咲くや此花

紺乃なぎ

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咲くや此花

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『昨夜此花』登場人物

小泉佳夕  作家の卵

小泉右京  佳夕の父 御霊

松田省吾  博文社の編集者

桜花枝垂  華族の女学生 女流作家

坂口幸恵  御霊

飯島亨   枝垂の兄 編集者




『1・幽霊お父ちゃんはウザい』


1912年。明治45年の七月の夕刻。

 実をいうともう明治じゃない。天皇陛下が崩御されて、同日以降を大正元年にする旨の改元が発せられた。世間は天皇陛下の崩御で自粛中だが、通りの人通りは普段とさほど変わりはなかった。
 私はというと、知り合いである博文社の編集者、松田尚悟さんから紹介されたカフェの女給をクビになり、花川戸町の路地から大川をぼんやりと見ていた。
 銀色に煌めく川面を眺めながら、どれほど溜息をこぼしても、クビになった事実は変わらない。群青色の空はその端にわずかな茜色を残すのみだけれども、すんなり家に帰る気になれず、私は願掛けに浅草寺へ向かった。
 お寺の上部に黒布を付属した日章旗が掲揚されている。
 正月ほどの人出ではないので、参拝者は流れていた。
 順番が回ってきたので、お賽銭を取り出そうとしたが、私は手を止め、お金を投げ入れることなく手を合わせた。情けないけれど、お金がもったいないのだ。
 神様、どうか勘弁してくださいと心の中で言い訳をしたあと、一日も早く、私を作家にしてください、と二礼二拍して願をかけた。小説を書いて原稿料が入るようになればありがたいです、神様!
 一礼する。その時だ。聞き覚えのある声が私の背後から聞こえた。

「なにやってんだ、こんなところで?」

 間違いなく私の父、小泉右京のしゃがれ声だ。
 うんざりして振り返ると、後ろに並んでいた中年男性と目が合い、怪訝な顔を向けられた。私とあなたのわずかな間に、父が物調面を下げて立っているんですよ。うちの父は幽霊ですから。父の声は私にしか聞こえず、他の人には見えてないんですよね。

「返事しろ」

 と、ウザい催促が飛んできた。
 参拝の列を離れ、人ごみを抜けて裏路地に入ったところで、私は後からついてきた父に向って、おもいっきり眉間に皺を寄せて睨んだ。

「なに、その恰好は?」
「へ?」
「じじシャツに股引だけで外に出るなって言ってるでしょう、恥ずかしくないの」
「いや、俺は見えてないし」
「神前でしょう! 着物は?」

 生前父は千葉の海で漁師をしていた。精悍な顔立ちだが赤黒く日焼けしていて、着る物は塩でボロボロになるから、いつも無頓着。指摘すると「どーでもいい」とのたまう。下着姿でうろつく事もしょっちゅうだ。娘として恥ずかしいから止めてと何度も言ったけれど、結局死んでも直らなかった。
 幽霊に着る物の苦情を述べたところで仕方ないと思うが、それでも、神様の前に出るなら、何か着るのが礼儀だろう。

「お父ちゃんこそ、浅草寺でなにしてたの?」
「年号が大正に変わったから、新たな年に佳夕が成長して、飛躍しますようにと、願掛け詣りに。そしたら、お前がいたので声を……」
「それはありがと」
「まだ女給の仕事をしている時間じゃないか、随分早いと思うけど……」
「今は大喪中です……」
「だから?」

 わかっている。父は私を心配しているのだ。今まで一度も仕事が続いたことがない私は、父の心配の種である。それが祟って成仏できないらしい。
 顔が広かった父は生前、私が自立できるように様々な仕事を探しては、就職を促した。私だってそれに答えたかったけれど、事務仕事はまるでダメ、倉庫仕事はミスばかり、物の販売や在庫の計算もできない、針仕事は不器用で無理。どんな仕事をしても従業員から疎まれ、嫌われる。注意を受けると、私は取り乱してしまうので、結局辞めなければならなくなる。
 見かねた父は私に見合いを勧めるようになったが、私は家事全般が出来ない。嫁ぐことなど夢物語である。
 仕方なく父は、私にお年寄りの後妻を勧めるという暴挙に出た。父曰く、お金持ちの後妻に収まれば、家事は出来なくても何とかなるとのたまう。「ふざけるな」ときっぱりと拒絶する。
 こんな私にもできることが一つだけある。それは文章を書くことだ。
 不自由で生き辛い世の中で、私は小説の中でだけ自由に振舞える。天から授かった唯一の才で、私は生きていくのだと父に宣言した。
 にもかかわらず、父は金持ちで寡夫の爺様をどこからともなく探し出しては、私にあてがおうとしていた。ところが突然この世を去った。
 まあ、実際は去ってなかったわけだけれども。
 父は昔から、私のことを親身に心配して、出来ない私を陰で支えてくれた。私が唯一心を置く事が出来る存在だった。それが、まあ、なんというか、死んでからの父は、ただ口うるさいだけの幽霊になった。早く成仏しろ!

「また、クビか?」
「うるさい、死人に関係ないでしょう?」
「あっ、やはりそうか」

 ウザいよ父ちゃん、と口の中で毒づく。それが聞こえたらしく、父は肩眉を引き上げて、私の前に立ちふさがった。

「俺は心配してるんだぞ、何故それが伝わらない?」
「お父ちゃんはいなくて平気、一刻も早く成仏してください」
「佳夕のだらしなさが俺の成仏を妨げてるんだ。人並みの暮らしが出来るように努力しろ。それがダメなら、何処かに嫁に行け」
「生前に小言は沢山聞いたから、もう腹いっぱいです」
「話を聞け」
「こんな道端でいい加減にして」

 通りかかった人がすれ違いざまに私を横目で見ていた。
 独り言を話す変な女だと、その顔に書いてある。

「あ、すまん」
「もう、帰る」

 遠雷が聞こえていた。湿気た風が足元に絡みつく。
 雨が近いのだろう。いつの間にか西の空は曇って黒々としていた。
 
 私が父の存在を知ったのは、竜泉町に引っ越して一月ほどたったころだった。
 片づけが苦手な私の部屋は、日を追うごとに物で溢れて床が見えなくなっていた。
 それがある日、松田さんと同人誌の打ち合わせを終えて帰宅すると、汚れた食器は洗われ、脱ぎ散らかした着物は奇麗にたたまれ、書籍の山は部屋の隅に積まれ、部屋の床は奇麗に拭き掃除されていた。

 ────誰かが部屋に入った!?

 私は心臓を鷲掴みされた心地になり、悲鳴を上げながら我を忘れて部屋を動き回った挙句、履物も履かずに家を飛び出した。あちらこちらを徘徊して、ようやく我を取り戻したとき、ふと、部屋の片づけ方(片側の壁に物を寄せる)に見覚えがあることに気が付いた。

 お父ちゃん?

 生前の父が私の部屋を掃除して片づけた時の物の配置が似ていた。
 あり得ないと思いつつ家に戻り、上がり框から「お父ちゃん、いるの?」と恐々声をかけたら、台所から湯気の立つ蕎麦を両手に持ち「おかえり」と満面の笑みの父が現れたから驚いた。
 その姿は生前と少しも変わらなかったが、私は思考が追いつかず、小さな悲鳴と共に腰を抜かした。

「……どうして、ここにいるの?」

 父としては気まずかったのだろう。満面の笑みは脆くも崩れ、その視線は宙を泳ぎ、やかでへつらうような笑みを顔に張り付けた。つまり「へへへ」と笑いやがったのだ。

「佳夕のせいで、成仏し損ねた」
「はぁ?」

 私のせいって、どういう事なの? ……葬式を上げて火葬して、菩提寺に納めずに骨壺は箪笥の上に置いてある。位牌は、私が適当な戒名を板に書いて作った。なので、化けて出たとでもいうのか。

「話はあとで。蕎麦が伸びてしまうぞ」

 と言われると、出来立ての蕎麦から醤油風味のいい香りが鼻につく。嫌なことがあっても、不思議なことに出会っても腹は減る。私は訳が分からないままちゃぶ台の前に座り、二人で熱々の蕎麦をいただいた。これが幽霊のお父ちゃんとの同居の始まりだった。


 ※  ※  ※  ※


『2・私は小説家になる!』

 社会人として独り立ちするには、私は小説家になるしかないと思っている。この思いを誰かに話しても、子供が将来の希望を語っているかのように、まともに相手にしてくれなかった。
 それは父も同じだ。鼻で笑って、次は、意見を曲げない私に「出来るわけがない」という一刀両断の言葉を投げかけてくる。
 でも私は名のある文芸社に自分の小説を送り続けた。
 文芸社からは、なしのつぶてか、「とりあえず東京に出て、名のある小説家に弟子入りして腕を磨きなさい」という返信を戴くのが関の山だった中で、博文社の松田尚悟さんだけが寸評を書いてくれて、関わりのある同人誌に、私のつたない小説を掲載してくださった。
 数週間後、小説が掲載された同人誌が送られてきて、それを手にした私は、何度もその場で飛び跳ねて喜んだ。……まあ、飛び跳ねるのは私の癖みたいなものだけど。本当にうれしかったのだ。
 ところが父は「落ち着け」と私の体を押さえつけて、こう言ったのだ。「たかが同人誌じゃないか?」と。
「お父ちゃんは嬉しくないの?」
「同人誌に作品が載ったからって何になる。いい加減目を覚まして堅実に生きろ、それがお前のためだ」

 娘を思っての言葉かもしれないが、私の可能性を否定して、父の分かりやすい型にはめようとする。
 いつものことだ。

「お父ちゃん。それは横暴だ!」
「馬鹿者が、偉そうな口を叩くな」

 その瞬間、すとんと、心が闇に沈んだ。
 嬉しかった気持ちが反作用のように働いて、欝々した感情が腹の底から湧いてくる。私はこれに抗う事が出来ない。ただ負の感情の底に沈んでいく自分を、他人事のように俯瞰するしかない。
 心ここにあらずな私を見た父は、「またか」と呟くと盛大に溜息をこぼしながら頭を掻きむしっていた。こんなとき父は私を放置して目も合わせようとしなくなる。たぶん、どうしたらいいのかわからないのだろう。
 でも私に光明が差し込んだ。
 松田さんから手紙が来たのだ。
 封書を確認すると、差出人は「博文社、松田尚悟」とある。
 手紙を開いて、うわっと、歓喜が零れた。

『一度会って話がしたいと思います。東京にてお待ちしております、ご都合が付きましたら連絡ください』

 はい、行きます。なんなら東京に引っ越します。
 けれど私の可能性を微塵も信じていない父からすれば、この手紙は、田舎娘を誘い出し、毒牙にかけてやろうとする都会の男の誘惑に思えたらしく、眉を吊り上げて怒鳴ったのだ。

「酷い目にあいたいのか! 東京には行くな!」
「いや、行くけど」

 後は一度言い出すと引かない父と、その血を引いた私との口喧嘩が開催され、どちらも譲ることはない攻防が続いた。

「田舎に引きこもりたくない、東京に出る」

 松田さんからの手紙を免罪符のように掲げて、真顔でそう宣言した途端だった。
 幕引きは父のビンタで締めくくられた。結構痛かった。

「お前が一人で暮らせる訳がない、キ印みたいな考えをすな」
「キ印……」

 馬鹿者がキ印に変化した。

「ああ。金が稼げなきゃ、野垂れ死にだ」
「野垂れ死に……」

 いけ好かない言い方だけど、私にはありうる話だ。
 現実をある程度受け入れて生きる。
 誰もがそれを当たり前だと考え、お前もそうだろうと諭す。
 でも、だったら私は何のために生まれてきたのかと、疑問に思う。
 世間一般では、女性、特に私のような女性は、その選択を半ば強制される。
 それが私の安寧なのだろうか。
 答えは、────否だ。
 私がそれを選ぶと、たぶん自死もありうる。
 人よりできない事が多いからといって、他人の常識で縛って何になるのだろうか。私を見る父の目は常に懐疑的だ。普通じゃないから、到底理解されないのかもしれない。しかも父は、私のことをキ印と揶揄した。
 なら、もう言葉はいらない。実力行使だ。
 父はため息混じりに首を横に振り、残念なものを見たと言わんばかりの目を向けると「言うことを聞け、お前のためだ」と吐き捨てて私の部屋を出て行った。
 後には頬の痛みと、無断外泊の決意が残った。

 それから数回松田さんと手紙のやり取りを済ませて、東京行きの日程を決めた。
 キ印呼ばわりされてから二週間後の出発を予定したが、その間に父は私に年の離れた男性との見合いを勧めてきた。見合い写真は数枚あり、そのどれもが五十を過ぎてるであろう初老の人だった。妻を亡くし、子供は自立していて、資産がそこそこある男性を選び抜いたらしい。
 父は漁港の組合長なので方々に顔が利く。このくらいは朝飯前なのだ。
 でも、二十代前半の娘に五十過ぎの男性をあてがおうとする父はどうかしている。なんなら父こそキ印ではないのか?
 決行当日の朝、まだ日が明けきらないうちに父が漁に出かけたのを幸いに、私は予め纏めてあった風呂敷包みを手にして家を出た。
 目指すは稲毛駅だ。その日は風もなく、夜明けの秋空は穏やかな茜色に染まり、朝の静けさに町は包まれていた。
 浅間通りに差し掛かった時、朝の雰囲気を掻き消す発動機の音が響いた。
 辺りを見回すが、音の出どころは不明だ。
 私は大きな音が苦手だ。
 逃げるように坂を上がると、木の根方にしゃがみ込み両手で耳を抑えて堪えた。暫くして顔を上げると、発動機の音は聞こえていたが、耳が慣れたのか、それほどの轟音ではないことに気づき、ほっと息を吐いて立ち上がる。
 そういえば、稲毛海岸の干潟を利用して、民間飛行場が設けられたと聞いた。
 今の音は、きっと飛行機の発動機の音だろう。
 目指す稲毛駅はすぐそこだ。
 知っている人には出会わなかったので、私はさほどの警戒心を持たずに駅構内に入っていったところ、始発待ちをしている人の中に、見覚えのある顔を見つけた。
 チェスターコートにーを羽織り、茶色い皮のカバンを手に提げている。粋な紳士だ。はて、誰だっただろう? と思いつつ、こちらは顔を見られたくないので、顔を伏せながら柱の陰に隠れようとしたら、思わぬところから声がかかった。

「佳夕さん?」

 驚いて振り返ると、我が家の大家さんが男の子の孫を連れて立っていた。
 大家さんは不審な顔をこちらに向けていたが、孫に小声で何か告げるとその背中を軽く押した。孫の男の子は頷くと踵を返して走っていく。
 私は嫌な予感にとらわれて、薄ら笑いを浮かべながら改札に歩き出す。
 すると腕を掴まれた。

「なにするんです?」
「どこに行くつもりかな?」
「離して!」

 大きな声を出したが、大家さんは私の腕を離そうとしなかった。

「右京さんを呼びに行かせたから、少しお待ちなさい」

 冗談じゃない。待ってたまるかと、大家さんの腕を振りほどこうともがいていたら、始発待ちの人の中から「どうしました?」と声がかかった。
 見覚えのある先ほどの男性だ。

「誰だ? 関係のない奴は引っ込んでいてくれ」

 彼は私と大家さんとの間に割って入ると、

「青木と申します、私の連れになにか?」

 五十過ぎの壮年の青木さんは穏やかに言葉を告げた。

「佳夕さんの見合い相手です。所要がありまして、彼女と出かけます」

 見覚えがあるはずで、父が持ってきた見合い写真の中の一人だった。
 大家さんは思ってもみなかった彼の返答に、驚いて私の手を離した。

「そ、そうでしたか」
「佳夕さんに何か御用でしょうか?」
「あの、彼女の父親が……いえ、なんでも……」

 ばつが悪そうに、大家さんは口ごもった。

「改札が開きました、行きましょう」
「あっ、切符!」

 慌てて切符を買い求め、青木さんの後ろについていく。
 ちらりと振り返ると、大家さんが改札前に立っていた。青木さんの威厳ある態度に臆してしまったのか、何か言いたげな顔のまま見送っている。
 ホームに出て、私は彼の隣に並んだ。横顔をチラリと覗き見ると、若いころはさぞモテただろうと思われる、とても整った顔立ちをしていた。

「ありがとうございました」
「どういたしまして。ところで、どちらまで?」
「と、東京まで」
「私は府中です」

 それ以上、青木さんは何も聞いてこなかった。
 暫くして、蒸気機関車がホームに滑り込んできたので、二人で汽車に乗り込む。
 彼は「お気をつけて」と微笑むと、別の車両に移って行った。
 てっきり東京まで相席するものだとばかり思っていたので、拍子抜けする。
 青木さんは私を助けてくれただけだったのだ。心遣いに感謝です。
 ガタンと汽車が揺れて発車する。緩やかに流れだした車窓の中に、突然血相を変えてホームを走る父の姿が飛び込んできた。
 車内の私を認めると、父は大声で叫んでいたが、汽笛にかき消されてなにを言っているのか聞こえない。ついでに私も思わず耳を塞いだので、尚更だ。
 私は満面の笑みを浮かべて胸の前で軽く手を振ると、父の姿は車窓から流れて消えていった。全力疾走、お疲れ様です。
 東京で松田さんと会っても、何かの成果を得られるとは限らない。けれど手応えくらいもぎ取とるつもりで汽車に乗ったんだ。お父ちゃん、ごめん。
 東京は日帰りできる距離だが、二、三日帰りません。
 この日のために書き上げた新作「咲くや此の花」を松田さんに読んでもらい、評価と直しを戴くまで帰らないつもりだ。まあ、一応話は通してあるから、読んでもらえるだろう。
 青木さんに感謝しながら、私は流れる車窓に目をやった。


 ※  ※  ※  ※


『3・お父ちゃんが死んだ』

 はじめての東京、絵葉書で見た東京駅。
 私の地元、千葉の稲毛は観光地として栄えているので、立派な旅館や別荘が建っている。東京から一時間ほどで行ける距離なので多くの観光客で賑わっているが、東京はそんなものじゃなかった。
 東京駅の内部が広くて驚いた上に、一歩外に出ると、駅前には和装や洋装の男女が沢山歩いている。中にはサーベルを下げた警察官や郵便配達員もいた。稲毛ではめったに見られない自動車のフォードが何台も走っている。
 正直、眩暈がした。
 待ち合わせ場所は東京駅の向かい側にある、「喫茶プロムナード」。
 如何わしい「カフェ」ではなく、コーヒーを飲んで疲れを癒す「純喫茶」らしいが、すでにパニックになってしまった私は、その場から身動きが出来なくなって立ち尽くした。
 方向感覚があやふやで、真っすぐに歩くだけの簡単な場所にすら、このままではたどり着けそうにない。深呼吸する。「落ち着け」と自分に言い聞かせて、「ただ前を見て、歩いてくる人にぶつからないように進め。大丈夫だ、出来る」と鼓舞する。足が出た。このまま真っすぐ進めば、駅の向こう側にたどり着く。
 ところが人混みが切れた瞬間、車のクラクションが響いた。
 咄嗟に横を向いたら、フォードが私に迫っていた。「ぶつかる!」と思った瞬間、誰かに抱きつかれ、私の体は後ろから引き戻された。
 持っていた風呂敷袋が車に当たり吹き飛ぶ。
 私は抱きかかえられながら地面に倒れた。
 車は足元で止まり、轢かれることはなかった。

「大丈夫ですか」

 私を助けてくれた男性が声をかけてくれたが、轢かれそうになったことが怖くて体が震える。喉が張り付き、声も出ない。

「立てますか?」

 私は辛うじて頷くと、その男性に体を支えられて立ち上がった。
 荷物を弾かれた手が痛かった。その時に気づいた。
 風呂敷包みの中には、新しく書いた原稿「咲くや此花」が入っていたのだ。
 慌てて周囲を見回すと、風呂敷の中身は飛び出て、肝心の原稿は地面に散らばっていた。しかも、風に吹かれて広がっていく。
 私は地面に這いつくばり、散らばった原稿を無我夢中でかき集めた。
 人目を気にしている余裕はなかった。

「何をしているんだ!」

 警察官が慌てて走ってきた。ほぼ同時にフォードの運転手が車から降りてくると「その女が飛び出してきたんだ」と声を荒らげた。
 それから先はよく覚えていない。警察官と運転手と私を助けてくれた男性が話をしている声だけが耳に届いていたが、私は当事者だというのに、彼らの話し声が右から左へと抜けていくほど原稿集めに集中していた。なので、警察官が地面の原稿を踏みつけているのを見たとき、私はその足を思いっきり払った。

「おい、貴様。本官に対してその態度はなんだ、どういうつもりだ!?」
「大切な原稿を足蹴にしないで!」
「は、はあ?」
「原稿を拾ってください!」
「そんな物はどうでもいい。それより事情聴取を……お、おい?」
「いけない、血が……」

 私を助けてくれた男性が震える声でそう告げた。
 血と言われても、その時は意味が分からなかった。
 
 でも、

「え……?」

 額から流れてきた物が目に入り、途端に視界を赤く染めた。驚いて額や目に手を当てると、ヌルっとする。確認すると手が血で真っ赤に濡れている。
 地面に転がった拍子に、頭に怪我をしたらしい。
 自覚すると急に頭が疼き、私は顔を顰めた。
 拾った原稿を汚さないように地面に置くと、血で汚れていない手で残りの原稿を集めようとしたら、頬を伝った血糊が滴り落ちて地面を赤黒く染めていく。
 その様子を見たら気が遠くなり、私は地面に倒れた。

 結果私は病院に運ばれて頭を三針縫った。思ったほどの怪我ではなかったのは幸いだったが、頭を打っているので一晩入院となった。
 ほどなくして、私を助けてくれた男性が見舞いに来てくれていた。

「……怪我させてしまい、本当にすみません、私がうかつでした」
「いいえ、私がいけないのです」

 ベットの上から答える私に、彼は深々と頭を下げた。

「気にしないでください」
「出血していても、原稿を拾い集めようとした佳夕さんに、僕はほとほと感心しました」
「お恥ずかしいです……」

 私を助けてくれた男性が、驚くなかれ、待ち合わせをしていた松田尚悟さんだったから、本当にビックリした。それにしても、顔合わせがベットの上とは恥ずかしい。

「いいえ。恥ずかしがることはありませんよ。自分の命より、書いた原稿が大事だなんて。貴方は、まぎれもない作家です」
「はあ……」

 そう言ってくれるのは有難いが、褒め方がストレート過ぎて顔が赤くなるから、やめてほしい。それに作家は作品ありきで、私の原稿は無残にも東京駅で散ってしまったのだ。────けれど聞かなければ。

「あの! 私の原稿はどうなりました⁉」
「原稿なら、ありますよ」
「えっ?」
「拾い集めてきました。ページ番号が振ってあるので助かりましたよ。これは預かっておきます。明日、見舞いに来るので、その時に、この作品について話しをしましょう」
「集めてくれたんですか?」
「はい」
「散らばっていたのを、全部?」
「はい」
「ありがとうご……ご、ざいます」

 唇を噛みしめ嗚咽を堪えたが無理だった。
 涙があふれて鼻が詰まって、きっと酷い顔をさらしているに違いない。
 なので頭から布団をかぶったら、途端に感極まって、声を出して泣いてしまった。だって、作品は私そのものなのだ。
 助けてくださって、本当にありがとうございます。
 暫くして、ようやく泣き止んだ私は、布団から顔を出した。
 改めて松田さんを見ると、細身の体に紺の上着、オールバックの髪型に整った顔立ち、黒くて大きな瞳によく似合うロイド眼鏡をかけていた。正直、格好いい人だった。こんな人に抱きかかえられて助けられたのかと思うと……ああ、まずい。松田さんの顔が見れなくなる。自分でもわかるくらい、顔が熱い。

「大丈夫ですか」
「は、はい……」

 この人と一緒に作品を作れたらいいな、としみじみ思った。
 まだ駆け出しの、かの字にもみたない私だけど、そう考えるくらいは許されるはず。なので、小さな決意を表明してみる。

「私、頑張りますから、ご指導、ご、ごご鞭撻を、お願いします」

 うわ、噛んでしまった。
 松田さんを見ると、少し呆れたように笑っている。
 益々、顔が火照る。

「それが私の仕事ですから出来る限りのことはします。今まで送ってくれた作品を読ませてもらい、とても斬新なものを感じました。ただ世に出るのはまだ難しいので、研鑽を積みましょう」
「はい」
「私はこれで、今日はゆっくり休んでください」

 と言って、松田さんが頭を下げた。

「あの……」
「どうかしましたか?」
「私にはこれしかないんです」
「小説のことですか?」

 頷く私に、松田さんは淡い微笑みを返した。
 こんな言葉を投げかけると、父をはじめ、誰もが困惑の表情を浮かべて、「そんなことはないだろう」「他のことをやればいい」と答えるのが落ちだ。なのに彼は微笑んだ後に、私の目を見て強く頷いてくれたのだ。
 そして次に続く彼の言葉が、私の人生に道筋をつけた。

「知っています、あの様子を見ればわかりますから」

 さらに居住まいを正して、こう付け加えた。

「ですから、二人三脚で行きましょう」

 私を救う言葉だった。
 大げさに聞こえるかもしれないが、本当にそう感じた。
 私は少しでも感情が動けば、それを口にしてしまう癖がある。
 経験上、それはダメだと思っていても、止められず、いつも後から後悔する。
 でも今は後悔していない。
 この瞬間のこと、私は忘れないだろう。
 病室を満たす優しい外光に包まれた松田さんの微笑み。
 私の無様な姿を見て尚、「理解してます」と伝えてくれる眼差し。
 それらが混然一体になり、私の脳裏に焼き付く。
 私は確信する。
 いま、歩くべき道の端に足を踏み入れたと。
 言葉にしてよかったと、初めて実感した。
 この道を歩いて、歩いて、その先に何が待ち構えていてもいい。
 たとえ野垂れ死が待っていようとも、進んでやる。それが私の「生」だ。

「付いて行きますから、覚悟してください」
「はい」

 強い眼差しを向けて向けてもう一度頷くと、松田さんは病室を後にした。
 病室は途端に静まり返ったが、二人の間に交わされた熱気のようなものが残っていた。

 でもその翌日、松田さんに付いていくことの難しさを本気で思い知った。
 彼が拾い集めてくれた「咲くや此花」の原稿には、隅々まで目を通してくださった証の、「赤ペン」の直しがびっしり書き込んであった。
 ベットの中で原稿を見た私は、「うああ」と思わず呟いてしまった。
 直しがあるのは当たり前だが、もうボツレベルじゃないかと思うほど、冒頭から完結まで赤で埋まっていた。

「書き直してください」

 松田さんは微笑みながらそう言うが、目がマジだ。怖い。
 でも、これだけ直しがあると、正直どこから手を付けていいのか。

「細かく指示を説明します。この通りにしろとは言いませんが、参考にしてください」

 松田さんは私に見えるように、掛布団の上に原稿を置いて話し始めた。
 一枚めくっては指示か飛ぶ。冒頭の十行はカットしろから始まり、この部分はニュアンスを変えて、この説明はいらない、この行の表現は意味不明、中盤の語りはこのページのこの行に持っていく、ストーリーに弱い部分があるので、こんな感じにしてはどうかとの提案。
 ……その他、もろもろ。
 私は筆記用具を取り出し懸命にメモを取った。
 この駄目出しが、およそ三時間続いた。
 私はベットで上半身を起こし、耳を傾けてメモを取っていただけなのに、体の芯まで疲れていた。とにかく松田さんの指摘は的確だ。編集者という人種が皆こんな感じなのか私には判断が付かなかったが、言われた指摘をこなすには、かなりの時間を要するだろう。

「いつまでに直したら」
「原稿の完成までに半年あげましょう。それまで何度でも書き直してください。半年後に良いものが出来上がれば、そのあとは私の仕事です。来年発売の自社新刊本の企画会議にかけて、掲載をもぎ取ります」
「掲載……」

 嬉しくて涙が出そうな言葉だったが、そこまでの道のりの、途方もなさを考えたら気が遠くなる。けれど、とにかくやるしかない。

 原稿を受け取った翌日、私は退院した。頭の傷の抜糸は地元の病院でもできるとのことなので、提出する診断表を書いてもらい受け取る。
 頭に包帯を巻いていたので、東京駅でクロッシュとよばれる釣り鐘型の帽子を購入して被ると、すぐに帰路についた。
 早く実家に戻って部屋にこもり、後はひたすら原稿の直しをするつもりだった。
 汽車に揺られて約一時間で地元、稲毛駅に着くと、私は浅間通りを速足で下って、息を切らしながら、神社の手前の小道を進む。

「えっ?」

 実家の前まで来て驚いた。家の玄関の前に、葬儀用の花輪が並んでいたのだ。

「なんでこんなものが……?」

 困惑しながら家に上がると、片づけられて広くなった居間に喪服を着た大家さんや漁業組合の人たちが座っていた。
 居間の先は父の部屋だ。仕切りの襖は外されて居間と続きになっていて、部屋では父が布団で寝ていた。その顔には、白い布が掛かっている。

 ……父が、死んだ?

「嘘でしょう……」

 悪い冗談のように感じた。二日前、大声を上げながら稲毛駅のプラットホームを走っていた父が、どうして死ぬというのか?
 私が発した呟きに、喪服の男たちが振り返った。
 残された遺族を憐れむ目の中に、呆れた色を浮かべている。

「な、な、……なにが……どうして……?」

 いったい父に、何があったというのか?

「脳溢血らしい」

 そう告げたのは大家さんだった。

「あんたが東京に行った後、家に戻った右京さんが急に苦しみ始めて。倒れたと思ったら、それっきりだった」

 あれだけ元気だった父が突然この世を去ったことが信じられなかった。けれど、冗談や悪ふざけはあり得ない。目の前にあるのは現実だ。

 本当に、────父が死んだ。

 線香の匂いが現実感を伴って私の鼻をつく。
 思考と感情が置いて行かれて、頭が白くなる。

「お父ちゃん!」

 父に飛びつき「お父ちゃん、起きて」と叫んでいた。
 何かがなくなり抜け殻のようになったその体は冷たく、ゆすっても、父の目が開くことはなかった。何度やっても結果は同じだった。
 私は座ったまま沈黙した。

「連絡はできない。いつ帰ってくるかもわからないから、漁業組合の人たちと相談して、明日、葬儀することにした」

 大家さんの口調には、怒りと非難がこもっていた。

「ありがとうございます」
「今まで何をしていた」
「入院してました。頭に怪我して……」

 帽子を取ると、大家さんは呆れ顔になり溜息を漏らした。
 怪我をしたのは本当だが、それは私の不注意からであって、音信不通の言い訳にはならないだろう。それに無断外泊するつもりだったのだ。申し訳なくて、顔を上げられなかった。

「それでも連絡するべきだ。常識はずれにも程がある」
「申し訳ございません」
「あの男と一緒だったのか?」
「誰です?」
「一緒に汽車に乗った男だ」
「いいえ」
「どうだか?」

 非難の矛先が嫌味を伴って、別の事柄に向いた気がした。
 何が言いたいんだ、大家さんは?

「それは、どういう……?」
「あの男の妾になるつもりなのか」
「……え? はあ⁉」

 言われたことに、私はムラっと怒りがこみ上げた。
 父親と同じくらい年の離れた人と結婚する気はない。まして妾など論外だ。大家さんは私を馬鹿にしているのだろうか。それとも、喪主であるべき私が今頃帰ってきたから、憤慨してこんなことを口にしたのだろうか。どちらにしても、失礼極まりない言葉だ。

「大家さん、故人の前ですよ」

 組合員の一人が大家さんに注意を促した。
 大家さんは黙ってしまったが、私を睨んでいた。

「とにかく、葬儀は明日だ。費用は儂が立て替えておくから、後日返してくれ」
「は、はい」

 それは当たり前なので、私は素直に頷いた。

 翌日、父の葬儀は滞りなく進んだ。私は喪主として座り、弔問客のお悔やみに毎回頭を下げる。それでも訪れた人たちは私を見て、「可哀そうに」と同情の言葉を投げかけてくれた。ただ一つ驚いたことに、稲毛駅で私を助けてくれた青木さんが、弔問客として現れたことだ。

「ご愁傷さまです」

 お悔みを伝えた彼は、線香をあげて父に手を合わせると、それ以上は何も言わず、葬儀の列には参加することもなく、葬儀場と化した私の家を出て行った。

 お父ちゃんの知り合いだったんだ。

 父が用意した見合い写真の中に彼の写真があったのは事実だが、けれども、若い女を娶ろうとするギラついた人には見えない。寧ろ好感が持てる人だ。
 まあ、父が亡くなったことで、すべての見合いはご破算ですが。
 などと考えているうちに、読経がはじまった。
 不思議なもので、もう涙は流れなかった。ただ粛々と進む父の葬儀を見つめていた。
 火葬場で父の亡骸を包む炎の轟音に耳を塞いだ時、もう父に会えないんだと思うと心が沈み、私は顔を伏せた。
 火葬場から出ると、私は骨壺に収まった父を胸に抱き家に戻った。途中、帰り支度を済ませた葬儀業者に会い、葬儀代のことを尋ねたら、まだ支払いは済んでいないと言われた。
 金額を尋ねてから、父の箪笥預金を取り出す。大家さんが立てかえるとか言っていたが、どうしても借りを作りたくなかったので、その場で支払った。
 家に入ると、葬儀業者によってすっかり片づけられた部屋はがらんとしている。

「おとうちゃん、帰ったよ」

 ちゃぶ台を出して、父の骨壺を置く。もちろん返事などなく、しんと静まり返る家の中は物悲しかった。
 町内の公会堂で精進落としするので、遺族として必ず出席せよ。大家さんからのお達しがあったのだが、とてもそんな精神状態になれない。
 私は骨壺の入った桐の箱をぼんやりと眺めた後、ふらりと海を見に行った。
 浅間神社にほど近い稲毛海岸は遠浅の海が広がっている。
 満潮時に足元を海に沈めている浅間神社の一の鳥居は、潮が引いた今は砂浜から足を生やしていた。
 幼いころの私は、海が大好きだったらしい。水際で全身に波をかぶってもお構いなくて、キャッキャと騒いでいたとか。物心がつくころになると、波にさらわれてしまうと溺れて死んでしまう、と実感して怖くなった。その恐怖は大人になっても変わらなかった。
 それはきっと、母が海で死んだと聞いたからだと思う。
 なので自然に足が遠のいていた海に来たのは、ここが父の仕事場だったからだ。
 父のことを思い返すには、ここが一番相応しい。
 海岸線沿いに視線を走らせると、潮の引いた真っすぐな砂浜に、飛行機が一機止まっていた。羽が二枚ある。たぶん複葉機という機体だろう。その横で、二人の男性が話をしている。この海岸は民間の飛行場になっている。私も、空を飛ぶ飛行機を見かけたことがあったが、なにせ発動機の音が苦手なので、興味はあっても近づけなかった。
 私はすぐに沖に目をやった。色の濃い千葉の海が広がっている。
 ここはまもなく潮干狩りの人で溢れ、そのあとは海水浴客であふれる。
 その沖で父は船を出して漁をしていたのだ。今も沖には、漁船の姿があった。
 あの中に、もう父の姿はない。気が付けば私は泣いていた。骨壺を見ても、父の骨を箸で拾っている時ですら泣けなかったのに、私はようやく涙した。
 その時だった。

「こんなところにいたのか」

 驚いて振り返ると、いつの間にか大家さんが背後に立っていた。葬儀の時は紋付を着ていたが、今は紺色のアンサンブルを着ている。大家さんは私の肩に手を置くと、口角を上げて微笑み掛けてきた。その様子に、私は嫌な予感を覚えた。

「お前が来るのを皆が待っているんだぞ」
「申し訳ありません。でも、そんな気になれなくて」
「そうか。だが右京さんの葬式を仕切ったのは儂だ、顔を立ててくれないと困るんだがな」
「わかりました」

 肩に置かれた手を振り落として立ち上がると、大家さんは私の手を握ってきた。
 大家さんの顔には、老人に似つかわしくない欲望の色が張り付いている。

「儂のところへ来なさい」

 それから大家さん。いや、もう敬称はいらないだろう。大家はろくでもない御託を並べて立てて「儂のものになれ」と告げると、私の体を抱きしめてきた。
 悪寒が走った。私は大家を突き飛ばすと、潮の引いた海岸を走って逃げた。潮だまりに足を取られ転びそうになりながら振り返ると、老人とは思えない足取りで、私を追ってくる。

「誰か、助けて!」

 何度も叫んだが、海岸を吹き抜ける風と潮騒にかき消されて、私の声は広い海岸に霧散するばかりだ。自分の耳にすら、まともに届かない。息が出来ない。胸が痛かった。足が重くて辛い。とうとう足が絡まって、私は前のめりに転んだ。背中に圧を感じると、着物の帯を掴まれて引き上げられた。もう、大家が追いついたのだ。
 もがきながら顔を上げると、斜めに見えた砂浜に、走ってくる男性が見えた。

「貴様、何をしている!」

 その声に大家の圧が背中から抜けたので、私は立ち上がって、その男性に駆け寄った。

「佳夕さん?」
「は、はい……」

 息が切れてか細い声が出た。顔を上げると、青木さんだった。驚いて私を見ていたが、唇を引き結ぶと大家に向き直り、彼は冷たくて静かな言葉を投げた。

「貴方はこの人に何をしているのか?」
「また、あんたか? 聞き訳がないので仕置きをするところだ」
「ご婦人に対する行動ではない、やめなさい」
「関係がない奴は引っ込んでいてくれ、この女は儂の女房になるんだ」
「だ、誰が……」

 声が震えていたが、悔しさが私の口を押し開いた。

「大家の女房になるくらいなら、このまま海に飛び込んで死んでやる」
「この半端者が、出来もしないことを口にするな」

 大家が顔を赤くしてにじり寄ってきたが、それ以上は近寄れなかった。私の前に立ちふさがった彼が、大家の足を止めたのだ。

「私は日本海軍所属、第八〇一海軍航空隊の大佐、青木高太郎だ。我々の恩人である小泉右京殿の子女、佳夕さんを愚弄することは許さん」
「海軍の大佐だと!」

 大家は顔を青くした。軍人に立てつくなど、民間人に出来ることではない。まして大家は、私に暴力を振るっているところを目撃されたのだ。逆らうと拘束されて懲罰を受けるだろう。みるみるうちに大家は体が強張り、血の気が伏せていく様が見て取れた。
 ところがだ。それでも大家は顔を歪めて声を上げた。

「見合い写真に顔を並べておいて、よくそんなことが。あんたも、この女を狙ってたんだろう。いいか、この女は何もできない能無しだ、軍人さんの相手が務まるものか」

 この言葉を聞いた青木さんは、静かに深呼吸すると大家を睨んだ。

「彼女の未来を我々が潰してはならない。我々のすることは、助言や補助であるべきだ」
「右京が生前に、儂になら任せてもいい、と言ってくれたんだぞ。これは遺言でもあるんだ。さあ、佳夕こっちへこい!」

 私はワザとらしく、盛大な溜息をついた。

「大家さんは、変な人ですね?」
「なに?」
「私も変ですけど、大家さんは自分の気持ちしか理解できない壊れた人です。私は出来損ないの玩具じゃありません。形は歪でも、その中には、柔らかい心が存在します。あなたはそれに気づけない、自分よがりな変人だ。もう関わりたくない」
「そこまで言うなら、わかった。だったら野垂れ死にでも、なんでもしろ」
「いいえ、貴方よりは長生きします」
「貴様っ」
 
 拳を握り締めて今にも殴り掛かりそうな雰囲気の大家だったが、青木さんの前で、これ以上馬鹿なことはできないと諦めたのか、顔を歪めたまま動けずにいた。
 すると、悔しまぎれの言葉が出てきた。

「おい、葬式代を今すぐ払え」
「もう払いましたけど、業者に直接」
「……っ、そうか」

 大家は諦めきれない様子で、私と青木さんを交互に見ていた。

「もう、帰りたまえ」
「わかりました。けれど、なぜ、あんたと右京が知り合いなんだ?」
「昔からこの浜で漁師をやっている人は、知っていますよ」
「昔からって……海軍と……あっ!」

 大家は何かを思い出したのか、突然真顔になり、

「あの時のか……」

 青木さんに形ばかり一礼すると、苦虫をかみつぶしたような顔を私に見せてから、踵を返して去って行った。その後ろ姿は、海で働く漁師の強靭さを彷彿させた。
 思い出した。今は大家という仕事をしていても、若いころは、父の先輩漁師だった人だ。
 どうりで、年は取っていても、私より足腰が強いわけだ。
 最後はあっさりと帰ってくれたので、私はほっと息を吐いた。
 もう大丈夫と思っているのに、私の手足が震えていた。着物は乱れた上に砂まみれで、裾には泥がこびり付いている。とても人様にお見せできる姿ではなく、兎も角、着物のはだけを直そうとしたが、手が震えてうまく動かないのだ。

「どうやら私。とても怖かったみたいです、今頃になって震えが……」

 言葉が終わらないうちに、私は膝から崩れた。もし青木さんがここにいなかったら、私はどうなっていたのだろう。きっと酷い目に遭わされたに違いない。
 もうここには住めない、居たくない。

「大丈夫ですか」

 青木さんが着ていたコートを脱いで私に掛けてくれた。

「立てますか?」

 私は頷いてから立とうとしたが上手く力が入らなかったので、抱えられて何とか立ち上がった。

「飛行機の格納庫がすぐそこにあります、そこで座って落ち着きましょう」
「はい」

 青木さんに手を差し伸べられたが、私は「一人で歩けます」と辞退して、覚束ない足取りで、彼の背中に付いていった。
 格納庫ってどこにあるんだろうと思ったら、私たちのすぐ正面にある丸太組葦簀張りの小屋が立っていた。そこから一人の男性が手拭いを持って現れた。
 どうやらあの小屋が、飛行機の格納庫らしい。

「彼は飛行機の整備士、奈良岡さんだ」

 青木さんと同じぐらいの年齢の人で、薄汚れた作業服を着ていた。見た目はいかにも職人堅気で怖い人に見えたが、温厚な微笑みを添えて、私に手拭いを渡してくれた。

「大丈夫? 温かいお茶を飲みなさい、きっと落ち着くから」
「ありがとうございます」

 中に入ると、格納庫は思ったより広々としているが、外にあるのとは別の複葉機が収められていたので、小屋の半分を占拠していた。
 外の機体を中に入れると、この格納庫は一杯になるだろうと思われた。

「お湯を取ってくる」

 と、奈良岡さんは壁代わりの葦簀をめくり、外に出て行った。
 私は椅子に座って渡された手拭いで顔を拭くと、複葉機を眺めた。
 素人目にも古く感じる。よく見ると、この機体はあちらこちらに修復の跡があり、その部分を隠すようにペンキが塗られていた。

「その機体は日本製なんだよ。何度も飛行試験を繰り返して、ボロボロになってしまったがね」

 青木さんの慈しむような目を機体に向けている。

「ここは民間の飛行場なんだ。なので、沢山の制約を受け厳しい立場にあるが、ここに集う人たちは、日本製の機体にこだわり続けている」
「……大変なんですか、民間は?」
「そりゃ、もう」

 答えてくれたのは奈良岡さんだった。
 葦簀の隙間から入ってくると、彼はやかんを手にしていた。奈良岡さんは手早く支度すると、湯気の立つ湯呑を私の前に置いた。両手で掴むと程よい熱さが伝わってきた。飲んでみると麦茶だったが、言われた通り、私は気持ちが落ち着いてきた。

「どんな苦労があるんですか?」
「まず資金不足だ。飛行機を作るには沢山の金がいる。出資者を募って何とかするんだが、それでも足りない。この国は飛行機に馴染みが薄く、知識も経験も不足している。こんなことに関わってもまともに食えないのに、それでも私らはここに集うんだ」
「食べていけないんですか?」
「ああ、今はな」

 飛行機には夢があるから、好き者が自然に集まるのだろう。例え食べられなくてもだ。その気持ちは、わかる気がする。

「空を飛ぶって、夢がありますね」
「あるよ。けど、そんなものは年月を経て見なくなる」
「でも、それじゃ……」
「それでも好きなんだ、これがないと生きていけないから」

 私はその時、奈良岡さんの瞳の奥に意思の光を見た気がした。
 はっとした。
 この意思の光は伝播する。きっとここに集う人たちに広まり、いま、私にも届いている。
 思いがあるなら、好きなら、やり遂げよう、と鼓舞して来る。
 この土地に縛り付けようとしたのは父だけど、二人を引き合わせてくれたのも父だ。
 私は膝元で拳を握った。もう震えはない。

「私は家を出て東京に行きます。小説家になります」
「あんたなら、出来るよ」

 私と奈良岡さんは初対面の私に、自信満々に言い切った。しかしそれが、同士というか、同類、と認められたような気がして嬉しかった。

「おい、私にはお茶を入れてくれないのか?」

 青木さんが催促してきた。

「飲むのかよ、お偉いさんは麦茶なんか飲まないと思った」
「茶くらい飲ませろ。というか、それは私が買った茶葉だぞ」

 なんだか二人の会話がおかしくて、私はくすっと笑った。
 奈良岡さんは、また手早く茶を入れて青木さんに手渡した。
 一口、啜った後、青木さんが私に向き直った。

「見合いの件はすまなかった。ここには私の義理の姉がいて、私に黙って見合い候補に入れたんだ。後から知って抗議の電話を掛けたけれど埒が開かず、直接文句を言いに来た。その帰りに、佳夕さんと駅で会ったんだ」
「そうだったんですか」
「あの日、ここで驚くことがあった。日本で初めて、女性が飛行機で空を飛んだ」
「女の人が……」
「葬式の後に、この話を聞くために、私は稲毛海岸に来た」

 女性が空を飛んだことに、私はとても驚いた。
 けれど話をよく聞くと、その女性は同乗者として乗り込み飛んだそうだ。
 青木さんの話は続いた。

「佳夕さんも飛べますよ」
「えっ?」
「今はその女性と同じように誰かの助けが必要でしょう。でもね、それでもいいじゃありませんか、飛んだとこが肝心なのです」
「はい。そう思います!」

 言葉に合わせて勢いよく立ち上がったら、私のドジが炸裂した。

「おい、茶がこぼれてるぞ」
「え?」

 見ると湯呑を持つ私の手は傾いていて、膝の上に盛大にこぼしていた。あまり熱くはなかったが、恥ずかしさも相まって、私は慌てふためいた。「早く拭きなさい」と青木さん。「水をかけるか」と奈良岡さん。「大丈夫です」と私。
 ドタバタした後、私たちは顔を見合わせて笑い出した。
 いい出会いをしたと、しみじみ思う。
 でも、この出会いの中で、一つ疑問がある。

「青木さんに聞きたいことが?」
「なんでしょう?」
「何故、父を知っているんですか?」
「昔の話です。海軍が米国カーチスの複葉機を採用するために、極秘の試験飛行をすることになった。試験の途中、天候不良で危ぶまれたのに、上官の命令で飛ばすことに……」

 操縦者は青木さんの部下だった。残念ながら、機体は強風にあおられて海に墜落した。すぐ捜索活動をしたが、海が荒れだして墜落現場にたどり着けなかった。その時、協力してくれたのは、千葉の漁師たちだそうだ。

「彼らは命がけで捜索して、右京さんが部下を見つけてくれたのです。部下はすでに亡くなっていたが、千葉の漁師たちは、部下を我々の元に返してくれた。右京さんには、今も感謝を忘れてません」

 青木さんは、私に頭を下げた。多分、私と父を重ねたのだろう。
 そんなことがあったのか、と千葉の漁師と父に感心した。いろんな出来事が重なり、時間を経て、今に至った。でも元をたどれば、それは父の行動からだ。感謝しかない。
 腹は決まった。
 私は、二人に向き合った
 心の中で、父にも向き合う。

「私は小説家になるまでここには帰りません。青木さん、奈良岡さん、そしてお父ちゃん、私は生きるために東京に出ます」
「おう。飛んで来い」

 奈良岡さんが、満面の笑みで拳を振り上げた。
 それにつられて、私と青木さんも拳を突き上げて笑った。
 そうだ。私は笑って生きていくためにこれからも力を尽くす。
 この世界は私のような人間には理不尽に出来ている。
 これから先、辛い思いをしたり、不幸な目に合うだろう。けれど私は小説でひっくり返してやる。私は私を信じて進む。お父ちゃん、心配いらないよ。成仏してね。


※  ※  ※  ※
 

『4・同衾』

 上京してから、早三か月。
  父の箪笥預金をほとんど使い果たした私は、家賃が払えない状況だった。さすがに路上生活は出来ないので、すべての事情を松田さんに話したところ、「私が貸しましょう」と言ってくださり助かった。しかしながら食べられない状態だったので、さらに借金を頼み込んだ。現金収入がなければ生きていけない。
 私はとりあえず求人広告を片っ端から読み漁り、私でもやれそうな仕事を見つけて面接を受けた。まだ若いし、容姿だってそんなに悪くはないという自負もある。
 なので面接はすんなり通り、すぐ働きはじめる事は出来るが……。
 はじめて働いた倉庫整理の仕事は、管理が出来なくてひと月でクビ。続いて事務仕事は計算が苦手なので使い物にならないと、これもひと月でクビ。その次は、接客業に挑戦したが、客を怒らせて三か月で解雇。見かねた松田さんは、彼の知り合いが経営する純喫茶を紹介してくれた。この度、そこも解雇されてしまった。
  私は本当にポンコツです。ごめんなさい、松田さん。
 レジを任されたのが私の敗因。断っていたのに「そろそろ覚えて」と半ば強引に任されて、その日からレジ閉め後の売上計算が全く合わなくなった。
 それが三日も続けば、皿洗いに降格。で、洗い物の皿を何枚か割ってしまい、とうとう従業員たちから苦情が出た。もともと私に対しての苦情はあったけれど、紹介者が松田さんだったので、うやむやで済んでいたものが、一気に噴き出して解雇になった。
 今夜、松田さんが原稿を取りに来ることになっていたので、その時に、思いっきり謝ろうと思いつつ、少しでも「咲くや此花」の原稿を仕上げるべく、私は懸命に机にかじりついていた。
 その隣で、幽霊の父が、せっせと散らかった部屋を掃除している。ただ、私が集めた書籍や、松田さんが持ってきてくれた内職の、社内広報の原稿まで手を出すから、気が散って仕方がなかった。
 こだわりの強い私は、これはここに置いておくと決めたものを動かされると、何がなんでも元に戻したい衝動に駆られてしまい、すぐに父と言い争いになる。

「それは触らないでと何度も言っているのに!」
「まとめて端に寄せただけだろう、これくらいなんだ」
「いいから戻して、それ大事なのよ」
「部屋の真ん中に大事なものを置く方がどうかしてるぞ」
「うるさい!」

 と、まあ。こんな感じの言い争いが三日に一度は起きている。
 三日に一度なのは、部屋が三日間で足の踏み場がなくなるからだ。

「もうすぐ松田さんが原稿を取りに来る、気が散るから大人しくして」
「偉そうな物言をするな」

 父は不機嫌になったのだろう。台所に入っていった。後でご機嫌取りでもしておくか。
 それにしてもだ。父の幽霊らしさが日ごと薄れていくような気がする。
 他人から見えない父は自由気ままに外に出かけていた。ここ最近は私の代わりに食材の買い物をして料理までする。そもそも論として、幽霊は物に触れられるのか? いや、触れられるから料理ができるのだろうけれど。父が化けて出た最初の日も、蕎麦を作ってくれたから、まちがいないだろう。では、買い物は? 他人には見えないはずなのに、どうやって買ってくるのか。買い物をする日は、財布を持って出かけている。
 幽霊が普通に買い物? などと考えながら、原稿の最終チェックをすませたころ、松田さんがやってきた。

「佳夕さん」

 玄関をノックする音と、松田さんの声がした。
 私は返事をしながら、玄関まで飛んでいく。

「開いてます。どうぞ」

 ガラガラっと戸が開く。
 松田さんが少し慌てた様子で入ってきた。上着の肩がしっとりと濡れて色が変わっていた。フェルト製の中折れ帽も雫をかぶっている。

「雨が降っているのですか?」
「はい」

 言われて初めて、玄関から忍び込む湿気と雨音に気がついた。
 そういえば、夕方に遠雷が聞こえていたのを思い出した。

「途中から降られまして。走ってきたんですが、この様です」
「上着を脱いでください。風邪ひきますよ」

 私は箪笥から手拭いを出して渡す。代わりに上着を受け取り、壁のハンガーに吊るした。
 玄関の戸を閉めても、入り込んだ湿気がじっとりと体に絡みつき不快だった。
 受け取った手拭いで、松田さんは顔や頭を拭っている。普段オールバックの髪型が乱れ、前髪が目に掛かっていた。うん。それはそれで、素敵だ。
 私は別の手拭いで受け取った帽子を拭いてから、上着の雨雫を拭きとった。セーラーズボンの裾も色が変わっている。

「ズボンの裾が濡れてますね。脱いで干しておくのが一番なんですけど、生憎と男物の着替えはありません。せめて、浴衣でもあれば……」
「大丈夫です、そのうち乾きますよ」
「でも、脱がれた方が……」
「さすがに、それは」
「……ですよね」

 編集者と作家(志望)とはいえ、未婚の男女が夜の部屋で差し向いで、男がズボンを履いていない状況はいただけないだろう。松田さんは仕事でここに来たのだ。でも、その姿で原稿を読む松田さんを想像したら、安直な喜劇の一場面になってしまった。思わず笑う。

「変な想像しましたね」
「い、いいえ……」
「それで、原稿の進み具合は?」
「出来てます。社報の案件も」

 松田さんは原稿を受け取ると、壁際にドカッと腰を下ろして原稿に目を通しはじめた。
 私は社報の原稿を渡すため目を泳がせた。自分が置いた位置に社報がない。
 そうだ。父が動かした、と思い出す。なら部屋の端に書籍と一緒にあるはずなのに、どうしても私の目に止まらないのだ。勝手に位置を変えてほしくないのに。
 ああ、どうしよう? 焦ってきた。

「どうしました?」
「ここに置いていた社報の原稿が」
「これですか」

 と、傍らを指さした。

「そ、それです」

 声が上ずった。私の真正面の壁際に、書籍と並べて置かれていた。なのに意識が頭の中を上滑りして、認識してくれない。途端に自分が嫌になる。
 鬱々する自分を隠したくなり、どんどん目線が下がる。最後は畳を見つめた。
 これまでの付き合いで私がどんな人間なのか薄々気が付いているはずなのに、松田さんはそのことに触れてくることはなかった。それは嬉しい反面、怖い。
 私と松田さんの接点は小説だけだ。とりあえず協力関係にあるが、呆れ果てた途端に、私から離れてしまうのでは。それは嫌だ。考えただけで怖くなる。
 私が顔を上げると、松田さんが懐中時計で時間を確認していた。

「原稿はお預かりして、そろそろ帰りますね」
「は、はい」

 雨の音は依然として聞こえていた。雨脚が強くなっている。
 玄関に置いてある番傘を取りに向かった。

 ないぞ? 下駄箱の端にいつも置いてある傘が見当たらない。
 振り返ってみると台所から父が現れ、手に持った番傘を陽気に振り回していた。

「泊って行ってもらえ」

 私は顔を引きつらせて睨んだ。脱兎のごとく逃げる父を追いかけ台所へ飛び込み、傘を奪い取る。「成仏しろ」と吐き捨て居間に戻った。

「傘、ありました」
「……ええと。成仏しろ、と聞こえましたが」
「聞き違いです」

 不思議そうにしていた松田さんは、それ以上なにも言わず手箱に原稿をしまった。私は壁に掛けてあった上着を彼の肩から着せて、帽子を手渡す。
 そして玄関で靴を履いた彼に傘を手渡した。うん。夫婦って、こんな感じ?
 しかし松田さんが玄関の戸を開けると、二人とも固まった。
 土砂降りになっていた。
 松田さんは、どうしよう? と私を見返す。

「あらら……」

 これはもう仕方がない。私は息を吐く。

「泊っていきますか?」
「えっ?」
「傘じゃ追いつきません。そのまま帰ったら、松田さんは悲惨な目に、手箱の原稿はぐしょぐしょになります」
「確かに……でも、いいんですか?」
「これは、不可抗力です」
「なるほど……」

 土砂降りの雨の音の中、二人の視線が絡み沈黙が流れた。
 意を決して私は布団を引く。一組しかないことに、布団を引きながら気づいた。
 私は慌てて「ここで寝てください」と言ったが、松田さんが「居間で寝ます。布団は佳夕さんが使ってください」と遠慮する返答を受けて「いいえ。私が居間で」「いや、僕が」と押し問答の末、それじゃあ「二人で寝ましょう」ということに収まった。
 収まった途端、顔が激しく熱くなり、恥ずかしさで松田さんの顔を見れなくなってしまう。恥ずかしさを隠しながら、何か着る物をと、箪笥をあさる。
 父のものは何も持ってきてないので、結局、私の浴衣をお貸しすることになった。
 女物の、しかも寸足らずの浴衣を着た松田さんの姿に、ひとしきり笑った後、灯りを消して、私たちは一つの布団に入った。
 再び、沈黙が流れた。静まり返る部屋の中で、私の心臓の音がやけにうるさく感じる。
 隣の松田さんに聞こえるんじゃないかと思うと、恥ずかしさが増す。

「あの……」
「はい」

 松田さんは顔を向けずに返事をした。

「私、あの……どうしたらいいか……」
「僕も同じです」
「そうなんですか?」
「迷ってしまいました」

 その時、私には珍しく松田さんの心情が理解できた。
 据え膳食わねば、と真摯であろうとする気持ちが交錯している。
 真剣に悩んでいるその思いが、伝わってくる体温と共に流れ込んでくる。
 私は、松田さんのことが、多分好きだ。
 でも、それは多分であり、確実に、というわけではない。
 二人の気持ちが固まったなら、これ以上の関係もアリだろう。
 でも、今そんなことになったら、お互い後になって後悔するかもしれない。
 なら、私の答えはこれだ。

「私たちは、作家と編集者の関係ですよ」
「……はい。そうです」
「ですから、お互いにこれ以上を考えるのは、よしましょう」
「そうします……」

 これでいい。もう松田さんは、安易な考えに囚われて衝動的な行動をとらない。
 でも、私にとって初めての同衾。ドキドキ感が半端ない。
 なのに私は、少しだけ松田さんに寄った。腕と腕がふれあい、二人の体温が布団の中で混ざる。その感覚がとても心地よくて、私は安心感に包まれた。この気持ちは他の男性では無理だ。私は本当に久々に、すーっと眠りに落ちた。

 翌日、私は夜明けと共に目が覚めた。
 ぼんやりする視界に松田さんの寝顔が浮かび、昨夜のことが現実で、私はこの人と一晩同じ布団で寝たんだな、と幸福感を噛みしめた。
 もう起きよう。早起きして、松田さんのために朝食を作ろう。料理なんかほとんど出来ないのに、せめて白飯にお新香ぐらいは何とかなる。そんな思いを胸に秘めて台所へ向かうと、みそ汁のいい匂いがした。

「ん?」

 覗いてみると、父が台所に立っていた。

「なにしているの?」
「朝飯を」
「どうして?」
「だって、お前は作れないだろう」

 具の根も出なかったので、黙った。

「あのさ……」
「な、なに」
「既成事実を作っておけばよかったんじゃないのか」
「はあ!」
「だって、そうだろう?」

 卵焼きを作りながら、いきなり核心を突く言葉を投げられた。
 早く私に片付いてほしい父からすれば、昨夜は絶好の機会に見えただろう。編集者が旦那になれば、私の夢も現実味を帯びてくる、将来の心配も減るはずだ。でも私は選んだ。隣に立てるまで待つと。安易な関係は結ばない。それが二人のためになると信じる。

「それじゃあ、駄目なんだよ」
「どうして?」
「どうしてもなんだよ。お父ちゃん、口出し厳禁」

 すると父は、私をジト目で睨んできたが、卵焼きが焼きあがったので、器用にくるりと撒いて、まな板に載せて包丁で切り分けた。なんと、アジの干物まで焼かれている。
 二人分を盛り付けて、朝食の完成だ。私は何もしていないけれど……。
 部屋に戻ると、松田さんはすでに着替えていて、布団を畳んでいた。

「まだ、寝てていいのに」
「一度家に戻って、すぐに出社ですから」
「そうですか。あの、朝食を召し上がってください」
「えっ、ありがとうございます」

 松田さんは、驚いた顔をちらりと見せた。
 私は料理が出来ないと知っているので、彼はたまに食事に誘ってくれたり、店屋物を買ってきて差し入れしたりしてくれた。その私が、朝食を召し上がってください、と口にしたのだ。当然、私が作ったと思って驚いたのだろう。
 大丈夫です。ちゃんとした朝食ですから。
 私は居間にちゃぶ台を出すと、父が作った朝食を並べた。松田さんに座るよう促しながら、急須でお茶を入れる。松田さんの目が見開いていた。

「美味しそう……」
「冷めないうちに、召し上がれ」
「はい」

 初めにみそ汁を啜ると「旨い」、と呟く。
 続いて、アジの開き、ご飯、卵焼き、と松田さんの箸がどんどん進んでいく。
 顔がほころびそうになるのをぐっと堪えた。

「粗末なもので申し訳ございません」
「充分です。それに、とても美味しいです」
「よかった……」

 自分で作ったものではないのに、さも作りましたという顔に笑顔を足す。二人で朝食を食べるのっていいなあ、と私は細やかな幸せを、食事と共に噛みしめていたのだが。

 ついに来た。

「料理、出来たんですね」

 その言葉に胸がちくりと痛んで、私の箸が止まった。うん。そりゃ聞いてくるよね。
 全く料理が出来ないと知っていたから、当たり前だ。私は俯きながら少し考えて口を開く。嘘をつくことを許してください。

「勉強しました……」

 私の内心を知る由もない彼は「おお」と感嘆の声を漏らしてお茶を啜った。
 本気で料理だけは出来るようになろうと、私は心に誓う。
 朝食が終わり、身支度を整えた松田さんを玄関でお見送りだ。

「お世話さまでした」
「いいえ、このくらいのことは」

 同衾して共に食事する経験は、私にしばしの幸福感を与えてくれた。それが間もなく終了するのは惜しい。夜になって戻ってきたら「お帰りなさい」と言いたい。
 でもそれは、今はかなわない。

「それでは、行ってきます」
「え?」

 思いもしなかった言葉を松田さんが口にしたので驚いた。

「あっ、戻りますか。あはは……」

 彼は本気で照れているようだった。
 私は嬉しくて視線が泳ぐ。

「えーっと、そのあと会社に行くんですよね」
「はい」
「行ってらっしゃいませ」

 私は三つ指をついて頭を下げた。冷静に考えれば、ただの「夫婦ごっこ」だ。それでも私は心地よくて仕方ない。恥ずかしくて顔を上げられないので、このまま見送るか、と考えていたら、

「何だかこういうの、悪くないな」

 玄関を開けると、小さい声で零した言葉が私の耳に届いた。なので私は「はい」と、しっかりした返事をして顔を上げる。雨はすっかり止んでいて、外の景色は朝日に満ちていた。
陽光に照らされた松田さんの口元は、光を纏って優しく綻んだ。


※  ※  ※  ※


『5・盗難事件』

 何をしていても汗が滲む七月の終わりに、私の小説は完成した。後は松田さんにお任せするのだが、お盆過ぎまで体が空かないとのことなので、原稿はそのままに、連絡があり次第、博文社に私が持っていくことにする。
 次作を考えながら、会社や商店などから依頼された広報や会報などの執筆を細々と続けて、私は何とか食いつないでいた。
 そんな折「断罪」という小説が新聞に取り上げられた。
 これを執筆したのは「桜花枝垂」。女子修学院に在学する華族の子女だ。自由奔放に生きる華族の女性を主人公にしたこの小説は、とてもスキャンダラスで、最後は世間からの断罪により自死するという、悲劇を描いたものだ。今の世情と相まって、この作品は絶賛された。この「桜花枝垂」さんと私が関わり合いを持つとは、夢にも思わなかった。
 八月の初めに連絡が来て、同月の二十日に博文社へ。私は、久しぶりに松田さんに会えるのを楽しみにしていた。
 ほとんど眠れなかった私は夜明けとともに動き出す。お湯を沸かして体を拭い、次は鏡に向かって一生懸命髪を整える。化粧品はほとんど持っていなかったので、薄く紅だけ引く。持っている着物の中で一番いい着物(木綿)に袖を通す。後は財布を帯に差す。前日に用意した原稿入りの風呂敷をしっかり抱えて、お出かけの用意はすべて整った。
 様子をうかがっていた父に、にこやかに告げる。

「いってきます」
「原稿、なくすなよ」

 私は基本、モノを忘れて出かける常習者なので、前日にしっかりと用意して確認作業を何回もした。ですから、お父ちゃん、大丈夫です。仮に財布を無くしても、原稿だけは無くしませんから。
 家を出ると、今まで燦燦と輝いていた太陽は、少しだけ弱々しさを含んで見えた。
 もうお盆を過ぎたのだ。勢いよく鳴いていた蝉は数を減らし、夕方には蜩が夏の終わりを連れてくる。太陽の位置から、今は午前の八時ごろだと当たりをつける。
 私は竜泉町を歩き出した。馬車鉄道と人力車を乗り継いで、本郷弓町の壱岐坂近くに建つ博文社にたどり着いたのは、日も高くなったころだった。
 東京に住んで一年ほど経つが、殆ど下谷や浅草から出たことのなかった私にとって、まだ府内は未知の世界。馬車鉄道を降りてから人力車を使わなければ、本郷には絶対にたどり着けない自信がある。

 博文社に到着してロビーで松田さんを待っているときに、事件は起こった。

 受付を済ませた私は、ロビーのソファーに座っていた。入口から女学生が数名入って来るのが見えたので何気にそちらへ顔を向けると、彼女たちも私を見た。そして何か小声で話し合うと、突然、取り囲むように私の前に集まった。

「あの、作家さんですか?」
「え?……まあ、一応、そうなりますが。何か?」
「お話を聞かせてください。私たち、作家の卵なんです」
「いいえ、お話しするようなことは……」
「そう言わずに、是非!」

 中の一人が私の隣に座り、身を乗り出してくる。

「どんなものをお書きなのでしょう?」

 彼女は私の手を握ってきた。
 とっさに振りほどくが、その女学生はしつこく私の手を取った。
 私がひどく騒いでいたので、受付の女性がこちらへ歩いてきた。

「どうしました?」
「すみませーん」

 この声を合図のように、女学生たちは一斉に博文社から出て行く。
 まるで飛び去る鳥たちのようだ。

「えっ!」

 その時、私は目撃した。中の一人が、私の原稿が入った風呂敷包みを手にしていたのだ。一瞬間違いかと思い、隣に置いていた風呂敷包みを確認すると消えていた。ここから私の混乱が始まった。いつも物をどこに置いたかわからなくなるので、ソファーの後ろや下を覗いたりしながら、ようやく盗まれたと認識して、私は博文社の外に慌てて駆け出す。後の祭りだった。女学生の姿はどこにもなかった。
 
「盗まれた……」

 呆然としたまま、膝から崩れ落ちた。
 背中越しに松田さんの声が聞こえたが、私は振り向けなかった。

 原稿を盗まれるという不測の事態に、私は打ちひしがれて家に戻った。松田さんが付き添ってくれたが、彼もどうして良いかわからず、言葉を掛けあぐねていた。

「会社に戻ります、何かわかったかもしれませんので」

 そう言い残し、松田さんは帰って行った。
 彼がいなくなると、私は部屋の隅で蹲った。何もする気にならないどころの騒ぎではない。息をするのも辛いほどの泥沼の底に落ち込んで、私の思考は何度も何度も同じことを後悔する。なぜ、大事な原稿を膝の上や、腕に抱いていなかったのか。私が悪い、とくり返し自分を責め続けた。
 既に涙は枯れていた。蹲った私の視線の先には、畳の目だけが広がり、一層の虚無感を与えてくれる。事態を重く見た松田さんや博文社は警察を呼んで捜査をお願いしたが、この時点で原稿がないのなら、明日行われると聞いた編集会議には間に合わない。来春の新刊への掲載がほぼ絶望的なのは、言われずともわかっていた。

「……なんのために?」

 女学生たちが私の原稿を盗んだのは、ただの好奇心からなのだろうか?
 理由はわからなかった。作家が努力の果てに書き上げた原稿を盗む行為は、その作家の命を奪うのと同義だと思い至らない彼女らが、作家の卵だと名乗るのは烏滸がましくて腹が立つ。
 彼女たちの雰囲気から察するに、あの女学生たちは華族の子女だろう。面白い遊びのつもりであんなことを仕出かしたのか?。

「か、佳夕……」

 傍らで父がおろおろしているのが伝わってくる。
 父も私の名前を呼ぶのが精一杯のようで、後の言葉は続かなかった。
 私は一番気になっていたことを口にする。

「私の原稿はどうなったんだろう?」
「それは、まだわからない」
「破り捨てるの? それとも、証拠隠滅のために燃やしてしまうの?」

 私の原稿が燃やされているのを想像したら、もう駄目だ。腹の中でふつふつとしていた怒りがついに胸を焦がし、炎を上げた。鬱状態のときにこんなになるのは初めてだった。炎は狂いそうなほどの激しい感情を伴い、私の口から吐き出て爆ぜた。「私の『咲くや此花』を返せ!」絶叫と共に立ち上がると、私は手当たり次第に物を投げ捨てて暴れまくった。

「ちくしょうーッ、ふざけるな!」

 力の限り暴れまくり、その代償が居間一面に広がった。その真ん中に転がった私の嗚咽が止まらない。みっともない泣き声が、部屋に響き渡った。

 その翌日、私の左手の甲が腫れあがっていた。
 我慢を強いればそのうちに治るだろうと、放置する。
 今の私には沈んだ心にあらがってまで病院に行く気力はなかったので、丸一日放置していたら、より痛みが増した。それを見咎めた父に医者に行けと叱られる。
 午前中に診察に行くと、折れていた。悪い時に悪いことは重なるものだなあ、と自分の運を呪いつつ、利き手じゃなくてよかった。不便だけど右手があれば何とか生活は出来る。書くことも出来るから、そんなに悲観しなくても……でも、大切な原稿が……、と堂々巡りの思考をくり返し、結局心が萎えてしまう。
 もう、あの時のような心の炎は上がらなかった。
 治療を終えて家に戻り、何をするでもなく、ただぼんやりとしていた。
 痛み止めの薬が効いてきたのかうとうとしていると、父が誰かと会話しているのが聞こえてきた。人が訪ねてきて父が会話している。誰と? 私以外に父の姿は見えないハズだし、まして会話……すると、

「それは本当ですか!」

 大声を上げた父は私の傍にくると、妙なことを言い始めた。

「博文社に住んでいる御霊の幸恵さんが原稿を見つけてくれたぞ、盗んだのは学習院女子の……」

 父は何を言っているんだろう?言葉は私の意識に届く前に、眠りの中に霧散して消えていく。薬のおかげだと思う。
 私は翌日の昼前まで、ぐっすりと寝ていたのだ。布団も引かずに。
 目が覚めると父の姿はなかった。

 その日の夕方、松田さんが人を連れて尋ねてきた。若い女性だ。私に向かって頭を下げる彼女の髪はマーガレットに結われて、えんじ色のリボンが揺れている。黒鳶色の大きな瞳に陶器のような白い肌。ほっそりとした体形なのに女らしい曲線を描き、女学生の制服が似合う奇麗な人。私とは生まれも育ちも違う、別世界(華族)の女性だった。でもなぜ、松田さんがこの人を連れてきたのか。

「佳夕さん、貴方の原稿が見つかりました」
「えっ?」

 寝過ぎてうまく働いていない私の頭は、その言葉で一気に目覚めた。

「本当ですか!」
「はい」
「原稿はどこにあったんです?」
「それが……」

 松田さんは一度言葉を濁したが、口を開いた。

「僕のデスクの上に」
「は? それはどういう……」

 朝出社したら、デスクの上にあった。社内で聞き取りをしても、原稿を誰が置いたか誰も知らない。とにかく見つかったので、警察に連絡を入れようとしていたところに、彼女が現れて、事態は複雑になった。 
 原稿を盗んだのは、彼女が主宰する文芸同好会の女学生たちだと言う。

「初めまして、桜花枝垂と申します」
「桜花枝垂って、断罪の作者の……?」
「そうです。上がってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」

 框から上がってきた枝垂さんは、私の前に正座した。
座布団を彼女の前に置いたが、それには座らず横にずらすと、松田さんから「咲くや此花」の原稿を受け取って私の前に差し出した。
 それから私に対して深々と頭を下げる。土下座だ。
 華族の子女が、それも今をときめく「断罪」の作者が、私に対してとった行動に、唯々驚くばかりだった。

「申し訳ございませんでした。同好会の彼女らの行いは、けっして許されるものではありません。今更謝ったところで取り返しがつかないことは承知しています。けれど、私は謝らないわけにはいかないのです。ご迷惑を掛けました」

 枝垂さんが主宰する文芸同好会の人が盗んだので、彼女が謝罪するのは当然かもしれない。けれど、原稿は出てきた。来春の掲載は無理でも次に期待すればいい。なので怒る気にはなれなかった。ただ、原稿を盗んだ理由を知りたい。

「なぜ、私の原稿を?」
「博文社の来春の新刊には、私か佳夕さんの、どちらかの作品が掲載される予定でした。つまり私たちは、ライバルだったのです」
「えっ? 初耳です」

 思わず松田さんを見ると、苦い顔をして頷いた。私みたいに道端の雑草が、新聞で取り上げられ絶賛された華族の花の競争相手とは信じられない。これはきっと、松田さんが私の小説をゴリ押した結果に違いない。でなければ、あり得ないことだろう。

「でも貴方の原稿がなくなり、その結果、私の新作の短編が来春号に……」
「えっと、つまり……」
「彼女たちは私のためを思って盗んだのです」

 ああっ、と思った。これで点と点がつながり納得がいった。彼女たちは尊敬する桜花枝垂を勝たせたい一心で犯罪行為に手を染めたわけだ。でも、警察が動いているのだ。このことが露見すれば、枝垂さんをはじめ、文芸同好会は無事ではいられないはず。そのことに、彼女たちは気づかなかったのだろうか。

「文芸同好会は解散しました。私は作品の掲載を辞退します。なので、烏滸がましいのは承知していますが、彼女たちを許していただけませんか?」

 この時私は、思わず笑ってしまった。
 失礼にもほどがある態度だ。

「ごめんなさい。でも、本当におかしくて。次から次へと、色んなことがありすぎます。新人とも呼べない私の小説が博文社の書籍に掲載されるかもだったり、原稿が盗まれる。桜花枝垂さんが私のところにお越しになり、頭を下げる。もう頭が付いていきません。……それに、私をライバルと呼んでくれて」

 枝垂さんが実際どんな人なのか、私にはわからない。けれど、不正を喜ぶ人じゃないのは確かだ。

「もう充分です。原稿を届けて頂き、ありがとうございます」
「それから」

 彼女が顔を上げて、鳶色の瞳を向けてきた。

「失礼ながら、咲くや此花を読ませてもらいました」
「読んだのですか?」
「はい。同好会で借りている部屋の戸棚から、私が偶然その原稿を。作者の名前を見て、息が止まるほど驚きました」

 博文社の編集会議にかけられるはずだった私の原稿は、女学校の一室の使われていない戸棚の引き出しの奥、古い資料の下に風呂敷包みのまま置かれていたらしく、資料を探していた枝垂さんの目に留まったらしい。

「少し目を通すだけのつもりでした。読みはじめると止まらなくなってしまって、結局、最後まで」
「感想は?」
「チクショウーっ、ですわ」
「え? ええ……あ、はは……」
「うふふ……」

 私たちは笑いあった。まるで昔から知り合いだったみたいに。彼女の目は、稲毛の飛行場で出会った奈良岡さんと同じ、奥底で輝く奇麗な光を持っていた。私も同じ目をしている。だから私たちは、いとも簡単に同調したのかもしれない。

「でも、私の原稿が松田さんのデスクに置いてあったのは?」
「わかりません。とにかく事情を知ることが先だと、彼女たちを同好会室に集めたら、置いていたはずの原稿がなくなっていたのよ、これはミステリーだわ」
「そうですね」

 私たちはまた笑った。

「あなたがこれを題材に一本書く?」と枝垂さん。
「私には、荷が重すぎます。そちらがどうぞ」と私。

 松田さんは、呆れて困惑したような顔で私たちを見ていた。
 でも、彼はどこか楽しそうだ。
 私には、このミステリーの確信に心当たりがあった。きっと父の仕業だ。
 夢うつつで聞いた「博文社に住む御霊のなんとかさんが、原稿を……」の言葉の後、父の姿が見えない。探し出して取り戻し、松田さんのデスクに置いた。これが真相だろう。でも、さすがにこれは言えないので、黙っておく。

「これは提案ですが、養育院などの施設が発行している会報や広報などに、佳夕さんの咲くや此花を載せることはできませんか? きっと、この物語を必要としている人がいると思います」
「施設ですか? 佳夕さんさえよければ、当たってみますが」

 私が書いた「咲くや此花」は、人とうまく接する事が出来ず、生き辛くて仕方がない女性が、ただ一つの特技、「梅の絵」を描くことで、人として成長しながら、画家として生きていく物語だ。主人公の女性は、ロシアとの戦争で父親を亡くした孤児。世間から疎まれた主人公に、私は自分自身を重ねていた。理解されなくても行動する彼女に感銘を受けた人たちが、壊れかけた人生を再生していく。それが、彼女の生きる原動力になっていく、この物語は、否応なく世間の仕組みから外れた人たちに届くかもしれない。そう考えると、心臓がはねて、心が躍った。実現すれば、これほど嬉しいことはない。

「お願いします!」
「ただそうすると、発表された作品は、博文社の新刊次号などには掲載できません、それでもかまいませんか」

  かまわない。物語というのは、必要とする人に届いてこそ価値がある。文芸雑誌に載せるなら、次回作で挑戦すればいい。そう話すと、松田さんは拳を握りしめて頷いた。

「やってみましょう」
「でしたら、すぐに動いてくださいね」

 枝垂さんは、原稿を松田さんに手渡した。

「わかりまし……?」

 口籠った松田さんが私の顔を凝視する。つられて枝垂さんも私を見返す。

「なにその顔? 馬鹿みたいよ」

 枝垂さんは笑いながら呆れていた。

「だって、とーっても、楽しいなって」
「気持ちはわかるけれど、だらしないわ」

 どうやら私は、だらしない程の笑顔らしい。
 松田さんもくすくす笑っていた。

「それでは、行ってきます」

 原稿を手に持ったまま、松田さんは出て行った。
 松田さんを見送った枝垂さんは、すくっと立ち上がると、

「私もこれでお暇します」

 そう告げて彼女は玄関に降りた。

「色々とありがとうございました」

 今度は私が正座して頭を下げると、枝垂さんは少しだけ笑った。

「貴方は本当に変わっているわ。いいえ、普通の人には理解できない感性の持ち主なのでしょう。けれど、私はあなたが気に入りました。いつの日か、同じ書籍の上で、競ってみたい」

 私は彼女の著書「断罪」を読んだことがなかった。けれど、新聞の評価でもわかる通り、その才能は素晴らしいものがあるだろう。その彼女から、これほどの賛辞を頂けるとは思ってもみなかった。光栄の一言に尽きる。
 私は目頭が熱くなった。

「いつの日かきっと、それまで努力します」
「私もよ」

 私の原稿が盗まれたおかげで、結果、いい人に出会えた。
 必ず「断罪」は読まなければと、心に誓う。
 枝垂さんが玄関を一歩出たその時、知らない男性の声が聞こえた。

「紀子、迎えに来た」

 声の持ち主が、玄関の戸の陰から顔を出した。長身で面長の顔で髪は七三分け。紺の上着をきたその男性は、松田さんより若く見えた。

「兄さん。どうしてここに」
「迎えに来たと言っただろう?」

 そう聞くと、確かに顔が似ている。
 彼は枝垂さんの肩をポンと叩くと、後は任せろという態度で、ずかずかと玄関に入り込んできた。

「博文社の飯島亨だ。松田さんの後輩で、紀子、いや桜花枝垂の兄だ。あんたが小泉佳夕か?」
「はい、小泉佳夕です」

 突然現れた枝垂さんの兄に対して、私は少なからず驚いた。自己紹介にしては不遜な態度だからだ。兄弟なので勿論顔は似ていたが、態度がまるで違う。私に対する視線は、それが当たり前かのような上から目線だった。庶民に対する華族の振る舞いとでも言ったらいいだろうか。

「兄さん、やめて」
「話していないか?」

 飯島さんは眉をひそめると、枝垂さんを責めるような顔をして呟いた。

「まったく……」
「その話は関係ないわ」
「いいや。ちゃんと伝えないと、図に乗るばかりになる」
「やめてっ」

 枝垂さんが強く制したが、彼はそれを意に返すことなく私に近寄ってきた。
 何の話かわからないが、二人の言動で、よくないことだというのは察せられた。聞きたくはなかったが、私の気持ちを他所に、彼は強い口調で私に告げた。

「松田さんは、紀子の婚約者だ。知ってたか⁉」
「えっ!」

 予想すらしていなかった内容に、私は驚きを隠せなかった。
 松田さんから一言も聞かされていない。信じられない思いで枝垂さんを見ると、彼女は気まずそうに俯いていた。彼女が誰と婚約してようと関係はないが、私の担当編集者と「断罪」の作者が婚約者同士なら、先ほどの三人の会話はなんだったのか。そう考えると、途端に嘘くさいものに感じられた。結びつきは二人だけで、私はただの被害者。二人はその救済に来たということなのか。

「その顔は知らなかったみたいだな」

 喉が詰まり、問いに対する言葉が出なかった。

「彼は担当なので親しくするのは当然だが、ほどほどに」

 私は重い口を開く。

「……ほどほどって、なんです?」
「分不相応なことをするなよ、っていう意味だ。松田さんはアンタに入れ込みすぎなので、釘を刺しにきたんだ」

 私と松田さんは編集者と作家の関係だ。けれども裏切られた気がしてしまった。
 傍にいてくれていると思っていた人が、本当は別の人の傍にいた。


※  ※  ※  ※


『6・悪霊』

 どのくらいそうしていたのだろうか。
 私は玄関前に俯いて座ったままでいた。
 もう二人の姿はなかった。
 玄関の戸は閉まっていたけれど、戸の格子から入り込む夕日が、長い間そうしていたと教えてくれた。気が付くと、父が私の隣に座っていた。父は項垂れて下を向いている。

「……お父ちゃん。いたんだ?」
「話は聞いていた、佳夕を弄びやがって」
「ただ事実を告げられただけ、私は松田さんに頼りすぎた」
「そうじゃない」

 父の呟きに違和感を感じたが、それは一瞬のことだった。
 長い夢を見ていた気がする。出会って、勝手に舞い上がり、振られた気になって落ち込んだ。結局依存しすぎたのだ。私は人間関係を上手く構築できないから、距離感がおかしい。自分の性質に振り回され、挙句に躁と鬱をくり返す私の心は、人の機微がよくわからないというか、思い至れない。なので肝心なことを見落とす。
 書くのは辞めよう。
 結論が出るまで、ほぼ三ヶ月の日にちを要した。
 つまり、筆を折る決心がついたのだ。
 枝垂さんが認めてくれた私の才能は、幻影だった。
 その証拠に、もう何も思い浮かばず、一行すら書けなくなっていた。
 「咲くや此花」が、私のベストだったということだ。
 だったら、ここで終わろう。とは言え、これからどうしたらと思案しても、私に就職はできる気がしない。稲毛に戻ることも憚れる。となると、父が生前押し進めようとした見合いが、至極真っ当なことに思えてきたから、嫌になる。
 そんなことを考えていたら、ふと、青木さんの顔が浮かんできた。

「会いたいな」

 と呟いた途端に、涙があふれてきた。
 弱くなったなと思った。父が亡くなり一人になったけれど、私には小説があるから大丈夫だと考えていた。けれど、私の中には孤独感があり、本当に一人になるのを恐れていた。
 松田さんが私の傍にはいられないことを知り、一人なのだという事実を突きつけられて、次に青木さんの優しさに縋りたいと涙した。
 弱いうえに、嫌らしい。いつから私は、こんな女になっていたのだろう。
 こんな状態で青木さんに会えば、必ず迷惑をかける。私は元気で生きています、と報告できる状態になるまでお預けだ。とはいえ、元気な状態になるにはどうしたらいいのだろうと考えると、残念ながら途方に暮れてしまう。
 自立って、難しい。
 生きるって、困難だ。
 世の中には自立して一人で生きている女の人は沢山いる。その人たちは強く、弱い女は男にすがって生きていくしかないのか。それは嫌だと拒絶しても、私のように生きづらさを抱えている女は、それ相応の場所に身を置くしかないのかも。
 年寄りとの婚姻、妾、はては遊郭とか。
 結局、性を売り物にすることで、自分の生を繋ぐ。
 この時『死』という言葉が、実感を伴って、初めて私の心に横たわった。
 戸惑いも恐れも感じなかった。むしろ『死』は、私に対する唯一の救済だと思えて、静かな安堵さえ感じていた。

「もう、死にたい」

 その呟きに、死んでいる父から苦言が出た。

「簡単に死ぬって考えるな。今さっき、会いたいなって呟いただろう。辛い時に、会いたい人がいるなら、会ってくれば……」

 父の言葉が途中で途切れた。たぶん、私が会いたいのは松田さんだと思ったのだろう。青木さんのことは父には話していない。今青木さんに会ったら、私は身も心も青木さんにすがりかねない。それは、彼の誠意に対する裏切りになる。
 私は首を横に振った。

「余計なことを言ったな。すまん」
「……」
「でも、父親の前で死にたいって言われたら、辛いなあ」
「だよね。ごめん」
 
 自死というのは、一歩踏み出す勇気さえあれば、いや、その勇気を上回る感情を手に入れれば、途端に身近なものになるのだろう。でも、私はその手前で足踏みをしている状態だ。とりあえずは大丈夫なはず。
 そんな後ろ向きな感情と対峙しながら一晩過ぎると、現金なもので、私の体は空腹を訴えていた。空腹を感じるということは、生きたいと体が願っているのだと、父が喜び勇んで食事を作ってくれた。なんと「文字焼き」だった。
 「文字焼き」は、溶かした小麦粉に味つけをして、それを鉄板で焼いた食べ物だ。父が作ってくれたものには、刻んだキャベツが入っていた。
 とても簡素で簡単な食べ物で、私は子供のおやつという認識を持っていた。けれども今の私には負担を感じずに箸を伸ばす事が出来た。
 正直、美味しかった。
 昨日まで「死にたい」と思っていたのに、あっという間に一皿ぺろりとたいらげたので、何だか気恥ずかしい。
 特に何かが解決したわけじゃないのに、昨日までの思考と今の思考には乖離があった。現実を直視して自分の殻に引きこもっても何も変わらないのなら、終わりが来るその日まで、のほほんと生きる。それでいいのではなかろうか。
 少し腹ごしらえをしただけで、この変わりようだ。
 既に死の崖っぷちが見えなくなるほど、私の心は距離を取っていた。
 本当に、現金でごめんなさい。
 自分でも、呆れています。
 食べたらさらにお腹が減った気がして「もう一皿食べたい」と懇願しかけたとき、見れば父の視線が玄関にくぎ付けになっていた。不思議に思い「どうかした?」と尋ねると、父は玄関に向かって恭しく頭を下げた。

「お久しぶりです」

 誰もいない玄関に挨拶して、父は微笑み掛けている。意味不明で私が困惑していると、父は「そうか、見えないのか」と呟くと、私の手を握ってきた。

「なにするの?」
「感覚を共有する。俺と一体になったつもりになって、意識を玄関に向けてみろ、きっと見えるはずだ」

 言われたことが分らず、眉間に皺を寄せて父を見返したが、「いいからやってみろ」と強く言われて、私は仕方なく言われた通り、意識を集中して前を見たが、玄関がそこにあるだけだ。

「何なのよ、これ?」
「一体感が足りない、共有すると言っただろう」
「はあ……」

 よくわからないが、感覚を共有する感じを思い描き、もう一度玄関に向かって意識を集中───!

「うわああ!」

 今まで誰もいなかった玄関に、和服の女性が突然現れた。藤色の着物にねず色の帯を締めている。髪は夜会巻き。年のころは三十歳過ぎだろうか。色白の丸い顔立ちをしていて、私に向かって優しく微笑んでいた。現実感ばっちりに見えるが、間違いない。この女性は、父と同じ「御霊」さんだ。
 思わずその姿に、ごくりと唾をのんだ。父以外の幽霊に会うのは初めての経験なので、どう対処すればいいのか分らない。

「ど、どちら様でしょう?」
「坂口幸恵と申します。ええと、佳夕さんでしたよね。よろしく」
「あの、父とはどういった御関係で?」
「いきなり難しいことを聞かれちゃった、どう答えるのが正解かしら」

 おどけた顔をして告げると、ついでに「えへっ」と笑った。この御霊さんは社交的なようだが、口調はおっとりとしている。
 私はただ、どこで知り合ったのか聞いただけのつもりだったのに、こんな言い回しをされると変に深読みしそうになる。なので「なに、この人」と思いながら父を見たら、なんと、父が顔を赤くしていたから、驚いた。

「おーい、どういうこと!?」
「だから、その……なんだ? その件はさておいて……」

 父から明確な返事はなく口籠るばかりだ。いくら御霊同士とはいえ、若い女をひっかけた挙句、うちに連れ込むとは、いい度胸だ。
 私が睨んで見据えると、父は一つ咳払いして姿勢を正した。

「この人が、佳夕の原稿の行方を教えてくれたんだぞ」
「えっ?」

 そういえば私が原稿を盗まれてふさぎ込んでいた時、父が誰かと話をしていた気がする。あれは、この人だったのか。博文社に住んでいる、と聞いた覚えがあった。それじゃあ、あの日あの時、幸恵さんは現場にいて、盗難を目撃したのだろう。尋ねてみるとその通りで、彼女は原稿を盗んだ女学生たちを追いかけて、逃げ込んだ先を特定すると、その情報を伝えにうちまで来てくれたのだった。そして父を連れて女学生の寮に忍び込み、原稿を奪い返すと、その足で博文社に行って、松田さんのデスクに置いてきた。
 なるほど、と膝を叩いた。ここは感謝を伝えるべきだろう。

「ありがとうございました」

 私は頭を下げて幸恵さんにお礼を述べたが、それはそれとして、二人の関係を正すのは娘の務めではなかろうか、と強く思う。だって、年齢差が二十歳以上あるだろうから。

「それで、二人は付き合っているのかな?」
「まだなのよ。私から告白したのに、この人ったら『うん』と言ってくれなくて」

 幸恵さんが、なにやら爆弾発言をしたぞ。

「だって、年齢差を考えたら……常識的にも」

 おっ、真面なことを言い出したぞ、と少しだけ父を見直した。そこに思いが行くなら、よくも私に年寄りとの見合い話を進められたものだ。
 まあ、しかしだ。この歳になって女性から言い寄られるとは。幸恵さんはおっとりした口調でも、自分の考えを真っすぐに言葉にできる人なので、父はタジタジになっている。

「でも、それは置いておいて……」

 幸恵さんは框に腰かけると、私に向き直った。

「今日は佳夕さんにお話がありまして」
「私に、ですか?」
「松田さんに付いて、どうしても伝えておきたくてね」
「えっ? 松田さんのことですか」

 幸恵さんは頷くと、こんな話をしてくれた。
 生前、幸恵さんは博文社の社員だったらしいが、仕事中に突然胸が苦しくなり、そのまま死んでしまった。それから約三年、博文社に住み着いているらしい。
 死んでからも、彼女のおっとりした言葉遣い通りの、お気楽な死後の生活を満喫中なのだろう。けれど、それでいいのか? 成仏は……?

「いやー、私の人生、仕事以外何もなかったって、死んでから気がつきました。ですから今は、自由気ままに浮遊を続けて楽しんでます。これは、つい最近のことなんですが……」

 散歩に出かけようと、いつものように壁をすり抜けて社長室に差し掛かると、社長の松田幸助氏と松田さんが言い争いをしている最中だったそうだ。
 驚いたことに、博文社の社長と松田さんは親子だった。同じ姓なので、もしやと思い幸恵さんに尋ねると、そうですよと頷いた。
 私はその事実を初めて知った。親子関係で同じ会社に勤めているなら、それは跡取りということだ。
 幸恵さん曰く、松田家は明治維新以降、出版会社を設立して成功を収めたが、士族のため華族と比べれば地位は低い。
 なので、華族との婚姻は喜ばしいもの。また、経済的に困っている華族も多く、双方に利益があるのが、婚姻なのだとか。
 聞く限り、松田さんが華族の子女、枝垂さんと婚約しているのも頷ける話しなのだが、何処か腹立たしい。
 ところが、幸恵さんの話を聞き進めるうちに、別の事情が見えてきた。松田さんに結婚の意思がなかったのだ。

『お断りします』

 松田さんは父親である社長に、きっぱりとこう言い放った。
 社長は『結婚しろ。縁談は両家の話し合いで決まったことだ。それにこの話は会社のためだ。お前だけの問題じゃない』と不機嫌そうに告げると、席を立って部屋を出て行こうとしたらしい。
 本人の意思を無視されたと思ったのか松田さんは、ならば『会社を辞めて家を出る』と宣言したそうだ。

「この後、佳夕さんの話が出ました」
「私の?」
「はい。部屋にどどまった社長が松田さんを睨みつけて『会社や社員のため』とか『今まで何不自由なく暮らせたのは誰のおかげだ!』と言って松田さんを責め立てましたが、松田さんは動じませんでした。ところが、『佳夕とかいう物書きのせいか?』と社長が口にしたとき、松田さんの顔に動揺が走りました」
「そ、それで……」

 社長は『有名な作家の弟子でもない物書きが、どうやって文壇に出て行くのか。よしんば出れたとしても、すぐ潰れるだけだ』と黙ってしまった松田さんにピシャリと告げると、松田さんはこぶしを握り締めた。

『僕は編集者です、そうならないように導きます』

 真っすぐな意思表示だったが、無論その態度は社長の逆鱗に触れた。

『いい加減、諦めろ』
『僕が諦めたら意味がない。それは出来ません』
『あの女のどこがそんなにいい!?』

 ちょっと待ってほしかった。松田さんは編集者と作家の関係を話しているのに、社長はそうじゃない。男と女の関係を問うている。

「そんなことを、社長が言ったんですか?」

 幸恵さんはこくりと頷くと、私に向かって意味ありげな笑みを浮かべた。

「ここからが肝心なお話なのよ」

 なんだろうか。やけに緊張してきた。

「そ、それで」

 幸恵さんは少し口角を上げる。
 松田さんは静かに、それでもはっきりとこういったそうだ。

『生きづらさを抱えた脆い女性だと思います。それでも彼女は諦めず、真っ直ぐ目標に向かうその姿に心を動かされました。彼女の夢がかなうとき、僕は彼女の隣にいたいんだ』と。

「その時私は思ったのよ。ああ、彼は、佳夕さんに寄り添うつもりなんだ。この先も、ずっと」
「それは結婚されても出来ることでは」
「もー、鈍感ね。社長はすぐに彼の気持ちに気づいたわよ。だからね、こんなことを言ったのよ」

 幸恵さんの顔が曇る。次に続く社長の言葉は私をだしにして、松田さんに決断を迫るものだった。

『だったら、自社の文芸誌に彼女の作品をねじ込んでやる。無名の作家が有名どころの作家と肩を並べるんだ。これほどのことはないだろう。そのかわり、これ以上、あの女にかかわるな』

 悔しかった。私に枝垂さんほどの才能があれば、社長からそんな言葉を投げかけられることはないはずだ。
 編集者としての仕事に結婚を持ち出されたのだ。松田さんはさぞかし困っただろう。私としてはいたたまれない。

「松田さんは、何と答えたのですか?」
「随分考え込んでいたけれど、断ろうとしたんじゃないかな。険しい顔で社長を見据えて、口を開こうとしたんだけれど、その前に社長がね。

『傍にいるだけがお前の出来ることじゃないハズだ、編集者なら作家の将来を潰すなって』

 そのうえで社長は、結婚すればすべて丸く収まるから了承しろ、と強く迫ったらしい。こんなの、私を使った脅迫にとれてしまう。士族が華族なみの地位を得るには、たとえ子供でも道具に使う。これが上流階級の方法論なのか。
 私は松田さんのことを、何不自由なく暮らしてきた人だと思ってきた。実際にそうかもしれないけれど、彼は彼なりに、自由を奪われて、挙句に犠牲を強いられている。結婚は、本来喜ばしいことなのに。

 その時、今まで黙って聞いていた父が口を開いた。

「それで、松田さんはなんと答えた?」
「彼はしばらく逡巡すると、諦めたように頷きました」

 私は目を閉じた。胸が痛い。

「ふざけるな!」

 彼の決断が気に入らなかったのだろう。俯き加減だった父が声を荒らげた。
 父はそのあと、何か考えているように視線を泳がせたると、再び顔を伏せる。
 その目が、怖いほど座っていた。こんな父は初めて見た。

「お父ちゃん、そんなに怒らなくても」
「佳夕の幸せを邪魔しやがって、あの女め!」
「ちょっと、なに言ってるの」

 と、声をかけたその時、父の姿が流れるように宙に消えた。

「え、え!?」

 消えた父が、どこか尋常でない空気を伴っているのを肌で感じた。
 完全に様子がおかしい。

「あっ、これはイケないかも。探してくる」
「お願いします!」

 私が懇願するように頭を下げると、框に腰かけていた幸恵さんは立ち上がり、玄関に向かって一歩進む。その姿が、ふっと消えた。

 それから一晩経っても、二人から何の音沙汰もなかった。
 塞ぎこんでいた自分の感情と少しだけ折り合いがつけられた矢先に、不穏な空気を残して父が失踪……、とまでは言わないが、心配事が増えたことに変わりはない。それにだ。幸恵さんが「これはイケないかも」と言った言葉も気になった。
 なんにせよ私には出来ることがないので、待つしかなかった。
 それから二時間ほど悶々とした時間を過ごしたが、昨日から父が作ってくれた文字焼きしか食べていなかったので、どうにもお腹が減ってきた。
 なので何か買ってこようか、それとも食べてくるかと、箪笥から財布を取り出し中身を確認したら、思わず「げっ」と呟いた。殆どお金がなかったのだ。

「そりゃあ、そうか……」

 働かずにお金を借りて暮らしていたのだ。けれども家賃は払わなければならないし、油代もかかる。必要なお金は必要な分だけ出てゆき、やがて底を突く。
 今や私の財布には三銭あるだけ。蕎麦は食べられるが、食べたらそれで終わり。今更だが、落ち込んでいても仕事はすべきだった。

「ああ、どうしよう」

 そういえば、この三ヶ月の間、松田さんは尋ねてこなかった。きっと婚約を了承したので、私から距離を置いたのだろう。だが、それなら、私の書いた「咲くや此花」は博文社の書籍に掲載されて原稿料が入る。次作が書けないとしても、会社の広報などの仕事は出来る気がする。
 目的を持たず「生きるために生きている」ことに私は否定的だ。でもこの社会に存在し続ける限りお金は必要で、私のような庶民は働かなければお金が入らない。
 博文社に行こう。
 広報などの仕事をまわしてくれた会社や自治体に直接交渉に行く許可を取り、出向いて仕事を貰い、また他社に自ら営業をかけてみる。
 私は結局、文章を書くしか能のない人間なのだと、改めて思い知った。
 父のことを心配しつつ、身支度を済ませて玄関で草履を履きながら、人力車は勿論、電車にも乗れないので歩くしかないな、と覚悟を決めた。その時だ。

「こんにちは」

 玄関の外から女性の声がした。

「はい……」

 幸恵さんの声ではなかった。彼女は御霊さんなので、私に気づけば玄関の戸を素通りして入ってくるはずだ。
 誰だろうと戸を開けると、驚いたことに枝垂さんが立っていた。

「ごきげんよう」
「……お久しぶりです」

 素っ気ない声が出てしまい、思わず下を向いてしまう。

「酷い顔。それに随分と痩せたわね。ちゃんと食べてる、病気かしら?」
「大丈夫です。申し訳ありませんが、今から出かけるので」
「なら、よかったわ。私と一緒に来てくださる?」
「はい?」
「どうしても、貴方に見せたいものがあるの」
「なんですか?」
「来ればわかるわ」

 枝垂さんが、小首をかしげて微笑んだ。何がよかったのか知らないが、返事を聞かずに、彼女は強引に私の手を引いた。有無も言わせない態度に、私は呆気にとられて従った。どこに行くつもりなのだ。
 連れていかれたのは、私の住んでいる長屋のすぐ近く、下谷竹町にある養育院だった。ここは藤堂藩中屋敷があった場所で、その跡地に建っている。
 木造二階建ての大きな養育院の入り口には、突き出た瓦ぶきの屋根があり、日差しを遮り地面に影を落としていた。
 枝垂さんは何の躊躇もなく、影の奥にある入口の扉を開けて中に入った。私もそれに続く。広めの玄関は思ったより明るかった。
 左右に伸びた廊下の窓から外光が溢れている。右には靴箱が並び、その上に養育院生が書いたと思しきひまわりの絵が飾ってあった。子供が描いたのだろう。上手い絵ではなかったが、色遣いや構図が大胆で夏の躍動感を感じた。
 私は枝垂さんに促されて、左手奥に伸びた廊下を進む。突き当たりには引き戸があり、枝垂さんはそこを少し開けて中を確認するように覗いた。
 この先に何があるのだろうか?

「揃っているわ。さあ、入りましょうか」

 この施設のことは知っていたが、私には関わりがない場所なので来るのは初めてだ。道すがら枝垂さんに説明を求めたが、「行けばわかるわ」との一点張り。「揃っているわ」と言われても、困惑するばかりだ。
 枝垂さんが戸を開け放って中に入ると、私を招くように手を出す。

「さあ、皆さんがお待ちかねよ」
「皆さんって?」
「貴方の小説に感銘を受けた人たち」
「えっ……?」

 中は広めの教室だった。片側に窓が並び、そこから差し込む陽光は部屋を満たしていた。教室には子供たちが椅子に座っている。ここは養育院なので、身寄りや行き場のない子供たちだろう。その他に少数だが成人に近い人、体の不自由な人などがいる。養育院の先生たちもだ。
 彼らが、私の小説を……。
 松田さんだ。あの時三人で話し合い養育院などに広められないかと話し合った。その約束通り、彼は動いてくれていたのだ。
 私は思わず彼らの前に歩み出た。すると興味津々で私を見る人、誰だろうと警戒心をあらわにする人、様々な視線が私を射抜いてくる。とたんに体がすくむ。
 彼らが「咲くや此花」を読んでくれたのだとして、私に何の用があるというのだろうか? 感銘を受けたと枝垂さんは言ったが、とてもそんなふうには見えない。むしろ、文句や批判が飛んできそうだった。私はどうしたらいいのか……。

「ほら、自己紹介しなさい」

 と、枝垂さんが促すが、彼らに対する言葉がのどに詰まり出てこない。
 挨拶すらできない私は、きっと挙動がおかしい不審者にみえるだろう。
 途端にここから立ち去りたい衝動にかられ、踵を返そうとしたときだ。座っていた子供たちの中から、一人の少女が立ち上がった。年齢は十四、五歳くらいで、肩あての着物、おかっぱの髪が可愛らしかった。彼女は目を見開いて私に尋ねた

「佳夕先生ですか?」
「……先生? 確かに私は小泉佳夕ですが、先生では」

 その時、教室内が湧き上がったのだ。皆が私に憧れに似た目を向けて歓声をあげると、まるで、もっと近くでよく見よう、と言わんばかりに駆け寄ってきた。
 握手を求められて訳も分からず対応するが、手に負えなくなってもみくちゃにされそうになると、養育院の先生が間に入ってくれて騒ぎは収まった。

「これはなんですか。私には意味がさっぱり」

 私の疑問に答えたくれたのは、白髪交じりで眼鏡をかけた女性の先生だった。

「ここにいる皆は先生のことが大好きなんですよ」
「え?」
「文字が読めない子がほとんどなので、私が「咲くや此花」を読み聞かせました。小説には縁のない子たちですから、最初は興味なさそうでした。けれど話が進むうちに皆が物語に引き込まれて、泣く子が現れ、最後には拍手する子まで」
「そんな……」

 まだ半信半疑だった。話の展開についていけず、この状況を頭の中で懸命に整理しようとするが、目の前の現実が信じられず夢を見ているようだった。

「佳夕先生」

 私の名前を聞いた少女が歩み出た。彼女は顔が赤く恥ずかしそうに俯いていたが、意を決したように顔を上げた。

「私も絵をかきます。でも親が亡くなってから親戚をたらい回しにされました。画家になりたいって口にしたら叩かれて、酷い目に遭い、逃げ出してここに来ました。もう描くことは諦めようと思っていた時に、この小説に出会いました」
「そう……」
「救われたんです。もう私は諦めません」

 この言葉を聞いた私は目頭が熱くなり思わず上を向いた。こんな大勢のいる場で泣くのは恥ずかしくてできないのに、熱いものが溢れ出て止まらなかった。

「先生、これ……」

 なんと、その様子を見た少女は、袖から手拭いを出すと私に手渡してくれた。これで涙を拭えということだろう。

「ありがとう」
「お礼を言うのは私の方です。ありがとうございました」

 この言葉が引き金になったのか、養育院の彼らから「俺も救われた」「私は気が楽になった」「勇気が出ました」との賛辞が口々に飛び出した。
 それらを聞いて気が付いた。私が書いた「咲くや此花」の主人公は、彼ら彼女らの中に初めからいたのだと。なので感銘してくれたのだ。届いたのだ。だったらもう下を向いている場合じゃない。私は後ろにいた枝垂さんに向き直った。

「ありがとうございました」
「すごいわね、よかったじゃない」

 枝垂さんは我がことのように嬉しそうだった。

「私は今日初めて、作家になれました」
「なら、生涯書き続けなさい」
「もちろんです」
「私たちはライバルよ」

 枝垂さんが私に手を差し出し握手を求めてきた。松田さんの婚約者でも、私は本当にこの人と会えてよかったと思う。作家として実力があり、どこまでも真摯に物事に対応する。その考えや行動は、彼女の優しさに繋がっている。
 尊敬できる彼女が、私をライバルだと呼んでくれたのだ。
 私は喜んで枝垂さんと握手を交わした
 その時だった。
 温かいものに満たされていた私の体の奥から、震えるほどの寒気が湧きあがる。それは一瞬で背中から握手を交わす腕に流れて、枝垂さんに入り込んだ気がした。
 握手する手と手を見ていた私は驚いて視線を枝垂さんに移す。

「えっ!?」

 枝垂さんの顔から表情が抜け落ちていた。視線も定まっていない。凛とした表情で孤高を感じさせ、時折見せる笑顔が素敵な枝垂さんのこんな顔ははじめて見た。先ほど感じた悪寒と、枝垂さんの突然の変化は、きっと繋がりがある。

「枝垂さん、大丈夫!」

 呼びかけても返答はなかった。それどころか枝垂さんは私の手を振りほどき後ずさりすると、入ってきた教室の戸を開けて廊下に出た。薄暗い廊下の陰の中、養育院の玄関から差し込む逆光の中へ、枝垂さんは走っていく。

「彼女を止めて!」

 幸恵さんの悲壮な声が私の耳朶を打った。振り向くと、幸恵さんは私のすぐ隣に立っていて、両腕で頭を抱え込んでいる。

「やばいわ」
「どうしたんです、これは!?」
「こままじゃ彼女は殺される」
「殺されるって、どうして?」
「右京さんがとり憑いたのよ。彼、悪霊化しちゃったの」

 父が消えた時に感じた不穏な空気を思い出し、私は枝垂さんの後を追って外に飛び出した。が、どこを見渡しても枝垂さんの姿はなかった。父が悪霊になったとか、とり憑いて殺そうとしているのが本当だとして、どうして父が枝垂さんを殺さなければいけないのか? 疑問はあとからどんどん湧いてきたが、今はとにかく枝垂さんを見つけることが先だと気が焦る。

「こっちよーっ」

 少し離れた道筋の角で幸恵さんが左を指していた。どうやら御霊である幸恵さんには枝垂さんの行方がわかるみたいだ。私は指示された通り追いかければいいのだろう。けれど、走っても走っても、枝垂さんの姿は見えなかった。それでもやみくもに探すよりはマシなはずだ。
 道すがら聞いたのだが、御霊は一度怒りや恨みを抱くと、その感情が増長して悪霊になることがあるらしい。
 悪霊化すると周囲の言葉が耳に届かず、支配された感情のまま目的を果たすまで突き進む。父の場合、幸恵さんと私の原稿を探し出したとき、枝垂さんが、その原稿を読んでいる場面に遭遇した。父は「この女が盗んだ」と呟いたそうだ。勘違いなのだが、その現場だけ見たらありえるかもしれない。
 私は父に枝垂さんのことをまったく話していなかった。なので勘違いだということも、枝垂さんの人柄も知らないのだ。とどめは松田さんが枝垂さんとの結婚を了承したことだ。
 消えた父を追いかけた幸恵さんは、千束稲荷神社の手前の道端で、地面に蹲る父を発見した。近寄って声をかけたが返事はなく、何かブツブツと呟いていた。聞き耳をたてると「あの女のせいだ。あの女のせいだ」とくり返していた。それが「いなくなれ」に変わり、やがて「死ね、死ね」と何度も叫び出すと、父の体から黒い靄が湧き上がり全身を包みだした。
 幸恵さんは慌てて父の腕を取り、聖域である神社の境内に引きづり込もうとしたらしいが、怒り狂う父に弾き飛ばされて鳥居の前に転がった。すぐに顔を上げたが、父の姿は消えていたらしい。
 ただ、気配だけは残っていて、それを頼りに捜し歩いていたら、朝方に、養育院に行く私と枝垂さんに出くわしたそうだ。
 一目見て分かったらしい。私の中に父が隠れていて、虎視眈々と枝垂さんにとり憑く機会を狙っていると。
 私は走りながら拳を握り締めた。

「何やってんだ、ばか親父!」

 悪態をついたところでどうにもならない。近くにいるのなら張り倒して、正気に戻してやりたいところだが、それも出来ない。万が一枝垂さんに何かあったら、私は父を許さない。
 幸恵さんの誘導でやってきたのは浅草だった。人を避けながらどうにか走っていたが、六区に入ると走れなくなる。見世物小屋や活動写真館などが立ち並び、人が通りにあふれていた。ジンタを奏でる楽団が活動写真館の前に陣取っていたため、人がごった返して歩みが止まった。
 私は人の頭の隙間から通りの先を覗き見ると、枝垂さんの後姿が見えた。人の壁にすぐに掻き消されたが、間違いない。

「すみません、通してください」

 私はもみくちゃにされながら人垣を押し通り後を追う。
 見えてきたのは浅草の象徴、通称十二階、凌雲閣だ。高さは二百二十尺(六十七メートル)。六角形の煉瓦造りの塔は、見るものを圧巻する。何度か見たことはあるが、私は中に入ったことはなかった。
 凌雲閣の白い支柱の大きな門の中を幸恵さんが指していた。慌てて門の中に入り辺りを見渡すが、登観客の中に枝垂さんの姿は見えない。六区の賑わいに比べて人が少なく見落としはない、きっと塔の中へ入ったのだ。
 飛び降りられたら大事なので、すぐに凌雲閣に入りたかったけれど、左手に切符売り場がある。私はお金を持っていなかったので、切符を買って歩き出した数人の団体客の陰に隠れて、こっそりと歩いて行った。ところが、凌雲閣の入り口に下足番がいた。
 これはどうしようかと思案していたら、幸恵さんが私の横を素通りして、下足番の背後から肩を触った。下足番は驚いて後ろを振り返り誰もいないのを確認すると、不思議そうな顔をして登観客に向き直ったが、また幸恵さんに肩を叩かれ、憤慨した顔で持ち場を離れた。
 後ろから誰かに石を投げられたと勘違いでもしたのだろうか。敷地内の木々のあたりに誰かいないか見続けていた。
 幸恵さん、いい仕事です。
 これ幸いと私は靴を脱ぎ、凌雲閣の中に踏み込んだ。
 一階のエレベーターは稼働していないらしく、登るには階段を使うしかなさそうだ。枝垂さんは上の階のどこかにいる。階段を使えば入れ違うことはないだろうから、私は疲れて重くなってきた足に気合を込めて登り始めた。
 二階と三階にはお土産屋の店舗が入っていたが、人はまばらで枝垂さんの姿は見えない。三階にはバルコニーがあったので、念のためと思って出てみる。
外に出たが枝垂さんはいない。冷たい風が頬を撫でたので思わず外の景色に目を移す。平屋が多いので三階からでも遠くまで見渡せた。
 きれいな景色だが、今はそれどころではない。枝垂さんを探すために踵を返したとき、私の視線が凌雲閣の入口に立つ枝垂さんを捉えた。

「あんなところにいる」
「やられたわー」

 いつの間にか隣にいた幸恵さんが喘ぐように呟いた。
 すぐに凌雲閣を飛び出して枝垂さんを追いかけようとしたが、その行方が全く分からなかった。幸恵さんに枝垂さんの行方が追えなくなってしまったのだ。

「私が気配で右京さんを追えるのなら、向こうも私たちの居場所がわかるのよ。今は完全に気配を消して、どこかに隠れているわ」
「じゃあ、どうしたら?」
「行き当たりばったりしかないわね、とにかく探しましょう」

 私たちは六区に戻り、それから浅草公園、浅草寺、仲見世通り、果ては細い路地に至るまでくまなく見て回ったが、枝垂さんを見つけることは出来なかった。ほとほと疲れた私たちはまた六区に戻った。
 すでに日暮れが迫っていた。二人で広い浅草界隈を一人の人間を探すのは難しい。まして、相手は私たちから身を隠しているのだ。
 打つ手がなかった。こうしている間にも父が枝垂さんを殺すかもしれない。そう考えたら気ばかりが焦って、じっとしてられなくなった。

「もう一度探しましょう」

 見世物小屋とお土産屋にはさまれた路地に座り込んでいた私は、よろけながら立ち上がると、今まで俯いていた幸恵さんが顔を上げた。

「見つけた」
「えっ?」
「十二階下の私娼街です、動き出したので気配が復活したんですよ」
「向かいましょう」

 通称「十二階下」は千束町に広がる娼婦街だ。銘酒屋や曖昧屋、宿屋が軒を連ねるその件数は八百件ほど存在し、裏では女性を斡旋している。
 もはや吉原より有名で、日の高い内は、街は眠りについたかのように静かだが、日が暮れて店に明かりが灯るころになると、怪しげな雰囲気に誘われて男たちが集まってくる。もはや名所になっていて、冷やかしの観光客まで訪れていた。
 そんなところに枝垂さんがいるはずないと、無意識に「十二階下」を外していた。そこから枝垂さんは歩き出して、向かった先は凌雲閣だった。
 塔の門が見えた時、凌雲閣の入口に向かっている枝垂さんの後姿が見えた。彼女は吸い込まれるように入り口をくぐって行った。私は凌雲閣の切符売り場を素通りして入口に向かうが、「お客さん、切符を!」という声がかかり、続いて下足番の男に止められた。

「塔に入るならお金を払って。大人は八銭だ」

 それを無視して入り口をくぐろうとしたら、下足番は後ろから羽交い絞めにして私を止めた。

「駄目だって言っているだろう!」
「今、女の人が中に入りましたよね」
「それがどうした?」
「彼女、塔の上から飛び降りて自殺するかもしれません。早く止めないと」
「嘘をつくな」
「本当です。彼女を助けないと!」

 私の必死な顔と言葉に驚いたらしく、下足番は腕の力を弱めた。
 一気に振りほどいて凌雲閣の入口へ飛び込む。
 階段を駆け上がり、各階を目視しながら十階まであがった。息が切れて足に力が入らなかったが、そんなことにかまっている暇はない。この階に彼女の姿はなかったので、さらに上を目指す。ここからは螺旋階段だった。
 十一階は眺望室になっていた。

「枝垂さん!」

 ついに追いついた。だが枝垂さんの姿はバルコニーに消えていく。ここから落ちたら間違いなく死ぬ。私がバルコニーに入ると、枝垂さんは手すりの前に立っていた。

「やめてーッ」

 私の絶叫は枝垂さんには届かなかったのか、振り向きもせず、バルコニーから身を乗り出した。その時だ。目を覆いたくなるような明かりが私たちを照らした。バルコニーに設置されたアーク灯が灯ったのだ。
 塔の内部にはたくさんの窓が設置されているので、日が陰ると塔の内部は電灯がともり、バルコニーにはアーク灯が灯る。
 枝垂れさんは驚いて手で目を覆うと、私を突き飛ばして塔に戻った。彼女はさらに上の十二階に続く螺旋階段を駆けあがっていく。
 私は彼女の後を追う。もう少しで手が届きそうなほど近づいたが、伸ばした手は空を切る。彼女は十二階のバルコニーに駆け込むと、そのまま止まることなく、バルコニーの手すりから身を乗り出した。私は枝垂さんを後ろから抱きしめる。暴れる彼女の前に回り込んで、身を挺して防ぐが、その勢いは止まらなかった。

「枝垂さん、正気に戻って」

 言葉も通じない。そもそも飛び降りようとしているのは枝垂さんの意志ではなく、悪霊化した父の仕業だ。
 本気で腹が立った。

「この馬鹿親父!」

 私は父を張り倒すつもりで、枝垂さんの頬を思いっきり叩いた。
 その反動で彼女の体は手すりから離れて勢いよく床に尻を突く。
 私も勢い余って後ろにのけ反ると、バルコニーの手すりが背中に当たった。

「えっ」

 ふあっと足が浮いた。私の視線がバルコニーから夕空へと変わっていく。
 体が浮遊感に包まれた。

 ────空を飛んでる。

 落ちている。なのに落下する感覚がなかった。
 
「佳夕ー!」

 父の声がすると同時に、私は体を出し絞められた。
 その刹那、全身に強い衝撃が走り、私の意識が途切れていく。
 暗くなり狭まる視界に、上階のバルコニーから覗く、枝垂さんの驚いた顔が見えていた。


 ※  ※  ※  ※
 

『7・松田省吾』


 僕は腹を立てていた。女学生たちの窃盗事件で、佳夕さんの原稿が秋の新刊に間に合わない。会議にすらかけられなかったのが悔しいのだ。
 「咲くや此花」の作者は佳夕さんだが、この作品に、編集者としての力を出し切ったつもりだ。おこがましいが、僕の中では共同執筆の作品と考えている。なので、枝垂さんは少しも悪くはないが、その取り巻きは許す気になれない。
 そんな思いを抱いてた時、枝垂さんから思わぬ提案が出た。

『養育院などの会報や広報に掲載』

 素晴らしい提案だった。「咲くや此花」の内容からして、生きづらさを感じている人々に物語を届ける。
 いけるかもしれない。東京だけでなく、全国のそういった施設に彼女の物語を届ければ、時間はかかるだろうけれど、感銘する人たちが現れて話題に上る可能性はある。そのうえで博文社の文芸誌に掲載すれば、きっとうまくいく。
 これは賭けかもしれないが、これしかない。
 やってみる価値はある。
 私はまず、佳夕さんの自宅を出ると、その足で下谷竹町にある養育院を尋ねた。
 養育院の先生に会って事の経緯を正直に話し、その上で「咲くや此花」の内容を伝えた。

「……そんなことがおありでしたか。それはお気の毒に」
「このまま世に埋もれさせてはいけない作品だと思っています。後ほど複製した原稿をお届けしますので、ぜひ一度、読んではいただけませんか、そのうえでご検討を」

 これは話すべきか悩んだが、作者の佳夕さんも、ここの人たちと同じで、生きづらさを抱えている一人です、と告げると、

「それじゃあ、その作者は社会に出る為に戦っているのですね」
「はい。これは小さな一歩ですが、踏み出したことで、世の中に波紋を広げることになる、と私は信じてます」

 白髪交じりの女性の先生は目じりを下げて微笑むと、快く「読ませてもらいます」と言ってくれた。
 とりあえず手ごたえを感じ、これを目標にしていく。
 翌日、印刷会社に連絡して五十部の予約を入れた。個人の依頼で尚且つ部数が少ないから少々お堅めの金額だったが、これは必要経費だ。
 それから私は東京にある孤児院や養育院を訪れた。
 同じように話を進め、読んでいただけるところまではすべてこぎつけたが、ここから先が一苦労だった。刷り上がった原稿を届けても、受付に会報と一緒に置くだけ。会報に載せてもいいが、長いので三回に分けて掲載する。それは当然だが、印刷代を負担してくれと要求された。私は会報の構成までさせられたことがあった。
 東京はほぼ終わったので、近県に足を運び活動を続けた。
 そして、名古屋、大阪。
 活動を続けるうちに季節は進み、東京は晩秋を迎えていた。
 かれこれ半年近く佳夕さんとは会っていない。それは私にとって辛いことだったが、一つでも吉報を手に入れるまで辛抱する。
 共に歩むために、これは必要な時間だ。
 大阪から戻った翌日のことだった。博文社の社長。つまり父からの呼び出しで久しぶりに会社に出社した。
 会社の仕事を放棄して一個人の原稿のために走り回っているのだから、むしろお叱りは遅いくらいだと思った。
 けれど、呼び出されたわけは違っていた。
 社長室のドアをノックすると「入れ」と、父のしゃがれた声がした。
 ドアを開けると、淡い陽光を背に受けた父がソファーに座っていた。逆光で顔の表情が見え辛いが、先ほどの声で不機嫌だとわかる。

「ご無沙汰しています。要件は何でしょうか?」
「まあ、座れ」

 促されて、父の正面に座った。

「ええと、それで……」
「先方にせっつかれてな、紀子さんと尚悟の結婚を」

 ちょっと待ってくれ。婚約は子供の頃に躱した口約束のはずだ。江戸時代じゃあるまいし、承知できるか。

「婚約は私の意志ではありません。なので、お断りします」

 こういう話は初手が肝心だろうと思い、私はきっぱりと言い放った。
 私にはそんな気はないし、紀子さんは今や若手の女流作家の「桜花枝垂」として活躍している。彼女は今、結婚は考えてないんじゃないかと父に告げたが、

「いや、紀子さんは結婚したいと言ってるそうだ」

 と、意外な答えがかえってきた。
 少しため息が漏れた。紀子さんとは幼馴染だ。気心も知れていて仲も悪くない。私が博文社の編集部に就職すると、彼女は書きためていた小説を私に読ませて、意見を聞くこともあった。けれど、二人の間で結婚という話は一度も出ていない。
 これは両親に対する忖度なのだろうか。
 いや、紀子さんはそんな人じゃない。容姿に似合わず言いたいことをズバズバと言う。嫌なものは嫌、好きなものは好き。少し極端なところはあるが、自分に誠実な人だ。忖度などして自分を殺すことを彼女はしない。ならば、本心なのだろう。
 家同士が決めた婚約について、私は紀子さんと向き合うことを避けていたんだ。その付けが来たのかもしれない。
だからといって、彼女と結婚する意志はない。

「お断りします」
「だめだ結婚しろ。縁談は両家の話し合いで決まったことだ。それにこの話は会社のためだ。お前だけの問題じゃない」

 不機嫌そうに告げると、父は席を立って部屋を出て行こうとした。

「でしたら、会社を辞めて家を出ます」

 振り返った父の顔つきが変わった。眉に皺をよせ目尻が吊り上がっていた。父が本気で怒ったときの顔だった。

「今まで何不自由なく暮らせたのは誰のおかげだ!」
「いつも俺が会社を大きくしたと豪語してたじゃありませんか。だったら、家族を犠牲にせず最後まで一人で戦ってください」
「口答えをするな。尚悟が拒む理由は女だろう。佳夕とか言ったか?」
「そ、それは……」

 見透かされていた。色々理由をつけても、私の思いは編集者と作家の域を超えている。下地に恋愛感情がなければ、私はここまで動かなかっただろう。その思いが身内の父には伝わっていたのだ。
 父は、まるで武士を思わせる気迫で私を見据えていた。
 出来ないなら、腹を切れと言われそうだった。
 父はさらに口を開く。

「有名な作家の弟子でもない物書きが、どうやって文壇に出て行く? よしんば出れたとしても、すぐ潰れるだけだ」

 それはそうだ。なので編集者がいるんだ。
 勇気を振り絞って強く声を上げた。

「私は編集者です、そうならないように導きます」
「いい加減、諦めろ」
「諦めたら意味がない。それは出来ません」

 はあーっと、父は深い溜息をついた。睨みつけていた武士の目がゆるみ、今度は情けないものを見たと、憐れむ目つきをする。

「あの女のどこがそんなにいい?」

 私はその問いに対して、静かに、それでもはっきりとこういった。

「生きづらさを抱えた脆い女性だと思います。それでも彼女は諦めず、真っ直ぐ目標に向かうその姿に心を動かされました。彼女の夢がかなうとき、僕は彼女の隣にいたいんだ」
「だったら、自社の文芸誌に彼女の作品をねじ込んでやる。無名の作家が有名どころの作家と肩を並べるのだ。これほどのことはないだろう。そのかわり、これ以上、あの女にかかわるな」

 この時、私は焦っていたんだと思う。原稿を持って全国を回り、もう半年近くたったというのに、何の成果もあげられていない。
 ここで承諾すれば、とりあえず文芸誌の掲載は実現する。
 その思いが、私の心をかき乱した。結婚を承諾しても、私が会社を辞めて家を出れば、私の価値はなくなる。そうすれば、紀子さんの実家は華族だ。必ず破棄してくるに違いない。それにもともと、私は辞職して家を出るつもりだった。だとしたら、結果は同じだ、と。

 それで僕は、紀子さんとの結婚を承諾した。

 数日後の夜の事だった。
 なんとなく進む結婚の話をのらりくらりと躱し、自室に戻った時だ。会社から紀子さんの兄、飯島亨が息を切らして尋ねてきた。
 その様子が尋常でなかったので、すぐに用件を聞くと、紀子が佳夕さんを凌雲閣のバルコニーから突き落としたらしい、と上ずった声で報告してきた。

「突き落としたって⁉ それで佳夕さんは?」
「命に別状はないらしいが、大怪我を負ったそうだ」

 紀子さんが佳夕さんに危害を加えるとは考えられないが、凌雲閣の下足番が目撃していて、確かに紀子さんが佳夕さんを突き飛ばしたと証言している。なので紀子さんは警察で取り調べを受けているそうだが、本人はまったく覚えていないと話している、と。
 飯島は今から警察に行くので、お前は病院に行ってくれ。そう言って、彼は玄関から走り去った。


※  ※  ※  ※


『8・悪霊の後編』


 意識が戻り気が付いたとき、私は病院のベットの上だった。
 体中がずきずき痛み、腕や足をうまく動かせない。寝返りもままならない状況だった。看護婦さんが私の意識が戻ったのに気づき、すぐに医者を呼んでくれた。

「ここはどこですか?」
「三井慈善病院です」

 下谷の和泉通りに建つ病院だった。

『私はログアウトせず目が覚めた。意識や思考は「及川奈歩」つまり私だ。
小泉佳夕が消えたわけじゃない。完全に同化して、佳夕の中に存在している。
けれどこの状態にさしたる驚きはない。一般的なフルダイブゲームとほとんど変わらないのだ。今さらこんなことをしてなにになるのか。記憶の封印が解かれることにより、最終フェーズの扉が開きます、というメッセージに関係があるとは思うけれど』

 医者の説明では、骨や内臓に以上はないとのこと。ただし、全身打撲で暫く入院になります、と告げられた。ただ凌雲閣の最上階から階下のバルコニーまでは十七尺(五メートル十五センチ)あり、死んでもおかしくなかった。打撲だけで済んだのは奇跡だとも言われた。
 カーテンが掛かっていて外の様子は見えなかったが、もう夜も更けているのがわかる。あれからまだ数時間しかたっていないのだ。バルコニーに落ちた衝撃を考えれば、体の痛みはむしろ当然だろう。
 病室から誰もいなくなったのを見計らって、痛む首を少し傾けてベットの横をぎっと睨む。

「お父ちゃん!」

 父が傍にいたのは意識が戻るとすぐに気づいていた。姿を消していても、このくらい近くにいれば、私でも気配が分かる。
 呼ぶとすぐに、ボアっと姿が浮かび上がった。隣には幸恵さんもいた。

「大丈夫?」

 心配する声まで、幸恵さんはおっとりしていた。

「なんとか。あの、枝垂さんは?」
「佳夕さんのおかげで無事。でもね、警察に連行されちゃった」
「どうして?」
「うーん、っと……」

 少し話しづらそうだった。私が落ちたあと、なにがあったのか?

「佳夕さんに対する、殺人未遂かな」
「はあ!? どうして?」

 殺そうとしたのは父で、殺されそうになった枝垂さんが、私に対する殺人未遂って、話がねじれてるとしか思えない。
 すぐに警察に駆け込んで枝垂さんの潔白を証明したかったが、体が動かないから無理だ。警察を呼んでもらう手もあるが、意識が戻ったのなら明日、警察が来るから安静にしてなさい、と幸恵さんは告げる。

「わかりました、今は大人しくします」

 それに夜更けに呼ぶと病院に迷惑が掛かるので諦める、としてだ。
 今から父に説教だ。

「お父ちゃん。話し次第では親子の縁を切るから」
「勘弁してくれ、俺にも何がなんだか……」
「それで済む話じゃない。枝垂さんを殺そうとしたんだよ。枝垂さんはね、「咲くや此花」を養育院に持ち込む案を出してくれた。その結果を伝えに来てくれて、私の小説を絶賛してくれた養育院の人たちに会わせてくれた。松田さんの婚約者とかは関係ない、彼女は私の大切な友人なの」
「前も言ったけどさあ……」
「幸恵さんは黙っててください」
「うーん。これだけは聞いてほしいかな。御霊はややもすると、悪い感情に囚われるのよ。悪感情は強いからね。なので冷静さを保っていないといけないんだけど、右京さんは娘さん思いだから」
「だからといって、思い込みで舞い上がった結果、枝垂れさんは警察に連行され、私は全身打撲で動けない。それに、私が止めなければ、枝垂さんは死んでいた」
「すまん」
「悪霊になるくらいなら、一刻も早く成仏してよ」
「したいんだが……」
「拘りが解消しないと、なかなか成仏できないのよね」
「何ですか、父の拘りは?」
「うーん。それは置いておいてさあ。佳夕さんは大怪我したけど、結果誰も死ななかったわけで。おかげで右京さんは元に戻れた。もし死人が出てたら、右京さんは未来永劫、悪霊のままだったのよ」

 そういわれても納得できない面もあるが、最悪を回避できたのは事実だ。
 父も随分しょんぼりしている。
 
「お父ちゃん。私はいいから幸恵さんに謝って。彼女がいてくれたおかげで、事なきを得たんだよ」
「はい……」

 父は一切言い訳をしなかった。途中から記憶が薄れてしまい、何かに突き動かされるまま行動してたのだとか。けれど、私はわかっている。正気に戻った父が、私を助けてくれたことを。

『父に説教をしながら私はしみじみ感じていた。現実では手に入れられなかった父と娘の関係がここにある。怒っているのに、知らなかった温もりに触れられて、心が軽くなる。ありがとうね、お父ちゃん』

 父は幸恵さんに頭を深々と下げ、「すみませんでした」と謝った。これでこの件はおしまいにしよう。あとは私だ。

「お父ちゃん。あの時、助けてくれてありがとう」
「お、おう」

 父は苦笑いをしながら、恥ずかしそうに俯いた。

「それから幸恵さん」
「なあに?」
「父のことを、今後ともよろしくお願いします」
「あら、頼まれちゃったわ」

 翌日の午前中に警察官がやってきて、簡単な事情聴取を受けた。
 勿論その時に、枝垂さんの潔白を話したが、やはりというか、彼女は何も覚えていないと聴取で語っていると、その警官が話してくれた。
 父が取り憑いて自殺しかけたとは話せないし、話したところで信じてもらえるとは思えない。
 警察官が一通りの聴取を終えて帰っていくと、入れ代わりに松田さんが病室に入って来た。

「佳夕さん」

 彼は寝ていないのか青い顔をしていた。包帯だらけの私を見て目を見開き、息が止まるほど驚いた様子だったが、私が微笑むと、少し安心したのだろう、ゆっくりと歩みを進めて近寄って来た。

「一報を受けた時は本当に驚きました、具合は?」
「全身打撲だけですみました、大丈夫です」
「よかった。凌雲閣から落ちたと聞いたので、もっと酷いかと」

 安堵の溜息をつくと松田さんは、傍にあった椅子を引き寄せて座った。

「最上階のバルコニーから階下のバルコニーに落ちただけですから」
「いや、それでも……」
「そうですね、ご心配をおかけしました」
「いいえ」

 松田さんは昨日の夜遅くに病院に駆け込んだらしいのだが、面会時間が過ぎていたので会う事が出来なかったらしい。今朝は病院が開く時間に合わせて訪ねたが、警官が事情聴取するので終わるまで待てとお預けを食らった、と言った。聴取の話が出たので、枝垂さんは無実です、警官にも伝えましたと告げると、彼はほっとした表情を浮かべた。

「……それにしても、なにがあったんですか?。私は全国を飛び回っていたので、事情が分からなくて」

 聞かれるとは思っていたが、納得しそうな答えを用意してなかった。正直にすべてを話せばつじつまが合うのだが……。
 とりあえず、適当なことを話してみることに。

「枝垂さんが落ち込んでいたので、二人で眺望を楽しもうと凌雲閣に行ったのですが、彼女が身を乗り出しすぎて落ちそうになり……」

 警察の聴取で覚えていないと枝垂さんは答えたらしいから、いい加減な嘘でも、つじつまさえ合えば。

「結婚が決まって幸せだと思ったのに、急に不安になって落ち込んだのかも? 早く枝垂さんのところへ、……行ってあげて……」

 不意に言葉が詰まる。
 文芸雑誌への掲載も白紙に戻し、結婚の話は私抜きで進めてほしい。お似合いです。一緒になって下さい、と口にするつもりだった。

 この時、初めて自覚した。
 ああ、私はこの人が好きなのだと。
 私は松田さんと離れたくない。

 いい大人なのに、私には恋愛経験がない。人を好きになれば、すとんと気持ちが胸に落ちてすぐにわかると信じていた。自分の気持ちに気づくのに、こんなにも時間がかかるとは思いもしなかった。けれど今ここで本音を出すわけにはいかない。

「……私は、紀子……枝垂さんと結婚はしません」
「人づてに聞きました、結婚を承諾したと」
「はい、けれどそれは……」
「もう、お帰りください」
「……」

 これ以上松田さんと話をすると、鬱の沼にはまり込んでしまう。そんな姿は見せたくないので、唇を噛みしめて耐えたけれど、溢れた涙が頬を伝いベットのシーツまで濡らしていた。

「帰って」
「わかりました。時間をおいてまた来ます」

 椅子から立つ音が聞こえ、靴音、そしてドアが閉まった。
 私は振り返ることなく、涙越しに見える光をはらんだカーテンを見つめていた。
 
 どのくらい時間がたったのだろうか。処方された痛み止めをのんでいたこともあり、私はいつの間にか眠っていた。気が付いたとき、弱々しい光がカーテンの隙間から漏れていた。もう夕方だ。
 暫くすると看護婦がやってきて食事の準備が進む。食べる為に上半身を起こしたとき、顔がよじれるほどの痛みに襲われた。キツイ!
 動く右手で出された粥を啜ると、あまりの薄味にげんなりした。
 処方薬を出されて水と共に飲む。
 あと数時間で消灯なのかとぼんやり考えていたら、ドアがノックされた。
 看護婦が対応してくれる。

「桜花枝垂さんと仰るか方が面会に来られてますが」
「通してください」

 よかった、釈放された。無実なので当たり前だけれど、もし、あの時に私が死んでいたら、枝垂さんはどうなっていたかわからない。殺人で問われなくても、華族で話題の小説家、若くてきれい。新聞社などが飛びつきそうな話題が沢山ある。無事ですまなかっただろう。
 看護婦と入れかわりで枝垂さんが入って来た。神妙な面持ちで私の顔を見ると、ほっと息を漏らした。

「重症だと聞いてたの。でも、顔を見たら安心しました」
「見た目より、ひどい怪我なんですよ、ベットから動けませんし」
「でも、生きていてくれてよかったわ」

 枝垂さんの目に、涙の薄い膜が張っていた。
 彼女が悪いわけじゃない。私の父に取り憑かれて死にそうになった挙句、私に張り倒されたのだ。下に落ちたのは、私の不注意である。
 これをどう説明したものかと思案していると、彼女の後ろに父が立っていた。
 直立不動で立ち、次に深々と頭を下げると、「申し泡ございません」と枝垂さんに謝った。何をしても枝垂さんには見えないし聞こえない。まったく伝わらない。無駄な努力だと思うが、私には誠意が伝わって来た。
 もう、ばらしてしまおう。
 彼女は被害者だ、一連の事件に対して知る権利があるはずだ、とはいえ、話したところですぐに信じられる話ではない。どうすれば?

「考えてもわかりませんので、ありのままお伝えします」
「なにをです?」
「まず、枝垂さんに何の落ち度もありません。あれは」
「あなたのお父様の仕業? ……でしょうか」
「え、わかっていたんですか」
「なんとなく……」

 枝垂れさんはぽつりぽつりと話をしてくれた。
 私と握手をした瞬間、何かが体に入ってくるのを感じると、すぐ意識が遠のいた。しかし途中で気が付いたらしい。
 周りを見渡せば見たこともない場所だが、街並みを見る限りここは娼婦街。たしかに養育院にいたはずなのに、私はいつの間にこんなところへ。
 驚いて立ち上がろうとすると、何かが背中にかぶさった。それきり重くて動けなくなったらしい。
 まだ明るいとはいえ、女学生が立ち寄る場所ではない。
 明け方近くまでどの店も闇営業を続けているから、昼間十二階下の住人は誰もが寝ていると聞いたことがある。だが、何が起こるかわからないのがこの地区だ。早く立ち去りたかったが、金縛りにあったように動けなかった。
 藻掻いていると、耳元で声が聞こえてきた。

「娘のために死んでくれ」

 ぎょっとしたそうだ。恨みがましい声が聞こえ、体が動かないのは、私が幽霊に取り憑かれたからだと信じた。
 慌てて取り乱したが、すぐに冷静さを取り戻した枝垂さんは、娼婦街に落ちた娘の父親が亡くなり、死後も恨んでいるのかと彼女は推測した。

「私には関係ない、放しなさい」

 ぴしゃりと言うと、予期せぬ言葉が返って来た。

「佳夕のために、死ね」

 この言葉を最後に、ぷつりと意識が途絶えた。次に気が付いたのは凌雲閣のバルコニーの床の上で尻もちをついた瞬間だそうだ。
 目の前で落ちていく私が見えて、息が止まるほど驚いた。慌てて階下を覗くと、果たして、私が十一階のバルコニーに倒れていた。
 彼女はすぐに階下に降りて私に駆け寄り声をかけて体を揺すったが、私は死んだように動かない。両手を見ると血まみれで、駄目だ、と思ったら、

「私は気がふれたように泣き崩れたのよ」

 と苦い顔を向けられた。

「本当にごめんなさい。実は枝垂さんの後ろに父がいて、頭を下げています」

 枝垂れさんは振り向いたが、見えないので首を傾げる。
 何とかできないのかと考えた時、幸恵さんが見えるようになったきっかけを思い出した。私と枝垂さんは相性がいいから、同じやり方が通用するかもしれない。

「枝垂さん、私の手を握ってください」
「え、どうして?」
「父に会わせたいんです」

 枝垂れさんは半信半疑な表情で私の手を握った。

「それで?」
「意識を集中して、私を通して前を見るような感じで」
「はあ……」

 言われた通り、彼女は集中して前を見ていた。けれど、何も見えなかったのか、一度深呼吸すると、今度は眉間に皺を寄せて前を見つめた。

「えっ! え、え────!」

 声を上げると、目を見開き歓喜の表情を浮かべた。
 怖がるより、嬉しそうだったから驚いた。 

「見えるわ、佳夕さんのお父様ですか?」
「そうです、この度は誠に申し訳ございませんでした」
「私は無事でした。佳夕さんは……怪我をしましたが大丈夫そうです。きっと何か事情がおありだったのでしょう。気にしないでください」
「御霊は思い込みが激しいらしく、父は勘違いをして悪霊化したんです」
「面目次第もありません」
「でも、ぴしっと言ってください、これは殺人未遂です」
「もう、済んだことです。それに……」

 枝垂れさんは顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに両手で顔を覆った。

「私、嬉しくて」

 意味が分からない。何が嬉しいのだろうか。

「だって、未知の経験が出来たんです」

 彼女は私に向かって体を突き出した。

「元々幽霊には興味がありました。だからといって、体験できるものじゃありませんが、ついにできたのです。佳夕さんは、これが日常だったのですね。なんと、羨ましい」

 私は拳をふるって力説する枝垂さんを初めて見た。父も呆気にとられている。
 もう彼女の美貌と言動がちぐはぐで、笑えてきた。私と父がクスクス笑っていると、枝垂さんは気を取り直すように、コホンと咳をした。

「えーっと、伝えなきゃいけないことがあるのですが」

 それは松田さんとの結婚のことだろう。私は覚悟を決めて祝福しようと心に決め、彼女の言葉を待った。

「佳夕さんの小説『咲くや此花』についてです」
「私の小説がなにか?」
「以前読ませてもらいましたと言ったとき、私の感想は『ちくしょー』でしたよね。あれは、内容も感心しましたが、松田さんと佳夕さんの共同作業で仕上がった作品だとわかったからです」

 今まではしゃいでいた枝垂さんは悲し気に目を伏せた。

「仕上がったと言ったのは、彼が何度も直しを入れたのが、私には手に取るように分かったからです。私も松田さんに読んでもらい何度か直しをいただきました。けれど、彼の『咲くや此花』に対する熱量の違いに驚きましたわ」
「それは私の文章が下手くそだったからでは」
「違います」

 枝垂れさんは呆れたと言わんばかりの溜息をついた。

「くやしいなあ。どうして私は、こんな恋愛音痴に……」

 ああ、と嘆くと彼女は頭を抱えた。

「これ以上伝える気が伏せました」
「え、そんな……」

 さらに意味深な笑みを浮かべた。

「いずれ、わかる日が来ますわ。それじゃあ、また」

 言い終わるや否や、枝垂さんは踵を返す。

「お父様、それではごきげんよう」

 枝垂さんは振り返りもせず、病室を後にした。


※  ※  ※  ※


『9・咲くや此花』

 冬の寒さが身に染みると、少し体が痛む後遺症に悩まされていた翌年の二月。博文社の文芸誌に「咲くや此花」が掲載された。
 当初の反応はいまいちだったが、新聞社の女性記者が絶賛する寸評を書いてくれたのがきっかけで、女性読者が増え話題に上って来た。
 それに加えて、全国の養育院から博文社へ感謝の手紙が送られてきた。
 今までの小説の読者は主に男性主体で、インテリと呼ばれる人たちや、文化人などに好まれてきた。
 「咲くや此花」の読者層は女性が多く、後を追う形で男性読者がじわりと増え続けた。新聞曰く「咲くや此花は、誰もが読むべき一冊」と絶賛され、有名な女流作家の寸評が載ると、本の売れ行きがうなぎ上りになり、博文社は私に対する態度を一変させた。つまり、待遇が変わったのである。
 何より変化したのは呼称だ。「先生」と呼ばれるようになった。
 だからといって、私は相変わらず貧乏だ。稼いだ原稿料の殆どは治療費に流れ、残ったお金は、溜まっていた家賃として消えた。
 誤算だった。新人の原稿料はとても安かったのだ。
 来月になれば、また原稿料は入ってくるのだが……。
 暖かくなってきた三月のはじめ、私は腹を空かせて新作の原稿に向かっていた。
 新作の題名は「青の空」だ。

 時代は明治の中頃。アメリカ人とのハーフとして生まれた少女は、アメリカに父が一人で帰国したことで孤児になる。彼女は施設で育つが、青い目をしていたため差別を受けていた。その彼女が民間の飛行機乗りと出会う。二人はひかれあい結婚するが、民間の飛行機乗りの稼ぎは少なく、暮らしは貧窮する。そこにアメリカ人の父が戻ってきた。娘の暮らしを嘆いた父は、一緒にアメリカに来いと誘うが、彼女は凛とした態度で父の申し出を断った。

 と、まあ、こんな粗筋なのだ。
 設定やもろもろの細かい打ち合わせが済み、意気揚々と執筆を進めていると、担当してくれていた松田さんが途中で交代。
 なんと枝垂さんの兄、飯島さんに変わったから驚いた。
 とたんに、私の自信が揺らいでしまう。彼は優秀だからと松田さんに言われて渋々承諾したが、私に対する彼の態度は冷たかった。
 まず目つきが嫌だ。私と話をしていると、常にどこか見下すような視線を向けてくる。次に言葉遣いがきつい。態度が横柄。

「原稿の締め切りは五月の末。間に合わなければ、夏号の掲載は見送る。わかりましたか?」
「がんばります」
「間に合うとは思えないな。その進捗ぶりでは」
「大丈夫です」
「お願いしますよ、佳夕、先生……」

 厭味ったらしく先生だけを強調してくる。先生と呼ばれることにまだ違和感があるから、少々癇に障る。わざとか……。

「……はい」

 私の家に来ると、飯島さんは必ず嫌味を垂れる。
 それでも、お願いした原稿の直しは的確で、わからない箇所を質問すると、嫌味を混ぜながらでも、わかりやすく説明してくれる。
 上から目線がなくなれば、尊敬できる編集者なのだが、多分無理だろう。
 彼は華族に対する優越主義的な思想を持っている。
 庶民と同じ仕事をしていても、それを前面に出さない人と、出す人。彼は後者。松田さんは実家が士族でも資産家なので別格なのだろう。
 私は庶民なので区別されている。
 原稿の進捗状況を確認した飯島さんは、「そけじゃあ」と帰って行った。
 振り返りもしない彼を、面倒くさいやつと思いながらも玄関先まで見送る。
  玄関を出た時に、夕日が西の空を染めていた。
 ランプの油がきれかかっていたので給油して、火を入れる。揺らめく光と影が書きかけの原稿の上を流れる。
 安定した収入が得られるようになったら、自治体に連絡して電気を引きたいと思うが、出来るのだろうか。
 などと考えていたら、玄関を叩く音がした。
 松田さんだった。私が返事するとガラガラと音をたてて戸が開く。
 逆光で彼の表情が見えなかった。
 たぶん彼は、報告に来たのだろう。
 枝垂れさんとの、結婚を。
 私の小説が博文社の文芸誌に掲載され、のちに、私の担当を外れた松田さんが、私に会いに来た理由はそれしかないはずだ。
 もう吹っ切ったつもりだったのに、私は松田さんの顔を見れなかった。

「あの……」
「はい?」
「家に電灯をつけるとどのくらいの電気料金になりますか?」

 自分を誤魔化すように、関係ない話題を口にした。

「たしか、日暮れから翌朝までで、月に二円弱ほど」
「高い。そんなにかかるんですか?」
「電灯のある家は限られてますからね。普及が進めば、電気料金は下がっていくと思うけど」

 ランプは油の注ぎかえや掃除があり手間がかかる。電灯は便利なうえに、ランプよりはるかに明るい。日露戦争後、経済が発展して街に電灯が増えましたが、電気料金を考えれば、庶民はまだ手が出せないだろう。
 松田さんが説明を加えて、そう話してくれた。

「そうですね……」

 私のごまかしに過ぎない質問に何気なく答えた松田さんが腹立たしい。別にそんなことが聞きたい訳じゃなかった。
 この場に及んで、私はまだ期待してる?
 もう、話すことはないはずなのに、松田さんの瞳の中で、オレンジの光が輝いているのを見た時、私の口は勝手に開いた。

「ずっとずっと、私は普通の人が羨ましかった。何もできない私は世間から弾かれて、隅っこに追いやられた。たまに私を見つけた人は笑うんです。どうしようもない女だって、私は誰からも好かれない」
「……佳夕さん」
「それを変えてくれたのが小説でした。沢山いい経験が出来て、友達と思える枝垂さんにも会えた。自信がつきました。でも、その根拠をくれたのは、松田さんです。私は、松田さんが好きです」

 口にしてしまった。どうしたらいいのか。松田さんがどんな表情をしているのか、怖くて見れなかった。たった二文字の言葉が今までの関係を変えてしまう。それでも、私は伝えずにはいられなかった。この世界に、貴方を思っている人がいるということを。

「……突然変なことを言って、申し訳ありません」

 もう顔を上げられない。答えもいらなければ、優しい言い訳も聞きたくない。ただ、私は枝垂さんと結婚します、と止めを刺してもらえれば、私はきっと次に勧めるはずだ。私が下を向いている間に、早く口にしてほしい。
 ところが、全く予想しなかった言葉が飛び出した。

「僕は今日、会社を辞めてきました」
「えっ!」
「これからフリーの編集者になるつもりです」
「あの、フリーの編集者って?」
「博文社だけに縛られず、いろんな出版社にかかわって作品を作る編集者のことです、これが夢でした」
「そんなことをしたら、社長が、いえ松田さんのお父さんが」
「反対されたので家を出ました。結婚は紀子さんが自身が破棄したので、僕は晴れて自由の身です」
「は、破棄⁉」
「はい」
「そんなことして大丈夫ですか?」
「そのための根回しはしてきましたから、博文社に頼らなくても、食べていくのは何とかなりそうです」
「はあ……」

 結婚は枝垂さんが破棄した、と言った。
 思い出す。見舞いにきた枝垂さんが「いずれ、わかる日が来ますわ」と口にした。ということは、あの時点で婚約破棄するつもりだったということか。

「二人で話し合ったのは、佳夕さんの見舞いに行ったすぐあとです。でも、彼女はその前から決めていたそうです。僕も彼女と結婚するつもりはありませんでした。なのに、父の話しに乗って諾したのは、悪い考えをおこしたから」
「悪い考えって?」
「騙そうと思いました。ところが彼女はそれを見抜いていたんです」
「ダメです、彼女を傷つけましたよ」
「わかっています。なので本心を話しました。僕は佳夕さんが、好きだと」
「え!?」
「紀子さんを利用しました。謝って済む話じゃないのはわかってましたが、あの時は焦っていて、それしか思いつかなかった」
「……」
「平手で打たれて、一回貸しよって。それから、こんなことを。月並みな言葉だけど、佳夕さんを大事にして。私の友達ですから、と」

 私は喘ぐように松田さんを見た。

「それで、はいと、返事しました」
「あ、あの……」

 松田さんの思い、枝垂さんのやさしさが身に沁みて、涙が止まらなかった。
 泣き止まない私のために、松田さんはハンカチを渡すと、少し照れくさそうな顔を向けてきた。

「フリーの編集者になるのは簡単なことじゃありません。困難も辛いこともあるでしょう。それに挑戦しようと思ったのは、生きることに向き合う佳夕さんを見てきたおかげです。あなたから勇気を貰い、チャレンジする決心がついたんだ。ですから、これから先、出来れは、僕の傍にいてくれませんか」
「あの……つまり、それは」
「結婚してくれませんか?」
「はい」

 大げさかもしれない。
 生きるために東京に来た。それは間違いじゃなかった。
 私は今、ここにいる。生きてる。
 彼に抱きしめられた。私の嗚咽を彼は正面から受け止めてくれた。
 
 ────そして、
 私と彼の吐息が重なった。

 突然背後から視線を感じ振り返ると、父と幸恵さんが白装束を身にまとって私たちを見ていた。二人の後ろには光に満ちたトンネルがあり、とても眩しかった。光は今にも父たちを飲み込もうとしている。

「お父ちゃん……」

 今まで見たことのない父の穏やかな笑顔。寄り添う幸恵さん。
 二人が光に飲み込まれる寸前、父の口が何かを告げたが、言葉としては届かなかった。光に溶け込んだ父たちは、ここからは遥かに遠い場所に旅立っていた。
 それは一瞬の出来事で、松田さんには見えていなかった。

 お父ちゃん、私は幸せだから、もう平気。



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