悪役令嬢は殿下の素顔がお好き

香澄京耶

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悪役令嬢は殿下の素顔がお好き

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 天井から見下ろすような視界に、違和感を覚える。
 
 学院の大広間。
 催しの日には笑い声で満ちるその場所も、夢のなかでは静まり返っていた。
 柱も壁も、細部まで意匠を凝らした華やかな空間――けれど、どこか現実味を欠いて見えた。
 
「そなたとの婚約は解消する。」
 
 ざわめきの中心で、ギルバート殿下が声をあげる。
 王族らしくよく通ったその声は、周りを注目させるに十分だった。
 
 対峙しているのは――自分。アメリア=フォースナーだ。
 それはそうだ。現時点で殿下の婚約者などアメリア一人しかいない。
 だからこそ、殿下の傍に侍るノルマン子爵令嬢が異様に映る。

 冷たさを感じさせる殿下の雰囲気に、自分は何を思ったのだろうか。

「……仰せのとおりに。ギルバート殿下。仔細については父上とやり取りくださいませ。」
 
 なんの感情も思わせない瞳をすっと伏せて、淑女の礼をして会場を去っていく。

 残されたのは、生徒達のざわめきと、アメリアの後ろ姿をじっと見つめる殿下。その腕にそっと手をのせるノルマン子爵令嬢だった。

 
 意識が浮上する。
 
 ――なんという夢かしら。
 
 あまりに視界が鮮明で、胸の奥がじくじくと疼く。
 いやに生々しく感じた夢に、喉がはりついた。それは水差しの水をもってしても、癒えなかった。
 
 あれは、恐らく三ヶ月後に行われる予定のプロムナードだ。
 卒業という大きな節目で、あのような事が行われるなどあってはならない。
 婚約破棄については、まず両家の話し合いが必要で、そのあと書面でもって正式に行われるべきことだ。
 
 それを、あのような見世物にしてしまえば。
 両家に確執が生まれ、貴族社会に波紋が広がる。穏やかではない事態になるのは確かだった。

 そもそも、学生のためのプロムナードで婚約破棄など論外だ。
 いかに殿下といえど、卒業という節目を前に、生徒たちの楽しい時間を己の感情で踏みにじるのは――いささか横暴すぎる。
 
 ――なにより。
 大勢の前で辱められるなど、アメリアのプライドが許さない。

 ただの夢だと言い聞かせても、胸のざわめきは治まらない。
 それは、アメリアの現状が決して良いとは言えないことも原因だった。
 
 ギルバートが“無類の女好き”と噂されるほど、素行に問題があったからだ。
 それは、ノルマン子爵令嬢が淑女の自負もなくギルバートに近付いてから、いっそう顕著になった。

 それを考えれば、絶対にあり得ない未来とも言い切れなかった。
 もとよりギルバートは、どこまでも淑女然とした態度を崩さない自分に不満があるようだった。
 頬を染めることもなければ、ノルマン子爵令嬢のように、しなだれかかって愛を乞うこともない。可愛らしさのかけらもないのが嫌なのだろう。

「潮時ですわね……」

 何度諌めても治らないものは治らない。
 ギルバートの本質に介入できるほど、今の彼に思い入れはなかった。
 元々、口さがない噂にもうんざりしていたのだ。
 
 いつの間にか、殿下の素行は冷淡なアメリア嬢のせい――そんな噂が定着してしまっていた。
 それはもう恐ろしい顔で睨まれた、と泣き言をいう令嬢もいたそうだが。
 “淑女の礼儀”を向けただけなのに、何を怯えたのかしら、と内心で首を傾げるほかない。

 ともあれ、現状を打破する手段は決まっていた。

 決意してしまえば行動は早い。
 婚約者の特権で、翌日にはギルバートとの茶会が整っていた。


 人払いを済ませたテラスに沈黙が落ちる。
 日に照らされた草木や花々が風にそよいでいる空間は、王城の中で一番のお気に入りだ。
 ギルバートもそれを知っていて、いつも二人の茶会はここで行われた。
 婚約破棄となれば、もうここにくる事はないだろう。

 今までの様々な思い出が脳裏に――は、過ぎらなかった。

 前回は各国の情勢の話をしていた。甘さのかけらもない。恐らく、ギルバートの不満はそういったところだろう。
 それでも、王の子息として会話をする彼は、常に理性的で――次代の王として申し分のない姿を見せる。
 女性問題以外が優秀な男であるのは、アメリアも認めていた。

「君から誘いがあるなんて珍しいな。こんなに急では、私も、いささか忙しいのだが。」
 少し弾んだ声は、嫌味を添えたつもりでもそう聞こえなかった。
 
「お忙しいところに申し訳ございません。――ですが、わたくしにとって、早急な用件でしたので。」
 ぴくりとギルバートの眉があがる。
 
「……用件?」
 無駄な会話は不要だと判断して、本題に入る。

「わたくしとの婚約を解消してくださいまし、殿下。」
 
 ギルバートの目が見開かれたのを愉快に思う。
 彼の僅かに震えた指が、ゆっくりとカップを置くのを見つめた。

「殿下。わたくしは、再三、女性関係を諌めてまいりましたが、お聞き届けいただけないようでございますね。……もう、これ以上お付き合いできませんわ。」

「何もしていない!口説いてすらいない!何も!」
 立ち上がって叫んだギルバートに、知っている、と思いながら扇を開いて口元を隠す。
 
「そういった事が問題ではないのです。
 手を出しておらずとも、そう思わせている今の殿下の状況が良くはないのはお分かりでしょう。
 ――このままでは、王家も、わたくしもいい笑い物です。自制できないのであれば、婚約を解消した後に、どうぞ心ゆくまでお遊びなさいませ。」

 きっぱりと告げると、ギルバートはじっとこちらを見つめ、数拍して、力を落としたように椅子へ体をあずけた。
 頬を撫でる爽やかな風が気持ちよい、と思っているのは、もしかすると自分だけかもしれない。
 
「どうしてだ、なぜ、いつもそなたは……」

「どうしても何も、この状況を作ったのは、殿下ご自身でございますよ。」

 途端に放心したような表情を見せるギルバートを見やる。

「女性達との交流は楽しゅうございましたか。将来的なお立場として、色を好むのは悪い事ではありませんが。今のご状況で不特定多数、というのは悪手でございましたね。」

 口元を覆った扇はうまく口元の笑みを誤魔化してくれるだろう。
 将来王妃になるべく教育された身として、目元に感情をのせないのは得意だった。

「私は、誰にも懸想など、していない。」
 言い訳じみた声に、それも知っている、と内心で笑う。
 
「まあ。では、ただあの方達のお心を弄ばれたと?」
 わざとらしく言えば、ギルバートの眉が寄って、口を何度か動かした。うまく言葉にならないようだった。

「アメリア、そうではない、」

 ――そう。そうではないのだろう。

 なぜなら、アメリアは知っていた。
 ギルバートの子供じみた言動が、焼きもちを焼いてほしいという、それだけの意図であることを。

 感情の機微は理解できる。
 だが――それを理由に判断を誤るほど、幼くはなかった。
 
「ギルバート様。“潮時”でございますよ。ご理解くださいませ。」

 正直なところ、自分が王妃になろうがなるまいが、どちらでもよかった。
 王妃になりたいわけではない。ただ、踏み台にされるのは納得がいかない。
 今まで費やした王妃教育の密度が、あんな事で不意になるなど、時間をかけただけ自尊心が許さない。
 この男の甘えたな部分が、自分の人生の澱になるのであれば、排除するだけだった。

 しばらくの沈黙のあと、ギルバートがこちらを睨むように見遣ってきた。
 
 おや、と思う。
 意見など聞く気もない、といったこちらの姿勢に、反骨心でも沸いたのだろうか。

「――いいだろう。王に話して、書状を用意させる。」
 
 いうやいなや、立ち上がってずんずんと扉に向かって、最後にこちらを睨みつけてくる。

「取り消しは効かぬからな。」
 地を這ったような声に、にこりと笑みを返した。
 
「……どうぞ、ご随意に。」

 ――この庭園を見ることがなくなるかもしれないのが、唯一の心残りね。

 一際大きな音で閉じられた扉に、呑気に思う。

 誰もいなくなった空間は、静けさで満ちていて心地いい。
 目を楽しませる庭園と、穏やかな風に、冷めた紅茶も美味しく感じた。
 

 ***
 
 
 渋い顔をした父、ダグラスが書状を渡してくる。
 
「あら、お父様。そのようなお顔をなさってどうなさいましたの。」
 そう問えば、ダグラスはため息をついて書状を差し示した。

「落ち着いて、それを読みなさい。」
 内容は分かっていたが、ざっと目を通して、もったいぶって声をあげる。
 
「……婚約が解消されますのね。」
さめざめとした体を装えば、重々しくダグラスが頷いた。

「解消自体は、問題ない。元よりあちらから持ちかけてきたことだ。最近の殿下の動向も噂になっている。こちらとしても、これ以上ない、いい頃合いだろう。」
 
「至らず申し訳ございません。お諌めはしたのですけれど……」
 目を伏せれば、ダグラスは手を払うように、「いい」とだけ言った。
 
 こちらを気遣うような目線を感じて、すこし微笑む。
 公爵家として、“それなりの事”に手を染めているのは知っている。だが、父としてのその気持ちが嬉しいのは本心だった。
 
「だが、婚約を破棄されてしまえば、その後のお前がどうなるかと思ってな……」
 
 悩むような仕草に、アメリアは「まあ」と声をあげた。
 確かに、王族に婚約を破棄されたとなれば、なかなか次の縁談も見つからないだろう。
 傷物と見なされ、未来を嘆く令嬢も少なくない。だからこそ、彼女たちは必死に関係を繋ごうとするのだ。

 ――アメリアは、そのどれにも属さないだけだった。
 
 だが、賢妃である現女王を見てもなお、すべての女性がそう脆いものだと思うのなら――それこそ浅慮というものだ。
 “女はかくあるべき”と決めつける、男の都合のよい幻想が透けて見えた。
 
 「お父様。わたくしは一人でも生きていけますわ。フォースナー家を煩わせることもいたしません。」

 微笑んでみてもダグラスの顔は晴れない。
 本当に大丈夫なのに、と思う。

 アメリアには、誰にも知られていない別の顔がある。
 
 ――コレット商会。
 新興ながら、他国との貿易を強みとしている商会だ。
 今では利益も安定しているその商会で、アメリアは事実上の会長に就いている。
 
 王妃教育で叩き込まれた知識を思えば、婚約期間も決して無駄ではなかった。
 流石に表立って動けず偽名を用意したが、まだ誰も気づいてはいないようだった。
 “政界のたぬき”と称される父の目を掻い潜っているのだ。この確信は揺るがない。
 
 ダグラスは少し息を吐いて伺うようにこちらを見る。
 
「では……受けていいのか。」
 ダグラスの視線が、後悔はしないか、とこちらに問いかけてくる。
 後悔はないが、ただ一点。
 
「そうですわね……。一週間、あちらから音沙汰がなければ、お受けいただいて結構でございます。」

 愛娘の要望に、意図が分からないといった顔をしたダグラスは、それでも了承したように頷いた。


「で、なんで一週間なんです。」
 
 話を聞きながら、帳簿の手を止めない男は非常に優秀だ。
 ふとした巡り合わせで、強面ながら頭のいい彼を拾えたのは、商会にとって僥倖だった事のひとつと言える。
 
「お嬢は、さっさとこの商会に収まってくれるものと期待していましたがね。」
 ようやく顔を上げた男――ヴァンは疲れたようにこめかみを揉んだ。
 
「疲れているみたいね、ヴァン。あなたのサポート人員を増やすことにするわ。」
 ヴァンは「そうして下さい」と短く言って、続きを促すようにこちらをみた。

「ここは確かにわたくしの逃げ場よ。だけど、それはどうにもできない事が起きた場合なの。
 追放や処刑、取り潰し――歴史を見れば、貴族も王族も、確かな足元なんて存在しないもの。」

 紅茶を一口含んで、喉をそっと湿らせた。
 最近仕入れたこの茶葉は、安価なわりに質がいい。いい売れ筋になるだろう。

「それにね――わたくし、殿下のことは、好きでも嫌いでもないけれど――あの“かお”は好きなの。」
 
「顔ですか。」
 ヴァンが首を傾げる。
 
「意外ですよ。お嬢が、小娘みたいなことを言うなんて。」
「そう。ちょっと違うかもしれないわね。」
 
 思い出すのは、初めて会った時のこと。
 薔薇の棘で指を傷つけた幼いギルバートが、溢れる血に思わず涙をこぼしたあの日。
 それでも、こちらを心配させまいと――涙をたたえたまま、まっすぐ前を向いた瞬間。
 確かに、胸のどこかが静かに動いたのだ。

「商品も、人も。刺さるものは、人それぞれね。」

 なんとも言えない表情を浮かべたヴァンは、諦観めいた息をついて、書類へ視線を戻した。
 
 
 ***

 
 ちょうど、一週間。
 慌てながらギルバートの来訪を告げる侍女に口の端をあげる。
 流石に今日、何の連絡もなければ、そのまま婚約解消して別の人生を歩もうと思っていたが――どうやら、そうはならないらしい。

 人払いをした客間で向き合ったギルバートは憔悴した様子だった。
 
「……殿下、この茶葉は疲れを癒す効能がございますわ。ぜひお召しになってくださいませ。」
 扇で口元を隠したままに言えば、ギルバートは素直に口をつける。
 
「……美味いな。」
 ぽつりという言葉に覇気はない。
 落ちた沈黙がいつまでも続きそうで、アメリアは口を開いた。
 
「本日の御用向きは、婚約破棄のことでございましょうか。そうでしたら、明日にでも父から書面が届くかと――」
 
「まだ、出してはいないのだな?!」
 
 ばっと顔を上げたギルバートの顔が、妙におかしい。
 
「ええ、ご返答にお時間いただいて申し訳ございません。なにしろ、我が家としても容易いことではございませんので……」
 
 素知らぬふりをして返答すれば、ギルバートはほっとしたようにソファにもたれた。
 次期国王として厳しく躾けられた彼の所作とは思えない。笑みが募る。

「婚約を、解消したくない……」

 聞き逃してしまうほど小さい声でギルバートが言った。
 
「そなたを、離したくない。そなたほど、傍にいて欲しい者はいない。」

 温度をもった瞳がこちらに向けられる。

「私は、そなたを――」

 言葉が途切れて、ギルバートの瞳から涙が溢れた。
 
 思わず立ち上がり、コルセットに胸がつかえるのも忘れて身を乗り出した。
 
 テーブルに片手をついてギルバートの顔を見つめる。
 淑女として、あり得ない行動であることは自覚している。
 
 閉じた扇の先で、ギルバートの顎をそっと持ち上げた。
 女性としてはしたなく、臣下としても不敬極まりない仕草――それでも、ためらう理由はどこにもなかった。

 もう、隠すべき表情などない。
 
「ああ、かわいい殿下。」
 
 流れる涙が頬を伝うのを見て、慈愛のような思いが溢れる。
 戸惑いと弱さをさらけ出したその瞳を見て、わずかに背筋にぞくりとしたものを覚えた。

「わたくしはね、ギルバート様。あなたの事が好きでも、嫌いでもありません。」
 
 途端、傷ついたような顔をしたギルバートが可哀想で、愛らしい。
 涙を指先で拭ってしまいたいが、触れてしまえば、こちらの均衡が崩れてしまう。

 今、ギルバートの瞳には、自分はどういった様子に見えているのだろうか。
 少なくとも、今までの淑女然とした無表情ではないだろう。

「でも……強がるあなたの素直な表情は、とても好きなのですよ。」

 恐らく、感じるこの愉悦は、誰にも理解されない。
 
 
「それでもいいのなら――わたくしのものに、おなりなさい。」

 
 扇の先でゆっくりと頬をなでる。
 
 もし、ギルバートが拒否をするようなら――それも良かった。
 人間など、それぞれの道をいけばいい。
 彼が自分を選ぶのであれば、傍に居ればいいだけだった。

「だって、あなたが……」
 
 けれども。
 自分の中の確かな欲を感じれば、ひどく優しく付け加えた。
 
 正直、アメリアにしてみれば取ってつけたような言葉だった。
 それに若干の罪悪感は覚えても、彼が否と言わないなら、それでいいに違いない。
 
「あなたが、“弱さを隠さずにいられる居場所”は、この世にそう多くありませんから。――そうでしょう、殿下。」

 うっとりと微笑めば、熱のこもった視線がこちらを向いた。

 
 ***

 
 片膝をついたギルバートが真剣なまなざしでこちらを見つめる。

「アメリア=フォースナー。どうか、私と結婚してほしい。未来の王妃として――公私共に、私を支えてくれ。」

 ざわりと周囲の声が波立つ。
 せっかくの生徒のプロムナードを邪魔するべきではない、とあらかじめ言っておくべきだっただろうか。
 それでも、多くの人が見る中で明確に表したい、という彼の意図は微笑ましいともいえた。

 目の端に、ノルマン子爵令嬢の睨むような視線を感じて、あら、と思う。
 ギルバートの前ではふわふわとした少女を装っていたが、どうやら腹黒いタイプだったらしい。
 
 もしかすると王妃にもなれたかもしれない。
 だが、周囲が見えていない以上、それは少し荷が重いようにも思った。
 即妃としてなら――殿下の子を産み、役目を果たすだけでいいのだから、欲深い彼女の性質はむしろ適任ともいえる。
 こういったタイプも、殿下の安息の一つにはなるだろう。

「……アメリア、どうか受けてくれないか。」

 再度乞われて、思考を止める。
 どこか不安そうに眉を寄せる姿が可愛らしい。
 婚約を解消しないのであれば、第一王妃以外は認めないと言った事が効いているのだろうか。
 こんなに早く事を起こすとは思わなかった。

「ええ、ギルバート殿下。……謹んで、お受けいたします。」

 にこりと微笑めば、周囲で歓声があがった。
 雪の結晶のような宝石ののった指輪を指に通されてそのまま口付けられる。

 これを見て、ギルバートの醜聞もいくらか落ち着くだろう。

 ギルバートの耳元に、口元を寄せる。
 戸惑う顔に楽しさを覚えて、小さな声で添えた。

「あなたが、わたくしの前で素直でいてくださるのなら――いつまでも。」

 きっと、その声は彼にだけに届いた。
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