愛洲の愛

滝沼昇

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3.15の出発

⑧御伽衆

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 桑名の目と鼻の先、尾張徳川家・名古屋城下。
 中々嫡子の定まらぬ5代綱吉公の跡目を虎視眈々と狙うこの尾張家は、常にその動向を幕府によって監視されていた。

 質素倹約を家風とするこの城下にも、元禄文化の蕾みが膨らみ始めている。
 その蕾みの一端とも言える艶やかな役者が、月代さかやき隠しに紫帽子をかんざしで留め、城下中の色彩をちりばめた様な艶やかな振り袖姿で籠から降り立った。

 料亭『千蝉ちせん』。風情ある高級料亭の体を成してはいるが、その実は、表立っては会う事の出来ない様々な恋人達の逢瀬の場であることは、町のものなら誰でも知っていた。

 役者は、案内に現れた女中の溜め息をかわし、相方の待つ部屋へと足音も無く滑るように入り、三つ指をついて口上を述べた。
「ああ太夫、待ち焦がれたよ。さぁ、さぁこちらへ。私の杯を受けておくれ」
 既に手酌で杯を重ねていた初老の商人が、両目をギラつかせるようにして役者を手招いた。役者はなよなよと体の曲線を見せつけるようにしながら商人の膝元へ進んだ。
「尾州屋さん、さぁお一つ」
「相変わらず美しいねぇ、おまえさん、本当に男なのかい」
「女形の私には、何よりのお褒め言葉」
「可愛いことを言う」
 尾州屋と呼ばれた商人は、役者の腰を抱きかかえると、その細く華奢なおとがいに指をかけるなり、唇を貪った。形良く並ぶ歯を舌先で嘗め回し、漸く思いを遂げた幸せに浸る尾州屋は、刹那、鳩尾《みぞおち》に鈍い痛みを覚えた。
「た、太夫……」
 尾州屋の腕の中から、その鳩尾に突き刺さっている匕首の持ち手を握る役者が、婉然と微笑んだ。
「き、貴様、御伽衆《おとぎしゅう》か! 」
「尾州屋総兵衛、いやさ尾張の忍、御土居下衆おどいしたしゅう頭目・村井総司むらいそうじ。貴様が生きていると仕事がやり難いんでね」
 匕首あいくちを引き抜き、役者は打って変わったふてぶてしい笑いを轟かせて立ち上がった。
「この御役者吉次おやくしゃきちじの唇を吸えて、本望だろ」
「おのれ……風魔崩れが……」
 血反吐を吐きながら畳の上を這う村井総司の手が、吉次の裾を掴んだ。と、天井の板が外れ、着流し姿の男がひらりと舞い降りた。
「天下の御土居下衆も大した事はないな」
音羽おとわ、村井の繋ぎ役は始末したか」 
 吉次の問いに、音羽と呼ばれた着流しの男が頷き、懐の匕首を抜いて血曇りの刃先を見せた。
 吉次同様の美男子ぶりだが、化粧の映える女顔の吉次に対し、この音羽の美しさに女々しさは無い。修羅場に慣れたヤクザ者のような鋭い目鼻立ちが、却って女達を狂奔させる危険な雰囲気を演出しているのだ。
「もっと焦らせてから殺るもんだぜ、吉次」
「この親父の息が臭くってよう。へっ、公儀隠密の向こうを張る御土居下衆頭目がこっちの趣味に目がないとは、とんだ笑い種だぜ」
 裾を握りしめたまま絶命している村井の拳を解き、吉次は忌々し気にその遺体を蹴り転がした。
「吉次、ふけるぜ。辰姫たつひめ紅丸べにまるが苛々するといけねぇ」
「放っておけよ。どうせ今頃二人して、イイ事してお楽しみなんだろうから」
 美貌を損ねる様な吉次の下卑た笑いに、音羽も普段は頑な口元を歪ませた。
「だからさぁ、音羽」
 血の臭いに欲情を覚えて媚態を見せる吉次の股間を、音羽はからかうように握った。
「鶴丸とかいうガキの始末が済んだらな」
 フンと機嫌を損ねた吉次の手を引き、音羽は天井へと舞い上がった。
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