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第一章
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『感受性に溢れている』とは『免疫がない』というセクハラにあたる、と考える。
俺には、教授の言葉を熱心にノートに取る女性の気持ちがわからない。彼女たちは今、領域を侵されようとしているのに。
「いいかい。君たちのように若ければ、まだ世間は知らないもので溢れている。五感の受け皿をさらに広げないといけない」
最大で80人が入る座学教室に、教授の声が響き渡った。面の皮が厚いとはよく言ったもので、堂々とした額には皺が刻まれ、頬は垂れながらに柔らかさを感じない。ゆっくり時間をかけて冷え固まった溶岩のような顔は、目玉と唇だけがよく動く。
どうあがこうと生きていれば、皮膚呼吸のように領域は侵されていく。潔癖から生まれる反射的な感性は、いずれは枯れるものだ。今、教壇に立つ男の『感性』は俺たちが持っていると信じるものではなく、年数と不潔さから濾し取った黒いドリップだ。
感受性に溢れた若者が、飛沫感染でパンデミック。
その様子を簡単に図解し、ノートを閉じる。
窓の外では、春風に木々が揺れる。カイヅカイブキは、衣替えで洗った柔らかな絨毯のように、枝を波打た
せていた。時折、風の中に浮かぶタンポポの綿毛を眼で追う。
チャイムが鳴り、教授はいまだ話し続け、教室はそわそわし始める。俺は黙って筆記具を片づけ、席を立った。
裏口から厨房に入ると、擦れ合うコテの音とソースの香りが漂ってきた。陽が沈み切らない内からピークが始まるのは珍しい。挨拶を諦めて休憩室に入ると、Fの形をした休憩室の突き当り、女子更衣室の入り口から鈴ちゃんが顔を覗かせた。
「おはようございます、園田君。さっきまでエリアマネージャー来てましたよ」
「おはよう。うそ、師匠来てたの? ヘルプさんの送迎?」
そう聞くと、鈴ちゃんの上からひょっこり、見たことのない女性が額を出した。金色のビニールテープを裂いたような髪が、鈴ちゃんのひっつめた黒髪にしなだれかかる。ナチュラルメイクで一重の鈴ちゃんと対照的に、彼女は化粧っ気が濃かった。
「おはようございます。ヘルプの赤坂と言います。今日はよろしくお願いします」
甘ったるく鼻から抜ける声で、顔だけを出したままで目礼される。
「ああ。よろしくお願いします。キッチンの園田です。すみませんうちの店いつも暇なんですけど。慢性的に人が足りていないんですよ」
バイト用の靴とスニーカーを入れ替えながら早口で挨拶を返すと、赤坂さんはすっと引っ込んだ。鈴ちゃんも困ったように笑って引っ込む。
「桐原さんのこと、師匠って呼ばれてるんですか? 園田さんは」
更衣室を男女に分かつ壁は、天井から20センチ空いている。そこから赤坂さんの声が、思いのほかはっきりと聞こえた。
「オープニングの頃に仕事を教わったのが桐原さんだから、師匠って呼んでるんです」
「桐原さんも、園田さんのこと右腕って言ってましたよ。仲良しですね」
ふふふ、と赤坂さんが笑う。コートを脱いで丸めると鈴ちゃんが「園田君、今日も書いてきてるんですか?」とカーテンをちょいちょいつついた。
バイト着はすでにコートの内に着ていたので、カーテンを開ける。腕をまくり『衣食足りて礼節を知る』と書き込んだ肩を見せた。
「いしょくたりて、どういう意味ですか?」
「人は生活に余裕があってこそ、礼儀を弁えられるって意味ですよ」
俺が答える前に、赤坂さんが髪を束ねながら答えた。三人が並ぶと、172センチある俺から順にキレイな階段ができる。
「でもなんで肩にマジックで?」
「店長へのちょっとした嫌味を半袖の下にでも隠してないと、おちおち働いてられないんで」
鈴ちゃんが先に休憩室を出る。赤坂さんは、俺の肩を凝視している。まだ5分ほど余裕がある。
「引かないんですか?」
「興味があります。桐原さんから聞いてましたけど、面白い人ですね」
赤坂さんの肌は血色のいい白さで、濃く入ったチークがよく映えている。ふくふくとした笑顔は、キャラケーキのようだ。
「今日終わったら桐原さんにごはん連れてってもらうんですけど、園田さんも一緒にどうですか」
「いいんですか」
「いいんです。桐原さんに言っておきますね」
連絡を入れる彼女を待ってから、それぞれ厨房とフロアへ出た。ピークを回す店長達の流れを切らないよう、オーダーは任せて洗い場に入る。
赤坂さんがすぐ下げものを持ってきて「返事まだですけど、きっと大丈夫ですよ」と小声で笑って、すぐにフロアへと消えていった。
師匠が来たのは、22時だった。
「久しぶりだな園田。一緒に来るのか?」
背丈は俺と変わらないが、筋肉質の師匠がスーツで厨房に立つと独特の威圧感がある。
「お久しぶりです。いいですか?」
「いいぞ。折角だし、お前の社員雇用の話も進めたいしなぁ」
返答せずに苦笑いでいると、師匠は店長と裏口から出ていった。
赤坂さんと二人で勤怠を切って、休憩室に戻る。コートを羽織ってカーテンを開けると、赤坂さんもバイト着に白い厚手のカーディガンを羽織って、よれたハンドバッグを持って立っていた。
「それじゃ、行きましょうか」
「そうですね」
一本先の国道沿いにあるハンバーグ店に決定したので、自転車の俺だけ先に向かい、二人を待って店内に入った。メニュー票を広げて原価率を計算する師匠を置いて、赤坂さんと俺はパフェやアッフォガードに目移りしながらメニューを決めた。研修中のアルバイトが、慣れない接客でオーダーを取り、三人の間に和やかな空気が流れる。
期待はしていなかったが、赤坂さんには彼氏がいた。いわく「自己責任で飼いたくなった」らしい。
「風太、ふーちゃん、って呼んでるんですよ。何か、頑張って二本足で立ってる四足動物って感じがするから」
フライドポテトをつまみながら、赤坂さんはペラペラと素性を語った。声優になると目標を決めて、高校を中退したこと。風太は前にアルバイトしていたコンビニで拾ったこと。中退を決める三か月前に、父を自殺で亡くしていること。
師匠はすべて聞いた話だからか、黙々と肉を口に運びながら、付け合わせのポテトを赤坂さんの小皿に乗せた。俺も乗せた。
「師匠って、たしか元々デザイナーやってたんですよね。どうしてこんなところにいるんですか」
赤坂さんがポテトの咀嚼に集中しだしたので、話を師匠に振る。ネクタイレスでボタンを二つ開けた師匠の威圧感については、最初にひとしきり赤坂さんと笑い飛ばした。
「俺にも、守るものができたから」
「この言葉通りなんですよ。守るものが、デキちゃったんです、桐原さんは」
ポテトを飲み込んだ赤坂さんは、にやにやしながらそう付け足した。
「そういえばどうするんだ園田。このままうちに就職しないのか?」
「就職ですか。それじゃあ、今も有意義な時間なんですね、園田さんにとって」
夫婦漫才のように繰り広げられる会話を、黙って聞き続ける。右手ではメールを新規作成にして、会話を逐一うちこむ。何かのネタになるかもしれない。
「結婚は人生の墓場だぞ。あれは嘘でもなんでもない」
「じゃあ師匠いま、死んでるんですか」
「ゾンビだよ。馬車馬のように働こうが嫁に半生の唐揚げを出されようが死なない。でもさすがに酷使してちぎれた右腕がお前だよ」
「仲良しですね。園田さんと桐原さんは」
はーおかし、と赤坂さんが目じりを拭う。俺の隣に置かれた赤坂さんのバッグからは、デオドラントスプレーやポーチがいくつも覗いていた。
雑食な人間が、一つの席に集っている。
締めに赤坂さんがアッフォガードを頼む。コーヒーをアイスにかけながら「でもなんか」と呟いた。師匠はまた原価を気にしだしている。
「ダメな彼氏もいて、こうやっていろんな人と出会ってもやっぱり、みんな溶解物って感じがするんです。わかりますか、園田さんは」
ゆっくり匙を入れ、コーヒーとアイスが混ざらないよう慎重に食べ進めながら赤坂さんはそう尋ねてきた。自分の言葉が通じる相手がいる。そう感じ始めていた。
「じゃあ、赤坂さん自身はなんなんですか?」
「私は自分を超合金だと思っています」
支払いを済ましてお手洗いに行った師匠を、駐輪場で待つ。
「赤坂さんは、師匠とイイ仲なんですか?」
さっきの席で聞けなかったことを聞く。赤坂さんは面食らうでもなく、淡泊に「違いますよ」と言った。騒ぐバイクと自転車の集団が走り抜けていった。
「そうなんだ」
「信じてくれます?」
「まぁ、元々疑ってもないけど」
なんですかそれ、と彼女は笑って、また静かな顔に戻る。スマホを凝視しながら照らされる女性の横顔は、誰であれ冷たいと感じる。
「私、たとえ二人の関係があやしく見えたとしても、友達だよって言えばそう信じてくれる人、いいなって思うの」
「そうなんだ」
「自分の中でさ、どうか穿った捉え方をしないで、って願う瞬間はない? 自分の言葉の中に、尊敬する人の言葉の中に。そういうこと」
どちらからともなく、連絡先を交換した。裏地を取ったコートがちょうどいい春先の夜の中で、彼女の色素の薄い肌がやけに美しく見えた。
師匠が出てきた。助手席から彼女が手を振り、二人は帰って行った。
シャワーを浴びる。
掌に残ったリンスを腕に薄く滑らせる。
洗顔料で顔を洗い、余りを腕に滑らせる。
敏感肌や色素の薄さとは無縁の頑丈な外殻。
ボディーソープですべてを洗い流した後、歯を磨き、湯船を洗い、ジャージに着替える。
眠るとは、見えない魔の手に自分をゆだねることだ。
目を瞑ると不安が膨張して瞼の裏に宇宙を創る。
質量を無視した巨大なハンマーが緩慢な動きで俺を打つ。
打ちのめされて、打ちのめされて、前後不覚に陥り、
俺は無重力の中をくるくると回る。
右手を投げ出し、太ももに左手を挟み込んだ「く」のような姿勢で。
最後はロッカールームに幽閉される。
眠りに落ちる。
俺には、教授の言葉を熱心にノートに取る女性の気持ちがわからない。彼女たちは今、領域を侵されようとしているのに。
「いいかい。君たちのように若ければ、まだ世間は知らないもので溢れている。五感の受け皿をさらに広げないといけない」
最大で80人が入る座学教室に、教授の声が響き渡った。面の皮が厚いとはよく言ったもので、堂々とした額には皺が刻まれ、頬は垂れながらに柔らかさを感じない。ゆっくり時間をかけて冷え固まった溶岩のような顔は、目玉と唇だけがよく動く。
どうあがこうと生きていれば、皮膚呼吸のように領域は侵されていく。潔癖から生まれる反射的な感性は、いずれは枯れるものだ。今、教壇に立つ男の『感性』は俺たちが持っていると信じるものではなく、年数と不潔さから濾し取った黒いドリップだ。
感受性に溢れた若者が、飛沫感染でパンデミック。
その様子を簡単に図解し、ノートを閉じる。
窓の外では、春風に木々が揺れる。カイヅカイブキは、衣替えで洗った柔らかな絨毯のように、枝を波打た
せていた。時折、風の中に浮かぶタンポポの綿毛を眼で追う。
チャイムが鳴り、教授はいまだ話し続け、教室はそわそわし始める。俺は黙って筆記具を片づけ、席を立った。
裏口から厨房に入ると、擦れ合うコテの音とソースの香りが漂ってきた。陽が沈み切らない内からピークが始まるのは珍しい。挨拶を諦めて休憩室に入ると、Fの形をした休憩室の突き当り、女子更衣室の入り口から鈴ちゃんが顔を覗かせた。
「おはようございます、園田君。さっきまでエリアマネージャー来てましたよ」
「おはよう。うそ、師匠来てたの? ヘルプさんの送迎?」
そう聞くと、鈴ちゃんの上からひょっこり、見たことのない女性が額を出した。金色のビニールテープを裂いたような髪が、鈴ちゃんのひっつめた黒髪にしなだれかかる。ナチュラルメイクで一重の鈴ちゃんと対照的に、彼女は化粧っ気が濃かった。
「おはようございます。ヘルプの赤坂と言います。今日はよろしくお願いします」
甘ったるく鼻から抜ける声で、顔だけを出したままで目礼される。
「ああ。よろしくお願いします。キッチンの園田です。すみませんうちの店いつも暇なんですけど。慢性的に人が足りていないんですよ」
バイト用の靴とスニーカーを入れ替えながら早口で挨拶を返すと、赤坂さんはすっと引っ込んだ。鈴ちゃんも困ったように笑って引っ込む。
「桐原さんのこと、師匠って呼ばれてるんですか? 園田さんは」
更衣室を男女に分かつ壁は、天井から20センチ空いている。そこから赤坂さんの声が、思いのほかはっきりと聞こえた。
「オープニングの頃に仕事を教わったのが桐原さんだから、師匠って呼んでるんです」
「桐原さんも、園田さんのこと右腕って言ってましたよ。仲良しですね」
ふふふ、と赤坂さんが笑う。コートを脱いで丸めると鈴ちゃんが「園田君、今日も書いてきてるんですか?」とカーテンをちょいちょいつついた。
バイト着はすでにコートの内に着ていたので、カーテンを開ける。腕をまくり『衣食足りて礼節を知る』と書き込んだ肩を見せた。
「いしょくたりて、どういう意味ですか?」
「人は生活に余裕があってこそ、礼儀を弁えられるって意味ですよ」
俺が答える前に、赤坂さんが髪を束ねながら答えた。三人が並ぶと、172センチある俺から順にキレイな階段ができる。
「でもなんで肩にマジックで?」
「店長へのちょっとした嫌味を半袖の下にでも隠してないと、おちおち働いてられないんで」
鈴ちゃんが先に休憩室を出る。赤坂さんは、俺の肩を凝視している。まだ5分ほど余裕がある。
「引かないんですか?」
「興味があります。桐原さんから聞いてましたけど、面白い人ですね」
赤坂さんの肌は血色のいい白さで、濃く入ったチークがよく映えている。ふくふくとした笑顔は、キャラケーキのようだ。
「今日終わったら桐原さんにごはん連れてってもらうんですけど、園田さんも一緒にどうですか」
「いいんですか」
「いいんです。桐原さんに言っておきますね」
連絡を入れる彼女を待ってから、それぞれ厨房とフロアへ出た。ピークを回す店長達の流れを切らないよう、オーダーは任せて洗い場に入る。
赤坂さんがすぐ下げものを持ってきて「返事まだですけど、きっと大丈夫ですよ」と小声で笑って、すぐにフロアへと消えていった。
師匠が来たのは、22時だった。
「久しぶりだな園田。一緒に来るのか?」
背丈は俺と変わらないが、筋肉質の師匠がスーツで厨房に立つと独特の威圧感がある。
「お久しぶりです。いいですか?」
「いいぞ。折角だし、お前の社員雇用の話も進めたいしなぁ」
返答せずに苦笑いでいると、師匠は店長と裏口から出ていった。
赤坂さんと二人で勤怠を切って、休憩室に戻る。コートを羽織ってカーテンを開けると、赤坂さんもバイト着に白い厚手のカーディガンを羽織って、よれたハンドバッグを持って立っていた。
「それじゃ、行きましょうか」
「そうですね」
一本先の国道沿いにあるハンバーグ店に決定したので、自転車の俺だけ先に向かい、二人を待って店内に入った。メニュー票を広げて原価率を計算する師匠を置いて、赤坂さんと俺はパフェやアッフォガードに目移りしながらメニューを決めた。研修中のアルバイトが、慣れない接客でオーダーを取り、三人の間に和やかな空気が流れる。
期待はしていなかったが、赤坂さんには彼氏がいた。いわく「自己責任で飼いたくなった」らしい。
「風太、ふーちゃん、って呼んでるんですよ。何か、頑張って二本足で立ってる四足動物って感じがするから」
フライドポテトをつまみながら、赤坂さんはペラペラと素性を語った。声優になると目標を決めて、高校を中退したこと。風太は前にアルバイトしていたコンビニで拾ったこと。中退を決める三か月前に、父を自殺で亡くしていること。
師匠はすべて聞いた話だからか、黙々と肉を口に運びながら、付け合わせのポテトを赤坂さんの小皿に乗せた。俺も乗せた。
「師匠って、たしか元々デザイナーやってたんですよね。どうしてこんなところにいるんですか」
赤坂さんがポテトの咀嚼に集中しだしたので、話を師匠に振る。ネクタイレスでボタンを二つ開けた師匠の威圧感については、最初にひとしきり赤坂さんと笑い飛ばした。
「俺にも、守るものができたから」
「この言葉通りなんですよ。守るものが、デキちゃったんです、桐原さんは」
ポテトを飲み込んだ赤坂さんは、にやにやしながらそう付け足した。
「そういえばどうするんだ園田。このままうちに就職しないのか?」
「就職ですか。それじゃあ、今も有意義な時間なんですね、園田さんにとって」
夫婦漫才のように繰り広げられる会話を、黙って聞き続ける。右手ではメールを新規作成にして、会話を逐一うちこむ。何かのネタになるかもしれない。
「結婚は人生の墓場だぞ。あれは嘘でもなんでもない」
「じゃあ師匠いま、死んでるんですか」
「ゾンビだよ。馬車馬のように働こうが嫁に半生の唐揚げを出されようが死なない。でもさすがに酷使してちぎれた右腕がお前だよ」
「仲良しですね。園田さんと桐原さんは」
はーおかし、と赤坂さんが目じりを拭う。俺の隣に置かれた赤坂さんのバッグからは、デオドラントスプレーやポーチがいくつも覗いていた。
雑食な人間が、一つの席に集っている。
締めに赤坂さんがアッフォガードを頼む。コーヒーをアイスにかけながら「でもなんか」と呟いた。師匠はまた原価を気にしだしている。
「ダメな彼氏もいて、こうやっていろんな人と出会ってもやっぱり、みんな溶解物って感じがするんです。わかりますか、園田さんは」
ゆっくり匙を入れ、コーヒーとアイスが混ざらないよう慎重に食べ進めながら赤坂さんはそう尋ねてきた。自分の言葉が通じる相手がいる。そう感じ始めていた。
「じゃあ、赤坂さん自身はなんなんですか?」
「私は自分を超合金だと思っています」
支払いを済ましてお手洗いに行った師匠を、駐輪場で待つ。
「赤坂さんは、師匠とイイ仲なんですか?」
さっきの席で聞けなかったことを聞く。赤坂さんは面食らうでもなく、淡泊に「違いますよ」と言った。騒ぐバイクと自転車の集団が走り抜けていった。
「そうなんだ」
「信じてくれます?」
「まぁ、元々疑ってもないけど」
なんですかそれ、と彼女は笑って、また静かな顔に戻る。スマホを凝視しながら照らされる女性の横顔は、誰であれ冷たいと感じる。
「私、たとえ二人の関係があやしく見えたとしても、友達だよって言えばそう信じてくれる人、いいなって思うの」
「そうなんだ」
「自分の中でさ、どうか穿った捉え方をしないで、って願う瞬間はない? 自分の言葉の中に、尊敬する人の言葉の中に。そういうこと」
どちらからともなく、連絡先を交換した。裏地を取ったコートがちょうどいい春先の夜の中で、彼女の色素の薄い肌がやけに美しく見えた。
師匠が出てきた。助手席から彼女が手を振り、二人は帰って行った。
シャワーを浴びる。
掌に残ったリンスを腕に薄く滑らせる。
洗顔料で顔を洗い、余りを腕に滑らせる。
敏感肌や色素の薄さとは無縁の頑丈な外殻。
ボディーソープですべてを洗い流した後、歯を磨き、湯船を洗い、ジャージに着替える。
眠るとは、見えない魔の手に自分をゆだねることだ。
目を瞑ると不安が膨張して瞼の裏に宇宙を創る。
質量を無視した巨大なハンマーが緩慢な動きで俺を打つ。
打ちのめされて、打ちのめされて、前後不覚に陥り、
俺は無重力の中をくるくると回る。
右手を投げ出し、太ももに左手を挟み込んだ「く」のような姿勢で。
最後はロッカールームに幽閉される。
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