A&R

小椋シゲコ

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ダイク:1

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 色は白く、肌は滑らかだ。まるで陶器のような、いや、彼女はそれそのものだ。

「デスクには、左の靴しか残っていなかったんですよ。」と大路由麻は言った。戦前の日本や70年代のアメリカなら、美しく響く名前だ。字がいい。入社半年というのに随分と冷静な口調だ。幼く真面目で堅物に見えるのに、潤んだ大きな黒目と唇だけは妙に艶っぽく、多くの男性がこの届きそうで届かない瞳に、甘く次には苦い表情を映してきたのだろう。早朝に僕が残した痕跡を追って、男子トイレの一番手前の部屋まで来たのだと、不機嫌でも楽しそうでもなく淡々と説明した。エレベーターホールに出るまでに、もう片方の靴と右足の靴下。トイレに続く廊下に、ベルトとTシャツ。僕が担当している男性アイドルグループのノベルティーのTシャツだ。CDの販売促進に使用される特典用の安物だ。トイレの入り口に、ズボン。最後に、白人女性の背中に頬寄せる夢を見ながら、便器を包容して眠る僕と左靴下という訳だ。

「狭山さんに見られたら、また、叱られますよ。今朝は、運が良かっただけで、ダイクは、誰よりも早く部長が出社するんですから。」

 ダイクとは、僕が勤めるレコード会社の9つある制作部のうちの最後の部署「第九制作部」のこと。ベートーベンの交響曲の愛称から『ダイク』となった。一応、音楽的だ。その実は、第二次世界大戦時の「日本海軍第九艦隊」と同じく、外洋に乗り込んでいけるような空母を持ったオフェンシヴな部署ではなく、ピークを過ぎたアイドルグループが筆頭で僅かな売り上げを立て、若干の駆逐艦ともとれるアーティストを他にふたつだけ抱える、はっきり言って窓際部署だ。

大路が、ノベルTをトイレットペーパーにくるんでいる。

「プリンス、何してる?」

 僕を睨むと、同じグループの新しいノベルTをこちらに投げながら「ワインで汚れたコレを分からないようにして捨てるんですよ」と返した。大路で王子でプリンスという訳だ。音楽的だ。しかし、彼女はそう呼ばれる事を嫌っている。




 便所の手洗いで、顔を洗い、口をすすぐ。鼻の奥の煙草の臭いが消えない。おかげで、鼻腔からも逆流したはずの消化不良物の酸を感じずに済んだ。席に戻ると狭山部長は既に出社していた。いつもの通り、彼女が原因ではないだろうに、秘書のハル子さんをまくし立てている。今日も“となり”では何かが起こっている。いや、“となり”で何も起こらない日など祝日と同じようなもので、滅多にないし、退屈なだけだ。

 遠くから軽く彼らに会釈をして、3ブロックを通り過ぎ、プリンスの分を含め、たった五つしかない机が並ぶ最北の末端ブロックのさらに末席に腰を落とす。それが、この島で、唯一のアシスタントディレクターである僕の席だ。チーフディレクターの赤星課長がお誕生日席で、その中心から伸びる垂直線を挟み、二つずつ机が向かい合っている。窓側にディレクターの中澤さんと僕、逆側には、現場に出る事の多いディレクターを様々な形でサポートしてくれるデスクと呼ばれる役割のプリンスの玉座があり、もうひとつは空席・・・それがダイクの全てだ。部とは名ばかりで、看板アーティストを複数抱え、少なくとも十組以上のアーティストと二十名以上の部員が所属する第一から第七制作部の課よりも小さな部だ。しかも、ダイクの狭山部長は第七と第八の兼任なので、実質は4.33人。いや、秘書のハル子さんを入れると4.66人か。いや、プリンスも第八との兼任だから、さらに0.5を引いて、もういい・・・いや、4.16人だ。

 狭山部長が内線で呼び出されて席から離れると、いつものようにハル子さんがこちらに歩いて来た。絵に描いたようなエリート秘書の彼女は、なぜかお荷物『ダイク』がお気に入りなのだ。9つある制作部の中で、今期、さらに2つの新人を成功させ、最も勢いのある第七の三十人を超える部員を見渡す部長秘書席から、すぐ横にあるのに埋めがたい距離のある第九制作部に屈託なく毎朝訪問し、僕らと言葉を交わすのが彼女の日課だ。第八制作部は、僕らの島とエレベータホール側の壁との間に机を2つ持っているだけで、影ではロボと呼ばれている地味な女性がその内のひとつに座り、一日中、ひっきりなしに請求書処理やら管理部に提出する伝票の整理をしている。女性なのに薄い青紫色をした眼鏡をかけていて、挨拶をしても返ってくる様子がないので、いつの間にか会釈すらしなくなった。ただし、彼女“も”優秀である事に違いはない。第八はダイクとは全く別の理由で窓に面した端の小島だが、所属部員は窓際などではない。むしろ、精鋭だ。そして、彼らには会社に出社する義務もなければ、意味もない。そして、ロボが行う専門的な事務処理のサポートを、プリンスが行っている。なので、物理的には、ダイクのすぐ“となり”は第七だ。そちらを見なくても、ハル子さんの長くフワっとした髪から、プリンスには全くない優しい香りがして、今日の春の到着を知らせてくれる。

「もう、嫌になっちゃうわよ、狭山さんったら。朝っぱらから・・・」

美しく整った顔にすらっと高い背、その上品な容姿からは想像もできない男勝りでサッパリとした性格が、逆に社内の女性ランキングで常に上位をキープさせている。男性は勿論、女性社員からの人気も高い。「どうしたんですかぁ?」プリンスですらハル子さんにはよそ行きの声で話す。毎朝、僕が男としての自信をなくす瞬間だ。

「スラッシュよ、スラッシュ。また、スクープがあったのよ」

毎週木曜日に発売される雑誌『スラッシュ』で、レコード会社所属のアーティストがスクープされるなんて時は、ほぼ歓迎できない内容に決まっている。ハル子さんはあっけらかんと話しているが、狭山部長の様子を見る限りでは、随分な大物に関わる記事のようだ。しかし、どうせ窓際ダイクには関係ない。うちのアーティストの私生活に興味のある人間が、もし、雑誌の売り上げに貢献できるほど存在するなら、うちの部署が三期連続赤字な訳がない。

「まこちゃん、あなた、また自分には関係ないって思ってるでしょ?そんなだから窓大工って呼ばれるのよ?どうせ大工なら階段大工を目指しなさい」洞察眼の鋭い彼女の口癖だ。家を建てる時、階段を施工するのは一番腕のいい大工、つまり棟梁というのが昔からの仕来りだそうで、春曰く、どうやらヒトという生き物は、相当、精密に出来ており、十段以上ある階段の後半、どれか一段をあえて数ミリ高くしただけで、ほとんどの人がそこで躓くという実験結果もあるらしい。最初の数段でその高さを感覚で正確に計り、無駄のないように足を運んでいる証拠だ。要は階段を作る大工は素晴らしい技術を持った花形という訳だ。どうせ、僕らは窓大工だ。しかも、そのキワで無駄そのものだ。




 狭山部長はせわしなく席に戻ると、横にあったプラスティックのゴミ箱を蹴飛ばした。僕が知る限りでも十代目のゴミ箱だ。いつもプリンスが総務部に補給依頼の連絡をしている。

「なんだってんだ。どう考えても俺も会議に出るべきだろう!」

大きな声で叫ぶので、隣の部にいても、内容が丸分かりだ。

「誰か(※1)でも立てんのかよ、結局は俺にケツ持たせるくせに。」

あまりの剣幕に、デスクの棚の上から少し顔を出して様子を伺うと、視界の端で中澤さんが出社して来るのが見えた。最悪のタイミングだ。その顔が、第七に並ぶ机上の棚に隠れては見え、隠れては見えを繰り返している。左右だけでなく上下にも大きくふらついているのだ。当然だ。つい4時間前までバーでウィスキーを瓶から飲んでいた人なのだ。表情は笑っているようにも見えるし、怒っているようにも見えるが、とにかくだらしがない。

「おいっ、中澤ぁ」

案の定、狭山部長がそれを呼び止める。

 中澤さんはそちらを見やると、満面の笑みを浮かべ、軍隊のように素早く身体を回転させた。狭山部長の方に正対したつもりが、勢い余って、それを過ぎ、誰もいない席に向かって深いお辞儀をした。思わず『これは雷が落ちるぞ』と首をすくめたが、予想に反して、狭山部長はそれには意も介さず、ほぼため息の深呼吸をして面倒くさそうな手招きで中澤さんを呼び寄せた。部長の手の動きに操られるかの様に、ひどい猫背がゆらゆらと上座に近付いていくのが見える。せっかくの長身美男が台無しだ。毎晩のアルコールで染み込んだ老人のような仕草が、その他一切の外的魅力を掻き消してしまっている。

「また、飲んでたのか?」予想外の低いトーンで狭山部長が尋ねると、中澤さんは背筋を伸ばし「はい」と答えたつもりなのか「さいっ」と元気良く返事をした。ハル子さんの背中が小刻みに揺れている。

「赤星はどうした?」

「知らないれす。」

「来たらすぐに知らせてくれ。お前と一緒に話がある。」

中澤さんは一呼吸置くと、一生懸命に「はい」を意識して今度は「ひゃう」と言った。ハル子さんがたまらず、顔を逸らし口を押さえている。狭山部長はそんな彼女を横目に捉えつつも、逆方向に立ち上がると早足にドアの方へと歩き始めたが、すぐに足を止めるとダイクの方を振り向いて「お前もだ」と叫んだ。

 自分に向けられた指示だとは思いもよらず、僕がポカーンとしていると「あいつの名前なんだっけ?」とハル子さんに確認し、今度は僕の名前をしっかりと呼んで同じ指示を繰り返した。

「佐伯、お前も参加するんだ。」

僕はいつの間にか、棚の影から堂々と顔を出し、その様子を傍観していたのだ。

「ふたりとも、現場があるならズラしておけ、今日は一日中、席で電話番だ。」

中澤さんにつられた僕だけが答えた「かしこましまりた」。
ハル子さんはとうとう声を上げて吹き出してしまった。
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