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四、
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バツン、と大きな音がして、ラジオブースの非常灯が最後の光を失った。
完全な暗闇だ。
残されたのは、耳を塞ぎたくなるほどの風雨の音。そしてスタジオを満たす水の、ごぽごぽという不気味な音だけだった。
「いやだ……。いやだあああ!」
安西の絶叫が、暗闇の中で空しく響く。
響は、もう声も出せなかった。腰まで浸かった水が、まるで生き物のように彼の身体に絡みついてくる。まるで玲奈の冷たい指が、足首を、ふくらはぎを、腰を掴み、ゆっくりと水中に引きずり込もうとしているかのように。抗うことなど、到底できそうになかった。
『さあ、新しい番組を始めましょう』
玲奈の声が、水で満たされた耳のすぐ側で、楽しそうに囁いた。
『タイトルは……「アクアティック・サイレンス」』
冷たい水が、口から、鼻から、容赦なく響の体内に流れ込んでくる。
息ができない。
肺が灼けるように痛い。
もがく手足の感覚が、急速に失われていく。
『パーソナリティーは、私たちふたりよ。永遠に、この水の底で』
それが、音無響がこの世で聞いた、最後の言葉だった。
彼の意識は、無限に広がる冷たい水の暗闇へと、静かに溶けていった。
隣で響の最後の喘ぎを聞きながら、安西は恐怖の許容量を超え、ぷつりと糸が切れるように意識を手放した。
―・―・―・―・―・―・―・―
翌朝、嵐は嘘のように過ぎ去っていた。
通報を受けて駆けつけた救助隊が、第7スタジオのドアを特殊な機材でこじ開ける。その中を見た時、救助隊の面々は首を傾げた。
スタジオの中は、完全に乾いていた。あれほどの豪雨だったにもかかわらず、雨漏りの染みひとつない。機材も整然と並び、何事もなかったかのようだ。
ただひとり、スタジオの隅でディレクターの安西が倒れているのを除いては。
音無響の姿は、どこにもなかった。
「水が……スタジオが水で満たされて……! 音無が、女の霊に水の中へ引きずり込まれたんだ!」
病院のベッドで意識を取り戻した安西は、錯乱しながらそう叫んだ。
彼は、昨夜起きたことをありのままに話した。密室、満ちてくる水、十年前に死んだはずの水城玲奈の声と姿。
だが、彼の話を真剣に聞く者はいなかった。
スタジオには浸水の痕跡など微塵もなく、彼の証言は荒唐無稽としか思えなかった。警察は、響が何らかの理由で自ら失踪したと判断し、安西の証言は、極度のストレスと閉所恐怖症が生み出した幻覚として片付けられた。
後に、安西はラジオ局を辞めた。
彼は正気だった。あの夜の出来事は、すべて現実だった。しかし、それを証明する術はなく、周囲からは奇異の目で見られるだけだった。
安西は次第に口を閉ざし、家に引きこもるようになった。ただ、蛇口から流れる水の音や、風呂に湯を張る音を聞くだけで、パニック発作を起こすようになった。身の回りの水の音に怯える日々を送っている。あの夜の恐怖が、彼の魂に永遠に染み付いてしまったのだ。
音無響は、行方不明のままだった。
数週間後、ラジオ局の局員が機材の整理のために第7スタジオに入った。
ふと、局員は異変に気付く。
放送卓の隅にある、小さなマイク。そのON AIRを示すランプだけが、なぜかぼんやりと、血のように赤く灯っていた。電源はすべて落とされているはずなのに。
不審に思い、局員は近くにあったヘッドフォンを手に取り、そのマイクの回線に繋いでみた。
ザーッ……
聞こえてきたのは、ただのノイズだった。
だが耳を澄ますと、そのノイズの向こう側から、奇妙な音が聞こえてくる。
ごぽ……ごぽごぽ……
それは、水が泡立つ音だった。
まるで、誰かが水中で呼吸しているかのような。
そして、さらに耳を澄ましてみると、その水音に混じって、くぐもった声が聞こえることに気付いた。楽しそうに、そしてどこか苦しそうに、囁き合う男女の声。
『……次の、お便りは……』
『……ああ、これ、面白いね……』
局員は顔を蒼白にしてヘッドフォンを投げ捨てた。
以来、その地方では奇妙な都市伝説が囁かれるようになった。深夜、ラジオの周波数をAMとFMの狭間に合わせると、不意に混信してくる番組があるのだという。
それは、水の中で話しているかのような男女ふたりの声が、途切れることなく語り続ける番組。
その番組に、終わりはない。
かつて水に奪われた者と、水に罪を贖う者。
永遠に、溺れた周波数の中で、ふたりは語り続けるのだ。
-了-
完全な暗闇だ。
残されたのは、耳を塞ぎたくなるほどの風雨の音。そしてスタジオを満たす水の、ごぽごぽという不気味な音だけだった。
「いやだ……。いやだあああ!」
安西の絶叫が、暗闇の中で空しく響く。
響は、もう声も出せなかった。腰まで浸かった水が、まるで生き物のように彼の身体に絡みついてくる。まるで玲奈の冷たい指が、足首を、ふくらはぎを、腰を掴み、ゆっくりと水中に引きずり込もうとしているかのように。抗うことなど、到底できそうになかった。
『さあ、新しい番組を始めましょう』
玲奈の声が、水で満たされた耳のすぐ側で、楽しそうに囁いた。
『タイトルは……「アクアティック・サイレンス」』
冷たい水が、口から、鼻から、容赦なく響の体内に流れ込んでくる。
息ができない。
肺が灼けるように痛い。
もがく手足の感覚が、急速に失われていく。
『パーソナリティーは、私たちふたりよ。永遠に、この水の底で』
それが、音無響がこの世で聞いた、最後の言葉だった。
彼の意識は、無限に広がる冷たい水の暗闇へと、静かに溶けていった。
隣で響の最後の喘ぎを聞きながら、安西は恐怖の許容量を超え、ぷつりと糸が切れるように意識を手放した。
―・―・―・―・―・―・―・―
翌朝、嵐は嘘のように過ぎ去っていた。
通報を受けて駆けつけた救助隊が、第7スタジオのドアを特殊な機材でこじ開ける。その中を見た時、救助隊の面々は首を傾げた。
スタジオの中は、完全に乾いていた。あれほどの豪雨だったにもかかわらず、雨漏りの染みひとつない。機材も整然と並び、何事もなかったかのようだ。
ただひとり、スタジオの隅でディレクターの安西が倒れているのを除いては。
音無響の姿は、どこにもなかった。
「水が……スタジオが水で満たされて……! 音無が、女の霊に水の中へ引きずり込まれたんだ!」
病院のベッドで意識を取り戻した安西は、錯乱しながらそう叫んだ。
彼は、昨夜起きたことをありのままに話した。密室、満ちてくる水、十年前に死んだはずの水城玲奈の声と姿。
だが、彼の話を真剣に聞く者はいなかった。
スタジオには浸水の痕跡など微塵もなく、彼の証言は荒唐無稽としか思えなかった。警察は、響が何らかの理由で自ら失踪したと判断し、安西の証言は、極度のストレスと閉所恐怖症が生み出した幻覚として片付けられた。
後に、安西はラジオ局を辞めた。
彼は正気だった。あの夜の出来事は、すべて現実だった。しかし、それを証明する術はなく、周囲からは奇異の目で見られるだけだった。
安西は次第に口を閉ざし、家に引きこもるようになった。ただ、蛇口から流れる水の音や、風呂に湯を張る音を聞くだけで、パニック発作を起こすようになった。身の回りの水の音に怯える日々を送っている。あの夜の恐怖が、彼の魂に永遠に染み付いてしまったのだ。
音無響は、行方不明のままだった。
数週間後、ラジオ局の局員が機材の整理のために第7スタジオに入った。
ふと、局員は異変に気付く。
放送卓の隅にある、小さなマイク。そのON AIRを示すランプだけが、なぜかぼんやりと、血のように赤く灯っていた。電源はすべて落とされているはずなのに。
不審に思い、局員は近くにあったヘッドフォンを手に取り、そのマイクの回線に繋いでみた。
ザーッ……
聞こえてきたのは、ただのノイズだった。
だが耳を澄ますと、そのノイズの向こう側から、奇妙な音が聞こえてくる。
ごぽ……ごぽごぽ……
それは、水が泡立つ音だった。
まるで、誰かが水中で呼吸しているかのような。
そして、さらに耳を澄ましてみると、その水音に混じって、くぐもった声が聞こえることに気付いた。楽しそうに、そしてどこか苦しそうに、囁き合う男女の声。
『……次の、お便りは……』
『……ああ、これ、面白いね……』
局員は顔を蒼白にしてヘッドフォンを投げ捨てた。
以来、その地方では奇妙な都市伝説が囁かれるようになった。深夜、ラジオの周波数をAMとFMの狭間に合わせると、不意に混信してくる番組があるのだという。
それは、水の中で話しているかのような男女ふたりの声が、途切れることなく語り続ける番組。
その番組に、終わりはない。
かつて水に奪われた者と、水に罪を贖う者。
永遠に、溺れた周波数の中で、ふたりは語り続けるのだ。
-了-
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