新訳ルヴィナス・レコード

弧月残雪

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紅き光と滅びの門

『第二章 事の起こり 其の三』

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「長老! いますか!?」

 エル=カルナは長老の家の扉を蹴り開けて入るなり叫んだ。

「なんじゃ、騒々しい!」

 奥の方から声がすると共にゆったりとした服に身を包んだ老人が現れた。
 どうやら祭へ向けての身支度をしている最中であったらしく、手には紅い宝珠のはまったペンダントと色鮮やかな布切れを持っている。
 エル=カルナは荒い息をつきながら叫ぶ、

「大変なんです!」
「大変?」

 眉をひそめる長老。

「長老様、どうやら海から異国の軍隊がやってきたらしく、村は騒然としております」

 ウル=カシスが不安そうにしながらも妹の言葉を補足した。

「軍隊……じゃと?」

 長老はピクリと白い片眉を吊り上げて呟き。

「そうか、ついにきたか…………」
「ついに……? 長老なにか知ってるんですか!? それより! ど、ど、どうしましょう!?」

 エル=カルナは長老に詰め寄って叫ぶ。

「ええい、騒ぐな! ほれ、半年前に海より異国人が流れ着いたろう。奴を生かして帰した時からそんな気がしておったわ!」

 その言葉にエル=カルナは息を呑んだ。
 半年前にアーティクリパ島に一人の男が漂着した事があった。息も絶え絶えだったその男は村の少女に看病され一命を取り留めた。

 回復した男は母国へと帰ると言い。長老は島を出ようとする男を殺そうとしたのだが、少女の必死の言により処刑される事を免れた。
 そして男はこの島の事を決して口外しないと約束して、国へと帰っていったのだった。

 その男を助けた少女というのが――他ならぬエル=カルナだった。

「そ、そんな…………でも、あの人はこの島の事は決して話さないって!」
「小娘が! 現にこうして異国の軍隊がやってきたではないか!」
「違う! あの人は約束をやぶるような人じゃない! これは何か別の……」

 エル=カルナは男の名誉を守る為に必死になって叫んだ。
 だって、物静かだが、誠実で、良い人だったのだ。顔立ちだって奇麗で、そんな、とても悪人には見えなかった。

「……ああ、今はそんな事を言ってる場合ではないか。ウル=カシス!」

 長老はエル=カルナを手で制しつつ彼女の姉へと向き直った。

「お前は巫女だ。だからお前にこれを預ける。なんとしてでも守りぬけ」
「これは…………」

 長老がウル=カシスに手渡したのは一つのペンダント、飴玉程度の大きさの紅い宝珠が組み込まれたペンダントだった。
 まるで燃え滾る真紅の焔のような見事な紅さ。光を透かし、透明な輝きをおびている。
 長老は厳かに言った。

「それは滅びの鍵だ。この島に眠る滅びの門を開く鍵。お前の命に代えても、部族の全員の命運と引き換えにしても、決して奴等の手に渡すな」
「滅びの、鍵…………?」

 呆気にとられたようにウル=カシス。
 それはまた随分と大層な響きではないか。
 エル=カルナもマジマジと長老の顔を見た。
 だが皺が深く刻まれた老人の表情は苛立ちを湛えていたが、とても冗談を延べているようではなかった。本気だ。

「…………解りました」

 ウル=カシスが神妙な声音と面持ちで頷いた。

「エル=カルナ、お前は船を操れたな? ウル=カシスと共にこの島より逃れよ」

 言うなり長老は足早に歩き出す。

「長老! 何処へ」
「その軍団の長に会ってくる。会えるかどうかは解らぬがな、だがどちらにせよめくらまし位にはなろう」

 長老は戸口の前で足を止めてエル=カルナへと振り返り、不敵な笑みを浮かべてみせた。
 彼は村一番の焔使いだった。
 火の老人は何事かを唱え、指先に焔を灯し、虚空に焔の光で紋様を描いてゆく。
 それはこの島に伝わる闇払いのまじないだ。エル=カルナは知っている。

「お前達に炎の加護を……頼んだぞ」

 長老は家から出て行った。宙に輝く紅い炎の残光が奇麗だった。





 村は炎に包まれていた。
 飛び交う怒号と悲鳴。
 空は立ち上がる煙でいつもよりも黒ずんでいる。

 鈍色の鉄兜に身を固めた無数の兵士達が槍を振るう。村人達は呪を唱え炎を放ち奮戦していたが、炎は兵士達の持つ鉄の大盾に阻まれて、本来の威力を振るえない。
 村人達は次々と血の海に沈められていった。

 軍が来たからといっても、必ずしも戦いになる訳ではないとエル=カルナは一縷の望みをかけていたが、それは甘かった。
 彼らは初めからこの村の制圧が目的のようだった。

「くそっ…………姉さんこっちへ!」

 エル=カルナとウル=カシスの姉妹は戦場となっている広場を迂回するようにして東の浜辺へと向かった。
 軍の襲来を告げた男は西から走ってきた、ならば東の浜ならば手薄である可能性が高い。そして東にはエル=カルナが今日、漁に出た小船がある。東の浜まで辿り着ければ、ここから逃げられる。

「ああ、皆…………」

 走りながら振り返って嘆きの声をあげるウル・カシス。

「早く!」

 姉を促すエル=カルナ。
 長老に使命を託された。
 姉をなんとしても逃がさなくてはならなかった。

 長老達は奮戦しているようで、逃げ出す者に対しての追撃が行われる気配はない。どうせ四方を海に囲まれた島、逃げだす事は出来ないとたかをくくっているのかもしれない。
 いや、そもそもに村人達を皆殺しにする事が目的ではないのかもしれない。
 では目的はなんなのだろう。何故、この島を奴等は襲うのだろう。エル=カルナは思いを巡らす。
 目的、それは――
 ぞくりと背筋が震えた。
 目的は、他ならぬ姉が託された、この紅いペンダントなのではないだろうか。
 エル=カルナが知る限りこの島に軍隊を出して制圧してまで奪い取るべき価値がある物などない。ない、はずだ。
 もしもあるとするなら、長老が随分と大層な形容をし、わざわざ巫女である姉に預けて、部族の命運と引き換えにしてまで守れと言ったこのペンダント以外に何があろうか。

 もし、もしも自分達がそれを持っているのだと知られたら――
 エル=カルナもウル=カシスに似て視野狭窄な所があると島の友人達からは指摘されていたが、今回ばかりは自分の思いこみではない気がした。

 やつらは、このペンダントを奪いにきたのだ。

 少女は身を震わせて、激しく首をふった。駆ける為の手足をがむしゃらに動かす。這い上がる悪寒を振り払うように。
 やがて浜辺が見えてきた。松明の灯りがぽつぽつと浜辺に連なるように浮かんでいる。

「人が居る…………!」

 足を止め、身を低くする。
 もし村人達が逃げるのだとしたら目立ち易くなる松明は持たないだろう。十中八、九、奴等だ。

 だが脱出経路はもうここしかない。行かざるを得ない。

「エル…………」

 姉の声は震えていた。

「とにかく様子を見てみよう」

 エル=カルナが発した声も震えていた。
 姉と共に道から外れ、近くの茂みが広がっている方へと入る。姿勢を低くし、足音を忍ばせ――こんな遠くでは音など聞こえる訳がないと解っていても――茂みづたいに浜辺へと近づいて行った。

 茂みが切れる手前までゆくと、はっきりと人の姿が見てとれた。
 鈍色の鎧兜に身を包んだ男達が三人ほど浜辺に立っている。一人が手に松明を持ち、残りは槍を持っていた。

 視線を左右へと動かすと、松明の灯りは別の方角にも幾つか見えた。
 どうやら連中はこの島を包囲しているようだった。

 エル=カルナは歯軋りした。
 男達のすぐ後ろに自分達の船がある事に気がついたからだ。
 接収でもするつもりなのか、幸いにして燃やされたり沈められたりはしていないようだが、あれでは船に乗る事など到底出来はしない。

「どうしよう…………」

 エル=カルナはぽつりと声を洩らした。

――突破する? 自分達が?

 そんな事は不可能だ。エル=カルナは小さな炎を生み出すくらいの魔法ならば心得ていたが、それで訓練された兵士を三人も倒せるとは思えなかった。
 巫女であるウル=カシスは幾分かはエル=カルナよりも優れた魔法の使い手であったが、あくまで幾分かであってエル=カルナと大差ない。

 八方塞がりだった。

「姉さん…………」

 隣のウル=カシスを見る。姉は暗がりの中でもはっきりと解る程青ざめて俯いていた。
 姉にも打開策は無いらしい、じりじりと時間だけが過ぎてゆく。
 今はまだエル=カルナ達は見つかっていない。だが、長老達も長くはもたない。なんとかして島から脱出しなければ、いずれ狩りだされてしまうだろう。

「エル…………」

 不意にウル=カシスが顔をあげた。
 目がギラリと輝いたように、エル=カルナには見えた。

「姉さん?」

 少女は姉の様子を訝しんで声をあげる。

「これを…………」

 ウル=カシスがエル=カルナの手に何かを押し付けてくる。
 手の中に受け取り、確かめて、エル=カルナは驚いた。
 それは長老から託された紅いペンダントだった。

「姉さん……っ? これは、姉さんが長老から…………!」

 何故ここで自分に渡すのか、訳が解らなくなって問い掛ける。

「私が連中の注意を引くから、貴方はその隙に船に乗って逃げなさい」
「姉さん?!」

 驚きのあまり、エル=カルナは思わず大声をあげてしまった。
 男達が一斉に二人が潜んでいる茂みの方を振り向く。

――しまった!

 全身から血の気が引いてゆく音が聞こえた。

「いいから! 長老は言ったわ、お前の命に代えてもこれを守れと」
「でも! だからってなんで姉さんが!」

 男達は何かを呼びかけあう素振りをすると、二人程がこちらへと近づいてきた。

「他にいないでしょう」
「なら私が――」

 そういうとウル=カシスは微笑んで見せた。

「そんなガタガタに震えてる貴方に出来る訳ないでしょ」

 震えてるのは姉さんだって同じじゃないか! エル=カルナはそう叫ぼうとしたが、

「それにね、私、お姉ちゃんじゃない? お姉ちゃんが妹を囮にして逃げたりしたら、格好つかないでしょう?」

 片目を瞑ってみせるウル=カシス。顔面は蒼白だった。言葉は震えていた。強がっているのは明白だった。

「姉さ――」
「エル、エル、可愛いエル、私の大好きなエル、愛してるわ。貴方は生きて、どうか無事で!」

 姉はぎゅっとエルを抱きしめた。柔らかくて良い香りがした。姉は身を離すと、茂みから男達に向かって飛び出して行った。

――姉さん!

 叫びにならない叫びが発せられた。
 ウル=カシスは男達の注意をひくように斜め前方へと砂浜を走ってゆく。二人の男達は素早く反応すると姉へと向かって駆け出した。
 ウル=カシスは足を止めると手を振りかざし、光の魔法陣を出現させ小さな火の玉を放った。
 それはウル=カシスに向かってゆく男の一人に直撃し破裂した。「うわ!」という驚愕の声を発し男は足を止める。
 だがもう一方の男は姉の魔法にも怯まずに突進する。姉は距離を保とうと駆けながら魔法を放ったが、男は槍で火の玉を斬り払って落とし、他の二人も姉を囲むように走った。男達はすぐに姉を追い詰め、うちの一人が手にもった槍を横なぎに払った。槍はウル=カシスの足に命中し、姉は悲鳴をあげて倒れた。

(姉さん…………!)

 エル=カルナは恐怖に凍りついたように動けなかった。
 男は倒れたウル=カシスを踏みつけると槍を何度も突き出した。その度にウル=カシスの悲鳴があがる。エル=カルナの位置からはよく見えないが貫かれたのは手足だろうか。即座に殺す事はせずに、いたぶる腹積もりが窺えた。激怒が湧きあがりエル=カルナの脳天までを突き抜けて、脳髄を焼き切るかのようだった。
 魔法を喰らった方の男も何事もなかったような様子でウル=カシスに近寄り蹴り付け始めた。姉の身体がびくんと跳ねた。

(助けないと、助けないと、助けないと…………!)

 見殺しにするなんて、出来ない。
 生まれてからずっと一緒に生きてきた姉なのだ。両親が死んでしまった今となっては唯一の血の繋がった肉親なのだ。自分を愛してくれていた人なのだ。
 見捨てられる訳がない、助けないと……!

 しかし――どうやって?

 エル=カルナは動けなかった。
 エル=カルナの魔法など、今しがたろくな効果も見せられなかった姉のそれよりも弱いのだ。
 助けに飛び出せば恐らく自分も姉と同様の運命を辿る事となるだろう。
 男の一人がぐったりとしている姉の背後に回り、上半身を無理やり起き上がらせると、その身にまとっている布を引き裂く。

(…………!)

 エル=カルナは頬にカッと血がはしるのを感じた。
 奴等は姉を辱めようというのだ。
 男達が哄笑をあげるのが聞こえてくる。それまで動かず船の前にいた男もウル=カシスの方へと歩いてゆく。
 あいつら…………殺してやる!
 エル=カルナは胸中で吼えた。

(殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!)

 憤りと悔しさで視界が滲んでくる。でも、それでも動けなかった。自分もああなるのが恐かった。
 怒りと恐怖が嵐のように渦巻いて、自分がぐしゃぐしゃになってゆくのを感じていた。胸の奥から引き裂かれるような痛みが走る。
 遠くから姉の悲鳴が聞こえる。
 見てられなくてぎゅっと瞳を閉じた。ぼろぼろと涙がこぼれてゆく。堪えきれずに嗚咽が洩れた。

(ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう…………!)

 なんで、私は、何も出来ないんだ。なんで、私は…………!
 手に持った紅いペンダントを強く握り締める。噛み締めた唇から血が流れて行った。
 脳裏に姉の言葉が甦った。愛していると、貴方は生きてと。
 エル=カルナは目を見開くと、叫び出したい衝動を押し殺して、茂みから飛び出した――姉に向かってではなく、浜辺につけられている船に向かって、泣きながら走っていった。

 砂に足を取られる。
 走りにくい。
 だがそれでも必死に駆けた。
 男達、まだ動いていない。
 エル=カルナの方を見ていない。

 男達は姉をいたぶる事に夢中で初め気付いていない様子だった。だが船まで半ば程の距離で流石に気付いたか、ぎょっとしたように姉を弄ぶ行為を止めた。
 男達のうち一人が慌てて走りだすのが見えたが、もうその時にはエル=カルナは船の目前まで来ていた。エル=カルナは前を見た。

 船の縁を掴み海へと足を踏み入れる。押寄せる波を割り、海底を蹴りつけて、船を押し出す。振り返らずに飛び乗った。
 船底に転がっていた櫂を握ると、渾身の力を込めて船を漕ぐ。舟は徐々に加速してゆく。

 エル=カルナは堪えきれず、振り返った。
 すぐそこに半身まで海に浸かった男が一人、怒声をあげてこちらを睨みつけている。残った二人の男は浜辺で立ち尽くしていた。
 離れた場所に姉が力なく横たわっていた。

「姉さん…………」

 また涙が溢れてきた。言葉に出来なかった。罪悪感で一杯だった。身が引き裂かれそうだった。悲しくて、悔しくて、憎かった、殺してやりたかった。見知らぬ異国の軍を、姉を犯した三人の男達を、どうしようもなく臆病で、何も出来ない自分を。

 風はエル=カルナの胸中を代弁でもするかのように荒れ狂っていて、嵐の到来を告げていた。
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