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16.後始末
➀ 尾張の意地
しおりを挟む蔵屋敷での戦いの後、十日程経ったが、綱誠の死は、未だ表沙汰にはなっていなかった。
その間にも、国許の望月の里から藩主明憲の回復の知らせが届き、壱蔵は一旦江戸詰めを解かれて国許に戻る事となった。
「本蔵はこの期に乗じて、江戸藩邸を牛耳る腹積もりだぞ。いいのか、おめおめ国許に戻ったりして」
相変わらず遠慮のない物言いで、鶴丸は壱蔵に問うた。
壱蔵の帰国の前に稽古をつけてもらうべく、鶴丸の方から稽古を願って道場に出向いた。
流石に若い体は回復が早い。初めは鶴丸の体の動きを試す様にして加減をしていた壱蔵だが、徐々に俊敏になっていく鶴丸の動きにつられる様に、気がつけば一刻たっぷりと打ち合い稽古に付き合っていたのであった。
「型はともかく、流石に里で鍛えた体、見事な回復振りにございますな、若君」
鶴丸と向き合って板の間に座した壱蔵が、満足げに頷いた。
「あのへなちょこに打たれたぐらいじゃ、どうってこたねぇよ」
とはいえ、三日程は高熱を発して唸っていた鶴丸である。今は、看病疲れの出た志免が、長屋で臥せっている体たらくであった。
「志免はここに置いてゆきます。近くには仁介も住まっております。私がおらぬとて万が一ということはございますまい」
「だがよ、あの爺の馬鹿息子が留守居役にでもなってみな、ウチは良い笑い者だぜ」
「若君さえ堂々とお振る舞いあれば、何の差し障りもございますまい。政の情報は逐一、仁介か志免がお届け致しましょう程に」
鶴丸は壱蔵の顔をまじまじと覗きこんだ。
「そんなに旅に出たいか」
「は? 」
壱蔵の目元にはくっきりと隈が出来上がり、ここのところの藩の存亡がかかった緊張の連続による疲労が見て取れた。まだ三十前だというのに、既に初老の如きくたびれ様である。
「実は……」
壱蔵はそれでも優しく微笑みつつ、顔を少し俯かせて打ち明けた。
「千代丸様の御遺骨の一部を、国許に御連れ致したいのです。甲賀望月の美しい里山を、見せて差し上げたいのです」
「兄貴」
それもそうだと、鶴丸も頷いた。壱蔵には、少しゆるりと旅でもさせて、千代丸の死を悼む時間を十分にやった方が良いのかも知れない。この江戸には、この男の心を癒すものは何も無いのだ。
「だが、来春には父上が参勤で御出府の筈だ。その折には、必ず戻ってくれよ」
すると頷くでも否定するでも無く、曖昧に口元を綻ばせただけで、壱蔵は道場から去っていった。
翌未明には、愛洲壱蔵の長屋から、壱蔵と綾乃の姿は消えていた。
鶴丸の予想通り、加山本蔵は自分の三男で、同じく代々中老職を勤める家柄の笠原家の養子となっていた笠原主税を留守居役に据えた。
ちなみに主税の養母は、笠原家に嫁した本蔵の妹である。一応は江戸育ちの主税だが、これまで大した役目も勤めてきておらず、鶴丸の登城の段取りもまともにできぬ体たらくを見せつけた。
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