愛洲の愛

滝沼昇

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3.15の出発

➃ 影伴

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 伊勢から船路という手もあるが、数日間密室となれば、敵に囲まれた際に逃げ場を失う為、鶴丸と志免は望月翁の言い付け通りに鈴鹿を越え、尾張へと差し掛かっていた。

 汗をかいたのはむしろ、部下と共に影伴をしていた燦蔵の方であった。若い二人は経験値が皆無というだけあって、体力配分を全く無視して怒濤のように鈴鹿峠を越えたのである。
 それこそかの秀吉中国大返しの如くであった。
 が、亀山の城下を過ぎ、街道筋に桑名の城下に至った頃にはもう、二人共足も上がらぬ体たらくであり、それまで必死の体で尾けていた燦蔵の方が、その鈍行ぶりに苛々し始める程であった。
 
「やっぱり鈴鹿を廻らずに、山越えで御在所山から一気に桑名へ下った方が早かったぜ」
 町中の路傍の巨岩に腰を下ろしたまま、鶴丸は一刻近く、口だけを動かしていた。筋が張って一歩も動かせぬ足を志免に擦らせ、辿って来た道筋の不味さに不服を洩らすのだから、いい身分である。
 志免は鶴丸の前に跪いて丁寧に足を擦っていたが、その物言いに腹が立ち、とうとう足を突き放すようにして立ち上がったのだった。
「私達は二人共旅をした事が無いんだ。見知らぬ山路を行って敵に囲まれても、逃れる道も知らないんだよ」
 それでなくても、ここまでの数刻、鶴丸の傲慢さに耐えに耐えて来た志免であった。
 流石に、あの時以来体を蹂躙される事は無かったが、相変わらず理性を働かせる術を知らぬ鶴丸の行状では、またいつか同じ目に遭わされるという不安感が拭えない。身を守る事と、一応鶴丸を守る事と、道を間違えぬ事に神経を張り巡らせていた志免の精神力は、早々と限界域を越えようとしていた。
「もう、うんざり……」
「ん? 何か言ったか、志免」
「おまえは何て奴なんだ。周りの人間の気持ちを思い遣る事も知らず、己の欲望を理性で留める術も知らない。それこそもう、小さな子供より始末が悪いったら! っちゃんとこの壱之助いちのすけの方がよっぽど人間らしいよっ」
 突然目を剥いて喚き始めた志免を、鶴丸は足の怠さも忘れて呆然と見上げていた。
「壱之助って、まだ7つじゃん」
「あの子より始末が悪いって言ってるんだ」
「学の無い俺を馬鹿にしてんのか」
「学が無くったって、優しさがあればいい。人の痛みが解ればいい。だけどおまえは……私を蹂躙した」
「じゅうり……人間ったってその辺の猪や狸と変わらねぇ。やりたくなったらやりゃあいい。そうやって俺らはお袋の腹から生まれてんだ。だいたいおまえは逆らいもせず、黙ってなすがままにされていたじゃねぇか」
 尚も屁理屈を捏ねようと息を吸った鶴丸の頬に、志免の拳が炸裂した。
「馬鹿野郎! 人には心があるんだ! 好きでもない奴に、いや、仲間だと思っていた奴に力ずくで奪われたら……二度とそいつを信じる事も許す事も出来なくなるんだ」
「じゃあ、おまえ」
「おまえのことなんか、大嫌いだ。江戸へ着く前に敵に殺されたって構うもんか。私はおまえの盾になんかならない。とっとと野垂れ死んでしまえばいい! 」
「おい、志免、志免! 」
 落ちこぼれとは言え、志免は暦とした上忍・望月家の縁者にて陰流相伝の愛洲一族の者である。瞬く間にその小さな背は遠ざかり、鶴丸は町中の往来にただ一人、取り残されたのだった。

 鶴丸は灰色の空を見上げた。町中は建物が多いせいか、あの竜法師郷の望月の里と比べると、酷く空が狭苦しく感じられた。狭苦しい空を見ていると、自分の心臓までもが、締め付けられるようであった。
「畜生、降ってきやがった」
 顔に雨粒が容赦なく打ち付けるように落ちて来た。追い討ちをかけるように、腹の虫が音を立てて空腹を訴えた。志免の鈍足をからかってやるつもりで飛ばして来たため、食事を摂るのを忘れていたのである。しかもその、綾乃が持たせてくれたという握り飯は、志免が持っていってしまった。
「あいつめ、後で半殺しにしてやる」
 そう叫んでみた所で、雨粒が口の中に入って咽せるだけであった。
 さんざん咳き込み、腹立ち紛れに鶴丸は痰を吐き捨てた。
 気がつけば、泥を跳ね散らす勢いで降りつける雨の中に人影はいない。鶴丸だけが取り残されている……と思いきや、鶴丸の前に、円錐形の菅笠に黒い道中合羽という異様な出で立ちの男が立っていた。
「誰だ、てめぇ」
 野犬が牙を剥くようにして凄む鶴丸に対し、男は笠の下から口元だけを鶴丸に見せてニッコリと笑った。
 その口元は雨の中にあっても艶やかにぬめり、赤く色づいて、まるで男を誘う女の唇の様であった。
 が、その唇の艶やかさを裏切るように、男は矢庭に刀を抜いた。
「ウワァッ」
 いつの間にか男が間合いを詰めていた事に気付かず、間一髪で刃先を交わした鶴丸は、腰掛けていた岩からまともに引っ繰り返った。
 男の二の太刀は、鶴丸に体を起こす事すら許さず、転げ回る鶴丸の首筋を掠めた。
「な、何者だ、お、俺はなぁ」
「水目藩跡目などと申すなよ、阿呆」
 男の澄んだ声が、雨音から浮き上がるようにして鶴丸の耳にはっきりと届いた。その声に聞き覚えがあるような気がする、と鶴丸が首を傾げて男から注意を反らした一瞬の隙を縫って、男の刀の鐺が鶴丸の鳩尾を襲った。
「ぐぐぅぅぅ」
 唸り声と共に口から泡を吹いて、鶴丸は泥の中に突っ伏したのであった。

 
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