揺蕩う水面の赤い糸

湯呑屋。

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【昨年4月7日】 入学式①

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 クラス分け表は、自分の名前だけを確認してそそくさと下駄箱へ向かった。


 父の転勤に振り回されて急遽転入が決まった樫木高校に、私を知る人は一人もいない。ここにいるのは同世代ということ以外、まだ何の共通点も見出せていない生き物ばかりだ。


 みきちゃんと同じ高校に通うはずだったのに。どんくさい私を支えてくれる唯一の友達はもう隣にはおらず、今はスマートフォンの中に閉じ込められて文字や音声のやり取りしかできない。引っ越しの日にみきちゃんに渡されたお守りを、私はポケットの中で握りしめた。

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『嫌なことがあったら、このお守りをあたしの手のひらだと思ってぎゅっと握りなさい』


 めそめそしてずっと手を放そうとしなかった私に、みきちゃんは無理くり鶯色の袋に良縁と刺繍されたお守りを握りこませてくれた。


『みきちゃん……これ多分、なんか違うよぉ』


『細かいことは気にすんな! こういうのは気持ち。あんたが良い縁を作れればそれに越したことはないし、あたしとの縁も切れないよ』


 別れにいつまでもぐずる私に、みきちゃんは距離が離れるくらい些細なことだと私の涙を吹き飛ばすように快活に笑った。


『初日の自己紹介は、難しいことは考えなくてもいい。あんただったらそうね……。「汐里 加奈って言います。苗字も名前みたいとよく言われます。どっちで呼んでもらっても凄く嬉しいです!」でいいんじゃない?』

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 そのアドバイスを最後に、みきちゃんは私の前から去っていった。いや去ったのは私の方だけれど。引っ越しから今日まで、私はこの自己紹介を回復魔法のように何度も唱え続けた。これが今日のスタートの号砲になるはずだった。


 けれど、入学当日はまず、全体自己紹介の前に式までの時間を教室で待機しなければならないことをすっかりと忘れていた。これは何たる拷問か。自己紹介前のふるまいなんて考えてきていない。


 椅子がどんどん冷たくなってきた気がして、動悸がおさまらなくなる。何度か同じクラスの子に「大丈夫? 具合悪いの?」と聞かれて声を発した気がするけれど、なんと返したか分からないほどに頭が真っ白になっていた。


 チャイムが鳴り、担任が来て簡単な案内をされてから講堂へ移動する。私は式の最中もずっと「汐里……加奈って言います……」と、味がしなくなるまでガムを噛み続けるように反芻した。


 教室へ戻ると、予定調和のような速さでHRが終わり自己紹介が始まる。緊張で膨張したような頭の中に、誰かの自己紹介が起こす爆笑や、キンキンした声で長々と話す女の子の声など、成形されていないギザギザなままの言葉が耳から入ってきて、私の中が傷付いていくイメージで溢れる。


「あの……次だよ」


 前の席の子に声を掛けられ、反射的に「は、はい!」と立ち上がる。周りの視線が私にべったりと張り付く。ぎゅっとお守りを握りしめたけれど、声が震えてうまく出ない。


「……汐里、加奈、です。よろしくお願いします」


 遂に私の口から魔法は唱えられず、私はそのまま椅子へと落ちた。皆が私への興味を失っていくのがわかる。手のひらを開くと、良縁のお守りが、もう元に戻せないほどにへしゃげていた。
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