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一粒に確定する優先順位 鳩池久吾編 その7
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沙月の言ったように、鍵は確かに花壇にあった。といってもすぐには見つからなかったが。梓馬は思い込みで花壇の土の部分を探していたが、鍵は花壇の下側にある窪みに、革の袋に入れて隠されていた。
あいつはこの屋敷のことを、知っていたんじゃないのか――
別れ際の沙月の言葉から、そう推測することができる。しかしそれなら、提案の一つもなかったのはおかしい。ならば鍵の在り処だけを、朱里がなにかの拍子に話したことがあったのかもしれない。もし鍵を隠しているところを見たことがあれば、窪みのことに言及していたはずだ。
そんなふうに梓馬は、自分を納得させるルートを完成させた。沙月にメモ帳が見られたことを知っていれば、また別の考えも浮かんでいただろう。
鍵の形状はいまでは珍しいタイプのもので、ブレードの部分がぎざぎざになっている。金属の輪でひとまとめにされていた鍵群を順番に試し、屋敷の門を開くことに成功した。
「歩け」
アイマスク姿の鳩池は耳がイヤホンで馬鹿になったのか、意志の疎通が怪しかった。しかしペンチを当てれば、言葉よりも意志は伝わる。のろのろと歩き出した。
「いいか、でかい声を出すなよ。まだ包丁を使うつもりはないんだ」
「なんでもします、なんでもしますから」
梓馬は鳩池の手を引いた。これが朱里の体を好きにしたものだと思うと、感情がばらばらになりそうで足元がふらつく。それでも冷静にやり遂げなければならない。
梓馬がかける言葉、声を出すな、段差がある、左に向けというものに、鳩池はすべて帰りたいという趣旨の言葉を返してきていた。
その必死さを見ると、朱里のことを直接訊いても真実を話さないのは明白。こちらの目的が朱里とわかれば、悪さをしましたなどと言うわけがない。もちろん梓馬は対応策を持っている。とにかく鳩池を屋敷のなかへ連れ込まねばならない。
「なんでもするなら質問に答えればいい。本当のことを話せば、必ず無事に帰してやる」
「答えます、なんですか」
「急ぐな、ゆっくりと訊く」
朱里の祖母の家は中央に母屋を据えて、その右手に納屋がある。手入れのされていない木々が、塀の高さを超えてアーチ状になっており、この敷地を視線から守っていた。
母屋と納屋の間には、裏へと続く小径が伸びており、勝手口の存在が想像できる。もしもの場合にそなえて、逃走経路の確認をしておきたかった。だがそれには抵抗を感じる。
鳩池を誘導しながら、そのトートバッグと自分のショルダーバッグまで運ぶとなると、のろのろと移動することになる。特に梓馬のバッグには、ペンチを始めとした苦痛を与えるための工具類と、日持ちのするパン類やパックの白米、そしてペットボトルの水などが入っている。拷問は数日ほど続く予定だったからだ。
人に見られないことのほうが重要か――
逃走経路については、状況を見て後で確認することにした。
母屋へと鳩池を引いていき、玄関に鍵を適当に刺し込む。一度目で鍵が回ったが、それは施錠という結果だった。もう一度、鍵を反対方向に回して、土足のまま上がる。
左手にある部屋は襖が開いていて、かなりの奥行があるように感じられた。実際にその部屋は十二畳の部屋を二つ並べた造りで、二つの部屋の間を四枚の襖が仕切っている。
月明りが行き渡るほど広々としたその空間には、膝の高さのテーブルが二つ置いてあり、最も奥には大仰な仏壇がある。壁の上部には亡くなった先祖たちの写真が飾ってあり、この目下こそ処刑をするにふさわしいと思った。そして、自分の人生が閉じられる場所としても。
「座れ」
梓馬がそう言うと、鳩池は尻もちを着いた。手錠のせいで、体を上手く動くことすらままならない。梓馬は生殺与奪権の所有を感じながら、頭では話す手順を再確認していた。
単刀直入に朱里のことを訊けば、鳩池はこちらを加賀美朱里の関係者だと思い、命惜しさに本当のことを言わない。そのために別の角度から質問して、間接的に加賀美朱里の名前を引き出す必要がある。その突破口は大橋久美から得たノーマンズクラブの情報だ。
あの日の大橋久美の悲劇には、朱里も被害者として登場していた。梓馬自身も、朱里は同日に、鳩池たちによってレイプされたと思っている。だがそれでは、松本家があれほど警戒していたことと矛盾する。
松本家ははっきりと、朱里を加害者だと認識していた。なにかの勘違いだろうかとも思ったが、そこで思い出したのが朱里とのサロンでの会話だ。
加害者は全員が元被害者、この言葉に朱里はかなり強く反応していた。これにより導き出されたのは、朱里は被害を受けた後に加害を与えたのではないか、ということだ。
それに気付くのが遅れたのは、時系列に思い込みが持ち込まれていたからだ。
梓馬は松本花に会ってから、大橋久美に会った。無意識のうちに、被害を受けた順番も同じように考えてしまっていた。実際はその逆、大橋久美が被害を受けたあとに、松本花が被害を受けていた。
ここまでがわかると、選ばれたルートは鮮明化される。
朱里と大橋久美が逆推薦を餌に呼び出され、同じ日に被害を受ける。そして鳩池に新たな犠牲者を呼び込むように脅される。脅された朱里が、松本花を呼び寄せた。
これならば矛盾は解決される。大橋久美が朱里を被害者と認識していて、松本花が朱里を加害者と認識している状況を、両立させることができる。
梓馬は朱里が誰かを犠牲にするなど、考えたくなかった。しかしそうでないルートをいくら想定しても、どれも嘘くさく感じてしまう。認めるしかなかった。朱里が恐怖に負けて、他の女性を地獄に案内したのだと。
朱里に限ってそんなことはないと、そう言うのは簡単だ。だが梓馬は実際に人をコントロールし、されてきた。どんな崇高な理想も、本能の前にはひれ伏すのを知っている。だからこそすべての加害者は、元被害者だと言い切れる。
憎むべきは大元の加害者たちだ。レイプ被害者を脅して、次の女を呼び出させる。この数珠繋ぎのようなやり方が、ノーマンズクラブのシステムだろうと、梓馬は予測している。
男が数人がかりで呼び込むよりも、女性一人が声をかけるほうが心理的ハードルは低くなる。呼ばれた犠牲者は、自分以外にも女性がいるのだからと警戒を緩めていただろう。受付に女性を立たせるのは、どの企業もやっていることだ。
これらの考えにより、梓馬が最初にする質問はすでに決まっていた。
スマートフォンで録画を開始する。タップ時の電子音で察したのか、鳩池は唇をぺろりと舐めた。嘘を吐く前兆に見えた。
「長谷川知恵を知っているな?」
大橋久美の名前を出せば自分の痕跡を隠せないため、梓馬はシステムに言及する前に死者の名前を出した。
鳩池の反応は思ったよりも早く、即座に口を開いた。
「知ってます。本当に残念な事件でした……」
政治家めいた口調だった。
「さっきも言ったように、俺の質問すべてに答えたら無事に帰してやる」
「答えます、誠心誠意なんでも答えます」
アイマスクをされたまま、鳩池は顔を上げた。
「ああ、こちらも誠心誠意の約束をする」
梓馬がそう言うと、鳩池は慌ててしゃべり始めた。
「あの、お聞きになりたいのは、知恵さんの飛び降りは自殺じゃなくて、私どもが殺したって噂のことですよね。遺族の方ですか。違うんですよ、だって――」
ペンチをかちりと鳴らす。
「質問に答えろと言ったんだ。勝手にしゃべるな」
「すみません……」
落ち着いた鳩池を見て、梓馬は続ける。
「では質問する。長谷川知恵をレイプしたのか?」
鳩池は大げさに首を左右に振って否定した。
「違いますよ、私は付き合ってるつもりでした。でも向こうはそうじゃなかったみたいで……、行き違いがあったんだと思います」
「なぜそう思った?」
「彼女が自殺して気付きました。私が好きだったんじゃなくて、ただ逆推薦がほしかっただけなんだろうって。私一人が、彼女を好きだったみたいです」
鳩池はそう言い終えると、嗚咽を漏らし始めた。首と肩が一定間隔で、大きく動いている。だが腹部に振動が見られない。厚手のコートのせいで見えないのかもしれないと、梓馬は試しに鳩池のアイマスクを少しだけめくってみた。
「おい……」
「すみません……」
案の定、涙など出ていなかった。想定よりも厄介な奴だと判断する。
「つまりお前は、長谷川知恵をレイプしていないが、結果的に彼女を傷つけてしまったと言いたいんだな?」
「はい、そうです。本当に好きでした。確かにあなたのおっしゃるとおり、私が彼女を殺してしまったも同然です。だから私は日本を変えようと思いました。弱者が苦しまなくてすむ政治をしようと――」
この発言は梓馬の古傷に刺さった。つい論点ずらしに加担してしまう。
「弱者が苦しまなくてすむだと? おま〇こで飯を食ってるくせにか?」
「え、おま〇こで飯を?」
鳩池は口をまるく開けていた。
「とぼけるな、ノーマンズクラブは売春を仕切ってるだろ」
「ああ、それは……」
鳩池はそこから口を閉じた。いま必死に状況を把握しようとしている。大した胆力の持ち主だった。
最初に考えたのは、どこまで知られているかということ。その次に考えたのは、先ほどついた嘘をどう取り繕うかということだ。自分を脅している男が何者か、どの立場なのか、そんなことは考えなかった。自己保身に長けた者にありがちな思考だ。
「ずいぶんえげつないシステムで女を集めてるらしいな」
「え、いや……」
鳩池はここでも言葉を濁した。正直なところ身に覚えがない。町田付近では拉致や輪姦でキャストを揃えているグループを知っているが、自分たちのテリトリーではそういったことは一切していないと断言できる。といっても参考にしたのは、自分の倫理観だが。
「ではもう一度訊くが、長谷川知恵をレイプしたな?」
鳩池は逡巡したあと、顎を縦に下ろした。
「はい……」
「長谷川知恵を殺したのか?」
「いや、それは本当に違います。もちろん、その、私どもが一切関係ないとは言いませんが、殺してなんのメリットがあるんですか」
「長谷川知恵はお前たちを訴える準備をしていた。それが理由じゃないのか?」
「訴えられるからって殺してれば、もっと自殺者が出てるはずじゃないですか」
「…………」
鳩池の言い分に、梓馬は返せなかった。
もちろん自分でも、長谷川知恵が他殺だったとは思っていない。それでもまるで自分が負けたようで腹立たしく、いくらか暴力を振ろうかという発想になる。しかし危害を加えれば、鳩池が保身に入るのは明白。いますでに一つ嘘を吐かれたところだ。真偽を計れるほどの情報が揃っていないうちは、愚直に質問を続けていくしかない。
「長谷川知恵を呼び出した女は誰だ」
梓馬は言い終えて、おそらく大橋久美の名前が出るだろうと思った。朱里が脅されて松本花を呼び出したように、大橋久美も脅されて長谷川知恵を呼び出したのだろうと。だからこそ正しさの鎖が、あれほど効果的に作用したのだろうと。
梓馬はあのとき、長谷川知恵を殺したのはあなただと言った。飛躍した事実を掲示することで、大橋久美を追い込むつもりで言った。だが状況を整理してみると、自分で言ったこと以上に、飛躍した事実が存在していたわけだ。
梓馬は自分から、その名前を口にしてやろうかと思った。先ほど鳩池に言い負かされたのを、ここで取り返してやろうかと。だが鳩池は先に口を開いてしまった。
そして出てきたのは、想定外の名前だった。
「加賀美朱里です」
あいつはこの屋敷のことを、知っていたんじゃないのか――
別れ際の沙月の言葉から、そう推測することができる。しかしそれなら、提案の一つもなかったのはおかしい。ならば鍵の在り処だけを、朱里がなにかの拍子に話したことがあったのかもしれない。もし鍵を隠しているところを見たことがあれば、窪みのことに言及していたはずだ。
そんなふうに梓馬は、自分を納得させるルートを完成させた。沙月にメモ帳が見られたことを知っていれば、また別の考えも浮かんでいただろう。
鍵の形状はいまでは珍しいタイプのもので、ブレードの部分がぎざぎざになっている。金属の輪でひとまとめにされていた鍵群を順番に試し、屋敷の門を開くことに成功した。
「歩け」
アイマスク姿の鳩池は耳がイヤホンで馬鹿になったのか、意志の疎通が怪しかった。しかしペンチを当てれば、言葉よりも意志は伝わる。のろのろと歩き出した。
「いいか、でかい声を出すなよ。まだ包丁を使うつもりはないんだ」
「なんでもします、なんでもしますから」
梓馬は鳩池の手を引いた。これが朱里の体を好きにしたものだと思うと、感情がばらばらになりそうで足元がふらつく。それでも冷静にやり遂げなければならない。
梓馬がかける言葉、声を出すな、段差がある、左に向けというものに、鳩池はすべて帰りたいという趣旨の言葉を返してきていた。
その必死さを見ると、朱里のことを直接訊いても真実を話さないのは明白。こちらの目的が朱里とわかれば、悪さをしましたなどと言うわけがない。もちろん梓馬は対応策を持っている。とにかく鳩池を屋敷のなかへ連れ込まねばならない。
「なんでもするなら質問に答えればいい。本当のことを話せば、必ず無事に帰してやる」
「答えます、なんですか」
「急ぐな、ゆっくりと訊く」
朱里の祖母の家は中央に母屋を据えて、その右手に納屋がある。手入れのされていない木々が、塀の高さを超えてアーチ状になっており、この敷地を視線から守っていた。
母屋と納屋の間には、裏へと続く小径が伸びており、勝手口の存在が想像できる。もしもの場合にそなえて、逃走経路の確認をしておきたかった。だがそれには抵抗を感じる。
鳩池を誘導しながら、そのトートバッグと自分のショルダーバッグまで運ぶとなると、のろのろと移動することになる。特に梓馬のバッグには、ペンチを始めとした苦痛を与えるための工具類と、日持ちのするパン類やパックの白米、そしてペットボトルの水などが入っている。拷問は数日ほど続く予定だったからだ。
人に見られないことのほうが重要か――
逃走経路については、状況を見て後で確認することにした。
母屋へと鳩池を引いていき、玄関に鍵を適当に刺し込む。一度目で鍵が回ったが、それは施錠という結果だった。もう一度、鍵を反対方向に回して、土足のまま上がる。
左手にある部屋は襖が開いていて、かなりの奥行があるように感じられた。実際にその部屋は十二畳の部屋を二つ並べた造りで、二つの部屋の間を四枚の襖が仕切っている。
月明りが行き渡るほど広々としたその空間には、膝の高さのテーブルが二つ置いてあり、最も奥には大仰な仏壇がある。壁の上部には亡くなった先祖たちの写真が飾ってあり、この目下こそ処刑をするにふさわしいと思った。そして、自分の人生が閉じられる場所としても。
「座れ」
梓馬がそう言うと、鳩池は尻もちを着いた。手錠のせいで、体を上手く動くことすらままならない。梓馬は生殺与奪権の所有を感じながら、頭では話す手順を再確認していた。
単刀直入に朱里のことを訊けば、鳩池はこちらを加賀美朱里の関係者だと思い、命惜しさに本当のことを言わない。そのために別の角度から質問して、間接的に加賀美朱里の名前を引き出す必要がある。その突破口は大橋久美から得たノーマンズクラブの情報だ。
あの日の大橋久美の悲劇には、朱里も被害者として登場していた。梓馬自身も、朱里は同日に、鳩池たちによってレイプされたと思っている。だがそれでは、松本家があれほど警戒していたことと矛盾する。
松本家ははっきりと、朱里を加害者だと認識していた。なにかの勘違いだろうかとも思ったが、そこで思い出したのが朱里とのサロンでの会話だ。
加害者は全員が元被害者、この言葉に朱里はかなり強く反応していた。これにより導き出されたのは、朱里は被害を受けた後に加害を与えたのではないか、ということだ。
それに気付くのが遅れたのは、時系列に思い込みが持ち込まれていたからだ。
梓馬は松本花に会ってから、大橋久美に会った。無意識のうちに、被害を受けた順番も同じように考えてしまっていた。実際はその逆、大橋久美が被害を受けたあとに、松本花が被害を受けていた。
ここまでがわかると、選ばれたルートは鮮明化される。
朱里と大橋久美が逆推薦を餌に呼び出され、同じ日に被害を受ける。そして鳩池に新たな犠牲者を呼び込むように脅される。脅された朱里が、松本花を呼び寄せた。
これならば矛盾は解決される。大橋久美が朱里を被害者と認識していて、松本花が朱里を加害者と認識している状況を、両立させることができる。
梓馬は朱里が誰かを犠牲にするなど、考えたくなかった。しかしそうでないルートをいくら想定しても、どれも嘘くさく感じてしまう。認めるしかなかった。朱里が恐怖に負けて、他の女性を地獄に案内したのだと。
朱里に限ってそんなことはないと、そう言うのは簡単だ。だが梓馬は実際に人をコントロールし、されてきた。どんな崇高な理想も、本能の前にはひれ伏すのを知っている。だからこそすべての加害者は、元被害者だと言い切れる。
憎むべきは大元の加害者たちだ。レイプ被害者を脅して、次の女を呼び出させる。この数珠繋ぎのようなやり方が、ノーマンズクラブのシステムだろうと、梓馬は予測している。
男が数人がかりで呼び込むよりも、女性一人が声をかけるほうが心理的ハードルは低くなる。呼ばれた犠牲者は、自分以外にも女性がいるのだからと警戒を緩めていただろう。受付に女性を立たせるのは、どの企業もやっていることだ。
これらの考えにより、梓馬が最初にする質問はすでに決まっていた。
スマートフォンで録画を開始する。タップ時の電子音で察したのか、鳩池は唇をぺろりと舐めた。嘘を吐く前兆に見えた。
「長谷川知恵を知っているな?」
大橋久美の名前を出せば自分の痕跡を隠せないため、梓馬はシステムに言及する前に死者の名前を出した。
鳩池の反応は思ったよりも早く、即座に口を開いた。
「知ってます。本当に残念な事件でした……」
政治家めいた口調だった。
「さっきも言ったように、俺の質問すべてに答えたら無事に帰してやる」
「答えます、誠心誠意なんでも答えます」
アイマスクをされたまま、鳩池は顔を上げた。
「ああ、こちらも誠心誠意の約束をする」
梓馬がそう言うと、鳩池は慌ててしゃべり始めた。
「あの、お聞きになりたいのは、知恵さんの飛び降りは自殺じゃなくて、私どもが殺したって噂のことですよね。遺族の方ですか。違うんですよ、だって――」
ペンチをかちりと鳴らす。
「質問に答えろと言ったんだ。勝手にしゃべるな」
「すみません……」
落ち着いた鳩池を見て、梓馬は続ける。
「では質問する。長谷川知恵をレイプしたのか?」
鳩池は大げさに首を左右に振って否定した。
「違いますよ、私は付き合ってるつもりでした。でも向こうはそうじゃなかったみたいで……、行き違いがあったんだと思います」
「なぜそう思った?」
「彼女が自殺して気付きました。私が好きだったんじゃなくて、ただ逆推薦がほしかっただけなんだろうって。私一人が、彼女を好きだったみたいです」
鳩池はそう言い終えると、嗚咽を漏らし始めた。首と肩が一定間隔で、大きく動いている。だが腹部に振動が見られない。厚手のコートのせいで見えないのかもしれないと、梓馬は試しに鳩池のアイマスクを少しだけめくってみた。
「おい……」
「すみません……」
案の定、涙など出ていなかった。想定よりも厄介な奴だと判断する。
「つまりお前は、長谷川知恵をレイプしていないが、結果的に彼女を傷つけてしまったと言いたいんだな?」
「はい、そうです。本当に好きでした。確かにあなたのおっしゃるとおり、私が彼女を殺してしまったも同然です。だから私は日本を変えようと思いました。弱者が苦しまなくてすむ政治をしようと――」
この発言は梓馬の古傷に刺さった。つい論点ずらしに加担してしまう。
「弱者が苦しまなくてすむだと? おま〇こで飯を食ってるくせにか?」
「え、おま〇こで飯を?」
鳩池は口をまるく開けていた。
「とぼけるな、ノーマンズクラブは売春を仕切ってるだろ」
「ああ、それは……」
鳩池はそこから口を閉じた。いま必死に状況を把握しようとしている。大した胆力の持ち主だった。
最初に考えたのは、どこまで知られているかということ。その次に考えたのは、先ほどついた嘘をどう取り繕うかということだ。自分を脅している男が何者か、どの立場なのか、そんなことは考えなかった。自己保身に長けた者にありがちな思考だ。
「ずいぶんえげつないシステムで女を集めてるらしいな」
「え、いや……」
鳩池はここでも言葉を濁した。正直なところ身に覚えがない。町田付近では拉致や輪姦でキャストを揃えているグループを知っているが、自分たちのテリトリーではそういったことは一切していないと断言できる。といっても参考にしたのは、自分の倫理観だが。
「ではもう一度訊くが、長谷川知恵をレイプしたな?」
鳩池は逡巡したあと、顎を縦に下ろした。
「はい……」
「長谷川知恵を殺したのか?」
「いや、それは本当に違います。もちろん、その、私どもが一切関係ないとは言いませんが、殺してなんのメリットがあるんですか」
「長谷川知恵はお前たちを訴える準備をしていた。それが理由じゃないのか?」
「訴えられるからって殺してれば、もっと自殺者が出てるはずじゃないですか」
「…………」
鳩池の言い分に、梓馬は返せなかった。
もちろん自分でも、長谷川知恵が他殺だったとは思っていない。それでもまるで自分が負けたようで腹立たしく、いくらか暴力を振ろうかという発想になる。しかし危害を加えれば、鳩池が保身に入るのは明白。いますでに一つ嘘を吐かれたところだ。真偽を計れるほどの情報が揃っていないうちは、愚直に質問を続けていくしかない。
「長谷川知恵を呼び出した女は誰だ」
梓馬は言い終えて、おそらく大橋久美の名前が出るだろうと思った。朱里が脅されて松本花を呼び出したように、大橋久美も脅されて長谷川知恵を呼び出したのだろうと。だからこそ正しさの鎖が、あれほど効果的に作用したのだろうと。
梓馬はあのとき、長谷川知恵を殺したのはあなただと言った。飛躍した事実を掲示することで、大橋久美を追い込むつもりで言った。だが状況を整理してみると、自分で言ったこと以上に、飛躍した事実が存在していたわけだ。
梓馬は自分から、その名前を口にしてやろうかと思った。先ほど鳩池に言い負かされたのを、ここで取り返してやろうかと。だが鳩池は先に口を開いてしまった。
そして出てきたのは、想定外の名前だった。
「加賀美朱里です」
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