77 / 78
16.後始末
⓶ 尾張の意地
しおりを挟む
蔵屋敷での戦いの後、十日程経ったが、綱誠の死は、未だ表沙汰にはなっていなかった。
その間にも、国許の望月の里から藩主明憲の回復の知らせが届き、壱蔵は一旦江戸詰めを解かれて国許に戻る事となった。
「本蔵はこの期に乗じて、江戸藩邸を牛耳る腹積もりだぞ。いいのか、おめおめ国許に戻ったりして」
相変わらず遠慮のない物言いで、鶴丸は壱蔵に問うた。
壱蔵の帰国の前に稽古をつけてもらうべく、鶴丸の方から稽古を願って道場に出向いた。
流石に若い体は回復が早い。初めは鶴丸の体の動きを試す様にして加減をしていた壱蔵だが、徐々に俊敏になっていく鶴丸の動きにつられる様に、気がつけば一刻たっぷりと打ち合い稽古に付き合っていたのであった。
「型はともかく、流石に里で鍛えた体、見事な回復振りにございますな、若君」
鶴丸と向き合って板の間に座した壱蔵が、満足げに頷いた。
「あのへなちょこに打たれたぐらいじゃ、どうってこたねぇよ」
とはいえ、三日程は高熱を発して唸っていた鶴丸である。今は、看病疲れの出た志免が、長屋で臥せっている体たらくであった。
「志免はここに置いてゆきます。近くには仁介も住まっております。私がおらぬとて万が一ということはございますまい」
「だがよ、あの爺の馬鹿息子が留守居役にでもなってみな、ウチは良い笑い者だぜ」
「若君さえ堂々とお振る舞いあれば、何の差し障りもございますまい。政の情報は逐一、仁介か志免がお届け致しましょう程に」
鶴丸は壱蔵の顔をまじまじと覗きこんだ。
「そんなに旅に出たいか」
「は? 」
壱蔵の目元にはくっきりと隈が出来上がり、ここのところの藩の存亡がかかった緊張の連続による疲労が見て取れた。まだ三十前だというのに、既に初老の如きくたびれ様である。
「実は……」
壱蔵はそれでも優しく微笑みつつ、顔を少し俯かせて打ち明けた。
「千代丸様の御遺骨の一部を、国許に御連れ致したいのです。甲賀望月の美しい里山を、見せて差し上げたいのです」
「兄貴」
それもそうだと、鶴丸も頷いた。壱蔵には、少しゆるりと旅でもさせて、千代丸の死を悼む時間を十分にやった方が良いのかも知れない。この江戸には、この男の心を癒すものは何も無いのだ。
「だが、来春には父上が参勤で御出府の筈だ。その折には、必ず戻ってくれよ」
すると頷くでも否定するでも無く、曖昧に口元を綻ばせただけで、壱蔵は道場から去っていった。
翌未明には、愛洲壱蔵の長屋から、壱蔵と綾乃の姿は消えていた。
その間にも、国許の望月の里から藩主明憲の回復の知らせが届き、壱蔵は一旦江戸詰めを解かれて国許に戻る事となった。
「本蔵はこの期に乗じて、江戸藩邸を牛耳る腹積もりだぞ。いいのか、おめおめ国許に戻ったりして」
相変わらず遠慮のない物言いで、鶴丸は壱蔵に問うた。
壱蔵の帰国の前に稽古をつけてもらうべく、鶴丸の方から稽古を願って道場に出向いた。
流石に若い体は回復が早い。初めは鶴丸の体の動きを試す様にして加減をしていた壱蔵だが、徐々に俊敏になっていく鶴丸の動きにつられる様に、気がつけば一刻たっぷりと打ち合い稽古に付き合っていたのであった。
「型はともかく、流石に里で鍛えた体、見事な回復振りにございますな、若君」
鶴丸と向き合って板の間に座した壱蔵が、満足げに頷いた。
「あのへなちょこに打たれたぐらいじゃ、どうってこたねぇよ」
とはいえ、三日程は高熱を発して唸っていた鶴丸である。今は、看病疲れの出た志免が、長屋で臥せっている体たらくであった。
「志免はここに置いてゆきます。近くには仁介も住まっております。私がおらぬとて万が一ということはございますまい」
「だがよ、あの爺の馬鹿息子が留守居役にでもなってみな、ウチは良い笑い者だぜ」
「若君さえ堂々とお振る舞いあれば、何の差し障りもございますまい。政の情報は逐一、仁介か志免がお届け致しましょう程に」
鶴丸は壱蔵の顔をまじまじと覗きこんだ。
「そんなに旅に出たいか」
「は? 」
壱蔵の目元にはくっきりと隈が出来上がり、ここのところの藩の存亡がかかった緊張の連続による疲労が見て取れた。まだ三十前だというのに、既に初老の如きくたびれ様である。
「実は……」
壱蔵はそれでも優しく微笑みつつ、顔を少し俯かせて打ち明けた。
「千代丸様の御遺骨の一部を、国許に御連れ致したいのです。甲賀望月の美しい里山を、見せて差し上げたいのです」
「兄貴」
それもそうだと、鶴丸も頷いた。壱蔵には、少しゆるりと旅でもさせて、千代丸の死を悼む時間を十分にやった方が良いのかも知れない。この江戸には、この男の心を癒すものは何も無いのだ。
「だが、来春には父上が参勤で御出府の筈だ。その折には、必ず戻ってくれよ」
すると頷くでも否定するでも無く、曖昧に口元を綻ばせただけで、壱蔵は道場から去っていった。
翌未明には、愛洲壱蔵の長屋から、壱蔵と綾乃の姿は消えていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる