終わりなき進化の果てに──魔物っ娘と歩む異世界冒険紀行──

淡雪融

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第四部

第二章

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第二章

「……レン?」

 長らく詰所の方を見つめていたのだろう。
 ソプラノの美しく澄んだ声に振り向けば、くりりとした大きな水色の瞳が俺を見つめて、不安げに揺れている。

「ヴェル」

 彼女の名前をゆっくりと確かめるように呟いた。

 俺が俺であり、ゾイドのように堕ちることなく精一杯鍛錬に勤しんでこれたのは、何も常に強者であった両親らによるものだけではない。

 六年前、七歳児であった頃、俺は銀色に降り注ぐ月光の下でこの少女と出会った。
 スライムとして生を受け、今は腐食スライムとして得たスキル【人化】によって、今この姿で俺を見つめている。
 六年間ほとんどいつも側にいた彼女は、実の兄弟よりも繋がりの強い存在になってしまっている。
 俺はヴェルをどう思っているのか、自分のことながらこの気持ちの正体がわからないままでいる。
 愛としての好きなのか、家族としての好きなのか……
 ヴェルは大切な存在で、もはやヴェルのいない生活など想像できないだろう。
 だが余りにも一緒にいすぎたのだ。
 肌はかさねてないにせよ、褥を共にするほどにその距離感は親しすぎた。

「いや……ヴェル。ごめんな、心配かけて」

 その空色のふわりとした髪をぽんぽんと撫でてやると、嬉しそうに、恥ずかしげに彼女は微笑んだ。
 まだあどけなさが残るというのに、既にこのすべての美を凝縮して集めたような笑顔に、俺の心臓はどくん、と跳ねた。
……この笑顔なんて、何度も見てきたのに。

 つまるところ、俺の言いたいのはヴェルという存在が、俺に妥協を許してくれなかったのだ。
 彼女が別に強要しているのではない。
 ヴェルの前で自分の情けない姿を見せるわけにも行かない、というちっぽけな矜持が俺をそう駆り立てるのだ。

「ううん? レンが大丈夫そうでよかったーっ。ねえ、フロラちゃん?」

 ヴェルが振り向けば、そこにはいつの間にかフローレンスが優雅に立っている。

「ええ。レン様がいきなり殴ったのは驚きましたが……。とはいえ、あの人間は人間の刑に照らし合わせるなら死刑が妥当でしょう?」
「どうだろうな。警備隊の人は色々な罪の嫌疑があるとは言っていたが……というより、フローレンス? きみはやはりあの男を……」
「あら、レン様。わたくしなんてお前、呼ばわりで充分ですわよ? ……わたくしを辱めたあの腐った人間のことなら、死刑というより、わたくしのこの手直々息の根を止めたいと願っておりますわ」
「フローレンス……」

 やはり彼女の人間に対する憎しみが安らぐことはない。
 それどころか、ゾイドの件で以前よりも軽蔑している節を感じる。

「あのような害にしかならない人間など、わたくしの餌として糧になれば良いのですわ……」

 声を潜めながらも、フローレンスはそう口にする。
 フローレンスが彼女を誘拐した一人であるレラファを食らった時、彼女は名状しがたい至福を感じたという。
 実際、餌と口にした瞬間の彼女の表情は、快楽と甘美に打ち震えていた。

(こりゃ……魅せられたかな)

 魔物は魔力を好む、というのは常識である。
 長年、人間の世界で暮らしてきたヴェルでさえ、人間の高級な食事よりも魔核に蓄えられた魔力を吸収するほうを好んでいる。
 魔物が成長し、進化するためには、簡単にいえば自らのキャパシティを超える魔力があればいい。
 魔物たちは本能によって魔力を得るため、他の魔物を襲い喰らわんとするのだ。

 だが、既にフローレンスは人間を捕食してしまっている。

 魔物より遥かに多い魔力を持つ人間は、魔物にとって我慢など耐え難い贅沢な餌と言っていい。
 魔物を食らうよりも遥かに成長、進化に近づくのだから。
 ゴブリンなど人間より劣る魔物が執拗に人間の集落を襲ったりするのも、繁殖だけでなくこういった理由が大きいのである。

 一度人間の魔力の味を知ってしまった彼女は、もはや人間、あるいはAやそれ以上のランクの魔物の魔力でしか満足できない身体になってしまったのだ。
 魅せられる、というのはつまりそういうことである。
 
 だから調教者は、まだ人間の味を知らない魔物を調教しなければならない。
 その点、調教について何も知らないまま仲間にしたヴェルが人間の味を知らなかったのは僥倖と言うべきか。
 だが、ゾイドを見て、フローレンスに食われてしまえばよかったのに、という黒い欲望があるのに俺は気づいていた。

(困ったなぁ……)

 俺は英雄願望などないし、善を救い悪を滅ぼす物語の主人公でもない。
 ただ単に愛しい魔物っ娘たちと世界中を冒険して、楽しく笑えればいいな、という夢があるだけだ。

(心が痛まないといえば嘘になるけど)

 俺にならともかく、周りの大切な人たちを傷つける輩には、ヴェルやフローレンスにその命を差し出して貰って、糧になってもらおうか。
 なんて、そんな気持ちも湧いてしまうのだ。

「レン様……? そんな難しい顔をなさって、悩み事なら幾らでもわたくしに吐いてくださって構わないのですわよ?」

 漆黒のドレスから見える胸の深い谷間にそっと手を当て、フローレンスが不安げに俺を見つめる。
 その真紅の瞳は血のようで、人間への渇望を暗示しているように見えた。
 だが、と俺はぶんぶんと頭を振る。

……さっきから二人を不安にさせて、俺は何をしているんだ!

 すうっ、と大きく深呼吸し、再びフローレンスの瞳を見つめ返した俺の心は、穏やかな水面と化していた。
 人間の姿に生まれ変わり、俺の仲間として生きることを選んでくれたフローレンスには感謝してもしきれない。
 愛しさすら覚え、ヴェルにするように、フローレンスの頭をぽんぽん、と撫でた。

「……うふふ、レン様。恥ずかしいですわ」
「嫌か? フローレンス」
「いいえ、まさか。それよりも……あなた様」
「ん?」
「わたくしのことは、フローレンスではなくフロラとお呼びして欲しいのですわ」

 期待するような眼差しが俺を離さない。
 六年前ヴェルにも同じようなことを言われたが、女性とはそういうものなのだろうか。
 前世では同級生どころか後輩を名前で呼ぶ経験すら無く。
 また目の前でその瞬間を待ち望む彼女は、俺が前世で出会った誰よりも圧倒的な美を孕んだ女性なのだ。
 まだ見た目七歳児だったヴェロニカをヴェルと呼ぶのとは、精神的に覚悟が違う。
 この俺が馴れ馴れしくフロラと呼ぶには、彼女は高嶺の花であった。

 そんな俺の逡巡を知って知らずか、彼女は唇に人差し指を当ててくすくすと笑う。
 そんなさり気ない振る舞いも蠱惑的で。
 彼女の視線から逃れるように、俺は彼女のドレスを眺めた。

 一晩だけの仮初の宿への道を歩きながら、俺は横を付き添うフローレンスは漆黒のドレスを身に纏っている。

 森の中で自らの裸を惜しげもなく俺に披露してくれた彼女であったが、もちろん街中でそのような真似をするほど彼女も露出狂ではないらしい。
 とはいえ、少なからず彼女には露出癖の類はあるように思えるのだが。

 俺のスキルである工房で、俺のレベルでも製作できる中で最高峰の出来栄えだと声高々に言えるドレス。
 銀色の糸で薔薇を配った紋様をいくつか乱雑風に配置し、プリンセス・ローズという魔物である隠れた個性を埋もれさせることなく表現している。
 紅蓮色の大きなリボンが腰に縫い付けられているのも大きな特徴であろう。
 胸元から肩にかけて露出するタイプのそれであり、見た目だけなら既に成人を超えている彼女は、その立ち振る舞いもあって艶やかな大人の色香を放っている。
 実際、この世界の平均を超えるその胸は、谷間を強調する服装によって、先程から道を行き交う男たちの注目を集めている。
 それは彼女が圧倒的なスタイルを誇る絶世の美女であるせいでもあるのだが。

 あくまでこれは俺の趣味ではなく、限られた素材の中でフローレンスの意向を最大限に汲み取った形となっている。
 際どいエロチックな衣装に夢見るだとかそういうのは前世のうちにとっくに卒業しているのだ……ヴェルには信じてもらえなかったが。

 両手には緑色の蔓を隠すためのドレスグローブを、両足には茶色の根を隠すためのタイツと高いヒールを。
 これで彼女がドレスを脱ぐことのない限り、誰も彼女を一人の人間だと信じて疑う者はいないはずだ。

 宿屋の女将も俺たちを普通に饗すのだから、彼女の正体については心配はないだろう。
 部屋を二つ、と女将に伝えようとして、不意に遮られる。

「お部屋は一つで……お願いできますかしら?」

 にやり、と口角の上がったフローレンスに、女将は俺とフローレンスと、そしてヴェルを交互に見つめ、ほうほう、と興味深げに頷いている。
 どこかの貴族の令嬢にしか見えない女とどう見ても冒険者風の男女の三人。
 しかもハーガニー内の宿屋ならともかく、ここは二つの市壁の間の宿屋である。
 どういう関係なのか、と誰もが聞きたくなるだろうが、ここの女将は賢いらしい。
 あらあら、と楽しそうに笑って、何も言わず部屋の鍵を出してくれた。
 

◆◆◆


 夜の帳が完全に降りて、夜は本来の姿を見せ始める。
 二つの寝息が一定のリズムを刻み、完全に眠りに落ちていることを証明していた。

 三人で一つの部屋に泊まるという傍から見れば愛を紡ぎ合う夜であり、フロラもそうしたいがために無理やり一部屋にしたのだが。
 ダークサイドに堕ちたフロラとの殺し合いとも言うべき壮絶な戦いを経たレンの体力は、果てに果て満ちて、体力はまだまだ余裕そうな表情をしていたのは彼の強がりだっただけであり、部屋に入ってみればベッドに座った瞬間にレンは眠りに落ちてしまったのだ。
 もちろんそんな彼と一日中行動していたヴェルもまた、レンの寝息に誘われるようにストンとその両瞼がくっついて、一人オトナの夜を期待していたフロラは残念そうに溜息をついたのである。

 フロラはどうしてか未だに眠気を覚えず。
 彼女は一人、天井を見上げた。

(……不思議なものですわ。人間など虫螻以下でしかないというのに……)

 彼女にとって、人間というのは平気で嘘を付き、平気で騙し、平気で略奪を繰り返す存在である。
 食人花たちが人間に受けた扱いを鑑みれば当然であろう。
 彼女にとって、自らの利益しか考えない人間は、ただ食欲に従って葉を食い荒らす害虫よりも忌むべきモノであった。

 フロラは死臭花ラフレシアに進化したエステを屠った人間たちを恨んでいる。しかし、あの時人間がエステを討伐していなかったら、フロラはいずれ衰弱死していただろうことは想像に難くない。
 もちろん自分が忠誠を捧げると決めたレンも、フロラは最初は虫螻とまでは言わないが、全く信用していなかったのは当然と云うべきか。

 だが、それは不意に訪れた。
 フロラは自らの首にかかるネックレスを見つめた。
 真っ赤な宝玉は確かな熱をもって、炎のように輝いている。
 まるで、それは太陽のように──。

「──この世に終焉なる闇が世界を覆う時、薔薇の姫君、太陽の巫女となりて世界に光を照らさん」

 今は亡き兄の最後の言の葉。
 人知れず、彼女はそっと呟いた。

 殺戮の感情に染められたフロラがあの時、その命を奪おうとレンと触れた時。
 急激に世界は白く塗りあげられ、フロラの闇に堕ちた心まで浄化した。
 太陽のように輝く宝玉を前にして。
 その瞬間、彼女はすべてを理解したのである。

 自分が、太陽の巫女なのだと。
 だとすれば、レンという人間は──。

 朧げな推測が、やがて確信に変わる。
 だが、今はそれよりも、と、再び兄の言葉を思い出す。

 わたくしが太陽の巫女ならば。
 この平和と思われた世界に、終焉なる闇が訪れるのは時間の問題だと──。

 これから自分を待ち受ける波乱の予感に恐怖と悲痛を感じながら、フロラはしかし、目の前に急激に広がった広大な世界に人知れず心躍ったのだ。

(結局のところ、わたくしは人間を諦めきれなかったのかもしれない……)

 かつて儚き食人薔薇だった頃、ヴェルから貰った八つ葉のクローバーを手にして、フロラはしみじみと天井をながめ、感じるのであった。
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