理系少年の異世界考察

ヴォルフガング・ニポー

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エントロピー増大の法則

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 エントロピーとは何か?

 端的にそれは、乱雑さを表わす尺度と説明されることが多い。

 乱雑であるほどエントロピーが大きく、秩序立っているほどエントロピーが小さい。

 乱雑に分子が動き回っている気体はエントロピーが大きく、規則正しく分子が配列している固体はエントロピーが小さい。水に塩が溶けた状態はエントロピーが大きい、水に塩を入れたばかりで底に結晶が沈んでいる状態はエントロピーが小さい。散らかった部屋はエントロピーが大きく、整理整頓された部屋はエントロピーが小さい。

 水に塩を入れてかき混ぜなかった場合、はじめはそこに結晶が沈んでいるが、そのまま放置すると数日後には塩は水に溶けてしまっている。つまり、エントロピーは大きくなる傾向にある。

 厳密には閉鎖された不可逆な系に限ってそのような現象が観察されるのだが、このような傾向をエントロピー増大の法則という。熱力学第二法則でもあり、自然界の基本的な法則である。

 熱は熱い方から冷たい方へ流れ、その逆は起こらない。

 コーヒーにミルクを溶かすと均一に広がるが、コーヒーとミルクが分かれることはない。

 砂山を盛ったあとに放置すると、崩れることはあっても、砂山が高くなることはない。

 このようにエントロピーは必ず大きくなる。見かけ上小さくなっている現象であっても、それらに関わるすべてのエントロピーを足し合わせると大きくなっている。

 しかし、そうではない現象もあるのではないだろうか。

 エルヴィン・シュレディンガーは生命とはエントロピーを小さくさせる存在なのではないかと疑問を呈した。その発言に触発されて多くの科学者が厳密な調査をしたが、生命活動の反応では必ずエントロピーは大きくなっていた。

 卓人も思った。

 生命は乱雑な状態から秩序立った状態に変える存在に見えるじゃないか。

 今では一部の科学者が、科学的な根拠はさておき生命はエントロピーを小さくしていると考えてもよいのではないかという姿勢を取る人も現れている。

 一体どうなんだというのか。

 本でしか学んでいない卓人にとって、エントロピーとはとても難しいものに思えた。



「創造神は生命の形をつくり、破壊神はそれを壊してゆく。形成と破壊が循環することで生命は成り立っておる」

 エントロピーの縮小と増大が循環して生命が成り立っている。

 少なくとも観察される上でこの理屈は正しいように思う。

「生命が成立する系は必ず循環しておる。生命が生命活動をすれば必ず周囲を乱雑にしてゆく」

 これも正しいだろう。

「乱雑になった状態をさらに乱雑にしていき、どこまでもどこまでも乱雑にしていくわけじゃ。いずれ乱雑になる限界がくるであろう。わかるかね?」

「はい、そうだと思います」

「ただし、循環する系においては乱雑さが無限に増大していく過程で、気がつけば小さくなってしまっておる」

「え?」

 何を言っているのかよくわからない。

「なんでですか?」

「数の無限和は時として驚くほど小さな数に収束することがある」

 卓人はそれを知っていた。

 1+2+3+4+5+6+……=-1/12になる計算だ。エミリがやっている問題集に乗っていた。

 そのほかにもいくつかの無限和は小さな値に収束する。

 フィボナッチ数の無限和は₋1に収束する。1+1+2+3+5+8+13+……=-1となる。

「生命とは、循環系において成立し、その系において乱雑な状態を秩序立たせる存在なのだ」

 ――本当にそうだろうか?

 卓人は困惑したが、自分の知っていることがすべて正しいと思えるほど傲慢でもなかった。慎重にシャローム・ファーリシーの言葉に耳を傾けた。

「では、その循環系が壊れたときどうなるかね?」

「……無限和が小さくならなくなる?」

「そうだ。乱雑さは無限に大きくなり続け、いずれ世界は死に満たされる」

 表現がいちいち過激で信じようにも信じ難い。だが、理解できなくもない。なんとか必死で食らいつく。

「世界の死とは、この世界を支配する法則の死だ。この世界と別の世界を隔てる法則が死に、互いに異なる世界がつながるのだ」

「つながる……そのときに僕はこの世界に転移したということですか?」

「そうだ。通常、一人の死でそんなことは起こらない。なぜならば別の生命がすぐそばにあるからだ。だが、大量の死が同じ時間、同じ場所で起こればほんのわずかであれ、異なる世界とつながることがある。その一瞬を逃さずに引っ張り込んでしまえば、強制的に異世界へと転移させることは可能だろう」

 つまり、本のあの一節と対応させればこうなる。



 己が尾を喰らうドラコーン → 生命は循環している。

 いずれは自らを食い尽して無に帰すや → エントロピーは無限に大きくなり続けるのか

 あるいは永劫に食み続けるや → あるいはどこかで小さくなることがあるのか。

 魂は永劫なれ、変成しつつ、変成しつつ、魂は永劫なれ 
 → エントロピーの無限和により小さくなるので、ずっと同じ循環が続く。

 魂は、他の秩序を壊してその秩序得るなり → 生命は散逸構造である。

 その変成とは、秩序を失うこと甚だしくも → 生命活動はエントロピーを大きくしているが

 新たな秩序をもたらすはドラコーン → 最終的にはエントロピーを小さくしている。

 その口の先には → 口が開くと、無限の循環は途切れる。

 異なる秩序の世界がある → そのとき別の世界とつながる。


 
 ――本当にそうだろうか?

 卓人はその理論は間違っていると言える例をいくつか思いついた。

 食肉になる動物の屠殺場で異世界転移したなんて話は聞いたことがない。いや、菌は人間の表面でいつも多量に死んでいる。いつでも異世界転移し放題じゃないか。

 だけど反論できなかった。

 現実に自分は異世界転移してしまった。その理由は彼の理論以外に説明のしようがないからだ。

「奴は、多くの人たちが死んで行く戦場で転移の魔法を使い、おぬしをこの世界に呼び寄せた。一体どういう精神性を持ち合わせておるというのだ」

 正常な人格の持ち主がまさに命のやりとりをしている場所で、そんなことをしてみようなんて思うだろうか。本物の自分はとんでもない人格破綻者なのではないだろうか。

 だけど純真なエミリがあんなに懐いていたのだ。そんなはずはないと信じたい。

「この説明で理解してもらえただろうか」

「あ……はい。理解したかどうかはわかりませんが、なんとなくは……」

「ほう」

 シャローム・ファーリシーは少し興味深そうな顔をした。

「最後に聞いていいでしょうか?」

「わしは立場上、おぬしの疑問にはすべて答えねばならんと思っておる」

「ありがとうございます」

 卓人は1つ呼吸をおいた。

「その彼は、なぜ僕をこの世界に召喚したんでしょうか?」
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