揺蕩う水面の赤い糸

湯呑屋。

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【1月13日】帰り道 ~恋なんてそんなもの~

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「今日、一緒に帰りませんか。聞いて欲しい話があるんです」


 翌週の月曜日、私はいつも通り最速で図書室に向かい先輩に声をかけた。香耶ちゃんに言われたことで焦っていたけれど月曜日を選んだのは、私たちの関係は一度として図書室の外に出たことがなかったからだ。渡り廊下ですれ違ってもお互いに話さないのは暗黙の了解になっている。


 だから、先輩のプライベートな相関図の一切をしらない私にとってこの質問は「彼女いますか」と同等だ。胸が、ドキドキする。


「いいけど……何か相談事?」


「相談、というか、弱音を聞いてほしいって感じです」


 私が適当に話すと、先輩は真剣に考え込んで「なるほど。確かに弱音を吐き出すのは難しいことだからね……でも、話す相手は僕で本当にいいの?」と聞き返してくる。


「先輩がいいです」


 私がはっきり宣言すると、先輩は「わかった。じゃあ後でね」と言ってまた本に目を落とした。私もいつも通り定位置に座って小説を開く。


 二人の間にあるのは沈黙ではなくて静けさだ。嫌な感じが無く、水面のイメージが浮かび上がる。香耶ちゃんが余計なことを言うもんだから、そこに揺蕩うように浮かぶ糸のイメージが追加されてしまった。


 二人の小指に結ばれた、まだ赤くない糸。


 先輩がこちらの視線に気付いて微笑む。糸を小さくクイクイっと引っ張られるような、いたずらのようなくすぐったさを感じて首が熱くなった。


 結局文字がツルツルと目を滑って何も頭に入らないまま、閉める時間になって先輩と外へ出る。二人の関係性が、やっと新鮮な空気を吸えたとばかりに構内に広がっていくみたいに感じる。


 外は雪がちらついていた。制服に張り付いたそれは端から次々に水になって染み込んでいく。


「ベタ雪だから積もらないね……僕は傘ないや」


「私もです」


「じゃあ、家まで一緒に来てもらっていい? そこで傘を渡すから」


 その一言で、私は先輩の家まで伺うことになってしまった。これまで一緒に帰ったことはなかったけれど、先輩の家が学校から近いことだけは知っている。


 何をどう切り出せば恋になるんだろう。私は本当に先輩と恋仲になることを望んでいるんだろうかと考えていると、香耶ちゃんが言った『受験』という言葉が胸に引っかかった。


「先輩。進路ってもう考えてるんですか?」


「あ、今日のは進路の相談だったりするのか。一年なのに考えるのが早いね。汐里さんはおぼろねげにやりたいことがあったりするの?」


「……いや、ないですね」


 私がそう返すと、先輩は少しだけいつもと違う反応をした。


「したいことがないって言えるのは、羨ましい」


 口にしてから先輩は、しまった、という顔をした。まっすぐ前を見据えていたはずの視線が不自然に固まる。特等席からよく覗いていた瞳が、戸惑いの色を孕んでいる。


 先輩の心臓に、手をかけた感触がした。一瞬、すべての音が遮断されて、私の鼓動と、手のひらから伝わる先輩の拍動だけが世界の全てになる。口をつぐんでうやむやにしようとした空気を察して、私は「どうしてですか?」と次の句を促した


「……したいことがない、っていうのは、それは『まだ自分は何にでもなれる』って根拠のない自信があることと同じだよ。だから自分にメスを入れる必要がないんだ。自分が何かに罹患してるなんて想像もしてなくて、羨ましい」


 何か病気なんですか? なんて返すほど馬鹿じゃない。先輩はきっと、自身を卑下しながらも他者を見下す矮小さも含めてそれらを罹患していると表現している。


 初めて先輩の怒気を、もしくはパーソナリティを感じた気がして呆けていると、先輩ははっとして私に向き直り「暗い話しちゃった、ごめんね」と弱々しく笑った。


 その時、私の瞳の中で星がバチバチと何個も弾けるように光った。え、あれ? と瞬きをする度に星が弾け、ゾクゾクと悪寒のようでいて甘い何かが背筋を走り抜ける。先輩、可愛い。先輩の弱い部分が、私の前にさらけ出されている。


 弱点を刈り込むなんて、ゲームのボス戦じゃないんだから。私がこれまで読んできた恋心はこんなのじゃなかったし、辞書にも書かれてなかった。でも今なら迷いなく「すきです」と言える気がした。心臓の音が耳元で聞こえる。


「こんなに風情が無いものなの……?」


「え」


「あ、ごめんなさいこっちの話です……。でも先輩、『確かに弱音を吐き出すのは難しいこと』ですけど……。それは『話す大事な相手』に私を選んでくれたってことでいいんですか?」


 意地悪く少し改変してそう返すと、先輩はゆっくり何かを考えたあと、ゆでられたようにみるみる赤くなってうなだれてしまった。


「そうか……。僕は、こんな気持ちになることを君に簡単に言ってしまったんだね」


「こんな気持ちってどんな気持ちですか?」


 私がニヤニヤしながら聞き返すと、先輩は黙ってスタスタ歩いていってしまった。後ろから転ばないように追いかける。


 いつしか雪はぼた雪に変わり、家々の塀に少しずつ積もり始めていた。
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