頼むから眼鏡をかけていてくれ

詩条夏葵

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頼むから眼鏡をかけていてくれ

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 ガシャンと音がして、ああやっちゃったな、と思った。

「ごめん……」
 なにやってるんだよー、と軽い口調でひやかされながら、俺は倒れた酒瓶を立て直す。

 幸いにも酒瓶は空だったので中身がこぼれることはなかったが、テーブルの上で下敷きになっているものがあった。

「……これ、誰の?」

 そこにあったのは眼鏡だ。
 レンズは割れていないようだが、フレームが明らかに歪んでいる。

「ああ、俺の」
 フレームの端をつまむようにして取り上げられる。
 それは、斜め向かいの席に座っている男――確か名前は倉地くらちだった。

「うーん……どう?」
 倉地が眼鏡をかけてみせるのと同時に、右側のリムからテンプルに繋がる部分が、パキリと折れて分離した。

「わぁーお、駄目そうだね」
「ごごごごめん! 弁償するから……!」
「これ、レンズ込みで五万くらいするやつだけど大丈夫ー? フレームだけだと……いくらだったかなぁ?」
 眼鏡だけじゃなく、俺も駄目そうだ。
「…………ごめん」

 こういう時は、バイト代が入ったら返すとか言えばいいんだっけ? 
 でも俺のバイト代から家賃と光熱費と食費を引けばたいして残らないので、来月でも無理かもしれない。
 いや、こういう飲み会にしばらく参加しなければなんとか工面できるかも……?

「なーんちゃって。実はこれ、もともとフレーム部分がぐらついてたやつだから、そろそろ買い替えなきゃと思ってたんだよね。テーブルの上に無造作に置いておいたのも俺が悪いし、佐々木くんのせいじゃないよ」
 脳天気にへらっと笑った倉地に、俺は一瞬フリーズする。

「……いやいやいや、駄目だろ!」
「え、なにが?」
「それでも決定打与えちゃったのは俺だし! 酒の瓶も、倒したのが中身の入ってるやつだったら、別の意味でもっと大惨事になってたし! どう考えても俺が悪い!」
「えーと、酔ってる?」
 いきなり大声を出した俺に、倉地はきょとんとしている。

「こいつ、酔うとたまに変なテンションになるタイプなんだよー」
 隣にいた友人が説明した。
「へー、普段はおとなしそうなのに、おもしろいね」
「待ってくれ……。とりあえず今持ってる全財産をお詫びに渡すから……」
「待って待って」
 鞄をがさごそとあさって財布を取り出し、財布ごと差し出そうとする俺の手を、倉地はやんわりと押し返した。

「それ、佐々木くんの明日のお昼代とかも含まれてるよね? よくないよ、そういうの」
「でも、眼鏡が……」
「家に帰れば予備のやつがあるから大丈夫。あ、じゃあこうしよう。お金はいらないから、かわりに家まで送ってよ。一応、眼鏡してなくても一、二メートルぐらい先の距離まではある程度把握できるんだけど、その先はあんまり見えなくて、ちょっと一人で道を歩くには怖いんだよね」

 俺は改めて自分の財布の中身を覗き込んだ。
 今日の飲み会の代金を払えば、二千円ぐらいしか残らない。
「すまない。タクシー代ぐらい出せるくらいの財産が俺にあれば……」
「あはは、財産ってなに? 電車で帰ればいいじゃん。まだ終電まで余裕だし」
 そういうわけで俺たち帰るから、と告げた倉地に、ほーい、とまわりの連中たちが適当に返す。
 幹事にお金を払って、俺たちは店を出た。



「あれ、大丈夫?」
「なにが?」
「倉地って、佐々木のこと狙ってなかったっけ?」
「ああ……」
 なんて会話が、店内で繰り広げられていたこともつゆ知らずに。


          *


 駅までの道のり。倉地は上機嫌そうに鼻歌を歌っていたが、俺はなにを喋っていいのかわからずに、黙り込んでいた。
 倉地とは同じ大学の同じ学部で、共通の友人がいるからなんとなく顔見知りであったが、あんまりちゃんと会話したことはない。
 飲み会で顔を合わせるのも、今日がはじめてだった。

 顔がよくて女友達もたくさんいるのに彼女がいるという話は聞いたことがない。
 女に言い寄られているところも見たことがない。
 だから実は性格が悪いやつなんじゃないかとひそかに思っていたのだが、さっき話した感じだと、ずいぶんといい人そうだ。

 ちらりと顔色を窺ったら、「ん?」と視線に気づいた様子で倉地はすぐに振り返ってくる。
 とっさに、息が詰まった。

 眼鏡をしていない時の方が、顔が整って見える。
 凡庸な自分の顔立ちとは違う、高く通った鼻筋と切れ長の目。目蓋にかかる、色素の薄い髪。
 それが、なんとなく、目に毒のような気がしたからだ。

「……倉地、は……コンタクトにはしないのか?」
 つい、なにか言わなければいけないような気分になって、俺はどうでもいい話題を適当に口から紡ぎ出していた。

「んー、一回、コンタクト作ったことはあるんだけど、目に入れるのが苦手でさぁ」
「え?」
「入れようとしたら、どうしても反射的に目を閉じちゃうんだよね」

「わ、わかる! 俺も最初にコンタクト作りに行った時、自力で目に入れるのに一時間ぐらいかかって、店員さんに呆れられたりしたよ!」
 共感できる話題が出てきたことに嬉しくなって、つい、俺は恥ずかしい思い出を暴露してしまう。

「あっはは! 佐々木くん、不器用そうだもんね。あれ? でも、佐々木くんてコンタクトだったんだ?」
 ちょうど信号待ちで足が止まったタイミングで、顔を覗き込まれる。
 いきなり至近距離に迫ってきた顔に、俺はひぇっとなって固まった。

「……大学受験の時に……夜遅くまで勉強ばっかりしてたら、視力が落ちて……母さんがコンタクトしてる人だから、眼鏡よりもコンタクトの方がいいわよ、って勧められて……」
 かろうじて返事はしたものの、俺の声はみっともなく震えていた。
 だって顔が、近い。
 睫毛の長さまでハッキリ見える距離に、妙にドキドキした。

「へーぇ? 佐々木くん、眼鏡も似合いそうだけどね」
 ぱっと顔が離れる。
 俺はほっと胸を撫で下ろした。

「倉地くんも、眼鏡しといた方がいいと思う……」
 眼鏡をしていた方がまだ、至近距離でも平静をたもてる気がする。
 いや、また至近距離で顔を見る機会なんてそうそうないと思うのだが?

「じゃあさー、今度、お揃いの眼鏡買いに行こうよー」
「ええ……? 金、ないんだけど」
「あ、そうだったね」

 信号が青に変わる。
 再び歩き出したのと同時に、ごく当たり前のように手を掴まれたのは、きっと倉地の視力が悪いせいだ。
 そうに違いない。

 他意はないはずだと自分に言い聞かせながら、横断歩道を渡る。

 この時、俺は踏み越えてはならないラインを踏み越えそうになっていたのだが、それを知るのは、まだ先のことだ。



END
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