フレンチトーストには甘い魔法がかかっている

詩条夏葵

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フレンチトーストには甘い魔法がかかっている

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「お、おれの人生、おわっ……た……」

 漫画の世界でもないのに行き倒れで死にそうになることもあるんだ。
 なんて他人事のようなことを考えながら、夜明け直後の地面の冷たさを頬に感じる。
 アルコールの残る頭が重くて痛くて、起き上がれない。
 いっそこのまま死んだら安らかな気持ちを取り戻せるだろうか、とさえ思えた。

「……あれ? えーと、死んでますかー?」
 意識を失う直前、間延びした声が頭上から降ってきた。

(まだ死んでねぇよ)
 緊張感のない声に、若干イラッとして意識が戻ってきた。

「こういう時は……110番通報? いや119番かな?」
「…………」
 どちらも勘弁してほしい。
 俺はしぶしぶながらも顔を上げた。

「……ちょっと眠いだけだから、ほっといてくれ」
「そうは言われても、ここ、僕の店の前だから、困るんだよね」
 なんとなく聞き覚えのある声だと思いながら顔を見たら、なんとなく見覚えのある顔がそこにあった。
(でも、誰だっけ?)

「あれっ? 中島くん?」
 相手は俺のことを覚えていたらしく、先に名前を言い当てられる。

「……おまえ、誰だ?」
 頭が痛すぎて思考が回らない。面倒なので、率直に聞いた。

「えー、やだなぁ。高校で同じクラスだった。犬山圭祐いぬやまけいすけだよ。図書委員も一緒にやってたのに、覚えてない?」
 ――思い出した。
 ぼんやりしてるくせに身長が高くて顔がいいというだけで女にモテて、いつも図書室の当番の時に女に絡まれていた、いけすかない野郎だ。

 会うのは、高校の卒業式以来だから、七年ぶりだ。
「ワンコかよ……」
 特に仲がいいわけではなかったが、クラスメイトたちが『ワンコくん』と呼んでいたので、俺もそう呼んでいた。
 確か、色素が薄くて若干長めの髪がゴールデンレトリバーを連想させるため、とかいう理由だった気がする。

 よりによってなんでこいつに見つかってしまったんだろう。
 はぁ、とため息をつきながら、俺は上半身を起こす。

「悪い。すぐいなくなるから、地図を見せてくれないか?」
「地図? なんで?」
「家まで歩いて帰るからだよ」
 現在地はだいたい把握しているが、家までの道のりはわからない。
 スマホの充電も切れてしまっているので、こいつに頼むのが一番手っ取り早かった。

「家、この近くなの?」
「いや、電車で三十分ぐらいの場所だ」
「駅、そこにあるけど?」
「金がねーんだよ。酔っ払って地面で寝てたら、財布をすられちまったみたいでな。スマホの電池がねぇから、交通ICも使えねぇし」

 ああ嫌だ。こんな情けない話、こんな野郎に知られたくない。
 しかし、上手な嘘でごまかせるほど、俺は器用なたちではなかった。

「……とりあえず、うちの店入る?」



 差し出された手を、振り払いたい気持ちはじゅうぶんにあったが、悪意は欠片もないことはわかっているので、俺はしぶしぶその手を取っていた。
 そういえばこいつ、店なんてやってたんだ? と思いながらチリンチリンと音が鳴るドアをくぐったら、古めかしい、渋い緑色の椅子が並ぶ店内が広がっていた。

「……喫茶店?」
「うん。おじいちゃんの店だったんだけど、三年前に亡くなったから、僕が継いだんだ。あ、なんか食べる? フレンチトーストなら仕込みはすんでるから、焼くだけですぐに出せるよ」
 奥の、一番ゆったりとしたソファに座らせてもらうと、犬山はすぐに水を運んできた。

 昨夜は飲み屋にずっといたが、アルコールしか口にしていなかったので、水はずいぶんと新鮮に思えた。
 口をつけたら、一気に飲んでしまった。
 水がこんなにおいしいと思えたのは初めてだ。

「悪い。いま金持ってないから、代金はまた今度……」
「え? あはは。代金なんていらないよ。生き倒れてた友達からお金なんてもらえないって。待ってて、フレンチトースト焼いてくるから」
 ひらひらと手を振りながら、犬山は厨房に引っ込んでいった。

(友達だったのか、俺たち……)
 少なくとも俺は、友達だと思ったことは一度もない。
 犬山は男女問わず誰とでも仲良くなるやつで、それなりに喋ることはあったが、連絡先も知らないし、休日に一緒に遊んだこともない。ただの同級生の一人だった。
 なのに、向こうからは友達だと思われていたんだとしたら――うまく言えないけど、なんだかくすぐったい気分だ。

 座っていたら、また眠くなってきた。
 ソファに横になろうとしたけど、アンティーク調で趣のあるソファを汚すのは申し訳ないと思い、せめて汚れた上着だけでも……と脱ぐ。
 上着は適当に丸めて、枕代わりにした。
 どうせ安いスーツだ。あとでクリーニングに出せばいい。


「はい、おまたせ。あれ? 中島くん、寝ちゃってる?」
 うとうとしていたところで、犬山が声をかけてきた。
 ものすごくいい匂いもする。
 反射的に、お腹がきゅう、と鳴った。

「悪い。二日酔いでだるくて……」
「あとで酔い止めの薬を持ってこようか?」
「一応言うがおまえ、乗り物酔いの薬は持ってくるなよ。二日酔いの場合は、胃腸薬系だ」
「あれっ? そうなんだ? 一応、万が一食中毒が出た場合に備えて胃腸薬は常備してるけど、それでいいかな?」
「万が一でも食中毒は出すなよ」

 よく考えたらこいつ、高校の時、カレーを作る調理実習でなぜかホワイトシチューを作っていたが、店に出すような料理なんか作れるのか?
 今さら不安になってきたが、テーブルの上に置かれたフレンチトーストは、とても美味しそうだ。
 ぐぅ、とまたお腹が鳴る。
「食べなよ。あったかいうちが一番おいしいからさ」
 犬山はにこにこしながら言う。

「……いただきます」
 甘い匂いが空腹を刺激してくる。
 一抹の不安はあったものの、俺は食欲に負けて、両手を合わせた。



 かじると、バターのしょっぱさと砂糖が絡んだ卵の甘みが口の中に広がる。
「……っ」
 美味しい。
 慎重にかじったのは一口目だけ。
 あとは勢いよくガツガツと食いついていて、一瞬で食べ終わってしまった。

 空っぽだった胃が満たされていく。
 優しい甘さに、ついつい涙腺がゆるんでいて、俺はいつのまにか、ポロポロと泣いていた。

「はい」
 フォークを皿の上に置いたのと同時にカップが差し出される。
 中を見ると、熱々のコーンスープが入っていた。
「それも自家製なんだ。あ、コーンクリームは市販のやつだけど」
 粉に湯をそそぐだけのインスタントとは違う、濃厚でまろやかな舌ざわりのするスープだった。
 熱いので、フレンチトーストみたいに一気に口に押し込むことはできない。時間をかけて、ちびちびと飲んだ。
 その間も、涙は止まることがなかった。

「……ねぇ、なにがあったのか、聞いてもいい?」
「そんな、人にするような話じゃねーよ」
「彼女にフラれたとか?」
「…………」

 違うけど、女絡みであるのは事実だ。それも、彼女にフラれたとかよりもしょーもない事実である。
 はぁ、と俺はため息をついた。

「…………推しが結婚して引退しちまったんだよ」
 スープはまだ飲み終わっていないが、胃がある程度満たされて気分も落ち着いたところで、俺は口を開いた。
「推しって……アイドルとか?」

「そう。テレビに出てるような有名なグループじゃないんだけどな。曲がすごいよくて……みんな元気で可愛くて……ついつい応援したくなるような感じの子たちなんだよ」
 だから地方での公演も必ず駆けつけたし、CDを大量に買い込んで毎回握手会にも並んだ。
 部屋の壁にはポスターをたくさん貼ったし、ランダムのアクリルスタンドは、推しが出るまで買った。
 仕事以外のすべては、そのアイドルを追いかけるために費やされていた。
 むしろ仕事も、推しに貢ぐ金を稼ぐためにやっているようなものだった。
 つまり、俺の人生のすべてだった。

 昨日のライブ。最前列を取れた俺はご機嫌で参加していたが、待ち受けていたのは、推しの引退宣言だった。

 突然のことだった。
 今まで、浮いた話などひとつも聞いたことがない子だった。
 あんなに可愛いんだから男がいても仕方ないよな、とか。別に俺と付き合ってくれるとか夢を見れるほどバカではなかったけど、とかいろいろ思いはあるが、ショックのあまり俺はライブのあとのチェキ会にも参加せず、飲み屋に入ってガバガバと酒を飲んでいた。

 俺の推しのグループのメンバーは全部で七人。
 彼女は一番人気というわけではなく、センターでもないから、グループ自体は今後も活動継続する。
 後日、新メンバーのオーディションを行うとのことだった。

 俺が選んでグッズを買っていたのは一人だけだが、俺はグループそのものが好きでファンをやっていた。
 ただ、彼女がいないあのグループなど……正直、二度と見たくないと思ってしまった。

 急に生きがいを失って、明日からどうやって生きていけばいいんだろう。
 推しに貢ぐためにけっこう金を使っていたから、貯金はほとんどない。
 おまけに財布まで盗まれてしまった。
 次の給料日まではあと二十日。
 絶望的だ。



「中島くんって、高校の時はアイドルとかに興味があるタイプじゃなかったよね」
「まぁな」
 きっかけは、大学の友人に誘われて行ったライブだった。

 その友人は、グループの事務所のスタッフに知り合いがいるとかで、格安でチケットを譲ってもらったというだけで、一度ライブに行ったあとは、まったく興味を示さなかった。
 なにかと要領のいい友人だから、彼女もしっかりいたし、大手企業にも就職が決まった。
 今頃は、アイドルとは無縁の生活を楽しんでいることだろう。
 大学卒業後はまったく連絡を取り合っていないので、知らんけど。

「ふーん、そっかぁ。今度CD貸してよ……って言いたいところだけど、今はあんまり思い出したくない感じかな? ごめん。あ、もし食べるものに困ってたら、うちにきてよ。店で出してるようなメニューでよければ、いつでも奢るからさ」
「……おまえ、そんなに誰にでも優しくしてると、そのうち誰かに騙されて借金でも背負わされるぞ」
 気持ちはありがたいが、心配の方が勝る。
 昔からふわふわしているやつだったにしても、七年ぶりに再会した同級生にそこまで優しくするのは、人がよすぎだと思う。

「え? あはは、まあ生きていれば、どうとでもなるんじゃないかな」
「おい、その様子は、すでに騙されたあとだな」
「借金とかじゃないから大丈夫だよ。ちょっと、宝くじの購入代金を貸してあげたら踏み倒されたぐらい」
「宝くじ?」
「七億当たったら、三千円を百万円にして返してやるからって」
「絶妙にせこいな」
 七億当たったんなら、半分……とまではいかなくても、一億ぐらいやる、と言ったらどうなんだ。

「だいたい、当たるわけないだろ、宝くじなんて」
「そうなんだよねー。でも、『当たるかも』って思ったら楽しいよね。あ、僕は買ったことないんだけど、そういう夢のある話を聞くのは好きだよ」

 幻、というほどではないにせよ、おそらく一生当たる機会はないであろう宝くじの一等当選を夢見るのと、手が届きそうで届かないアイドルに生活費以外のすべてをつぎこむのとでは、どっちが馬鹿らしいんだろう、とふと思った。

(ま、夢は人それぞれか)
 夢見ることそのものが悪いわけではないのだ。

(楽しい夢をありがとう、そう思えばいいのか)
 推しをひたすら追いかけている間は、ひたすら楽しかった。それでいいじゃないか。

 でももう夢のひとときは終わったので、俺の部屋を埋め尽くしているグッズは処分しなければならない。
 そう思うと、気が重くなってくる。

「プリンも食べる?」



 空になったスープのカップの中をぼんやり眺めていると、犬山がプリンの乗った皿を持ってきた。
 白い皿に乗ったプリンもまた白く、上からカラメルソースらしきものがかけられている。
「なんだそれ。プリン?」
「ミルクプリンだよ。今度、うちの新メニューに加えようかと思ってて。昨日作った試作品なんだけど、よかったら感想聞かせてよ」
「ふーん」

 せっかくなので、食べてみる。
「美味い」
 市販の三個セットで百円ぐらいのプリンしか食べたことのない俺からしたら、高級なご馳走のように思えた。
 いや、あの激安プリンと比較したらさすがに失礼だろうけど。

「ほんと? よかったー」
 犬山は嬉しそうにふわふわと笑っている。
「ところでおまえ、開店準備しなくていいのか?」
 さっき、外に出てきたのは、開店準備のためだったはずだ。
 何時開店なんだか知らないが、モーニング目当ての客がいるような店なら、そろそろ準備をした方がいいだろう。

「あ、そうだった。ごめん、手伝ってくれる?」
「はぁ?」
「テーブル拭くだけでいいから」
「……仕方ねぇな」

 食べたり泣いたり喋ったりしているうちに、頭痛はだいぶマシになってきたので、俺はのんびりと立ち上がった。
 実は今日は俺も仕事の予定だったんだが、今日ぐらいはサボってしまおう。

 たまにはこんな日があってもいいはずだ。
 そう思えたから。

「ありがとな。おまえに再会できたんなら、たまには行き倒れるのも悪くない」
「行き倒れるのは、もうやめた方がいいんじゃないかな」
「うるさい。ワンコのくせに偉そうに言うな」
「僕のことワンコって呼んでくるの、もう中島くんだけだよ」


END
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