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一、
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水は、すべてを記憶する。喜びも、悲しみも、そして底知れぬ悪意さえも。あらゆるものを溶かし込み、満ち、そしていつか必ず、澱んだ記憶を吐き出しに還ってくる。
音無響がその事実を骨身に染みて理解したのは、彼の人生が、そして声が、永遠に水底へと沈んだ夜のことだった。
響がパーソナリティーを務める深夜ラジオ番組『ミッドナイト・ヴォヤージュ』は、崖っぷちだった。
かつては全国ネットのゴールデンタイムで軽妙なトークを武器にする彼だったが、女性タレントとの下世話なスキャンダルによって表舞台から蹴落とされた。今は、東京から遠く離れた海沿いの地方局で、週に一度、真夜中の空虚な時間帯を埋めている。
これが最後のチャンスだ、とマネージャーから宣告されていた。聴取率が上がらなければ、次の春には契約は更新されない。
今夜は、その最後のチャンスをさらに絶望的なものにするかのように、記録的な豪雨に見舞われていた。ラジオ局の古びた建物は、叩きつける雨と、すぐそばの海から押し寄せる高波の轟音に揺れている。高潮警報がけたたましく鳴り響き、リスナーの多くはラジオどころではないだろう。
「……以上、気象情報でした。沿岸部の皆さんは、厳重に警戒してください。さて、今夜も船出の時間です。『ミッドナイト・ヴォヤージュ』、パーソナリティーの音無響です」
響は、ガラスの向こう側にいるディレクターの安西に目配せし、マイクに向かって作り物の笑顔を貼り付けた。安西は四十代の、事なかれ主義を体現したような男だ。どうせこの番組も終わりだろうと、諦観の表情で欠伸を噛み殺している。
響はリスナーから届いたメールの束に手を伸ばした。プリントアウトされたそれらは、ほとんどが常連からの当たり障りのないメッセージだ。その中で一枚、奇妙な質感のプリント用紙が目に留まった。湿気を吸って、少しだけふやけている。インクがにじみ、文字が少し少し不気味な印象を与えてくる。
「響さん、こんばんは。ハンドルネームは、サイレント・アクアです」
名前を読むと同時に、彼の心が不意にざわめいた。
響は内心の動揺を声色に出さぬように気をつけながら、慎重に読み上げる。
「今夜はひどい嵐ですね。十年前の今夜も、こんな嵐でした。響さん、覚えていますか? 水はすべてを記憶し、決して忘れません。今夜、あなたのスタジオに、懐かしいゲストが訪れるでしょう。十年ぶりに、彼女の声が聞けるはずです」
背筋に、氷の針を突き立てられたような悪寒が走った。
サイレント・アクア。
沈黙の水。
そして、十年前の嵐の夜。
響の脳裏に、忘れたくても忘れられない記憶が蘇る。
十年前、彼はこのラジオ局でADとして働いていた。そしてその夜、この局のスターであり、誰もがその声に魅了されたパーソナリティー・水城玲奈が失踪したのだ。
彼女は担当していた番組の生放送中に、忽然と姿を消す。後日、玲奈は局のすぐ近くの海で、変わり果てた姿で発見された。警察は、嵐の中、気分転換に外へ出て高波にさらわれた事故として処理をした。
だが、局内では様々な噂が囁かれた。彼女は誰かに殺されたのだ、と。そして、彼女の霊は、今も自分が使っていたこの「第7スタジオ」を彷徨っているのだ、と。
「……面白いメール、ありがとうございます。サイレント・アクアさん。懐かしいゲスト、ですか。楽しみですね」
響は引きつる頬でジョークめかして応じ、次の曲を流した。
安西がブースの方へとやってきて、訝しげな顔で響を見る。
「なんだ、今のメール。気味悪いな」
「悪趣味な悪戯ですよ」
響はヘッドフォンを外し、安西に聞こえるように言った。だが、自分の声が震えているのが分かる。安西にも、ひょっとすると気付かれたかもしれない。
懐かしいゲスト?
楽しみになど、できるはずがない。
響には、誰にも言えない秘密があった。AD時代、彼は水城玲奈の才能と人気に、どす黒い嫉妬を募らせていた。彼女を引きずり下ろすため、偽のスキャンダルをでっち上げ、週刊誌に売ろうと画策したことさえある。
その醜い計画は、失踪直前の彼女本人に気付かれていた。あの嵐の夜、生放送が始まる直前、この第7スタジオで、彼女に激しく詰問されたのだ。
『最低ね、響くん。そんなことまでをして、私の椅子が欲しいの?』
あの時の、軽蔑しきった玲奈の瞳が、今も脳裏に焼き付いている。
顔をしかめているうちに、音楽が終わった。再びON AIRのランプが灯る。響は深呼吸し、再びプロの仮面を被った。
だが、スタジオの空気にまとわりつく湿気が、やけに重く感じられた。まるで、大量の水を含んだスポンジのように。
-つづく-
音無響がその事実を骨身に染みて理解したのは、彼の人生が、そして声が、永遠に水底へと沈んだ夜のことだった。
響がパーソナリティーを務める深夜ラジオ番組『ミッドナイト・ヴォヤージュ』は、崖っぷちだった。
かつては全国ネットのゴールデンタイムで軽妙なトークを武器にする彼だったが、女性タレントとの下世話なスキャンダルによって表舞台から蹴落とされた。今は、東京から遠く離れた海沿いの地方局で、週に一度、真夜中の空虚な時間帯を埋めている。
これが最後のチャンスだ、とマネージャーから宣告されていた。聴取率が上がらなければ、次の春には契約は更新されない。
今夜は、その最後のチャンスをさらに絶望的なものにするかのように、記録的な豪雨に見舞われていた。ラジオ局の古びた建物は、叩きつける雨と、すぐそばの海から押し寄せる高波の轟音に揺れている。高潮警報がけたたましく鳴り響き、リスナーの多くはラジオどころではないだろう。
「……以上、気象情報でした。沿岸部の皆さんは、厳重に警戒してください。さて、今夜も船出の時間です。『ミッドナイト・ヴォヤージュ』、パーソナリティーの音無響です」
響は、ガラスの向こう側にいるディレクターの安西に目配せし、マイクに向かって作り物の笑顔を貼り付けた。安西は四十代の、事なかれ主義を体現したような男だ。どうせこの番組も終わりだろうと、諦観の表情で欠伸を噛み殺している。
響はリスナーから届いたメールの束に手を伸ばした。プリントアウトされたそれらは、ほとんどが常連からの当たり障りのないメッセージだ。その中で一枚、奇妙な質感のプリント用紙が目に留まった。湿気を吸って、少しだけふやけている。インクがにじみ、文字が少し少し不気味な印象を与えてくる。
「響さん、こんばんは。ハンドルネームは、サイレント・アクアです」
名前を読むと同時に、彼の心が不意にざわめいた。
響は内心の動揺を声色に出さぬように気をつけながら、慎重に読み上げる。
「今夜はひどい嵐ですね。十年前の今夜も、こんな嵐でした。響さん、覚えていますか? 水はすべてを記憶し、決して忘れません。今夜、あなたのスタジオに、懐かしいゲストが訪れるでしょう。十年ぶりに、彼女の声が聞けるはずです」
背筋に、氷の針を突き立てられたような悪寒が走った。
サイレント・アクア。
沈黙の水。
そして、十年前の嵐の夜。
響の脳裏に、忘れたくても忘れられない記憶が蘇る。
十年前、彼はこのラジオ局でADとして働いていた。そしてその夜、この局のスターであり、誰もがその声に魅了されたパーソナリティー・水城玲奈が失踪したのだ。
彼女は担当していた番組の生放送中に、忽然と姿を消す。後日、玲奈は局のすぐ近くの海で、変わり果てた姿で発見された。警察は、嵐の中、気分転換に外へ出て高波にさらわれた事故として処理をした。
だが、局内では様々な噂が囁かれた。彼女は誰かに殺されたのだ、と。そして、彼女の霊は、今も自分が使っていたこの「第7スタジオ」を彷徨っているのだ、と。
「……面白いメール、ありがとうございます。サイレント・アクアさん。懐かしいゲスト、ですか。楽しみですね」
響は引きつる頬でジョークめかして応じ、次の曲を流した。
安西がブースの方へとやってきて、訝しげな顔で響を見る。
「なんだ、今のメール。気味悪いな」
「悪趣味な悪戯ですよ」
響はヘッドフォンを外し、安西に聞こえるように言った。だが、自分の声が震えているのが分かる。安西にも、ひょっとすると気付かれたかもしれない。
懐かしいゲスト?
楽しみになど、できるはずがない。
響には、誰にも言えない秘密があった。AD時代、彼は水城玲奈の才能と人気に、どす黒い嫉妬を募らせていた。彼女を引きずり下ろすため、偽のスキャンダルをでっち上げ、週刊誌に売ろうと画策したことさえある。
その醜い計画は、失踪直前の彼女本人に気付かれていた。あの嵐の夜、生放送が始まる直前、この第7スタジオで、彼女に激しく詰問されたのだ。
『最低ね、響くん。そんなことまでをして、私の椅子が欲しいの?』
あの時の、軽蔑しきった玲奈の瞳が、今も脳裏に焼き付いている。
顔をしかめているうちに、音楽が終わった。再びON AIRのランプが灯る。響は深呼吸し、再びプロの仮面を被った。
だが、スタジオの空気にまとわりつく湿気が、やけに重く感じられた。まるで、大量の水を含んだスポンジのように。
-つづく-
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