愛洲の愛

滝沼昇

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7.法師の紅丸

➄ 壱蔵安堵

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「その殿に、毒を盛られましたな」

 鋭い指摘に、一瞬お蘭の呼吸が止まった。

「いや、殿のお体が快癒に向かわれている今、事を荒立てるつもりは毛頭ござらぬ」

 しかし、お蘭の方の顔は強張り、見開かれたままの両目の端を、涙が伝い落ちた。
「母に、戻られよ」
「母、に」
「然様。母としての心にのみ従われよ。御子柴殿の呪縛など、母の心の前では幻に過ぎぬ。母として、お子様方に今こそお力を」
「壱蔵……わらわに、母の資格はもう……」
 千代丸の寝顔を振り切るように、お蘭は立ち上がった。
 が、壱蔵はその行く手に膝を進めて阻み、お蘭の前に立ち上がった。
「壱蔵、そこをどきゃ」
「お蘭の方様。かようにお苦しみの若君のお姿を御覧の上で、この上尚も、御腹を痛められたお子様を御苦しめになるおつもりか」
「な、何と、慮外りょがいな」
「小夜姫様の婿にと御子柴様が御決めになられた旗本の若者が、どんな者か御存知か」
「寄合席千五百石、ま、松平嘉門と聞いておる。東照大権現とうしょうだいごんげん様ゆかりの大給おぎゅう松平家の流れを汲む名門とあらば、当家の婿に不足はあるまい」
「その者は、剣も学問も何一つ満足に修める事ならず、名門の血をかさに悪所へ通い、十代の頃には名も無き辻の夜鷹よたかを無礼討ちにするなど、命の尊きも知らぬ恥知らず。あの、御心御優しい姫の御相手に相応しいと、母として、本気でお思いか」
「し、しかし、御子柴がそう言うなら」
「母として、どう思われるのか」
「母として……」
「若君を不憫と思し召しであらば、せめててつは踏まぬ事。壱蔵、この通り、平に御願い致しまする」

 壱蔵は、お蘭の前に両手を付いて平伏した。

「壱蔵、おまえ、そこまで子らの事を」
「某も、国に帰れば一介の父に過ぎませぬ」
「そうか。そなたにも、子があるのか……そなたならば、わらわの素性は存じておるのであろう。慣れぬ手で男の袖を引いた年端も行かぬ少女が、こうして御方様と呼ばれ、家臣に傳かれる身となったこの巡り合わせ。ここまでにしてくれたのは御子柴じゃ、逆らうわけにはいかぬ。が……子らの母として、わらわは最早、これまでのように漫然と流されてはいかぬということなのであろうな」
「はい。御方様は紛れのう、お子様方の母君にござりますれば」
「母……相解った。小夜の事は、このお蘭が決して悪いようには致させぬ。壱蔵、千代丸を守ってくれようか」
「命に代えましても」
「頼みましたぞ」

 壱蔵はお蘭の目の底に、母としての覚悟の炎が灯ったのを確認した。
 彼女が女である前に母であることを自らに課したのなら、御子柴を牽制する又とない手札となる。


 お蘭の残り香が消えぬ内に、天井裏の気配が壱蔵を呼んだ。

「何事か」
「仁介様、ご無事に燦蔵さんぞう様と合流なされました。御伽衆を二人まで倒し、間もなく駿府に差し掛かる由」
「駿府か……遅いな。仁介に伝えよ、韋駄天いだてんは見せかけか、と」
「承知」

 気配が去ったのを待って、壱蔵は大きく息を吐いた。

 仁介が戦列に復帰した事に、少なからず安堵をしたのだった。
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