愛洲の愛

滝沼昇

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15.音曲の契り

➀ 加山本蔵

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 水目藩上屋敷、中奥の居室の縁側に腰を掛け、鶴丸はぼんやりと庭を眺めていた。
 あの千代田の城とは比ぶべくもない、小さく質素な庭である。だが、冬枯れした木々を夕日が橙色に染めるこの刻ばかりは、無骨な庭もどこぞの庭師の手による名園にも見えた。
 
「ここにおいででございましたか」
 壱蔵が、志免を伴って鶴丸の背後に控えた。
「志免、綿入れを」
 開け放たれたままの居室は、吹き込む風に任せて冷えきっていた。志免は兄の指示に従い、鶴丸が脱ぎ捨てたままになっていた綿入れを、そっと鶴丸の肩に掛けてやった。
 鶴丸が千代丸の意志を継ぐ決意をした頃から、壱蔵は鶴丸を主として立て、家臣団の中でも率先して臣下の礼を示してくれた。これが更に鶴丸の覚悟を固める事にもなり、藩を、家を背負うという運命を体の中に浸透させていくことができたと言えた。
「本日は誠に、おめでとうございました」
「上様が」
「はい」
「上様がな、ウチの阿婆擦あばずれかかァの事を、気にかけて下されたのだ」
 昔の悪ガキならではの言葉を使いながらも、その物言いには武家に馴染んだ落ち着きがあった。
   いつの間にか、鶴丸の佇まいは大名の子息たる凛然とした雰囲気を醸し出す様になっていた。
「大したお方だな。生涯の忠節を、誓わずにはおれなかった。ついこの間まで甲賀の山猿だったというのに……壱蔵兄貴」
「どうか、壱蔵、と」
「俺はまず、何をすれば良い」
「恐れながら、若君は未だ十五。いづれ来るであろう時に備え、今は切磋琢磨をし、力を養われる事にございます」
「十五の決意か。解った」
 力強く頷いて答えた鶴丸に、壱蔵はその心根を慈しむ様な柔和な顔で微笑んだ。

 三人が、それぞれの決然とした思いを胸に秘めて庭を見つめていると、江戸家老・加山本蔵が慌てふためいた様子で老体を揺らしつつ駆け込んできた。
「も、申し上げます」
「何事だ、じい」
 江戸家老に対する態度も悠然たるものに変化を見せていた鶴丸は、上の座に戻って居住まいを正した。
「お、恐れながら、た、ただいま尾張綱誠つななり様より使者が参られ……」
 尾張、その言葉に、本蔵の後ろに下がって控えていた壱蔵が顔を上げた。
「明日、戸山のお屋敷の庭園にて、園遊会を催したく、ついては若君を招待申し上げたいとの御口上にて……」
 脂ののった老体から噴き出す汗を拭いながら、加山が捲し立てた。
 江戸留守居役たる御子柴が己の策に溺れる形で絶命してのち、水目藩の情報収集網は事実上麻痺していた。これも、今まで御子柴みこしばに無能振りを笑われる様にして江戸藩邸の隅に追いやられていた加山本蔵かやまほんぞうが、一刻、屋敷の掌握に陶然として有効な手だてを講じない為であった。藩邸には、御子柴による藩政掌握の野望を愛洲壱蔵ら兄弟が見事くじき、藩を守った事を知る者が多い。故に、若いが江戸詰めの長い壱蔵を時期留守居役にと推す声もある。だが、上士の出、或は加山一族から輩出したいと考える本蔵の一存で退けられていたのであった。
「綱誠様のご招待、受けぬ訳にはいくまい」
 当たり前の様に答える鶴丸に、本蔵は苦々しい顔をした。
「下手に尾張様に近づけば、我が藩が次期将軍家に尾張綱誠様を支持しているとの勘繰りを受けまする。情勢は、桂昌院けいしょういん様が推す紀州綱教つなのり公に有利。いいえ、甲府宰相綱豊つなとよ様と比べても、尾張様には次期将軍家の目はないとのもっぱらの噂にございます」
「恐れながら、御家老」
 一応、遠慮がちに意見を差し挟もうとした壱蔵を、本蔵は振り向き様怒鳴りつけた。
「一介の目付風情が、直に若君の御部屋に侍るとは何事ぞ。そうでなくとも、其の方の専横振りは目に余る。控えい」
「黙れ、爺ぃ、壱蔵兄貴はてめぇより余程藩の為に働いてんだぞっ」
 この時とばかりに威勢を張る江戸家老に、鶴丸はつい昔の口調で叱責した。
「鬼が出るか蛇が出るか、面白い、行ってみようじゃないか。客が大勢居る前で俺に悪さもできはすまい」
「ですが、痛くもない腹を探られる様な事は……茶の湯は嗜まぬとでもお返事を」
 鶴丸の出自を蔑む様な言葉に、壱蔵より先に志免が膝を詰めてにじり寄った。
「御家老は若君を軽んじておいでか」
「黙れ、小姓風情が」
「いいえ。恐れながら、これは綱誠様による遺恨の証。もし断れば、更に強硬な手段を以て若君をおびき出そうとなさるでしょう」
「弟の申す通り。我が兄弟が命に代えても若君を御守り致します故、どうぞご返答を」
 何の迷いも無くしれっと言い切る壱蔵に、本蔵はあわあわと口を動かしたまま返す言葉を失っていた。
「爺、参ると伝えい。鶴丸は逃げも隠れもせぬ。むしろ、ここのところの陰険なちょっかいの文句を言ってやりてぇくらいだ」
「若君、お言葉に御気を付け遊ばせ」
 ゆったりと嗜めた志免と、鶴丸が顔を見合わせて悪戯気に微笑み合った。
「勝手にせい。いざとなったら、我が家からご本家に息子を養子に差し出すまでじゃ」
 ああ、あの太った馬鹿息子、と三人が同時に心の中で呟くと、本蔵は腹立ち紛れに畳を叩いて立ち上がり、退室して行った。
「ありゃ、次の火種だぜ、兄貴」
「それより若、茶の湯は」
「あんな苦いの飲めるかよ」
 それこそ鶴丸だと、壱蔵は豪快に笑い飛ばした。
「しかしそれでは綱誠公に文句を言う前に追い出されてしまいますぞ。綾乃に少々心得がございますれば、すぐにでも稽古を」
「綾乃姉貴なら文句無ぇや」
「志免、お側を離れるでないぞ」
「壱ち……承知しました、兄上」
 志免の大人びた返事を聞き、壱蔵は部屋を後にした。
 長屋に戻った壱蔵は、綾乃に鶴丸の茶の湯の稽古を頼むと、平服からかみしもに改めてもらった。妻がいるだけで、裃にも手入れが行き届き、すぐに支度が出来上がる。やはり良いものだなどと悠長な事を考えつつ、壱蔵は藩邸を後にした。
 
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