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1.元禄3年
⓷ 裏腹
しおりを挟む仁介が保明の笛指南としてこの屋敷に訪れるようになってから、このような距離に縮むまでに然程時間はかからなかった。いや、初日にはもう、手を取り合う仲にはなっていた。
「操は、差し上げませぬ」
「どうあってもか」
仁介はまだ、その肌芯を保明には触れさせていなかった。政治面を中々崩そうとしない保明の、空虚で四角四面の愛撫が欲しいわけではなかった。
「柳沢様が、真実私一人のものとなって下さるまでは」
「業が深いのう、仁介は」
「ええ。その深さ故に、いつしか10代を終えてしまいました。あなた様のお好きな果実のような体は、もう私にはありませぬ」
「いや、おまえはまだ穢れておらぬ。神々しいままじゃ」
「柳沢様……」
保明の手が、仁介の袂から胸元へと滑り込んだ。愛しい手に違いは無いが、仁介の劣情を煽るに至らぬ不毛の手であった。そしてその手はまた、多くの藩を取り潰しては名も無き藩士達を塗炭の苦しみに追いやった血染めの手でもある。その手に、今、仁介の兄弟達が禄を食んでいる水目藩の命運が握られようとしていた。
「貴方様が、ただ一介の殿方であれば……」
「3万2千石の側用人では不足か」
「地位など、色気の足しにもなりませぬな」
やんわりと告げた仁介の言葉に、それまで胸元を這っていた保明の手は呆気なく失せてしまった。いつもの事だった。仁介の拒絶に、保明が抗った事は一度も無い。かつて、強引に攫ってくれるものならば、いっそ全て奪われてしまっても良いとまで仁介を昂らせた時でさえも、憎らしい程に彼はあっさりと政治顔に戻り、束の間の体温に未練のふりすら見せぬのであった。
保明の膝の上から退いた仁介は、殊更に臣下の顔をして慇懃無礼に徹することで、保明の冷淡さに抗い、己の真情に蓋をした。
「大義」
しかし保明はそれだけ言うと、辞去の挨拶に居住まいを正した仁介の脇を通り抜け、庭の墨絵の中に行ってしまった。その奥には、数多の美女や美童が彼を慰める為に偽りの浄土を拵えて待っている別棟がある。
何も無かったように、緑の匂いだけを含む涼風が、仁介の髪を撫でたのであった。
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