魔王殿

神泉灯

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70・そして少年は……

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 天使の姿をした魔人が、異変に気づいて針金細工の羽を広げ、少女の体を距離をとった状態で検査した。
 やがてその羽を伸ばし、手にする小太刀を弾くと、少女の体を捕獲して宙吊りにする。
 それでも力ない少女の体をしばらく油断なく警戒していたが、やがて焦燥交じりの恐怖の表情は、勝ち誇った嘲笑に変わる。
「ははは、あははははは、あーっはっはっはっはっはっは!」
 まだ助かる。
 勝機はこちらにある。
 天使は確信する。
 始めから他の亡者は見捨てる予定だった。
 魔人クラスも特別助ける理由はなく、地獄に帰ったのならば、もはや脱出人数に入れる必要はない。
 そして脱出に必要な力は、一人が通過するだけならば、原動力として不完全な状態となったマリアンヌでも十分可能だ。
 ゲオルギウスの力と混合し、微調節すれば、問題ないはずだ。
 しかし憂いを絶つために完全に抹殺したほうが良いだろう。
 死神は、死の向こう側から来るものであるがゆえに肉体も精神も完全に消滅させなければ。
 天使は肉の台座にマリアンヌを載せようと、針金細工を伸ばした。
 力の吸収搾取を最大限に引き上げ、その力を異界通路の形成に使用し、残りは外にいる光の戦士と称される者たちに向けて使えば、うまくいけば脅威を一気に消すことができる。
 第二原動力室の開いた隔壁を少女の体が通過し、同時に束ねてあった針金細工の翼が広がる。
 マリアンヌの蒼き瞳の深遠から鋭利な光が煌いた。
 同時に床に転がっていた小太刀がその意思に反応して一直線上に走り、天使の針金細工の羽の方翼を半ばほどから切断した。
 密集している状態ならば聖騎士の一撃に耐えうるほど強靭でも、広がり密度が薄くなれば強度は弱くなる。
 GI!
 短い悲鳴とともに、切断された羽が連鎖的に崩壊し消滅する。
「あああああ!」
 束縛から解放されたマリアンヌは、地に足が着くと同時に、即座に天使に向かって疾走した。
 天使は反射的に残存している羽を伸ばし、接近する少女を突き刺そうとしたが、死神の力で強化された脚力は、生来の俊足と合わさって、針金を掠めて瞬きの間に間合いを詰め、進行方向の空中にまだ浮遊している小太刀を掴むと腰溜めに構え、走力の勢いと体重をかけて、天使の腹に突き刺した。
 肉を突き破る嫌な感触が刃を通して手に伝わる。
 GA……
 天使の力ない呻き声。
「ハァ゛ー、ハァ゛ー……」
 少女の荒い呼吸音。
 GIAAAAAAA!!
 天使は絶叫の如き雄叫びを上げ、片翼を捻らせ少女の体に突き刺そうとした。
「せあ!」
 マリアンヌは刃を引き抜き、上段逆袈裟で針金細工の羽を迎撃し、体軸を一回転させると、その勢いで胸に二度目の突きを刺しこんだ。
 弾き返した針金細工の羽は一瞬で脆くも崩れ去り、そして死の刃に貫かれた胸は、朧に輝き始めた。
「ひ、ひ、ひ」
 笑っているのか、泣いているのか、どちらともつかない声を天使は絞り出していた。
 だがそれもつかの間、次にはその体が急速に消滅していった。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
 あの場所には二度と戻りたくない。
 未来永劫に続く真の地獄。
 どうして自分があんな目に会わなければならない。
 苦痛は他人が受けるべき感覚で、自分が受けるべき感覚は快楽のはずだ。
 他人こそが苦しみのた打ち回り、自分はそれを眺めて愉悦に浸るべき、特別な存在のはずなのだ。
 それなのに、その真理を無視して、責めを科せられる。
 そんな不条理なことなど耐えられない。
 耐えられるわけがない。
 自分に罪の責め苦などありえないはずなのだ。
 自分はなにをしても許されるはずなのだ。
「嫌だぁあああああ!!」
 偽りの天使は再び地獄に落とされた。


 マリアンヌは半ば信じられない思いで呟く。
「やった」
 死神の助力があったとはいえ、自分が直接魔物と、それも魔人と戦い、しかも勝ったのだ。
 しばらく乱れる呼吸を整えようとし、震える体を止めるのに努力していたが、やがて喚起がこみ上げ、声高に勝利宣言をする。
「やりましたわ。勝ちました。あいつを地獄に送り返しましたわ」
 魔人は全員倒した。
 魔王殿の魔物も殲滅したはずだ。
 古城の扉も開いている。
 すぐに先生たちが来るはずだ。
 あとはここのどこかにいるオットーを探し出して救出するだけだ。
「どうしました?」
 戦いは終わったはずなのに、内在意識の死神は返事をしない。
 嫌な予感が訪れた。
 手に持つ片刃の剣が朧に輝きを放ち始めた。
 Zi……ZiZiZi……
 奇妙な音が剣から直接鳴り出す。
「……メッセージが一件あります。……再生開始。
 ……探している少年は、君が繋がれていた区域の反対側にいる」
 マリアンヌは安堵する。
 探知していて返事が遅れたのか。
 それならせめて一言断ってからにしてほしい。
「驚かせないでください」
 不満を漏らすマリアンヌだったが、どこか余裕があった。
 自分の捕らえられていた場所の反対ということは、あの方角だろうか。
 少女は見当をつけてそこへ向かう。
「これを聞いているということは、経緯は俺には知りえないことだが、勝利したということだろう。俺はそう信じている」
 どこか噛み合わない返答にマリアンヌは怪訝に足を止めた。
 戦いを見ていたはずなのに、見ていなかったような、ここにはもういないような、そんな科白だ。
 小太刀からは一方的に話が進む。
「君には色々と伝えたい事柄があったが、あまり多くの言葉を残せない。
 すぐに仲間が来るはずだ。
 君の肉体は戦闘で、敵による攻撃を受けなくとも、俺の力によって著しく損傷を受けている。
 彼らの保護下に可及的速やかに入り、適切な治療を施してもらうことを勧告する。
 最後に。
 この世界に来訪したことは、俺にとって喜びに満ちたものだった。
 同じ喜びが、君にもある事を願う。
 さらばだ。短い間だったが、力になれてよかった。
 ……メッセージを終了します……」
 小太刀から音声が途絶え、二度と言葉が発せられることはなかった。
 マリアンヌは不意に気づいた。
「……まさか、あなた」
 少女の心に奇妙な虚無感が到来した。
 マリアンヌは死神の言っていた一つだけ残っている方法の意味を理解した。
 自分の存在の全てを戦闘のための力に変換するのだ。
 その代償として自らの存在が消滅する。
 最初に出会った時の印象は間違っていなかった。
 目的を達成するためならば、必要ならば迷いなく犠牲にする、躊躇いのなさがあると。
 それは、自分自身さえ犠牲にすることを厭わない。
 なぜそんな風に感じたのか。
 彼は死を恐れていなかったから。
 彼らは死の向こう側から来訪したもの。
 命ある者ならば誰もが持つ、死への恐怖が欠落しているがゆえに。
 しかし、確かにいたのだ。
 自分の中に、あるいは傍に。
 生命の危機に現れ、絶体絶命の状態を救い、邪悪な敵とともに戦い、そして勝利した、その存在は。
 勝ったはずなのに、敵を倒したはずなのに、勝利の機会を与えてくれた存在は、代わりに消えてしまっていた。
 やがて、一度は留まったはずの手の震えが、再び自分の意思とは無関係に震えだす。
 わずかな時間だが共にいた存在が、こんな簡単に消滅したことに、なにかを示唆しているような気がしてならず、それは恐怖を刺激して湧き上がりとどめることができない。
 マリアンヌは死神が残した最後の言葉を頼りに、オットーの場所を捜す。
 自分の捕まっていた場所の反対の位置。
 自分と同じように区域は隔壁で閉ざされているだろう。
 マリアンヌは位置に見当をつけると、急いで調べ、隔壁間の隙間を発見した。
 しかし開閉方法などわからないので、隙間に刀を差し込むと、強引にこじ開ける。
 有機物を切断する感触は、肉のそれと同じだったが、拒否感や嫌悪感はなくなっていた。
 それは慣れたというより、一つのことに思考が集中していたためだった。
 オットー、お願い、無事でいて。
 お願いだから、あなたまでいなくならないで。
 魔物の巣窟である廃墟を歩き、会話をし、底の無い深遠の奈落から引き上げてくれた。
 亡霊の影と魔物から逃げ、足場のない金網の上を手をつないで進み、魔物の犠牲者の成れの果てに悲しみ、そして怒った。
 無くした記憶に恐怖し、死にたくなるほど絶望して、だけど彼はこんなところで終わらない。
 全てを忘れたことで魔物から魂を取り戻した彼の人生は、これから始まるのだ。
 私のたった一人の友達は、私と約束したのだ。
 私と一緒に魔王殿を脱出して、一緒に王国で暮らすと。
 マリアンヌは懇願するように、何度も剣を突き刺した。
 やがて吐瀉物のようなものが噴出して、肉の隔壁に少し隙間ができる。
 それを華奢な腕で精一杯押し広げると、体を隙間にねじ込んで、向こう側の区域に入り込む。
 人一人閉じ込めるには不自然に広大な空間を持つその区域は、光量がほとんどなく、朧な闇がさえぎっている。
 それでも手探りで前に進み、とめどない不安がこみ上げるが、それは闇のせいなのか、求める人の姿のないことなのか、少女には判断がつかなかったし、つけようとも考えなかった。
「オットー、どこにいますの。オットー、オットー!」
 反響する呼びかけに、返ってくるのは沈黙だけ。
 大丈夫だ。
 死ぬはずがない。
 死ぬわけがない。
 お願い、生きていて。
 マリアンヌはただ願った。
 願いこそは全てを叶えると信じているかのように。
 やがて区域の端に到達し、壁に接触すると、意図したわけでもないのに、明かりが一つ点灯した。
 一つの光はすぐ近くの壁を円形状に照らし、その中心に探していた人物を浮かび上がらせた。
 有機体で構成された壁に、半ば埋もれるようにして、磔に処せられているその姿は、猟奇的な芸術作品にも見えたし、怪奇的な宗教像にも見えた。
「……オットー」
 その姿に、少女は搾り出すようにその名を呼んだが、返答はなく、全身の力が抜けていくのを感じ、抵抗する気力もなく膝をついた。
 それは、命の無い者に特有の、深遠の虚無の如き瞳で、虚空を凝視していた。


 少年は死んでいた。
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