「熊を殺すな」と言うクレーマーが熊に食われる話

とらじゃむ

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お役所仕事

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 一代は、震える手でスマートフォンを床から拾い上げた。指が震えてうまく操作できない。ようやく画面を表示させ、自治体の緊急連絡番号を押す。
「は、早く出て……早く……」
 コール音がやけに長く感じられ、鼓動が耳の奥で激しく鳴っている。
「はい、青森市役所です」
 相手が出た瞬間、一代は喉が締まり、言葉が詰まった。
「す、すぐ助けて! 庭に熊が……熊がいるんです!」
 職員は一瞬沈黙し、「あの……本当に熊が出たということでしょうか?」と、どこか疑わしげな口調で問い返してきた。
「はぁ!?本当よ!嘘なんて言うわけないでしょう!?」一代の声は金切り声になっていた。
「……わかりました。どちらに出たのでしょうか? 住所は――」職員は事務的な口調で再び尋ねた。
「私の家の庭よ! 今! 今、目の前にいるの! 沢木よ! とにかくすぐ猟友会を呼んで!今すぐ!!」
「いつ頃熊を目撃されましたか?」
「だから今だって言ってるでしょう! 早く、早くしてよ!! なんでそんなことまで聞くのよ!殺されちゃうわよ!」
 職員は淡々と「状況はわかりました。猟友会には連絡します。ご自宅から出ず、施錠して安全な場所で待機してください」と答えた。
「そんな悠長なこと言っている間に私が殺されるかもしれないのよ!? 早くして!」
 職員は落ち着いた口調で、「猟友会との調整と移動に時間がかかります。とにかく家の中で待機をお願いします」とだけ告げて電話を切った。
 焦りがさらに増した一代は、次に猟友会へ電話をかけた。数コールで年配の男性が出たが、その声には明らかな不快感が滲んでいる。
「沢木さんですか? また抗議ですか?」
「ち、違う!! 熊が庭にいるの!!今すぐに助けに来て!早く!!」
 電話の向こうで男性が鼻で笑った。
「あれだけ私たちを『殺人者』だの『動物虐待者』だのと言っていたのに、いざとなったら自分は別ですか?」
 一代の血が一瞬で冷たくなった。
「あ……いや、ちが……お願い、謝るから! 今までのことは謝ります! とにかくすぐ来て!!」
「……」
 少しの沈黙の後、男性はため息を深く吐くとしっかりとした言葉を続けた。
「市役所から連絡が来てからの出動になるので、少し時間がかかりますよ。それまで何とか耐えてください。準備を整えておきます」
 男性はそれだけ言って電話を切った。
「あぁあぁ、なんのなのよ!!早くって言ってるでしょうが!!ああもう、なんなのよ!!」
 絶望的な孤独感と焦燥が胸を締め付け、一代の身体が震え出す。今度は近所の知人へ電話を試みた。数コールの後、近所の主婦・美智子が電話口に出る。
「あら、沢木さん? 珍しいですね」
「みみ、美智子さん、美智子さん、お願い! 熊が庭にいるの!助けにきて!!」
「えっ? く、熊?」
「そうよ、熊よ!! ニュースで言っていた熊!! そこ!!そこにいるの!!」
「ほ……ほ……本当に……?」美智子は声を震わせ、動揺した様子で何度も確認を繰り返した。
「あぁあぁあ!!どんくさい!! いるの!! 今、庭をうろついていて……!」
 その瞬間、美智子は小さな悲鳴を上げ、受話器の向こうから駆け出す足音が響き、電話は一方的に切れた。
「なんで……なんで……っ!!」
 一代は目の前が真っ暗になり、呼吸が乱れ、激しい動悸と吐き気に襲われた。窓の向こうでは、熊が執拗に庭を徘徊し続けている。
 彼女は最後の希望を込めて警察に電話をかけた。だが対応した警察官の声は穏やかだが事務的だった。
「沢木さん、猟友会には連絡済みのようですので、家の中でお待ちください」
「でっ、でっ、でも……でもすぐに来てくれないんです!今すぐに!!今すぐに来て!!早く!!」
「私たちは直接熊を駆除する装備を持っていませんから、猟友会に任せるしかありません。とにかく施錠して安全な場所で待機してください」
 冷淡な口調で告げられ、電話は一方的に切れた。
 深い孤独と絶望が一代を覆い尽くす。周囲の人間から拒絶され、社会から見捨てられたかのような恐怖が、一代の胸の奥深くに染み込んでいった。
 窓の外で、熊が再びこちらを見つめていた。その冷たい瞳が、無言の死刑宣告のように感じられた。
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