愛洲の愛

滝沼昇

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15.音曲の契り

➃ 大納言

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 金春流の能が始まった頃、光友は奥書院に保明を招き上げていた。
   その傍らには、あの美しい笛奏者が離れる事無く付き従っていた。

「命懸けの讒言ざんげん、しかと受け取った」
 光友は、先程の保明と仁介の奏楽に、二人の覚悟を確と感じ取っていた。
「讒言ではござらぬ。あれは、冥府への誘いの曲にございます」
 保明の整った双眸が、光友を睨み据えた。
「この保明を辱めておきながら、ただで済む法はございますまい」
 光友が、脇息を倒して床の間の刀掛けに手を伸ばそうとした。その手に、仁介が放った舞扇が命中した。
「御静まりを。騒ぐと御家の御為になりませぬぞ」
 保明を通り越して光友の側にずいと膝を進めた仁介が、ご無礼を、と断って舞扇を納めた。
   その代わり、髪に差していた笄の鋭利な刃先を、光友の頸部に当てた。
「この男は水目藩目付愛洲壱蔵が弟。連れて行けと駄々をねられましてな」
「お陰で楽しい舞台となりました、あなた」
 保明と仁介の甘い会話に、光友はこの二人が深く結ばれている事を悟った。
 故に、己の首に宛てがわれている笄の先端は、愛しい者を穢された激しい怒りを孕む、決して逃れ得ぬ必殺の刃だと思い至ったのであった。
「大納言様、御嫡男・綱誠様はちとやりすぎた。報いを受けて頂くほかありますまい」
「……解った。ええい、離せ」
 忌々し気に光友が仁介の手を払った。
 だが光友の手が触れるまでもなく、仁介はひらりと白拍子の衣装を翻して保明の背後に下がった。まるで羽衣を着た天女の如き軽やかさに、光友が思わず感嘆の笑みを漏らした。
「やりおるのう」
 その笑みに、やはり笑みで応じた保明は、既にこの老人が将軍家跡目に己の子を捩じ込む気が失せている事を悟っていた。
「大納言様がこの庭園に大金を注ぎ込まれたのは、幕閣から痛くもない腹を探られぬ為と拝察致します。即ち、宗家と事を構える体力など無い事を世間に知らしめる為。二度と戦乱の世を起こさぬ為の、いえ、恐れながら東照大権現様の御薫陶を御一門の若い世代に御示しになられる為ではございませぬか」
「そう買い被るものではない。だがのう保明、大納言であるこの尾張光友が、中納言の紀州家の風下に立つなど到底我慢がならぬぞ」
「それもこれも、そちらが撒いた種にございますれば」
「綱誠を諦め、将軍家跡目を諦め、その上、大納言の誇りも捨てよと申すか」
「大納言の誇りとやらは……」
 意味深に、保明が片眉を上げた。
「桂昌院様は御高齢。紀州綱教様は御病弱」
「その方……」
「大納言様はただ、綱誠様お命と将軍家御跡目のみ、御諦め頂ければようございます」
 鋭利な刃物の様に光る保明の双眸をじっと見据え、やがて光友は意を決した様に頷いた。
「大儀である」
 唸る様な低音でそう言い放ち、光友は上段の間から足早に立ち去って行った。

 平伏して光友の退席を見送った仁介は、二人の要人による駆け引きの緊張から解放されたように、大きく息を吐き出した。
「大したお方でございますね。家の面子の為に息子を切り捨てるとは」
「あのお方は東照大権現様の御孫君、宗家と事を構える事が即ち徳川御一門の破滅である事を、血肉に叩き込まれて育ったお方だ」
 揺るぎない確信を持ってこの駆け引きに臨んでいた事をぬけぬけと言う保明の背に、仁介がもたれかかるようにして頬を寄せた。
「だから政治家は嫌い。お陰で疲れました」
「そんなことを申すと、どこぞで敵と斬り結んでいるであろう壱蔵に、叱られるぞ」
「その兄上が私の同行をあなたに願わなければ、あなたは奥方様と参られたのでしょう」
「花嫁の父の如く、御丁寧に裃まで着て参られてはのう。ま、願ったり叶ったりじゃが」
「私も……あの鼓の音に、いやと言う程抱いて頂きました。思い残す事はございませぬ」
 仁介に耳たぶを啄まれ、保明は先程のあの協奏の昂りを思い出し、芯を揺さぶられた。
「仁介」
 だが、あの狂ったように求め合った奏楽に心を囚われた一瞬の間に、保明は仁介の体温を失ってしまったのであった。

 保明が振り向いた時、そこには仁介の残り香が仄かに漂うだけであった。

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