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希望があれば
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わたくしは大内館から吉田郡山城に来て、天涯孤独になってしまった。
陶尾張守隆房(すえおわりのかみたかふさ)が大内左京大夫義隆(おおうちさきょうだいぶよしたか)様――大内の御屋形様を廃しようと大内館に討ち入り、御屋形様は石見の吉見出羽守正頼様を頼りに周防から逃げ出された。
その一行のなかに、御屋形様の宴に御呼ばれしていた父・小幡山城入道(おばたやましろにゅうどう)や、御屋形様の近習として仕える四郎義実(しろうよしざね)、御屋形様の小姓である五郎が混じっていた。
御屋形様は石見に逃げる道中に待ち伏せしていた陶方の国人領主軍に行く手を阻まれ、長門に逃げ場所を変えられた。
が、父は逃げきることが出来ず、陶方に斬られるよりかはと自害したという。
御屋形様はもはやこれまで、と長門大寧寺でお腹を召され、御曹司義尊(よしたか)様を連れて逃げようとした弟は御曹司様と囚われ、陶尾張守が到着するのを待たず、御曹司様とともに陶方に斬られ果てた。
わたくしはお腹に大殿の御子を身籠っていたが、陶尾張守が大内館を襲撃した衝撃で、流産してしまった。
毛利家は陶尾張守に加担していた。――わたくしは側女として仕える御方に、親兄弟を奪われたのである。
――お腹の子は流れる宿命にあったのだ。
毛利と小幡の血を引く子を、父上や弟がともに冥路に連れていったのだ。
流産の後遺症から回復できないわたくしは、床に臥したまま毎日涙に暮れていた。
わたくしが動けないあいだ、小梅殿がわたくしの代わりに大殿の御女中方の差配をしていらした。これは大殿からの正式な命により、なされたことである。
小梅殿は大殿の身の回りのお世話をなさりながら、わたくしの面倒を見てくれる。
わたくしが寝込んでいるので、大殿は現在主に三吉の御方・美(はる)殿と夜を共にしていらっしゃる。ゆえに、ひとりで夜を過ごすわたくしの側に、小梅殿はいつも控えていてくれる。
小梅殿とて、粟屋右京亮元親(あわやうきょうのすけもとちか)殿と一緒に居たいはずなのに、わたくしのせいで我慢させてしまっている。わたくしは申し訳なさで一杯だった。
「何を仰います。わたくしは中の丸様の面倒を見よと大殿に仰せつかっているのですよ。
右京亮殿も、中の丸様の事情やわたくしのことも分かってくれています」
わたくしが謝ると、小梅殿はそう仰り、微笑まれる。それが余計に辛い。
そして、大殿に対しても、わたくしはわだかまりを抱え、どうにもできないでいる。
大殿はしょっちゅう昼の政務のあいだに時間を見付け、わたくしの見舞いに来てくださる。が、わたくしは大殿のお顔をまともに見ることが出来ず、大殿から目を背けてばかりいる。
「いい加減、機嫌を治さぬか」
黙り続けるわたくしに、大殿が焦れたように仰る。
「確かにそなたは大内館に仕える侍女だった。
が、亡き御屋形様の命により我がもとに来た。
そのときから、そなたはわたしのものになったのだ。
何もかも運命と諦めて、わたしに身もこころも任せよ」
顔を背けるわたくしの髪を撫でる大殿に、わたくしはおぞけが走る錯覚がする。
何も話そうとしないわたくしに嘆息を吐き、大殿は立ち上がり部屋から出て行かれる。――そういうことが、何回も繰り返される。
わたくしも忸怩たる思いで、衾を引き被り泣いていた。
――返して、わたくしの父を、弟を!
口を開くと、大殿を詰りたくなってしまう。
憎い、大殿が、陶が――わたくしの大事なものを奪ったすべてが。
なのに、愛しい。大殿が、亡くしたお腹の子が。
憎悪するのと同等に、わたくしは大殿を愛していたのだと自覚してしまった。
愛するひとに肉親を殺されたから、こんなに怨めしく悲しいのだ。他者に殺められていれば、こんなに身を千切られるような思いはしなかっただろう。
わたくしが泣き暮らしていると、聞きたくない噂も聞こえてくる。
大殿や若殿が再び御出陣なされること。
わたくしが誰かの子を流産し、父親が誰か盛んに言い立てる噂。
そして、わたくしが再び身籠ることができなくなったと――。
それはそれで仕方ない、とわたくしは思っている。
――子を望むことが出来なくなったら、大殿もわたくしに興味をなくされるだろう。
そうすれば、お暇を頂いて出家し、父と弟、そして亡くした子の菩提を弔うことができる。
せめて、わたくしだけでも、小幡氏の先祖の霊を、父と弟の安らかなる眠りを祈りたい。静かに祈る生活に入りたい。
わたくしはそう決心し、疎かにしがちだった食事を再開した。
身体に栄養が付くと、衰えていた体力も回復してくる。数日後には起きられる時間も多くなった。
「もう大丈夫なようだな」
今日も様子を見に来られた大殿に、わたくしは小梅殿の助けを受けて寝床から起き上がり、手を突いて頭を下げる。
「改まって、どうしたのだ?」
わたくしの神妙な態度を不審に思われた大殿が、お尋ねになる。
「……大殿、どうかお暇をいただきたく、お願いいたしまする」
背後で小梅殿の息を飲まれる音が聞こえる。
大殿は眉間に皺を寄せ、無言になられる。
「わたくしは、孕めぬ身体になりました。
側女として大殿にお仕えするのも、御子が望めぬ以上、無駄でございましょう。
そして、わたくしの替わりになる侍女は、いくらでもおります。
わたくしは出家して、亡くなった小幡の父や弟、先祖の霊を弔いたいと存じます」
わたくしは深く叩頭礼し、大殿に出奔の願いを叶えてもらえるよう乞う。
が、大殿のお答えは非情だった。
「……ならぬ」
目を見開くわたくしに、大殿がにじり寄られる。
「子が生めなくとも、妻の役目は勤められるだろう。
そなたは拠り所無き身、一生わたしの側に居ればよい」
わたくしの肩を掴み起こされる大殿に、わたくしは睨み付ける。
「……大殿の慰みものになれとの仰せですか。
嫌です! 父や弟を奪った御方に、なぜ抱かれねばならぬのですか!」
激しく抗い逃げようとするわたくしを、大殿が力ずくで腕に閉じ込められる。
「待て、わたしがそなたの父や弟を殺したわけではない!
おまえの父や弟が、自ら死ぬ道を選んだのだ!」
「同じです! 大殿は、毛利は陶に同心したではありませんか!」
泣きながら大殿の胸を叩くわたくしに、大殿の手の力が益々強くなる。
「わたしは、そなたを妻にしてから小者を使い、小幡山城入道殿にそなたのことを伝えた!
そして、毛利に同心してくれと再三文を書いた!
だが、小幡山城入道殿は聞かなかった!」
狂乱するわたくしに聞かせるように、大殿が叫ばれる。
「……え……?」
大殿が、父にわたくしとのことを知らせ、同心するよう願っていた?
「そなたを継室にしたいと何度も文を書いた。そしてわたしと同じ道を歩んで欲しいと願った。
だが、山城入道殿は返事を一度もくれなかった」
今まで一度も知らされなかった事実に、わたくしは無言になる。
――大殿が、何度も父上にわたくしを妻に迎える願いを文にして出されていた。
そして、戦わずにすむ道を模索して下さっていた。
それだけで、胸が熱くなるのはなぜだろう。大殿は無為にわたくしを側女にされたわけではなかった。わたくしを妻にと望んで下さった。
そして、胸が熱くなるのと同時に、哀しくもなる。
――大殿に大望がある限り、小幡氏は毛利氏に付きはしない。
小幡氏は大内氏にこころから臣従しているのだ。
先代の大内氏の主・義興(よしおき)様が将軍様をお助けするため都に上洛したとき、大内氏と敵対関係にあった安芸の武田氏が石道の城を攻め、伯父である小幡興行(おばたおきゆき)様達は交戦のすえ武田氏に降伏せず切腹させられた。
――そんな小幡氏の者が、どうして毛利氏と意を繋ぐだろうか……。
わたくしは再び涙を流した。
「……無理にございます。
父が、小幡氏が、どれだけ大内氏に命を捧げてきたか、大殿ならご存じでしょう」
わたくしはそれだけ言い、大殿の胸で泣き崩れる。
小幡氏らしく散った父や弟がいるのに、わたくしが大殿の側に居ていいのだろうか。父や弟の霊は浮かばれないのではないだろうか。
わたくしのこころは大殿への想いと父や弟への懺悔で、千々に乱れた。
すっかり秋も深まった頃、毛利軍は大内義隆様の寵臣だった平賀隆保(ひらがたかやす)――小早川亀寿丸(こばやかわかめじゅまる)を討つため、出陣なされた。
平賀隆保は平賀氏の出ではなく、尼子氏に通じようとして誅せられた小早川支流・船木常平(ふなきつねひら)の遺児であったが、美貌であったので御屋形様に寵せられた。
が、その寵愛は行き過ぎており、平賀家当主・隆宗(たかむね)殿が病没なされたのをいいことに無理矢理隆保に平賀氏を継がせたのである。
しかし、平賀隆宗殿には弟御――蔵人大夫広相(くろうどだいぶひろすけ)殿がいらっしゃったのである。蔵人大夫殿は平賀氏を奪還するため、毛利氏と同盟関係になった。
そして、今回の毛利氏出陣と相成ったのである。
――確かに、御屋形様は不満分子を作り出してもおかしくない御方だった。
改めてそう思い、わたくしは中の丸から毛利軍が郡山城から降りていくのを見守った。
「あなたも、粟屋右京亮殿と暫くの別れで寂しいでしょう」
かなり回復して普通の生活を送れるようになったわたくしに、小梅殿は甲斐甲斐しく仕えてくれる。
肩を竦め、小梅殿は微笑まれる。
「右京亮様は必ず帰ってくると信じていますから。
それより、中の丸様は大殿が心配ではないのですか?」
逆に切り返され、わたくしは戸惑う。
「心配……していいのかしら。
本当は、大殿のお帰りをこころからお待ちしているの。
でも、小幡の父や弟のことを思うと……」
わたくしの呟きに、小梅殿は押し黙られた。
どうしようもない迷路に、わたくしは嵌まってしまっている。
大殿のいらっしゃらない今が、わたくしの出奔する好機だろう。大殿もそれをお分かりらしく、わたくしの廻りには常に侍女の目が光っている。最も注意深くわたくしを見ているのは小梅殿だ。
たぶん、大殿が帰還なさる頃には、わたくしの肉体も大殿を受け入れられるくらいに回復している。――大殿はわたくしを閨に呼ばれるだろう。
わたくしがあれこれ悩んで数日過ごしているとき、信じられないことが、御仏の導きとしか思えないことが起きた。
大殿の小者が、みすぼらしい身形の若者を吉田郡山城に連れてきた。若者――否、まだ幼い少年はくたびれ果て、命も絶え絶えの有り様らしい。
城主が留守なので、現当主の御方様である尾崎局様が小者と少年の詮議をなされたが、広間が驚きでどよめいたという。
わたくしは身動きの取りにくい状況にあるので、侍女が中の丸に飛び込んでくるまで、そのことを知らなかった。
「な、な、中の丸様ッ!
小幡五郎と申す者が、城に……ッ!」
わたくしは咄嗟に立ち上がり、侍女の前まで走り出た。
「た、確かなの!?
ご、五郎なの!? 五郎に間違いないの!?」
そのとき、侍女の後ろに、長い頭髪も乱れた少年が現れた。水干らしき着物が、切れ端のようにぼろぼろになっている。
「姉上、お懐かしゅうございます……!」
わたくしは少年の声を聞いたあと顔を見、侍女を押し退け少年に抱きついた。
「五郎ッ、五郎ッ……!」
「姉上ッ……!」
少年は間違いなく、二年の間生き別れていた我が弟・小幡五郎であった。
神か、御仏の情けか、我が弟が、小幡氏の血脈が生き残っていたのである。
――あぁ、神よ、御仏よ、弟を生かして下さったこと、感謝いたします……!
わたくしと五郎はしばらく固く抱き合い、互いに泣きじゃくった。
毛利軍が郡山城に帰ったのは、五郎がわたくしのもとに来た三日後だった。
そのときには風呂を使い小綺麗な着物を着ていた五郎は、美しい小姓にしか見えぬ状態だった。
わたくしは嬉しさの余り、五郎を連れて大殿と若殿をお出迎えに出た。
「大殿、若殿。五郎が、我が弟が生きておりました……!」
五郎の肩を抱きお二方にお見せすると、大殿が五郎の前に進み出られ、五郎の手を強く握られた。
「よう、よう生きておった……!」
涙ぐむ五郎の頭を撫で、大殿はわたくしに頷かれた。
本丸のお部屋にて具足を解かれ着替えを済ませられた大殿の前に、わたくしは五郎を連れ再度ご挨拶した。
「大殿が小者を遣わして下さったお陰で、五郎はあの争乱から逃げ延びることができました。
本当に、ありがとうございました」
わたくしとともに頭を下げ、五郎が口を開く。
「毛利の大殿様には、本当に感謝申し上げます。
それと……父上が、あい済まぬ、と」
五郎は懐から書簡を取り出し、大殿に差し出す。
大殿は封を切られると一通り文を読んで溜め息を吐かれ、わたくしに文を差し出された。
「山城入道殿の、遺書だ」
わたくしは大殿を見、文に目を通しだす。
――毛利右馬頭殿に対する数々の非礼、お詫び申し上げる。
我が家は代々大内家に仕えてきたゆえ、右馬頭殿と同心することはできなかったが、どうやら我が命もこれまでのようだ。
どうか憐れな息子・五郎を、毛利家の臣にしてやってほしい。末席でもよいから、家臣の列に加えてやって下され。
そして、我が娘・邦を幸せにしてやって頂きたく、お願い申す。娘に財産を残してやれなかったのが悔やまれて仕方がない。
代わりといってはなんだが、石道の辺りは右馬頭殿にお任せいたす。どうか、陶に渡されませぬよう。
これは、我・小幡山城入道の遺書として、ここに書き記す――。
涙ぐみながら父の遺書を読むわたくしに、五郎が訥々と語り出す。
「父は姉のことを案じておりました。
父という後ろ楯もなく、家の財産もない姉上が不憫でならぬと。
御屋形様の気紛れで、突然姉を毛利にやられてしまったが、どうにかして姉を援助してやりたい、と申しておりました。
が、父は大きな毛利家に脅威を感じており、大殿様の申し出は魅力的だが巻かれるわけにはいかぬ、と苦しんでおりました。
いま、わたしを生かして大殿様のもとに下すことができたので、父も泉下で安堵しておりましょう……」
五郎は尚も語った。
五郎は御屋形様や父、四郎と同道していたが、石見で御屋形様が追い詰められたとき、大殿の小者が密かに父達を助けに来てくれたので、父は四郎を御屋形様とともに逃がした後、小者に五郎を託し、五郎の目の前で自害したという。
五郎は父の遺志を重々受け取り、必ず生きて吉田郡山城まで行こうとこころに決めたのだという。
そしてそれこそわたくしのためになると、父と五郎は考えたのだという。
改めて五郎は大殿に額づいた。
「どうかこのわたしを、毛利家の家臣にお加え下さい。
そして、姉を大殿の側室に加えてやって下さい」
大殿は大きく頷かれた。
その後、五郎は大殿により若殿に引き合わされ、正式に毛利家中に加わることになった。
その晩、大殿はご自身のご女中方を裡座敷の広間にお集めになり、はっきりとみなに仰られた。
「妙玖(みょうきゅう)が亡くなってから長らく継室を定めておらなんだが、今宵はっきり決めておく。
亡き小幡山城入道殿の娘・邦を継室とする。
これからは邦――中の丸が我が内向きを取り仕切る。
皆の者、よいな」
わたくしは大殿の下座に進み出て、皆様の正面を向くよう座る。
いつかこの日が来ると、小梅殿が仕立ててくれた打掛を小袖のうえに纏い、人妻の証である鬢を削いでいる。――わたくしは正式に大殿の妻となったのだ。
「これから、よろしゅうお願い申し上げまする」
頭を下げ言うわたくしに、美殿が頷かれる。
が、納得していない者もいた。
「大殿、中の丸様は石女(うまずめ)にございます。
それに引き換え、我が御方様は少輔四郎(しょうのしろう)様をおあげになったばかり。
男児をお生み参らせた御方様が、石女の御方様より下の立場になるのは、納得できませぬ」
乃美(のみ)の御方・蘭殿の乳母・麻殿がわたくしを貶し、ご自身の育ての君が継室になれぬ不服を言い立てられる。
が、大殿は厳しく仰る。
「蘭はまだ若い。内を仕切るには力が足りぬ。
その分、邦は今までも内を仕切ってきた。だから継室にするのだ。
邦が子を生めずとも、若い蘭ならいくらでも生めよう?」
麻殿がぐっ、と詰まられる。
そのとき、麻殿の前に座っていらっしゃる蘭殿が口を開かれた。
「わたくしに、異存はありませぬ。
中の丸様は、大殿の奥向きで、みなにこころを配っていらっしゃいました。
これからはさらに大殿のお留守も多くなりましょう。
主の不在を護るのに、中の丸様ほど相応しい御方はいらっしゃりませぬ」
蘭殿のお言葉に、美殿も頷かれる。
「それに、大殿の継室となれば、御当主である若殿の御方様とも斥候せねばなりませぬ。
中の丸様ならば、うまくお相手して下さいましょう」
美殿がわたくしを見ながら仰る。
わたくしは再び頭を下げ、御方様方に礼をする。
「ご期待に添えるよう、あい勤めまする」
蘭殿がわたくしを認められたので、麻殿は不服そうであるがなにも言えなくなる。
わたくしは大殿の継室という立場の重さを受け止め、御方様方に感謝した。
改めて妻になったわたくしのいる中の丸に、大殿がお越しになる。わたくしの心身もすっかり回復しており、殿方を迎え入れてもよいようになっていた。
遣戸が開かれる。わたくしは手を突いてお辞儀する。
「なんだ、改まって」
いささか緊張してしまっているわたくしに大殿は訝り、部屋のなかを見渡してそうか、と頷かれる。
ふたつ並べられた寝床に、枕――まさしく、夫婦と床が作られていた。
「わたくしも妻となりましたので、いままでのように気軽な心がけでは済まなくなりました」
以前も気軽、ということはなかったが、妻になったと自覚すると、また違う感覚に襲われる。
「あ、あの、大殿。本当によろしかったのですか?」
わたくしの前に向き合って座られる大殿に、わたくしは問い掛ける。
「ん、なんだ?」
わたくしの顔を見て仰る大殿に、わたくしは面を伏せる。
「噂されているとおり、わたくしは子を生めない身体になりました」
「子を生めぬかもしれぬ、と薬師は申しておったが?」
わたくしは顔を上げる。
大殿は諦めておられぬのか、わたくしとの間の子を。
「でも、期待されましても、生んで差し上げることが出来なければ、大殿に顔向けできませぬ」
側女であった頃はいざ知らず、いまは大殿の子を生みたい。が、子を生めないかもしれないのだ。期待が大きければ、望みが実らないと失望も多くなる。
大殿はわたくしの肩に手を添えられる。
「わたしには隆元始め、立派に成人した子がいるのだ。
今更子が増えようが増えまいが、余り関係ないのだ。
だから、そなたの間の子を強く希望しているわけでもない。出来るに越したことはない、というだけだ」
そうして、大殿はわたくしを抱き締められる。
ああ、そうか、こうして身を接しているだけでも、夫婦として満ち足りるのだ。わたくしは大殿の背に腕を廻す。
「大殿……わたくしは、幸せです。
小幡の家を毛利家臣として残すことを認めていただけて。
そして、杉大方(すぎのおおかた)様の形代だとしても、こんなに愛しんでいただけるなんて、身に余る幸せです」
大殿の胸に頬を寄せ呟くと、急にわたくしの髪を撫でていた手が止まる。
そのとき、わたくしは言ってはならぬことを口にしてしまったと気づいた。
――ど、どうしよう!
わたくしは恐る恐る大殿の顔を見る。――大殿はぽかんとした表情でわたくしを見下ろしていらした。
「……そなた、誰からそれを?」
問い掛けられ、わたくしは狼狽える。が、じっとわたくしをご覧になる大殿に、観念する。
「少輔次郎様から」
わたくしの答えに、あの阿呆、と大殿が唸られる。
が、ふっとお笑いになられ、大殿はわたくしを床に押し倒される。
「確かに、はじめは義母上に似ているかと思ったが、そなたはそなたで愛しいところがある。強情でありながら、脆いところなどな。
だから、そなたに隔てを置かれても引き下がれなかった。
……そなたに、惚れておるのでな」
え、と聞き返そうとしたとき、大殿の唇で口を塞がれる。
あとは、言葉など必要なかった。言葉など出る隙もなく、大殿に愛撫され鳴かされる。
わたくしの肉体は大殿を放さぬとすがり、大殿の肉体はわたくしのすべてを暴こうと深く混じり込んでくる。
その夜、わたくしは大殿に愛し抜かれ、大殿とともに疲れ果て眠りについた。
大殿の継室になってから、わたくしの日常は筆頭侍女であった頃ほど忙しくはなくなった。
継室は側室や侍女などの監理を行う権限を持っているが、筆頭侍女であったときから側室方の面倒を見ていたので、執務は変わらない。
わたくしは御子様の衣を手に美殿のお部屋に参り、御子様の様子や美殿のご機嫌を見に行った。
「次は美殿が大殿の御子を授かればよろしいですね」
大殿は最近美殿と夜を共になさっていらっしゃる。蘭殿は急かれて無理な御産をなさったゆえ、少々気疲れていらっしゃるようだ。
「いいの? 本当はあなたが生みたいでしょうに」
美殿はわたくしが継室になってからも、態度を変えてはいらっしゃらない。わたくしが望んだゆえ、そうなった。
「いいのです、わたくしは大殿の御計らいにより、ここに居られるのですから」
いくら継室になったとはいえ、わたくしにはもう実家はなく、新たに小幡家を継ぐ五郎はまだ幼い。
後見のないわたくしを力付けようと、大殿は毛利譜代の家臣である児玉三郎右衛門就忠(こだまさぶろううえもんなりただ)殿をわたくしや五郎の後見になされた。――大殿のわたくしへの尽力は、計り知れない。
美殿とお話しながら、侍女逹の監督をし、わたくしは中の丸に下がる。本当は蘭殿のもとにも伺いたいが、麻殿が気を悪くなされるので、遠慮して行けないでいる。
わたくしは継室としての執務をしながら日々を過ごしていたが、わたくしの知らない裏で難しい問題が起こっていた。
それを知らせたのは、わたくしの侍女となった小梅殿からだった。
小梅殿は正式に粟屋右京亮殿の妻となり、わたくし付きの侍女が増えてからは、右京亮殿の館に帰られている。
そして、右京亮殿と小梅殿は大殿に命じられ、若殿の身の回りの情報をわたくしや大殿に渡すことになっている。
その小梅殿が、最近意味ありげにわたくしを見、溜め息を吐かれるのだ。
流石に、わたくしでも何かあると分かる。わたくしは小梅殿を問い詰めた。
「小梅、あなた何か言いたいことがあるでしょう?」
周囲の者の手前、わたくしは小梅殿を敬称で呼ばないようにしている。
小梅殿は動揺し、廻りを気にする。――何か、表立って言えないことなのか?
わたくしは侍女逹を下がらせ、小梅殿とふたりきりになる。
「小梅殿。――若殿に関わることなの?」
小梅殿は困惑の表情を浮かべ狼狽えるが、観念したのか、俯き話し出された。
「若殿のことでもあるのですけど、……その、御方様の弟君・五郎殿のことでもあるのです」
「五郎の?」
思いも掛けない弟の名に、わたくしは聞き返す。
小梅殿は頷かれた。
「申し上げにくいことですが……その……五郎殿が小姓として、わ、若殿の、寵愛を……」
「なんですって?」
衝撃的な情報に、わたくしは勢い込んでしまい、小梅殿が肩を縮こまらせる。
わたくしが慌てて謝ると、小梅殿はいいですから、と苦笑いなされた。
――五郎が……若殿の寵愛を?
わたくしも男色をことのほか好まれる大内の御屋形様に仕えていたのだから、男と男の交わりのことは知っている。
亡き弟・四郎義実は御屋形様の小姓上がりで、五郎も昨年から御屋形様のご寵愛を頂いていた。
だから、五郎が殿方に愛されるのは、理屈では分かるが、まさか毛利家の若殿から寵愛を受けているとは思わなかった。
「御方様が驚かれるのは無理もないことです。
若殿が弟君を寵愛なさるなど、思ってもいらっしゃらなかったでしょう。
まだ尾崎局様が御子をお生みになっていらっしゃらないのに、若殿が小姓にかまけていらっしゃるのですから、大殿がお知りになられたら、よい心象をお持ちにならないはず。
右京亮様も、どうしたものかと悩まれていたようです」
わたくしも、脇息に凭れ嘆息を吐く。
若殿のなさることに口を出すのは憚られる。が、見過ごすわけにもいかない。
「小梅殿、五郎をここに呼び出して。
五郎からも話を聞かねば」
はい、と頷き部屋から出ていかれる小梅殿に、わたくしは五郎にどう切り出せばよいか悩んでいた。
五郎は素直にわたくしのもとにやって来て、小梅殿に勧められたわたくしの前の円座(わろうだ)に座った。
こうして直視していると、五郎はわたくしにまったく似ていない。亡き四郎もそうだったが、女顔の白面の少年だ。
わたくしは亡き父上に似ているとよく言われていて、決して美しいとはいえない面をしている。
が、四郎や五郎は誰もが見惚れる美貌を持っている。ふたりは五郎を生んで亡くなった母上に似ているのだ。
そんなことをつらつら考えていると、五郎が単刀直入に言ってきた。
「姉上の耳に、若殿とわたしの噂がもう届きましたか」
わたくしが思考のなかにさ迷っていたのは、五郎にどう切り出せばよいか困っていたからなのだが、まさか五郎から口にするとは思わなかった。
わたくしは仕方なく頷き、五郎に問う。
「若殿は尾崎局様との間に御子を生さねばならぬ御方です。
それを、そなたが妨げては、折角の大殿の温情も水の泡でしょう。
そなたは毛利家で新たに小幡氏を再興せねばならぬ身です。大殿の勘気に触るような真似をしてはなりませぬ」
わたくしの説教に、五郎は困惑の表情を浮かべた。
「そうは申されますが……わたしは身代わりのようなものなので……。
若殿は、大内の御屋形様を亡くされたことに相当傷ついていらっしゃいます。
わたしを夜毎お抱きになるのも、わたしが御屋形様のご寵愛を最後に受けた者だからであって、わたし自身を想ってではないのです」
わたくしは五郎の告白を呆然と聞いていた。
毎夜、五郎を抱きながら御屋形様の名を呼び啜り泣く若殿……。想像もしたことなかった。
「姉上、若殿は一時大内館にいらっしゃったのですよね?」
五郎に聞かれ、わたくしは我に返る。
「そ、そうよ。わたくしが大内館に侍女として上がる前に、若殿は毛利家から人質として大内館に入られたの」
わたくしの答えに、五郎はやはりそうか、と言う。
「ただの推測ですが……若殿は、御屋形様の深いご寵愛を受けていらっしゃったのではないでしょうか。
若殿は今でも御屋形様を慕っていらっしゃいます」
わたくしは頭を殴られたような衝撃を受ける。
――若殿が、大内の御屋形様を今でも慕っている……。
大殿は邪魔者を薙ぎ倒す勢いで大きくなろうとしていらっしゃる。大内の御屋形様も、その邪魔者のひとつだっただろう。
が、若殿は大内の御屋形様を慕っていらっしゃる。もし全身全霊を御屋形様に捧げていらっしゃったら、大殿と若殿はいずれ衝突する。
「……わ、分かったわ、そなたを愛しむことで若殿が慰められるなら、しばしの間は仕方がないわね。
でも、ずっとそのままでいてはならない。それは分かっているわね」
五郎は頷き、分かっておりますと言った。
わたくしは五郎を返し、再びどうしたものかと頭を悩ませる。
――一応、大殿のお耳に入れたほうがよいのかしら。
わたくしは苦い息を吐き、脇息に顔を伏せた。
大殿の夕笥の介添えは、侍女時代と変わらずわたくしが行っている。
秋の茸の佃煮を作り、糠床から出したばかりの漬け物と出汁を入れた提子(ひさげ)をご飯のお櫃と一緒に用意し、大殿に饗する。
「大殿、お話したいことがあるのですが、よろしいですか?」
湯漬けを掻き込んでおられた大殿が手を止められる。
わたくしは口ごもりながらも、若殿と五郎、そして大内の御屋形様のことをお話した。
大殿は苦々しげに唸られ、腕を組まれる。
「五郎のことはわたくしの監督不行き届きです。
ですから、どうか若殿をお責めにならずに」
わたくしがお願いするが、大殿の渋面は変わらない。
「そういうわけにはいかぬ。
まだ戦の最中ぞ。我が方は陶方に付いておるのだ。
これでは、隆元が御屋形様の死を望んでいなかったようではないか」
不機嫌に仰り食事を再開なさる大殿に、わたくしは膝を進め抗議する。
「実際、望んでいらっしゃらなかったでしょう。
陶殿は御屋形様を当主の座から引き摺り下ろし、御曹司様を替わりに御当主にしようと約せられていたというではありませんか。
大殿からすれば渡りに船かもしれませぬが、若殿からすれば約束が違う、ということになります」
痛いところを突かれたのか、大殿は動きを止められる。
こほん、とわたくしは咳払いする。
「わたくしはもう大殿を恨んではおりませぬ。
御屋形様や父は時流に乗り損ねたゆえ、死なねばなりませんでした。が、五郎が毛利家中でお家を再興してくれましょう。
ただ、若殿と五郎の関係が後々に響くと、困ったことになると思ったまでです」
「……言うてくれるな」
わたくしに溜め息を吐き、大殿は仕方がない、と呟かれる。
「五郎を二宮春久に預け、その子虎法丸の近習にする」
「五郎を二宮太郎左衛門春久(にのみやたろうさえもんはるひさ)殿の御子の近習に……?」
大殿は何か言いにくいことがあるのか、わたくしから目を反らされる。
「大殿?」
わたくしが大殿の顔を覗き込むと、観念されたのか大殿はぼそぼそとお話になった。
「と、虎法丸は……わたしの子だ。
玖(ひさ)が死の病にあるとき、わたしが側女を寵愛し、孕ませた子だ。
さすがに弱りきっている玖に何も言えず、側女を腹の子ともども二宮に下げ渡した。
が、一応認知はしてあり、何も言わぬが、隆元等も虎法丸が我が子だと知っている」
わたくしは目を剥き、大殿を見る。
――なんと、まぁ。妙玖様が死の病にあるときに、他の女子を身籠らせるなど。
妙玖様は大殿が隠し女にご落胤を孕ませたことを知らずお亡くなりになったのだ。こんなひどい話、あるだろうか。
大殿がわたくしの様子を窺われる。
「……幻滅したか」
わたくしは嘆息し、大殿に向き直る。
「呆れているだけです。
妙玖様がお亡くなりになったあと生まれたということは、虎法丸君は御歳六つですか。
確かに、五郎は虎法丸君のお守役に丁度よいですわね」
わたくしも真剣に考える。虎法丸君の遊び相手をしながら毛利家中の空気に慣れ、虎法丸君の御供としてお仕えすれば、自然若殿から距離をとれるかもしれない。
「わかりました、明日、大殿から五郎に命じて下さい。
そのときには、わたくしも立ち合いいたします」
わたくしの答えに、大殿は安堵なされた。
かくして、五郎は児玉三郎右衛門殿の了承のうえ、二宮太郎左衛門殿の御子――実は大殿の隠し子である虎法丸君にお仕えすることになった。
粟屋右京亮殿を通じ小梅殿からもたらされる情報では、五郎は虎法丸君に気に入られ、よい遊び相手になっているという。
が、わたくしの知らないところで、若殿と五郎の関係は続けられていた。
それを知ったのは、あろうことか尾崎局様からだった。
ある日、わたくしは尾崎局様に呼び出され、尾崎丸に向かった。
火鉢を挟んで向き合う尾崎局様は面やつれていらっしゃって、わたくしはどうしたのだろうと案じる。
が、突然尾崎局様がはらはらと涙を落とされ、わたくしは仰天してしまう。
「ど、どうなされたのです?」
慌てて尾崎局様の近くに寄ると、御方様はお顔を背けてしまわれた。
「……殿が、わたくしを嫌われる……。
わたくしの実の父が…弟が……御屋形様をお助けせず、陶殿が御屋形様を襲うのを見て見ぬふりをしたと……」
脇息に突伏し、肩を震わせられる尾崎局様に、わたくしは何も言えない。
「殿は……御屋形様と行動をともにした、そなたの弟だけが、信頼できると……。
そなたの弟にだけこころを慰められる殿に、わたくしは、何もできない……」
わたくしは目眩がしそうになる。
五郎は、まだ若殿に寵愛されているのか……。
わたくしは途方に暮れ、尾崎局様に掛ける言葉もなかった。
ことの他お餅を好まれる大殿は、冬になってから夕食によくお餅を食される。
わたくしは火を起こした炭櫃に網を乗せ、その上で蓼味噌とお餅を一緒に朴葉で包んで焼いてゆく。
大殿は他の菜を食しながら、わたくしが語る尾崎局様の話を聞いていらっしゃった。
「仕方のない奴だな、隆元は。あれは感情的になり過ぎる。
確かに大内館で青春を過ごした隆元にとって、御屋形は大事な存在だろう。
だが大局を見ることが出来なければ、この世では生き残れぬ」
わたくしは皿に朴葉餅を乗せ、大殿にお渡しする。
「でも、若殿はとても傷ついていらっしゃるのです。こればかりは、時でしか解決できぬでしょう。
ですが、尾崎局さまが内藤家とともに若殿に恨まれてしまわれるのは、あまりに御可哀想で……」
現在、尾崎局様の実の御父上・内藤下野守様は病に臥しておられ、御孫君にあたられる内藤弾正忠隆世(ないとうだんじょうちゅうたかよ)殿が内藤家を仕切り、親陶派であると克明に打ち出しておられる。
尾崎局様は内藤家の姫君であるが、亡き御屋形様のご猶子である。どちらにも付けず、さぞお苦しいであろう。
――わたくしは父や弟・四郎の死を見て悲しんだが、五郎が生きて毛利家に臣従してくれたから、やすんじてここに居られる。
が、尾崎局様は今も御屋形様の死で苦しんでいらっしゃるのだ。
御子をお作りにならねばならない立場であるが、若殿は内藤家の仕打ちを恨んで、尾崎局様にまで辛く当たっていらっしゃるのだ。
大殿は暫し考え込んでいらっしゃる。
「大殿、五郎のことですが……」
わたくしが恐る恐る口にすると、大殿がちらりとわたくしをご覧になる。
「二宮家で、よう虎法丸に仕えておると、児玉就忠から報告が来ておる。
五郎の立場では、隆元に迫られれば拒むことなど出来んだろう。
わたしは大殿と呼ばれておるが、ただの隠居だ。実権は表向き隆元が持っておる。
隆元を拒んでも、小幡氏を再興できぬ。五郎もわたしと隆元に挟まれ、悩んでおるだろう」
言われたきり、大殿も唸って黙り込んでしまわれる。
わたくしもどうすればよいか見えず、頭を悩ませるのだった。
陶尾張守隆房(すえおわりのかみたかふさ)が大内左京大夫義隆(おおうちさきょうだいぶよしたか)様――大内の御屋形様を廃しようと大内館に討ち入り、御屋形様は石見の吉見出羽守正頼様を頼りに周防から逃げ出された。
その一行のなかに、御屋形様の宴に御呼ばれしていた父・小幡山城入道(おばたやましろにゅうどう)や、御屋形様の近習として仕える四郎義実(しろうよしざね)、御屋形様の小姓である五郎が混じっていた。
御屋形様は石見に逃げる道中に待ち伏せしていた陶方の国人領主軍に行く手を阻まれ、長門に逃げ場所を変えられた。
が、父は逃げきることが出来ず、陶方に斬られるよりかはと自害したという。
御屋形様はもはやこれまで、と長門大寧寺でお腹を召され、御曹司義尊(よしたか)様を連れて逃げようとした弟は御曹司様と囚われ、陶尾張守が到着するのを待たず、御曹司様とともに陶方に斬られ果てた。
わたくしはお腹に大殿の御子を身籠っていたが、陶尾張守が大内館を襲撃した衝撃で、流産してしまった。
毛利家は陶尾張守に加担していた。――わたくしは側女として仕える御方に、親兄弟を奪われたのである。
――お腹の子は流れる宿命にあったのだ。
毛利と小幡の血を引く子を、父上や弟がともに冥路に連れていったのだ。
流産の後遺症から回復できないわたくしは、床に臥したまま毎日涙に暮れていた。
わたくしが動けないあいだ、小梅殿がわたくしの代わりに大殿の御女中方の差配をしていらした。これは大殿からの正式な命により、なされたことである。
小梅殿は大殿の身の回りのお世話をなさりながら、わたくしの面倒を見てくれる。
わたくしが寝込んでいるので、大殿は現在主に三吉の御方・美(はる)殿と夜を共にしていらっしゃる。ゆえに、ひとりで夜を過ごすわたくしの側に、小梅殿はいつも控えていてくれる。
小梅殿とて、粟屋右京亮元親(あわやうきょうのすけもとちか)殿と一緒に居たいはずなのに、わたくしのせいで我慢させてしまっている。わたくしは申し訳なさで一杯だった。
「何を仰います。わたくしは中の丸様の面倒を見よと大殿に仰せつかっているのですよ。
右京亮殿も、中の丸様の事情やわたくしのことも分かってくれています」
わたくしが謝ると、小梅殿はそう仰り、微笑まれる。それが余計に辛い。
そして、大殿に対しても、わたくしはわだかまりを抱え、どうにもできないでいる。
大殿はしょっちゅう昼の政務のあいだに時間を見付け、わたくしの見舞いに来てくださる。が、わたくしは大殿のお顔をまともに見ることが出来ず、大殿から目を背けてばかりいる。
「いい加減、機嫌を治さぬか」
黙り続けるわたくしに、大殿が焦れたように仰る。
「確かにそなたは大内館に仕える侍女だった。
が、亡き御屋形様の命により我がもとに来た。
そのときから、そなたはわたしのものになったのだ。
何もかも運命と諦めて、わたしに身もこころも任せよ」
顔を背けるわたくしの髪を撫でる大殿に、わたくしはおぞけが走る錯覚がする。
何も話そうとしないわたくしに嘆息を吐き、大殿は立ち上がり部屋から出て行かれる。――そういうことが、何回も繰り返される。
わたくしも忸怩たる思いで、衾を引き被り泣いていた。
――返して、わたくしの父を、弟を!
口を開くと、大殿を詰りたくなってしまう。
憎い、大殿が、陶が――わたくしの大事なものを奪ったすべてが。
なのに、愛しい。大殿が、亡くしたお腹の子が。
憎悪するのと同等に、わたくしは大殿を愛していたのだと自覚してしまった。
愛するひとに肉親を殺されたから、こんなに怨めしく悲しいのだ。他者に殺められていれば、こんなに身を千切られるような思いはしなかっただろう。
わたくしが泣き暮らしていると、聞きたくない噂も聞こえてくる。
大殿や若殿が再び御出陣なされること。
わたくしが誰かの子を流産し、父親が誰か盛んに言い立てる噂。
そして、わたくしが再び身籠ることができなくなったと――。
それはそれで仕方ない、とわたくしは思っている。
――子を望むことが出来なくなったら、大殿もわたくしに興味をなくされるだろう。
そうすれば、お暇を頂いて出家し、父と弟、そして亡くした子の菩提を弔うことができる。
せめて、わたくしだけでも、小幡氏の先祖の霊を、父と弟の安らかなる眠りを祈りたい。静かに祈る生活に入りたい。
わたくしはそう決心し、疎かにしがちだった食事を再開した。
身体に栄養が付くと、衰えていた体力も回復してくる。数日後には起きられる時間も多くなった。
「もう大丈夫なようだな」
今日も様子を見に来られた大殿に、わたくしは小梅殿の助けを受けて寝床から起き上がり、手を突いて頭を下げる。
「改まって、どうしたのだ?」
わたくしの神妙な態度を不審に思われた大殿が、お尋ねになる。
「……大殿、どうかお暇をいただきたく、お願いいたしまする」
背後で小梅殿の息を飲まれる音が聞こえる。
大殿は眉間に皺を寄せ、無言になられる。
「わたくしは、孕めぬ身体になりました。
側女として大殿にお仕えするのも、御子が望めぬ以上、無駄でございましょう。
そして、わたくしの替わりになる侍女は、いくらでもおります。
わたくしは出家して、亡くなった小幡の父や弟、先祖の霊を弔いたいと存じます」
わたくしは深く叩頭礼し、大殿に出奔の願いを叶えてもらえるよう乞う。
が、大殿のお答えは非情だった。
「……ならぬ」
目を見開くわたくしに、大殿がにじり寄られる。
「子が生めなくとも、妻の役目は勤められるだろう。
そなたは拠り所無き身、一生わたしの側に居ればよい」
わたくしの肩を掴み起こされる大殿に、わたくしは睨み付ける。
「……大殿の慰みものになれとの仰せですか。
嫌です! 父や弟を奪った御方に、なぜ抱かれねばならぬのですか!」
激しく抗い逃げようとするわたくしを、大殿が力ずくで腕に閉じ込められる。
「待て、わたしがそなたの父や弟を殺したわけではない!
おまえの父や弟が、自ら死ぬ道を選んだのだ!」
「同じです! 大殿は、毛利は陶に同心したではありませんか!」
泣きながら大殿の胸を叩くわたくしに、大殿の手の力が益々強くなる。
「わたしは、そなたを妻にしてから小者を使い、小幡山城入道殿にそなたのことを伝えた!
そして、毛利に同心してくれと再三文を書いた!
だが、小幡山城入道殿は聞かなかった!」
狂乱するわたくしに聞かせるように、大殿が叫ばれる。
「……え……?」
大殿が、父にわたくしとのことを知らせ、同心するよう願っていた?
「そなたを継室にしたいと何度も文を書いた。そしてわたしと同じ道を歩んで欲しいと願った。
だが、山城入道殿は返事を一度もくれなかった」
今まで一度も知らされなかった事実に、わたくしは無言になる。
――大殿が、何度も父上にわたくしを妻に迎える願いを文にして出されていた。
そして、戦わずにすむ道を模索して下さっていた。
それだけで、胸が熱くなるのはなぜだろう。大殿は無為にわたくしを側女にされたわけではなかった。わたくしを妻にと望んで下さった。
そして、胸が熱くなるのと同時に、哀しくもなる。
――大殿に大望がある限り、小幡氏は毛利氏に付きはしない。
小幡氏は大内氏にこころから臣従しているのだ。
先代の大内氏の主・義興(よしおき)様が将軍様をお助けするため都に上洛したとき、大内氏と敵対関係にあった安芸の武田氏が石道の城を攻め、伯父である小幡興行(おばたおきゆき)様達は交戦のすえ武田氏に降伏せず切腹させられた。
――そんな小幡氏の者が、どうして毛利氏と意を繋ぐだろうか……。
わたくしは再び涙を流した。
「……無理にございます。
父が、小幡氏が、どれだけ大内氏に命を捧げてきたか、大殿ならご存じでしょう」
わたくしはそれだけ言い、大殿の胸で泣き崩れる。
小幡氏らしく散った父や弟がいるのに、わたくしが大殿の側に居ていいのだろうか。父や弟の霊は浮かばれないのではないだろうか。
わたくしのこころは大殿への想いと父や弟への懺悔で、千々に乱れた。
すっかり秋も深まった頃、毛利軍は大内義隆様の寵臣だった平賀隆保(ひらがたかやす)――小早川亀寿丸(こばやかわかめじゅまる)を討つため、出陣なされた。
平賀隆保は平賀氏の出ではなく、尼子氏に通じようとして誅せられた小早川支流・船木常平(ふなきつねひら)の遺児であったが、美貌であったので御屋形様に寵せられた。
が、その寵愛は行き過ぎており、平賀家当主・隆宗(たかむね)殿が病没なされたのをいいことに無理矢理隆保に平賀氏を継がせたのである。
しかし、平賀隆宗殿には弟御――蔵人大夫広相(くろうどだいぶひろすけ)殿がいらっしゃったのである。蔵人大夫殿は平賀氏を奪還するため、毛利氏と同盟関係になった。
そして、今回の毛利氏出陣と相成ったのである。
――確かに、御屋形様は不満分子を作り出してもおかしくない御方だった。
改めてそう思い、わたくしは中の丸から毛利軍が郡山城から降りていくのを見守った。
「あなたも、粟屋右京亮殿と暫くの別れで寂しいでしょう」
かなり回復して普通の生活を送れるようになったわたくしに、小梅殿は甲斐甲斐しく仕えてくれる。
肩を竦め、小梅殿は微笑まれる。
「右京亮様は必ず帰ってくると信じていますから。
それより、中の丸様は大殿が心配ではないのですか?」
逆に切り返され、わたくしは戸惑う。
「心配……していいのかしら。
本当は、大殿のお帰りをこころからお待ちしているの。
でも、小幡の父や弟のことを思うと……」
わたくしの呟きに、小梅殿は押し黙られた。
どうしようもない迷路に、わたくしは嵌まってしまっている。
大殿のいらっしゃらない今が、わたくしの出奔する好機だろう。大殿もそれをお分かりらしく、わたくしの廻りには常に侍女の目が光っている。最も注意深くわたくしを見ているのは小梅殿だ。
たぶん、大殿が帰還なさる頃には、わたくしの肉体も大殿を受け入れられるくらいに回復している。――大殿はわたくしを閨に呼ばれるだろう。
わたくしがあれこれ悩んで数日過ごしているとき、信じられないことが、御仏の導きとしか思えないことが起きた。
大殿の小者が、みすぼらしい身形の若者を吉田郡山城に連れてきた。若者――否、まだ幼い少年はくたびれ果て、命も絶え絶えの有り様らしい。
城主が留守なので、現当主の御方様である尾崎局様が小者と少年の詮議をなされたが、広間が驚きでどよめいたという。
わたくしは身動きの取りにくい状況にあるので、侍女が中の丸に飛び込んでくるまで、そのことを知らなかった。
「な、な、中の丸様ッ!
小幡五郎と申す者が、城に……ッ!」
わたくしは咄嗟に立ち上がり、侍女の前まで走り出た。
「た、確かなの!?
ご、五郎なの!? 五郎に間違いないの!?」
そのとき、侍女の後ろに、長い頭髪も乱れた少年が現れた。水干らしき着物が、切れ端のようにぼろぼろになっている。
「姉上、お懐かしゅうございます……!」
わたくしは少年の声を聞いたあと顔を見、侍女を押し退け少年に抱きついた。
「五郎ッ、五郎ッ……!」
「姉上ッ……!」
少年は間違いなく、二年の間生き別れていた我が弟・小幡五郎であった。
神か、御仏の情けか、我が弟が、小幡氏の血脈が生き残っていたのである。
――あぁ、神よ、御仏よ、弟を生かして下さったこと、感謝いたします……!
わたくしと五郎はしばらく固く抱き合い、互いに泣きじゃくった。
毛利軍が郡山城に帰ったのは、五郎がわたくしのもとに来た三日後だった。
そのときには風呂を使い小綺麗な着物を着ていた五郎は、美しい小姓にしか見えぬ状態だった。
わたくしは嬉しさの余り、五郎を連れて大殿と若殿をお出迎えに出た。
「大殿、若殿。五郎が、我が弟が生きておりました……!」
五郎の肩を抱きお二方にお見せすると、大殿が五郎の前に進み出られ、五郎の手を強く握られた。
「よう、よう生きておった……!」
涙ぐむ五郎の頭を撫で、大殿はわたくしに頷かれた。
本丸のお部屋にて具足を解かれ着替えを済ませられた大殿の前に、わたくしは五郎を連れ再度ご挨拶した。
「大殿が小者を遣わして下さったお陰で、五郎はあの争乱から逃げ延びることができました。
本当に、ありがとうございました」
わたくしとともに頭を下げ、五郎が口を開く。
「毛利の大殿様には、本当に感謝申し上げます。
それと……父上が、あい済まぬ、と」
五郎は懐から書簡を取り出し、大殿に差し出す。
大殿は封を切られると一通り文を読んで溜め息を吐かれ、わたくしに文を差し出された。
「山城入道殿の、遺書だ」
わたくしは大殿を見、文に目を通しだす。
――毛利右馬頭殿に対する数々の非礼、お詫び申し上げる。
我が家は代々大内家に仕えてきたゆえ、右馬頭殿と同心することはできなかったが、どうやら我が命もこれまでのようだ。
どうか憐れな息子・五郎を、毛利家の臣にしてやってほしい。末席でもよいから、家臣の列に加えてやって下され。
そして、我が娘・邦を幸せにしてやって頂きたく、お願い申す。娘に財産を残してやれなかったのが悔やまれて仕方がない。
代わりといってはなんだが、石道の辺りは右馬頭殿にお任せいたす。どうか、陶に渡されませぬよう。
これは、我・小幡山城入道の遺書として、ここに書き記す――。
涙ぐみながら父の遺書を読むわたくしに、五郎が訥々と語り出す。
「父は姉のことを案じておりました。
父という後ろ楯もなく、家の財産もない姉上が不憫でならぬと。
御屋形様の気紛れで、突然姉を毛利にやられてしまったが、どうにかして姉を援助してやりたい、と申しておりました。
が、父は大きな毛利家に脅威を感じており、大殿様の申し出は魅力的だが巻かれるわけにはいかぬ、と苦しんでおりました。
いま、わたしを生かして大殿様のもとに下すことができたので、父も泉下で安堵しておりましょう……」
五郎は尚も語った。
五郎は御屋形様や父、四郎と同道していたが、石見で御屋形様が追い詰められたとき、大殿の小者が密かに父達を助けに来てくれたので、父は四郎を御屋形様とともに逃がした後、小者に五郎を託し、五郎の目の前で自害したという。
五郎は父の遺志を重々受け取り、必ず生きて吉田郡山城まで行こうとこころに決めたのだという。
そしてそれこそわたくしのためになると、父と五郎は考えたのだという。
改めて五郎は大殿に額づいた。
「どうかこのわたしを、毛利家の家臣にお加え下さい。
そして、姉を大殿の側室に加えてやって下さい」
大殿は大きく頷かれた。
その後、五郎は大殿により若殿に引き合わされ、正式に毛利家中に加わることになった。
その晩、大殿はご自身のご女中方を裡座敷の広間にお集めになり、はっきりとみなに仰られた。
「妙玖(みょうきゅう)が亡くなってから長らく継室を定めておらなんだが、今宵はっきり決めておく。
亡き小幡山城入道殿の娘・邦を継室とする。
これからは邦――中の丸が我が内向きを取り仕切る。
皆の者、よいな」
わたくしは大殿の下座に進み出て、皆様の正面を向くよう座る。
いつかこの日が来ると、小梅殿が仕立ててくれた打掛を小袖のうえに纏い、人妻の証である鬢を削いでいる。――わたくしは正式に大殿の妻となったのだ。
「これから、よろしゅうお願い申し上げまする」
頭を下げ言うわたくしに、美殿が頷かれる。
が、納得していない者もいた。
「大殿、中の丸様は石女(うまずめ)にございます。
それに引き換え、我が御方様は少輔四郎(しょうのしろう)様をおあげになったばかり。
男児をお生み参らせた御方様が、石女の御方様より下の立場になるのは、納得できませぬ」
乃美(のみ)の御方・蘭殿の乳母・麻殿がわたくしを貶し、ご自身の育ての君が継室になれぬ不服を言い立てられる。
が、大殿は厳しく仰る。
「蘭はまだ若い。内を仕切るには力が足りぬ。
その分、邦は今までも内を仕切ってきた。だから継室にするのだ。
邦が子を生めずとも、若い蘭ならいくらでも生めよう?」
麻殿がぐっ、と詰まられる。
そのとき、麻殿の前に座っていらっしゃる蘭殿が口を開かれた。
「わたくしに、異存はありませぬ。
中の丸様は、大殿の奥向きで、みなにこころを配っていらっしゃいました。
これからはさらに大殿のお留守も多くなりましょう。
主の不在を護るのに、中の丸様ほど相応しい御方はいらっしゃりませぬ」
蘭殿のお言葉に、美殿も頷かれる。
「それに、大殿の継室となれば、御当主である若殿の御方様とも斥候せねばなりませぬ。
中の丸様ならば、うまくお相手して下さいましょう」
美殿がわたくしを見ながら仰る。
わたくしは再び頭を下げ、御方様方に礼をする。
「ご期待に添えるよう、あい勤めまする」
蘭殿がわたくしを認められたので、麻殿は不服そうであるがなにも言えなくなる。
わたくしは大殿の継室という立場の重さを受け止め、御方様方に感謝した。
改めて妻になったわたくしのいる中の丸に、大殿がお越しになる。わたくしの心身もすっかり回復しており、殿方を迎え入れてもよいようになっていた。
遣戸が開かれる。わたくしは手を突いてお辞儀する。
「なんだ、改まって」
いささか緊張してしまっているわたくしに大殿は訝り、部屋のなかを見渡してそうか、と頷かれる。
ふたつ並べられた寝床に、枕――まさしく、夫婦と床が作られていた。
「わたくしも妻となりましたので、いままでのように気軽な心がけでは済まなくなりました」
以前も気軽、ということはなかったが、妻になったと自覚すると、また違う感覚に襲われる。
「あ、あの、大殿。本当によろしかったのですか?」
わたくしの前に向き合って座られる大殿に、わたくしは問い掛ける。
「ん、なんだ?」
わたくしの顔を見て仰る大殿に、わたくしは面を伏せる。
「噂されているとおり、わたくしは子を生めない身体になりました」
「子を生めぬかもしれぬ、と薬師は申しておったが?」
わたくしは顔を上げる。
大殿は諦めておられぬのか、わたくしとの間の子を。
「でも、期待されましても、生んで差し上げることが出来なければ、大殿に顔向けできませぬ」
側女であった頃はいざ知らず、いまは大殿の子を生みたい。が、子を生めないかもしれないのだ。期待が大きければ、望みが実らないと失望も多くなる。
大殿はわたくしの肩に手を添えられる。
「わたしには隆元始め、立派に成人した子がいるのだ。
今更子が増えようが増えまいが、余り関係ないのだ。
だから、そなたの間の子を強く希望しているわけでもない。出来るに越したことはない、というだけだ」
そうして、大殿はわたくしを抱き締められる。
ああ、そうか、こうして身を接しているだけでも、夫婦として満ち足りるのだ。わたくしは大殿の背に腕を廻す。
「大殿……わたくしは、幸せです。
小幡の家を毛利家臣として残すことを認めていただけて。
そして、杉大方(すぎのおおかた)様の形代だとしても、こんなに愛しんでいただけるなんて、身に余る幸せです」
大殿の胸に頬を寄せ呟くと、急にわたくしの髪を撫でていた手が止まる。
そのとき、わたくしは言ってはならぬことを口にしてしまったと気づいた。
――ど、どうしよう!
わたくしは恐る恐る大殿の顔を見る。――大殿はぽかんとした表情でわたくしを見下ろしていらした。
「……そなた、誰からそれを?」
問い掛けられ、わたくしは狼狽える。が、じっとわたくしをご覧になる大殿に、観念する。
「少輔次郎様から」
わたくしの答えに、あの阿呆、と大殿が唸られる。
が、ふっとお笑いになられ、大殿はわたくしを床に押し倒される。
「確かに、はじめは義母上に似ているかと思ったが、そなたはそなたで愛しいところがある。強情でありながら、脆いところなどな。
だから、そなたに隔てを置かれても引き下がれなかった。
……そなたに、惚れておるのでな」
え、と聞き返そうとしたとき、大殿の唇で口を塞がれる。
あとは、言葉など必要なかった。言葉など出る隙もなく、大殿に愛撫され鳴かされる。
わたくしの肉体は大殿を放さぬとすがり、大殿の肉体はわたくしのすべてを暴こうと深く混じり込んでくる。
その夜、わたくしは大殿に愛し抜かれ、大殿とともに疲れ果て眠りについた。
大殿の継室になってから、わたくしの日常は筆頭侍女であった頃ほど忙しくはなくなった。
継室は側室や侍女などの監理を行う権限を持っているが、筆頭侍女であったときから側室方の面倒を見ていたので、執務は変わらない。
わたくしは御子様の衣を手に美殿のお部屋に参り、御子様の様子や美殿のご機嫌を見に行った。
「次は美殿が大殿の御子を授かればよろしいですね」
大殿は最近美殿と夜を共になさっていらっしゃる。蘭殿は急かれて無理な御産をなさったゆえ、少々気疲れていらっしゃるようだ。
「いいの? 本当はあなたが生みたいでしょうに」
美殿はわたくしが継室になってからも、態度を変えてはいらっしゃらない。わたくしが望んだゆえ、そうなった。
「いいのです、わたくしは大殿の御計らいにより、ここに居られるのですから」
いくら継室になったとはいえ、わたくしにはもう実家はなく、新たに小幡家を継ぐ五郎はまだ幼い。
後見のないわたくしを力付けようと、大殿は毛利譜代の家臣である児玉三郎右衛門就忠(こだまさぶろううえもんなりただ)殿をわたくしや五郎の後見になされた。――大殿のわたくしへの尽力は、計り知れない。
美殿とお話しながら、侍女逹の監督をし、わたくしは中の丸に下がる。本当は蘭殿のもとにも伺いたいが、麻殿が気を悪くなされるので、遠慮して行けないでいる。
わたくしは継室としての執務をしながら日々を過ごしていたが、わたくしの知らない裏で難しい問題が起こっていた。
それを知らせたのは、わたくしの侍女となった小梅殿からだった。
小梅殿は正式に粟屋右京亮殿の妻となり、わたくし付きの侍女が増えてからは、右京亮殿の館に帰られている。
そして、右京亮殿と小梅殿は大殿に命じられ、若殿の身の回りの情報をわたくしや大殿に渡すことになっている。
その小梅殿が、最近意味ありげにわたくしを見、溜め息を吐かれるのだ。
流石に、わたくしでも何かあると分かる。わたくしは小梅殿を問い詰めた。
「小梅、あなた何か言いたいことがあるでしょう?」
周囲の者の手前、わたくしは小梅殿を敬称で呼ばないようにしている。
小梅殿は動揺し、廻りを気にする。――何か、表立って言えないことなのか?
わたくしは侍女逹を下がらせ、小梅殿とふたりきりになる。
「小梅殿。――若殿に関わることなの?」
小梅殿は困惑の表情を浮かべ狼狽えるが、観念したのか、俯き話し出された。
「若殿のことでもあるのですけど、……その、御方様の弟君・五郎殿のことでもあるのです」
「五郎の?」
思いも掛けない弟の名に、わたくしは聞き返す。
小梅殿は頷かれた。
「申し上げにくいことですが……その……五郎殿が小姓として、わ、若殿の、寵愛を……」
「なんですって?」
衝撃的な情報に、わたくしは勢い込んでしまい、小梅殿が肩を縮こまらせる。
わたくしが慌てて謝ると、小梅殿はいいですから、と苦笑いなされた。
――五郎が……若殿の寵愛を?
わたくしも男色をことのほか好まれる大内の御屋形様に仕えていたのだから、男と男の交わりのことは知っている。
亡き弟・四郎義実は御屋形様の小姓上がりで、五郎も昨年から御屋形様のご寵愛を頂いていた。
だから、五郎が殿方に愛されるのは、理屈では分かるが、まさか毛利家の若殿から寵愛を受けているとは思わなかった。
「御方様が驚かれるのは無理もないことです。
若殿が弟君を寵愛なさるなど、思ってもいらっしゃらなかったでしょう。
まだ尾崎局様が御子をお生みになっていらっしゃらないのに、若殿が小姓にかまけていらっしゃるのですから、大殿がお知りになられたら、よい心象をお持ちにならないはず。
右京亮様も、どうしたものかと悩まれていたようです」
わたくしも、脇息に凭れ嘆息を吐く。
若殿のなさることに口を出すのは憚られる。が、見過ごすわけにもいかない。
「小梅殿、五郎をここに呼び出して。
五郎からも話を聞かねば」
はい、と頷き部屋から出ていかれる小梅殿に、わたくしは五郎にどう切り出せばよいか悩んでいた。
五郎は素直にわたくしのもとにやって来て、小梅殿に勧められたわたくしの前の円座(わろうだ)に座った。
こうして直視していると、五郎はわたくしにまったく似ていない。亡き四郎もそうだったが、女顔の白面の少年だ。
わたくしは亡き父上に似ているとよく言われていて、決して美しいとはいえない面をしている。
が、四郎や五郎は誰もが見惚れる美貌を持っている。ふたりは五郎を生んで亡くなった母上に似ているのだ。
そんなことをつらつら考えていると、五郎が単刀直入に言ってきた。
「姉上の耳に、若殿とわたしの噂がもう届きましたか」
わたくしが思考のなかにさ迷っていたのは、五郎にどう切り出せばよいか困っていたからなのだが、まさか五郎から口にするとは思わなかった。
わたくしは仕方なく頷き、五郎に問う。
「若殿は尾崎局様との間に御子を生さねばならぬ御方です。
それを、そなたが妨げては、折角の大殿の温情も水の泡でしょう。
そなたは毛利家で新たに小幡氏を再興せねばならぬ身です。大殿の勘気に触るような真似をしてはなりませぬ」
わたくしの説教に、五郎は困惑の表情を浮かべた。
「そうは申されますが……わたしは身代わりのようなものなので……。
若殿は、大内の御屋形様を亡くされたことに相当傷ついていらっしゃいます。
わたしを夜毎お抱きになるのも、わたしが御屋形様のご寵愛を最後に受けた者だからであって、わたし自身を想ってではないのです」
わたくしは五郎の告白を呆然と聞いていた。
毎夜、五郎を抱きながら御屋形様の名を呼び啜り泣く若殿……。想像もしたことなかった。
「姉上、若殿は一時大内館にいらっしゃったのですよね?」
五郎に聞かれ、わたくしは我に返る。
「そ、そうよ。わたくしが大内館に侍女として上がる前に、若殿は毛利家から人質として大内館に入られたの」
わたくしの答えに、五郎はやはりそうか、と言う。
「ただの推測ですが……若殿は、御屋形様の深いご寵愛を受けていらっしゃったのではないでしょうか。
若殿は今でも御屋形様を慕っていらっしゃいます」
わたくしは頭を殴られたような衝撃を受ける。
――若殿が、大内の御屋形様を今でも慕っている……。
大殿は邪魔者を薙ぎ倒す勢いで大きくなろうとしていらっしゃる。大内の御屋形様も、その邪魔者のひとつだっただろう。
が、若殿は大内の御屋形様を慕っていらっしゃる。もし全身全霊を御屋形様に捧げていらっしゃったら、大殿と若殿はいずれ衝突する。
「……わ、分かったわ、そなたを愛しむことで若殿が慰められるなら、しばしの間は仕方がないわね。
でも、ずっとそのままでいてはならない。それは分かっているわね」
五郎は頷き、分かっておりますと言った。
わたくしは五郎を返し、再びどうしたものかと頭を悩ませる。
――一応、大殿のお耳に入れたほうがよいのかしら。
わたくしは苦い息を吐き、脇息に顔を伏せた。
大殿の夕笥の介添えは、侍女時代と変わらずわたくしが行っている。
秋の茸の佃煮を作り、糠床から出したばかりの漬け物と出汁を入れた提子(ひさげ)をご飯のお櫃と一緒に用意し、大殿に饗する。
「大殿、お話したいことがあるのですが、よろしいですか?」
湯漬けを掻き込んでおられた大殿が手を止められる。
わたくしは口ごもりながらも、若殿と五郎、そして大内の御屋形様のことをお話した。
大殿は苦々しげに唸られ、腕を組まれる。
「五郎のことはわたくしの監督不行き届きです。
ですから、どうか若殿をお責めにならずに」
わたくしがお願いするが、大殿の渋面は変わらない。
「そういうわけにはいかぬ。
まだ戦の最中ぞ。我が方は陶方に付いておるのだ。
これでは、隆元が御屋形様の死を望んでいなかったようではないか」
不機嫌に仰り食事を再開なさる大殿に、わたくしは膝を進め抗議する。
「実際、望んでいらっしゃらなかったでしょう。
陶殿は御屋形様を当主の座から引き摺り下ろし、御曹司様を替わりに御当主にしようと約せられていたというではありませんか。
大殿からすれば渡りに船かもしれませぬが、若殿からすれば約束が違う、ということになります」
痛いところを突かれたのか、大殿は動きを止められる。
こほん、とわたくしは咳払いする。
「わたくしはもう大殿を恨んではおりませぬ。
御屋形様や父は時流に乗り損ねたゆえ、死なねばなりませんでした。が、五郎が毛利家中でお家を再興してくれましょう。
ただ、若殿と五郎の関係が後々に響くと、困ったことになると思ったまでです」
「……言うてくれるな」
わたくしに溜め息を吐き、大殿は仕方がない、と呟かれる。
「五郎を二宮春久に預け、その子虎法丸の近習にする」
「五郎を二宮太郎左衛門春久(にのみやたろうさえもんはるひさ)殿の御子の近習に……?」
大殿は何か言いにくいことがあるのか、わたくしから目を反らされる。
「大殿?」
わたくしが大殿の顔を覗き込むと、観念されたのか大殿はぼそぼそとお話になった。
「と、虎法丸は……わたしの子だ。
玖(ひさ)が死の病にあるとき、わたしが側女を寵愛し、孕ませた子だ。
さすがに弱りきっている玖に何も言えず、側女を腹の子ともども二宮に下げ渡した。
が、一応認知はしてあり、何も言わぬが、隆元等も虎法丸が我が子だと知っている」
わたくしは目を剥き、大殿を見る。
――なんと、まぁ。妙玖様が死の病にあるときに、他の女子を身籠らせるなど。
妙玖様は大殿が隠し女にご落胤を孕ませたことを知らずお亡くなりになったのだ。こんなひどい話、あるだろうか。
大殿がわたくしの様子を窺われる。
「……幻滅したか」
わたくしは嘆息し、大殿に向き直る。
「呆れているだけです。
妙玖様がお亡くなりになったあと生まれたということは、虎法丸君は御歳六つですか。
確かに、五郎は虎法丸君のお守役に丁度よいですわね」
わたくしも真剣に考える。虎法丸君の遊び相手をしながら毛利家中の空気に慣れ、虎法丸君の御供としてお仕えすれば、自然若殿から距離をとれるかもしれない。
「わかりました、明日、大殿から五郎に命じて下さい。
そのときには、わたくしも立ち合いいたします」
わたくしの答えに、大殿は安堵なされた。
かくして、五郎は児玉三郎右衛門殿の了承のうえ、二宮太郎左衛門殿の御子――実は大殿の隠し子である虎法丸君にお仕えすることになった。
粟屋右京亮殿を通じ小梅殿からもたらされる情報では、五郎は虎法丸君に気に入られ、よい遊び相手になっているという。
が、わたくしの知らないところで、若殿と五郎の関係は続けられていた。
それを知ったのは、あろうことか尾崎局様からだった。
ある日、わたくしは尾崎局様に呼び出され、尾崎丸に向かった。
火鉢を挟んで向き合う尾崎局様は面やつれていらっしゃって、わたくしはどうしたのだろうと案じる。
が、突然尾崎局様がはらはらと涙を落とされ、わたくしは仰天してしまう。
「ど、どうなされたのです?」
慌てて尾崎局様の近くに寄ると、御方様はお顔を背けてしまわれた。
「……殿が、わたくしを嫌われる……。
わたくしの実の父が…弟が……御屋形様をお助けせず、陶殿が御屋形様を襲うのを見て見ぬふりをしたと……」
脇息に突伏し、肩を震わせられる尾崎局様に、わたくしは何も言えない。
「殿は……御屋形様と行動をともにした、そなたの弟だけが、信頼できると……。
そなたの弟にだけこころを慰められる殿に、わたくしは、何もできない……」
わたくしは目眩がしそうになる。
五郎は、まだ若殿に寵愛されているのか……。
わたくしは途方に暮れ、尾崎局様に掛ける言葉もなかった。
ことの他お餅を好まれる大殿は、冬になってから夕食によくお餅を食される。
わたくしは火を起こした炭櫃に網を乗せ、その上で蓼味噌とお餅を一緒に朴葉で包んで焼いてゆく。
大殿は他の菜を食しながら、わたくしが語る尾崎局様の話を聞いていらっしゃった。
「仕方のない奴だな、隆元は。あれは感情的になり過ぎる。
確かに大内館で青春を過ごした隆元にとって、御屋形は大事な存在だろう。
だが大局を見ることが出来なければ、この世では生き残れぬ」
わたくしは皿に朴葉餅を乗せ、大殿にお渡しする。
「でも、若殿はとても傷ついていらっしゃるのです。こればかりは、時でしか解決できぬでしょう。
ですが、尾崎局さまが内藤家とともに若殿に恨まれてしまわれるのは、あまりに御可哀想で……」
現在、尾崎局様の実の御父上・内藤下野守様は病に臥しておられ、御孫君にあたられる内藤弾正忠隆世(ないとうだんじょうちゅうたかよ)殿が内藤家を仕切り、親陶派であると克明に打ち出しておられる。
尾崎局様は内藤家の姫君であるが、亡き御屋形様のご猶子である。どちらにも付けず、さぞお苦しいであろう。
――わたくしは父や弟・四郎の死を見て悲しんだが、五郎が生きて毛利家に臣従してくれたから、やすんじてここに居られる。
が、尾崎局様は今も御屋形様の死で苦しんでいらっしゃるのだ。
御子をお作りにならねばならない立場であるが、若殿は内藤家の仕打ちを恨んで、尾崎局様にまで辛く当たっていらっしゃるのだ。
大殿は暫し考え込んでいらっしゃる。
「大殿、五郎のことですが……」
わたくしが恐る恐る口にすると、大殿がちらりとわたくしをご覧になる。
「二宮家で、よう虎法丸に仕えておると、児玉就忠から報告が来ておる。
五郎の立場では、隆元に迫られれば拒むことなど出来んだろう。
わたしは大殿と呼ばれておるが、ただの隠居だ。実権は表向き隆元が持っておる。
隆元を拒んでも、小幡氏を再興できぬ。五郎もわたしと隆元に挟まれ、悩んでおるだろう」
言われたきり、大殿も唸って黙り込んでしまわれる。
わたくしもどうすればよいか見えず、頭を悩ませるのだった。
応援ありがとうございます!
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