愛洲の愛

滝沼昇

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8. 死闘への道行

⑧ 妖女・辰姫

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 志免と鶴丸の無事な出発を見届けた仁介は、柿渋色の忍び装束に身を包み、爽やかに晴れ渡る川崎の空の下で、のんびりと両手を広げた。
「姫若」
 善蔵はじめ望月の古株の者達は、若頭の燦蔵や、愛洲家当主の壱蔵と区別して、仁介をこう呼んだ。
「やっと子守りから解放されたよ」
「一人でやりなさるんか」
「その方が気楽で良い。たまにはちゃんと仕事しないと、兄上に叱られるし」
 すると善蔵は、額にあたる部分に鉄板がついた鉢巻きを手渡した。
「御伽衆の辰姫ってのは、儂らにも容易に正体が知れねぇ。噂では、北条家の血筋と風魔の嫡流との間に生まれた姫だそうだ。妖術のようなものを使うとか、年は百を越えていて毎日男を食らっては殺す残忍な質だとか、この辺りでは鬼姫なんぞとも呼ばれておる」
「鬼姫か。女は嫌なんだけどねぇ」
 手渡された鉢巻きを額に結びながら、仁介は嘯いた。
「後を頼むよ、善じい」
 仁介に促されるように、善蔵が己の宿の中に身を隠した。

 上流へと、川縁をゆるゆる流し歩く仁介の前に、突如、いにしえの貴婦人が現れた

 歩みを止め、仁介は五感を研ぎ澄ますようにして周囲の殺気を探った。
 だが、女の背後にも仁介の回りにも、他の殺気はまず感じられない。女は、間違いなく単身であった。
「お供の衆も連れずに、こんなところでお姫様が一人歩きかえ……なぁ辰姫」
 戦国時代の高位の女性さながら、片身替かたみがわりの艶やかな小袖に、頭の上から薄衣のかつぎを両手で掲げるようにして被り、腰まである黒々とした髪を垂れ髪にして背中で束ね、胸元には数珠のように水晶玉が連なる首飾りをぶら下げていた。
 腰には、女の身丈に合った赤鞘の刀が落とし込まれてある。
「いかにもわらわ辰姫たつひめ。そもじが仁介か、良い男ぶりよ」
 濡れたような唇から、湿り気のある女の声が響いた。僅かに上げられたかつぎの下から覗く顔容は大層美しく若々しいものであるが、その鋭く切れ上がった双眸から放たれる眼光、口角の切れ上がった真っ赤な唇からは、妖気が溢れていた。
「悪いが、女には興味が無い」
 油断ならぬ妖艶な笑顔に軽口で応えつつ、仁介は尚も辺りを探っていた。
「安堵致せ。そなたのような色子、わらわ一人で十分ゆえの」
「とか何とか言って、手下はごっそり、燦蔵にやられたのではないか」
「おお、あの山猿か。むさい男は好かぬ」
「その山猿、如何した」
「今頃は、湖の底で魚のえさに、いや、魚とてあのような不味そうな男は食うまいて」
「手下を根絶やしにされた癖に、強がりを」
 すると、女の口から、それまでのか細い声と一転した低い笑い声が漏れた。老婆の様でもあり、男の様でもある。仁介は初めて感じる悪寒を鎮めるようにして、刀を抜いた。

 女が被衣かつぎをふわりと空へ飛ばした。
 焚き込まれた伽羅きゃらの香りが風に乗って仁介の鼻腔を刺激した。だが仁介は動かず、じっと間合いを保ったまま相手の出方を待った。

 女は左手で首から下げてある数珠状の水晶玉の首飾りを握りしめ、右手の人差し指と中指を口元に立て、経文か呪文のような、仁介がこれまでに聞いた事の無い言葉を唱え始めた。その声は読経というより怨念の告白の様で、足下の小石をも振動で震わせるかのような気味の悪い低音であった。
「百年生きてるって、本当らしいね」
 仁介が一歩退こうと右足の踵を上げようとしたが、足は命令を聞かずに硬直していた。
 まるでその恐ろしい声音が鎖となって仁介の五体を絡め縛っているかのようであった。
 いや、五体は本当に縛られていたのであった。黒々とした女の髪が、仁介の五体にしっかりと巻き付いていたのである。目の前に立つ女の髪では無い。
 女の手に握られていた筈の水晶玉が変化した、人間の髪を編み込んで作られた縄状の鎖である。
「風魔の女たちの髪よ。徳川に足蹴にされ、人として生きる事すら許されなんだ女達の怨念が、鉄の鎖よりも強固な力を持って貴様を縛っておるのよ」
 女の髪と言っても、まるで鋭利な鉄の刃のように仁介の五体に食い込んでくる。帷子を着込んでいない仁介の肌が、徐々に破られていき、裂けた布地から血が滲み出した。
「細切れになって果てる前に申せ。鶴丸はどこじゃ」
「あれ、箱根で会わなかった? 」
 痛みに耐えながらも軽口を返す仁介に、女は左手で拘束を強めつつ近寄ってきた。
 そして右手で仁介の華奢な顎を掴み、その唇を味わうように吸った。女の紅で仁介の唇が真っ赤に染まり、戒めに苦悶する仁介の美貌が更に壮絶なものになった。
「おうおう、美しい男が悶えておるわ。どうじゃ、素直に申さぬか」
「だから、箱根で……」
「あのような小細工、遊んでやる気も起こらぬわ。お前の弟はむさい故に一撃で沈めてしもうたが、お前のような美しい色子は血染めにする甲斐があるというもの」
 凶気を瞳に宿し、辰姫が仁介の左の耳朶を舐め、いきなり歯を立てて僅かに食い契った。
 仁介は呻き声が漏れるのを堪えた。
「あの保明がお前に拘る訳が解るというものじゃ。いじめる程におまえは淫靡に輝き、艶を放って相手の芯を蕩けさせてしまう。わらわの体も、疼いておるわ」
「はは……気色悪っ」
「な、何」
 一瞬、仁介の右手に刀を握り直す握力が戻った。咄嗟に逆手に持ち替えたその刃を、思い切り己の体と髪の鎖の狭間にねじ込んだ。
 ブツリ、と鈍い音を立てて鎖が断たれ、バラバラと仁介の足下に落ちた。足下に落ちた髪の欠片は元の水晶玉に戻り、河原の小石の合間を四方に転がった。
 躊躇ちゅうちょせずに刀を差し込んだ時に,刃が右脇腹の薄皮を断っており、仁介の太腿を伝って鮮血が滴り落ちた。
「化け物め。そう易々と軍門に下る我ら兄弟ではない」
 足下から鮮血を飛ばし、仁介が虚空に舞い上がった。辰姫が赤鞘あかざやの忍刀を一閃したのは一呼間遅れであり、辰姫は足下の小石に裾を噛まれ、仁介が立っていた筈の場所に前のめりに突っ込んだ。

 その背中めがけ、空中で優美に体を反転させた仁介が、着地と同時に苦無を放った。
 だが辰姫の背中の髪が生き物のように波打ち、その苦無を弾いた。

 振り向いた辰姫に、現れたときの妖艶な美貌は無かった。
 引きつった顔に深い遺恨を刻み、正にこの世に迷った悪鬼の形相であった。
 女は、時代がかった小袖を脱ぎ捨てた。まるで北条の後裔から風魔の後裔へと血の変化を遂げるかのように、短袴の忍び装束に包まれた豊満な五体が姿を現した。
「所詮、北条の血筋だ風魔の再興だと喚いても、やっている事は金で請け負う人殺し。汚れ稼業の女の品性など、タカが知れている」
「減らず口を! 」
 辰姫は、豊かな胸乳を覗かせる前合わせから棒手裏剣を放ち、仁介が軽くなす間に一気に詰め寄って初太刀を浴びせた。
 つむじ風のように四方八方から打ち出される斬撃は、一撃必殺の重さは無くとも、次第に仁介の二の腕を裂き、左股を裂き、かわしている筈の仁介の防御をかい潜るようにして確実に五体を切り裂きにかかっていた。その早さは、かつて倒した御伽衆・吉次の比ではない。正に風魔後継のしるしであると言える。だが、仁介とて凡庸な生まれ育ちではない。
 激しく剣戟を交わす事数十合、左脇腹、右太腿ふとももに浅手の傷を受け、矢継ぎ早の斬撃を後退しつつ受けていた仁介は、このままでは埒が開かぬと辰姫の下半身への体術を仕掛け、相手の足が小石に取られて揺れた隙を狙って下腹部を蹴り付け、斬撃に隙が生じた間に三間以上飛び退いた。
 その顔には、傷の痛みによる苦痛ではなく、ただ驚愕があった。
「おまえは、男……いや、ふたなり、か」
 真性半陰陽《しんせいはんいんよう》、つまり男であり女でもあり、両性の性器を持つ者の事である。
 辰姫の下腹部に、蹴りを入れた時に確かに男根の存在を感じたのだった。
 だが、胸元には、決して造形ではない本物の柔らかな胸乳がある。
「本来、別々に生まれる筈であった双子の弟の体が、この身に宿っておるのだ。わらわは真実、北条と風魔の後継。何としても、御家再興を果たす」
 辰姫は右手の中指を口元に立て、経を唱え始めた。
 すると、これまで曲線に包まれたしなやかな女の体であったものが、鋼のような筋肉に包まれた男の体に変化を遂げた。豊かな胸乳は厚い筋肉に取って代わり、細い腰や臀部は何かに絞られるようにして堅い筋肉のみを残し、肩から首筋にかけては分厚い筋肉の上を這う血管が浮き出ていた。
「愛しい男には、見せられない姿だな」
 そうからかいながら、仁介は静かに正眼に刀を構えた。その型は最早忍のそれではなく、愛洲陰流の剣の型に他ならなかった。

 双方、これまでの攻防で体中に無数の傷を受けている。呼吸を整えつつ体重を沈めて足場を固める仁介の足下には、左脇腹から滴る鮮血の池が出来上がっていた。

 辰姫が小石を蹴って踏み込んできた。仁介は動かず、相手の忍刀の刃先を注視した。まさに鼻先を削がんと迫った時、仁介の刀のしのぎが忍刀の鎬を擦って火花を散らしつつ巻き込み、くるりと切っ先を跳ね上げた。だが、易々と刀を飛ばされる辰姫ではなく、頭上に反らされた刀をそのまま真っ向唐竹からたけ割りに打ち下ろそうと狙ってきた。だが仁介の姿は既になく、横っ飛びに躱し様、辰姫の脾腹に峰での一撃を加えていた。更に仁介は小石を蹴って上空に舞い上がり、身を反転させた。
 辰姫の筋肉に剣戟けんげきは弾かれたものの、一瞬、その足下をふらつかせるには十分であった。
「きえぇいっ」
 軸足が定まらぬまま振り返った辰姫の脳天めがけ、獲物を狙う鷹の様に急降下した仁介が体ごと刀を振り下ろした。
 がつん、と骨が砕かれる音と共に、辰姫の額から血が噴き出した。

「愛洲陰流奥伝、飛来鷹ひらいだか

 血振りをくれた仁介の呟きと同時に、轟音を立てて辰姫が河原に転がった。
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