたいだな。とりあえず水飲んで横になってろよ。騒いで悪かった。あと……変な態度とって悪かった」


それだけ言うと、柏木はキッチンに戻ってリンゴを切り始めた。俺は布団に潜り、目を閉じる。さっきのはちょっとやばかった。弱っているとはいえ、柏木を異種族ではなく異性と見てしまうなんてどうかしている。安静にしていようと思った。


何十分立ったかわからないが、目を覚ますと洗濯機が回るゴウゴウという音が聞こえた。テーブルの上に散乱していたゴミも片付けられており、代わりに桃と、ウサギ型に切られたリンゴがお皿に盛られていた。えっと、このリンゴ落ちたやつだよね。その後もう一回洗ってる音とかしなかったけど平気だよね。


俺が食べることを躊躇していると、玄関の扉が開いて柏木が戻ってきた。


「お、起きたか。とりあえず見える範囲のごみはまとめて捨てといた。洗濯も溜まってたからやっといたぞ」


 あまりにも至れり尽くせり(洗濯はどうかと思う)な状況にどう返していいか分からず、とりあえず「ありがとう」と言うと、柏木は「どういたしまして!」とサムズアップを返してきた。


「あの……タコパ中だったんだよな? 抜けてきてよかったのか?」


「あのなぁ。どうせ連絡も返してこないだろうと思ってた奴から『たすけて』って来て、無視するような奴だと思ってたわけ?」


「いや、なんて説明して抜けてきたんだろうと思って」


「いや……別に、友達が風邪で寝込んでるっぽいからってそのまま言ってきたよ……」


「そ、そうか……日下部達には謝っとかないとな」


「い、いや、あんたから言わなくていいよ別に。多分鬱陶しく絡まれるだろうし……」


「なんで?」


「……なんでも」


そこからは変な沈黙が続いてしまった。なんだか気恥ずかしくなってきて顔を伏せてしまう。


熱が出たときに『たすけて』と縋ってしまった。その一言で駆けつけてくれた。ちょっと女の影が見えただけで一か月もまともに口をきいてくれなかった。ふとしたことで家に上がり込んでくるし、別に返信するわけでもないのにくだらない内容をLINEしてくる奴。


「……柏木、お前リンゴとか桃とか剥けたんだな」


「は? あんた、あたしのことなんだと思ってんだよ」


「お前こそ、俺のことをなんだと思ってんだよ」


 熱に浮かされていたと言い訳できる状態で、本当は『どう思ってんだよ』と聞いてみたかったが、俺にそんな勇気は遂に現れなかった。


人は意識だけでは変わらないとはよく聞くが、確かに意識しただけで何か関係が変わるのであれば苦労はしない。


顔を上げると柏木は、壁に掛けてあったカレンダーの赤い×が2つ並んだところをまじまじと見ていた。


「……あたしにとって、今日のが唯一のクリスマスイベントだったわけ」


「あぁ……悪かったよ」


「だから、責任は取ってもらうからな」


柏木は机の上から赤いペンを取り、カレンダーに何かを書き込んだ。書き終わり、マジックの蓋を占めてからこちらへ向き直る。26日の空欄には大きく『mas』と書き込まれていた。


「明日までに熱下げとけよ。生存確認しにまた来るから。もし、もし元気になってたら、楽しみ損ねたあたし達だけで『Xmas』延長戦、ってことで」


それだけ言うと、彼女はそそくさとバッグや上着を抱えて「それじゃ!」と帰っていった。一応鍵を閉めるために玄関へ行き、おぼつかない足取りでベッドへ戻った。25日と26日の欄で出来上がった真っ赤な『Xmas』を眺める。


帰る時のあいつの横顔が脳裏に浮かぶ。首まで赤かった。さすがにそれを「風邪をうつしてしまっただろうか」などと言い訳のように考えるほど、俺は鈍感系主人公ではなかった。

 
今になって、触れられた手のひらの柔らかさを思い出す。


さっきより、熱が上がっているかもしれない。

 
もしかしたら、3つ目の赤い×を書き込む未来が、俺の元にも来るかもしれなかった。
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