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 日が沈む頃そよと吹く風のように心地よくて、ミルクがほんのり香る紅茶みたいに優しい兄上の声。
 兄上が、今日も僕が好みそうな物語を紡いでくれる。
 時折その長い前髪からのぞく炎のような赤い目が、兄上を苦しませていると知りながら、僕はとっても綺麗だと思っている。
 白く、細い兄上の中で、赤く燃える二つの目。隠してしまうなんて、もったいない。
 唯一ロベルト兄上だけが受け継いだ、父上の目の色。代々、王の目の色。

 僕とカルロス兄上はダークブラウンの目をしている。母上と同じだ。母上は、ロベルト兄上に「その目で見るな」とことあるごとにヒステリックに叫ぶので、ロベルト兄上は前髪を切らず、いつも母上の前では俯いていた。
 ロベルト兄上の母君は、ロベルト兄上を産んで、すぐに亡くなってしまったという。それからは表向き、ロベルト兄上は父上と母上の実子と言うことになっているけれど、本当は違うということを、王宮内ではほとんどの者が知っている。
 母上の態度でまるわかりだし、父上は知らんぷりだし、そういう噂は瞬く間に広まるものらしい。

「おっともうこんな時間か。ルシアーノ、そろそろ戻ったほうがいい」

 兄上が懐中時計をランタンにかざしながら言った。

「え? もう?」

 突然突き放されたような気がして、僕は不満そうな声を隠せなかった。いつものことなんだけれど、兄上とのお別れの時間は奈落の底に落とされるような感覚がして、とっても辛い。

「もう少し、いいじゃないですか」
 僕は駄々っ子のような声を出した。
「夕食の時間に遅れるだろう」
「食べたら、また来てもいいですか」
「ルシアーノ」

 兄上の声音が少し変わったので、僕はたじろいだ。だけど今日はちょっと勇気をだしてみようと、何となく思ったんだ。

「兄上は、一人で夕食をお召し上がりになるんでしょう。そして一人でここで眠る。そんなのおかしいです。この国の第二王子なのに」

 僕がすぐに引き下がらなかったので、兄上は少し面食らったようだった。ぽかんと口を開けている。ややあって気を取り直した兄上は、幼い子供を優しく宥める口調で言った。

「おれが好きでそうしてるんだ。おれは本に囲まれているのが好きなんだよ。お前も知っているだろう」
「嘘です。母上が、兄上を閉じ込めるから――、兄上だって、本当は」
 僕は身を乗り出していた。
 母上は自分の子ではないロベルト兄上を疎んじていた。本好きな兄上を利用して、お前の書斎を造ってやったわよと、兄上をこの地下の部屋に追いやった。
 王宮にロベルト兄上の居場所は、どこにもなかった。
 この王宮の隅っこの、地下の部屋が、兄上の生活の場となった。
 もともとは重要な書物を保管していたらしいこの部屋も、今や誰も足を踏み入れない持て余した空間となっていたのだ。だから扉だけは小さいなりに強固で、外から鍵が掛けられる仕組みになっている。
 まるで監獄だ、と僕は思う。罪人を閉じ込める牢屋。

「兄上だって、本当は、こんな場所にいたくないはずです。僕が連れ出してあげます」

 僕は兄上の両手を取った。華奢な手だった。冷たくて、骨だけのような。
 兄上は、ほとんどもう目が見えていないのだ。明かりを灯す魔法道具はいくらでもあるのに、母上はこの部屋に用意しなかった。
 蝋燭を中に入れたランタンだけが光源のこの部屋で、兄上は本だけをよりどころにして、もう十年以上暮らしている。
 兄上が本をきちんと読めているのかどうかは分からない。僕にお話しして下さる本の内容は、本当なのか、兄上の作り話なのか。僕には分からない。
 僕には本の内容なんてどうでもいい。兄上が僕に向かって、僕だけにお話しして下さることが重要なんだ。

「おれを、連れ出してくれるのか」

 兄の隠れた赤い目に、光が差した気がした。兄上が、僕を見つめてくれている。
 王族の生活になじめない僕。王族からはじかれて囚われている可哀想な兄上。
 こんな国を捨てて、二人で一緒にどこかで静かに暮らしましょう――。

 僕がそう言うと、兄上は、やれやれとため息交じりに微笑んだ。 
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