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9.葵の御紋
➃ 絶唱、千代丸
しおりを挟む千代丸から鶴丸への改嫡届を幕府が受け取るのを確かめて安堵したかのように、三日後の夜明け、千代丸は他界した。
苦しい息の下から壱蔵の名を呼び、その壱蔵の腕の中で静かに、眠る様に逝った。
精神の均衡を失ったお蘭の方は、千代丸の死より七日の後、下屋敷の庭先で誰に看取られる事無く逝った。
ろくに水さえ口にしなかったというその痩せさらばえた体で、千代丸の着物をしっかり抱き締めていたという。
直ちに、鶴丸は正式に水目藩嫡子となり、上屋敷に入ることとなった。
未だ水目藩江戸留守居役は御子柴である。
御子柴の素行に目を配っていた壱蔵は、千代丸との対面後、まるで鶴丸後継を承諾したかのように将軍家との謁見に奔走する姿に、底知れぬ不気味さを感じていた。
だが、御子柴の江戸留守居役としての手腕は流石であり、すぐに御側御用人・柳沢保明による面談が通達されたのであった。
まずは改嫡の明確な理由の是非と、鶴丸が確かに加山明憲の胤である事、家中に改嫡に因する混乱が無き事などを直接保明が聞き取り調査した上で、老中と図って将軍家との謁見を段取るということだ。
だが、今の実権を考えれば、保明にさえ話が通れば、将軍家との謁見はまず間違いが無い。
壱蔵は、まだ何の音沙汰もない仁介と燦蔵の安否を気遣いつつも、謁見へ向けての鶴丸の準備に忙殺されていた。
「上様におかれましては、ご、ご機嫌麗しゅう、きょうえち……恐悦至極に存じ奉りまつり……えっと」
鶴丸は上屋敷の奥向きで、千代丸の乳母・佳芽の助けを借りつつ、まずはこれまでに使った事も無い行儀作法、言葉遣いの習得に勤しんでいた。すぐに弱音を吐いて投げ出すかと思いきや、あの千代丸との体面が心に残っているのか、中々の根性を見せて励んでいた。
とは言え、つい最近まで甲賀の山里で、奔放な母親に半ば捨てられ、望月老の元でも仲間の下忍から爪弾きにされて生きてきた鶴丸である。優美な立ち居振る舞いなど、付け焼き刃で身に付くものではなかった。
「鶴丸」
いい加減、自分の山里育ちの性根に嫌気が差してきた時に、傷の癒えた志免が小姓姿になって鶴丸の側近くに現れた。壱蔵の計らいで、志免は鶴丸に使える小姓として改めて奉公する事になったのであった。
人前では仰々しい言葉遣いで接する志免だが、こうして二人だけの時は、鶴丸の緊張を解すように、昔のままの言葉遣いで話しかけるのであった。
「根を詰めすぎると良くないよ。あのね、そういう時はね……」
謁見の間に見立てた奥座敷で、入室を許されてから座すまでの一連の所作が上手く行かずに練習を繰り返す鶴丸に、志免が手本を示してみせた。
流石にあの仁介の弟であり、望月家で若様と呼ばれていただけの事がある、わずかな滞りとて無い流麗な所作であった。
上座からその手本ぶりを眺めていた鶴丸は、ふと、志免の中にあの千代丸の細面の白い顔を見たような気がした。
「ゆっくりでいいんだ。ゆっくり一つ一つを堂々とこなせば、風格というものが鶴丸を優美に見せてくれる。ほら、やってみて」
白扇を渡され、鶴丸は廊下に追い立てられた。
志免が上座に座ったのを見計らって鶴丸が奥座敷に入ると、将軍家に扮した志免が、背筋を真直ぐに伸ばして座していた。
「水目藩藩主加山和泉守明憲が嫡子、鶴丸にござります。本日は拝謁の栄華を賜り、恐悦至極に存じ奉りまする」
「苦しゅう無い、近う」
まるで将軍家が答えるかのように朗々と志免が言った。涼やかな声は凛として鶴丸を圧倒した。
「ほら,膝を進める真似だけをするんだよ」
呆然と固まる鶴丸に、志免がいつもの志免に戻って忠告するが、既に鶴丸の気はこの馬鹿げた練習から削がれてしまっていた。
「少し、休もう」
鶴丸は志免の顔を見ずにそう言うと、一人、廊下から庭先へと下りていった。
瀟洒な庭園の小さな池に、赤く染まった木々が映る。そういえば風が冷たくなってきたと、綿入れを羽織らずに庭へ出た鶴丸が肩を震わせた。
「甲賀を出てきた時は、まだ暑かったのに」
鶴丸を追いかけてきた志免が、池の畔で鶴丸と並んだ。
「嫌になった? 」
志免がそっと、鶴丸の手に触れた。だが,鶴丸はその手を握り返す事は無く、避けるように築山へと歩き出した。
「たった一度だが、俺は初めて、あの千代丸兄上に身内というものを感じた。血の繋がった身内とはこういうものかと。今まで、仲の良いお前達兄弟が羨ましかった反面、どうしてそこまで兄弟を思い遣れるのか解らなかったが、兄上と対面した時、それが解った気がした。だから、兄上との約束は、果たす」
これまでの鶴丸からは聞かれなかった、しっかりとした物言いであった。
「それを聞いて安心したよ」
「おまえは、仁兄や燦兄が心配ではないのか。壱蔵兄貴もそうだが、死んだら、兄弟の情は消えるものなのか」
東屋に腰を下ろし、鶴丸ははらはらと落ちてきた紅葉を握りしめた。
「消える訳ないじゃない。だけど、信じてるんだ。絶対生きてるって。私が不吉な事を考えると、それが本当になってしまいそうで怖いから、だから考えないようにしているんじゃないか」
鶴丸に背を向け、志免は柱にしがみつくようにして顔を伏せた。小姓の姿をしていても、そんな華奢な背中はやはり、誰かが守ってやらねばならぬ若様然とした、実に心許ないものであった。
「お前の方が、余程若様だな」
そう言って、仁介と燦蔵の身を想って泣き出した志免の背中を、鶴丸は抱きしめた。
「悪かった、意地悪を言った」
「仁ちゃんも燦ちゃんも、壱ちゃんだって、みんな鶴丸の為に戦ってるんだ。三人の思いを無駄にしないで欲しい」
「志免」
「三人は鶴丸に藩を託したんだ。鶴丸の心を信じたんだ。鶴丸は、ただの巡り合わせでここに来た訳じゃない。皆に信頼されて、愛されて、ここまで来たんだよ」
「おまえも、か」
すると鶴丸の腕の中で志免が振り向き、思いの丈をぶつけるようにして唇を重ねてきた。
志免と長い口づけを交わしながらも、鶴丸は全く別の事を考えていた。
明日に迫っている柳沢邸での保明との接見。仮にその前に自分の身に何かがあったとしても、この志免を「鶴丸君」に仕立てれば藩は立ち行くのではないかと。
国許の明憲の容態の悪化が、昨日も早馬で届けられたばかりである。
「こんなところでサボってるのを壱ちゃんに見つかりでもしたら大変。戻ろう」
睫毛が濡れたままの目で志免が微笑み、鶴丸の手を引いた。
鶴丸の手に握りしめられていた紅葉は、志免の手に渡る事無く地面に舞い落ちていった。
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