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一日体験
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――世の中には、特殊な仕事というものが、存在する。
求人広告には載っていないような、そんな仕事だ。
そういうのは、たいていネットでもできれば、いくらでものっているが、よくわからないような仕事に挑戦し、自ら冒険する人は、そうそうおらず。
自分から、そういった仕事を探してみようと思わなければ、それは目にとまることのない情報だろう。
と、まあ。
つい最近バイトをやめた俺は、楽な仕事はないかと、あえて求人広告はみず、インターネットで、情報をあさった。
そこで――その仕事を見つけたのだった。
さらに、一日体験してみて、だめならやめることもできるようで。
なにより、給料が普通のバイトと比べて、少しばかりよく、業務内容も、難しくなさそうときた。
それならばと、俺はすぐにそこへ電話したのだった――。
+ + + + + +
「よ、よろしくお願いします」
俺はのっていたエレベータから降りながら、付き添いの人に軽く頭を下げる。
「まあ、今日は体験なんだから。そんな硬くならなくて、だいじょうぶだよ。ほら、ハッスルハッスルー」
と、少し軽い返答をしたその人は。
今日、俺に仕事を教えてくれる――勇次さんという人だ。
そして、俺とその人は、ペアで、ある場所へと着ていた。
「とりま。ここが、依頼人のが待ってる部屋だから。あんまかたくならないでいいよ。ほら、ハッスルハッスルー」
その声に、俺は「はあ……」とあいまいに答えて。
勇次さんが指をさした先をみる。
何の変哲もない、マンションのドアのようだが。
まあ、ここはマンションでもなく、ちょっとばかし、リーズナブルに泊まれる感じの――ホテルなわけだが。
勇次さんは、なれた様子で、部屋のドアをノックする。
すると――がちゃ、とドアが開き、
「あ……、どうぞ……」
部屋から出てきたのは、前髪が少し眺めの、大人しそうな女性だった。
勇次さんは出てきた女性に名乗り、部屋へと通してもらい。
俺もそれにならうようにして、自分の名前をボソッと言い、部屋に入った。
言いなれていない名前を口にするのに、少し照れがあったからだ。
まあ、それはさておき――。
迎え入れてくれた彼女は、勇次さんを見て、少し疑問を覚えたように、俺のほうを見てから、部屋の奥へと向かっていき。
そして、奥の部屋には、ベッドと、テーブルがあり。
女性と勇次さんは、テーブルの前に置かれた椅子に腰を下ろしすと、
「夏井くんも、そこに腰をかけて」
夏井。それは――偽名だ。
いわゆる、源氏名というやつで。
だから、さっきは、少し恥ずかしかったのだ。
ようするに、勇次さんも同じく、本名は別にあるのだが。
それは俺の預かり知らぬ部分であり――。
俺は勇次さんに言われたとおり腰を下ろすと。
ポケットからペンとメモを出し。
目立たないように、それらを手に持った。
もちろん、しっかりと仕事を覚えるためだ。
そして、仕事を覚える準備をした俺の眼前で、勇次さんは俺に手の先を向けると、
「このこ、新人なんですが。ご一緒させていただいても、よろしいでしょうか?」
勇次さんが聞くと、女性は「はあ……」と、あいまいに返事をし、
「わ、私はかまいません……。はい……。なんでも、大丈夫です……」
なにやら緊張しているのか。
おずおずとした調子で、女性は返事をした。
それを受け、勇次さんは、その女性にお礼を言うと、持っていた鞄から用紙を取り出し、本日の仕事内容に関する受付を始めた。
少し笑える雑談を織り交ぜながら、要望をきき。
その流れで、女性をリラックスさせるような言葉運びで。
少しずつ、“空気作り”が行われていた。
人は見かけによらないとはこのことで。
そこにいたのは、先ほどちゃらちゃらした風にしみせていた、勇次さんではなく。
なんてことのない会話の中にすら、心配りがあり、ほっとさせる。
少しずつ、女性の中にあった緊張がほぐれていくのを、はたからでも、はっきり理解できた。
そしてこれが、ここで働くということなんだと。
勇次さんへの尊敬とともに、俺は感じたのだった。
それから、受付が終わり――。
「と、まあ。こんな感じだ。特に、難しいことはなかっただろ?」
勇次さんが訊いてくる言葉に、俺は素直に、はい、と返事する。
確かに、難しいことはなく、メモはしっかりとったので、受付の流れは問題なく覚えられそうだ。
しかし、受付の内容を聞いた俺は、その業務内容に驚愕していた。
もちろん、応募の電話をするときに、どのようなことをするのかは、きちんと目を通していた。
だが、いざこうして、目の当たりにしてみると。
こんな世界が実際にあるんだと。
俺はすっかり空気に飲まれてしまっていた。
そして、うっすらとのどの渇きを覚えていると。
「あ、そうでした」と、女性――綾子さんが言う。
名前は、受付のときに、聞こえてきた。
まあそれも、偽名なのかもしれないが――。
綾子さんはバッグの中から、コンビニの袋を取り出すと、そこから二本、お茶の入ったペットボトルを取り出し、
「ちゃんと、新品ですから。よかったら」
と、しっかりキャップの部分を見えるようにして。
ひとつを勇次さんに渡し、もうひとつを、俺にも差し出してくる。
「いいんですか? ひとつは綾子さんの、自分の分として買ったものですよね?」
確かに。
俺もここに来るのは、もちろん事前に伝えてあったようだが。
素直に受け取るのは、軽率かもしれない。
勇次さんの言葉に、俺はペットボトルを受け取ろうとした手を引っ込める。
すると、綾子さんは大げさに、ぶんぶんと、手を横に振ち、
「わ、私のは……、ちゃんと、ありますから……」
そう言って、綾子さんは、お茶のキャップを、パキッ、と空け。
「緊張してるみたいだし、よかったら飲んでください」
綾子さんはそう言って、お茶を俺へ差し出した。
そこで、俺は確認するように、勇次さんのほうを見て。
彼がにこやかにうなずいたのを、確認してから。
「あ、ありがとうございます。緊張していたので、助かります」
俺は言う必要のないことを言いながら、一口だけ、お茶をいただき。
勇次さんと綾子さんが、あはは、と和やかに笑うのを聞きながら、俺はペットボトルのキャップををしめ、持ってきていた鞄へとしまった。
そして――空気が変わり、
「夏井くん」
綾子さんを意識した、声量の抑えられた声に、俺は、はい、と返す。
「最初はわからないことや、戸惑うことが沢山あると思うけど。とりあえずは、ベッドにあがったら、しっかり――切り替えていかなきゃいけないって言うのだけは、しっかり覚えておいてね」
そう話す勇次さんの目は、いまでとは別人のようだった。
俺がその様子に圧倒されながら、返事をすると、勇次さんは優しく微笑み、綾子さんの待つベッドへと向かった。
「すみません、おまたせいたしました」
「彼は、一緒に遊んでくれないんですか?」
綾子さんは冗談っぽくそう言う。
受付をしていくなかで、今日の俺の立ちいちも、把握しているはずなのだが。
彼女のなかにあった緊張は、すっかり解けたようだ。
むしろ、本当に俺がここにいてもいいのだろうか。
と、俺のほうが緊張しているのだが。
そもそもの話、体験者を許容できる人にのみ、お声がけをしていたらしく、まったく問題なとのことだ。
だが、そういわれたどころで、という話である。
仕事を覚えるために、まじめな表情でいたらいいのか、もっと別の表情をしたほうがいいのか、色んなことが、だんだんわからなくなってきていた。
そして、そんな俺を置いてけぼりに、話は展開していき――、
「まあ、それは、夏井くん次第ですかね。けど……、難しいよね?」
「は、はい……。できましたら、仕事を覚えるため、見学させていただきたいと、いいますか……」
またも、いらない台詞。
この場面にふさわしくない言葉だと理解しつつも、緊張で頭がまわらず、ぼんやりと返しながら、適当な椅子に腰を下ろした。
その様子に、勇次さんは苦笑いを浮かべると、
「とにかく、夏井くんは、慣れてからということで……」
「なるほど。つまり、彼をその気になれば、一緒に遊べるんですね?」
綾子さんは、少しいたずらっぽく言うと、するする、と服をぬぎだしていく。
それを受け、
「まあ、そういうことです」
肩をすくめて返す勇次さん。
そうして、目のやり場に困る俺の眼前で、彼も苦笑いをしつつ、一枚一枚、服を脱いでいき――準備が整うと、
「では――」
勇次さんはそう言ってベッドの上で、四つんばいになった。
それから、彼は、まるで犬にでもなったかのように、低音で、わんわんと、鳴いた。
もちろん、彼の趣味というわけではない。
それが、あらかじめ決められた――プレイなのである。
演技であり、なりきり。
そして、間の抜けたようなそれを、それを全力でする勇次さんの姿に、俺はなぜか美しさを感じた。
彼の心配りは、いつ始まったのかさえわからないほど、ずっと続いていた。
俺が緊張していれば、おどけて見せ。
お客さんに、たいしても、また別のやりかたで、空気を緩やかにしていく。
そして、今。
ふざけたような動作の中にも、相手を喜ばせてあげよう、というのが、伝わってくるようだ。
それにたいし、綾子さんは嬉しそうに笑みを浮かべると。
おもむろに手を――自分のしりにまわした。
そして――、
「あら、おりこうさんな、わんちゃんですね。そんなわんちゃんには……」
綾子さんはそういって、ふんっ、と。いきみ、
ぷううううぅぅううぅぅううううぅぅ~~……
と――放屁音。
もちろん、それをしたのは綾子さんだ。
そして、綾子さんはそれを手に握ると、
「ほら。よく嗅いでくださいね~」
「――わふっ!?!?」
勇次さんが苦しそうに声をあげる。
それはそうだ。
綾子さんに、強烈そうな握りっ屁を嗅がされたのだから――と。
何も知らずに見ていたら、そう思うだろう。
しかし、あれは演技だ。
受付の際に、そういった打ち合わせがあったのである。
勇次さんは、それにのっとって、苦しそうにしているだけなのである。
それにしても、すごい演技力だ。
「おっ、おげぇぇっ……、え……? うそ……」
本当に臭がっているようにしか見えない。
そんな彼の演技力に、綾子さんは興奮を覚えたのか、綾子さんは、ふふっ、と笑みを漏らす。
「そんなに喜んでもらえたら、仕込んできた甲斐があります」
綾子さんはそういって、再び自分の手を知りのほうへと持っていき、
ぷっすうううぅぅううぅぅうううぅ~~……
すかしっ屁。
彼女はそれを手にぎゅっと握ると、勇次さんの鼻へ、ぽふっ、とかぶせた。
「いぃっ!?!? ぎっ……、ちょっ……」
綾子さんから握りっ屁を受け、勇次さんの頭部が、ぐらりと揺れる。
そして、勇次さんが目を回した様子で、ベッドに横たわったのみて、綾子さんはさらに動いた。
「――むぐっ!?」
驚きの声をくぐもらせる、勇次さん。
仰向けになったところを、綾子さんに顔面騎乗を受けたのだ。
本当に、すごい――演技力だと、俺は思った。
俺はそのやり取りに、圧倒され。
迫力に、ぞっと、鳥肌を立てていた。
あんなに大人しそうだった、綾子さんに、こんな一面があったとは――。
俺は驚きを隠せずにいた。
というか――、
「ねえ」
ちらりと、綾子さんが、こちらを見る。
「あなたも、やってみますか?」
「……へ?」
話を振られるとは、思っておらず、呆然とする俺。
すると、そんな俺に、綾子さんは笑みを向けると、
「何事も、経験です。それに、これから、あなたもスタッフになるんですよね?」
綾子さんは、そんな風に俺に声をかけながらも、
むっすうううぅぅうううぅうぅぅぅぅ~~……
「おぉっ……!? ごっ……! なづ……! ずげ……っ!」
鼻先に、綾子さんから屁をすかされ。
なにやら、それっぽい叫び声をあげる、勇次。
そのほとんどが、綾子さんの尻に吸収され、言葉になっていなかった。
そして、その様子を見て、
「じ、自分は……、その……」
綾子さんへの返答に迷う俺。
仕事を見学させてもらって、数分といったところだが。
俺はすっかり、怖じ気てしまっていたのだ。
――気づいていた。
勇次さんの苦鳴が演技でないことに。
漂ってきた匂いに、俺は理解させられてしまったのだ。
本当に、しゃれになっていない。
卵の腐った臭い、なんてものを数倍通り過ぎたような。
脳を溶かされるかのような、臭いが漂っており。
今にも吐きそうだ。
それを鼻先に受けている、勇次さんの苦しみはどれほどのものか――。
それを考えただけでも、逃げ出したくなった。
だが、本当のところ、どうなんだろう。
こういうケースは稀なのだろうか。
本来なら、もう少し緩やかな、内容であったりするのかもしれない。
だが、なんともいえない。
給料は、普通にバイトをすよりは、だいぶ高い。
だとするなら、割に合っているのだろうか。
俺はいつのまにか、現実逃避をするかのように、色々と計算をしていた。
と、そのとき。
すっ、と綾子さんが、勇次さんの顔から立ち上がる。
そして、俺は勇次さんの様子を見て――。
心臓が止まるかと思った。
先ほどから、ずいぶん静かだと思っていたが、それはそうだろう。
勇次さんは、いつのまにか――白目をむき、きぜつをしていたのだから。
その様子に、俺は固まっていると、
「ねえ。まだ、物足りないんですけど……」
綾子さんは、そういって俺のほうへと近づいてくる。
「ねえ。まだ、時間ありますよね?」
綾子さんはそういって、手を自分の尻のほうまわす。
「ねえ。お願い。せっかく、今日を楽しみにしてきたんだから……」
綾子さんはそういって、
ふっしゅううううぅぅぅううぅぅううぅっぅ~~……
「ねえ、夏井さん」
綾子さんはそういって、俺の鼻先に、握った手をかぶせたのだった――。
求人広告には載っていないような、そんな仕事だ。
そういうのは、たいていネットでもできれば、いくらでものっているが、よくわからないような仕事に挑戦し、自ら冒険する人は、そうそうおらず。
自分から、そういった仕事を探してみようと思わなければ、それは目にとまることのない情報だろう。
と、まあ。
つい最近バイトをやめた俺は、楽な仕事はないかと、あえて求人広告はみず、インターネットで、情報をあさった。
そこで――その仕事を見つけたのだった。
さらに、一日体験してみて、だめならやめることもできるようで。
なにより、給料が普通のバイトと比べて、少しばかりよく、業務内容も、難しくなさそうときた。
それならばと、俺はすぐにそこへ電話したのだった――。
+ + + + + +
「よ、よろしくお願いします」
俺はのっていたエレベータから降りながら、付き添いの人に軽く頭を下げる。
「まあ、今日は体験なんだから。そんな硬くならなくて、だいじょうぶだよ。ほら、ハッスルハッスルー」
と、少し軽い返答をしたその人は。
今日、俺に仕事を教えてくれる――勇次さんという人だ。
そして、俺とその人は、ペアで、ある場所へと着ていた。
「とりま。ここが、依頼人のが待ってる部屋だから。あんまかたくならないでいいよ。ほら、ハッスルハッスルー」
その声に、俺は「はあ……」とあいまいに答えて。
勇次さんが指をさした先をみる。
何の変哲もない、マンションのドアのようだが。
まあ、ここはマンションでもなく、ちょっとばかし、リーズナブルに泊まれる感じの――ホテルなわけだが。
勇次さんは、なれた様子で、部屋のドアをノックする。
すると――がちゃ、とドアが開き、
「あ……、どうぞ……」
部屋から出てきたのは、前髪が少し眺めの、大人しそうな女性だった。
勇次さんは出てきた女性に名乗り、部屋へと通してもらい。
俺もそれにならうようにして、自分の名前をボソッと言い、部屋に入った。
言いなれていない名前を口にするのに、少し照れがあったからだ。
まあ、それはさておき――。
迎え入れてくれた彼女は、勇次さんを見て、少し疑問を覚えたように、俺のほうを見てから、部屋の奥へと向かっていき。
そして、奥の部屋には、ベッドと、テーブルがあり。
女性と勇次さんは、テーブルの前に置かれた椅子に腰を下ろしすと、
「夏井くんも、そこに腰をかけて」
夏井。それは――偽名だ。
いわゆる、源氏名というやつで。
だから、さっきは、少し恥ずかしかったのだ。
ようするに、勇次さんも同じく、本名は別にあるのだが。
それは俺の預かり知らぬ部分であり――。
俺は勇次さんに言われたとおり腰を下ろすと。
ポケットからペンとメモを出し。
目立たないように、それらを手に持った。
もちろん、しっかりと仕事を覚えるためだ。
そして、仕事を覚える準備をした俺の眼前で、勇次さんは俺に手の先を向けると、
「このこ、新人なんですが。ご一緒させていただいても、よろしいでしょうか?」
勇次さんが聞くと、女性は「はあ……」と、あいまいに返事をし、
「わ、私はかまいません……。はい……。なんでも、大丈夫です……」
なにやら緊張しているのか。
おずおずとした調子で、女性は返事をした。
それを受け、勇次さんは、その女性にお礼を言うと、持っていた鞄から用紙を取り出し、本日の仕事内容に関する受付を始めた。
少し笑える雑談を織り交ぜながら、要望をきき。
その流れで、女性をリラックスさせるような言葉運びで。
少しずつ、“空気作り”が行われていた。
人は見かけによらないとはこのことで。
そこにいたのは、先ほどちゃらちゃらした風にしみせていた、勇次さんではなく。
なんてことのない会話の中にすら、心配りがあり、ほっとさせる。
少しずつ、女性の中にあった緊張がほぐれていくのを、はたからでも、はっきり理解できた。
そしてこれが、ここで働くということなんだと。
勇次さんへの尊敬とともに、俺は感じたのだった。
それから、受付が終わり――。
「と、まあ。こんな感じだ。特に、難しいことはなかっただろ?」
勇次さんが訊いてくる言葉に、俺は素直に、はい、と返事する。
確かに、難しいことはなく、メモはしっかりとったので、受付の流れは問題なく覚えられそうだ。
しかし、受付の内容を聞いた俺は、その業務内容に驚愕していた。
もちろん、応募の電話をするときに、どのようなことをするのかは、きちんと目を通していた。
だが、いざこうして、目の当たりにしてみると。
こんな世界が実際にあるんだと。
俺はすっかり空気に飲まれてしまっていた。
そして、うっすらとのどの渇きを覚えていると。
「あ、そうでした」と、女性――綾子さんが言う。
名前は、受付のときに、聞こえてきた。
まあそれも、偽名なのかもしれないが――。
綾子さんはバッグの中から、コンビニの袋を取り出すと、そこから二本、お茶の入ったペットボトルを取り出し、
「ちゃんと、新品ですから。よかったら」
と、しっかりキャップの部分を見えるようにして。
ひとつを勇次さんに渡し、もうひとつを、俺にも差し出してくる。
「いいんですか? ひとつは綾子さんの、自分の分として買ったものですよね?」
確かに。
俺もここに来るのは、もちろん事前に伝えてあったようだが。
素直に受け取るのは、軽率かもしれない。
勇次さんの言葉に、俺はペットボトルを受け取ろうとした手を引っ込める。
すると、綾子さんは大げさに、ぶんぶんと、手を横に振ち、
「わ、私のは……、ちゃんと、ありますから……」
そう言って、綾子さんは、お茶のキャップを、パキッ、と空け。
「緊張してるみたいだし、よかったら飲んでください」
綾子さんはそう言って、お茶を俺へ差し出した。
そこで、俺は確認するように、勇次さんのほうを見て。
彼がにこやかにうなずいたのを、確認してから。
「あ、ありがとうございます。緊張していたので、助かります」
俺は言う必要のないことを言いながら、一口だけ、お茶をいただき。
勇次さんと綾子さんが、あはは、と和やかに笑うのを聞きながら、俺はペットボトルのキャップををしめ、持ってきていた鞄へとしまった。
そして――空気が変わり、
「夏井くん」
綾子さんを意識した、声量の抑えられた声に、俺は、はい、と返す。
「最初はわからないことや、戸惑うことが沢山あると思うけど。とりあえずは、ベッドにあがったら、しっかり――切り替えていかなきゃいけないって言うのだけは、しっかり覚えておいてね」
そう話す勇次さんの目は、いまでとは別人のようだった。
俺がその様子に圧倒されながら、返事をすると、勇次さんは優しく微笑み、綾子さんの待つベッドへと向かった。
「すみません、おまたせいたしました」
「彼は、一緒に遊んでくれないんですか?」
綾子さんは冗談っぽくそう言う。
受付をしていくなかで、今日の俺の立ちいちも、把握しているはずなのだが。
彼女のなかにあった緊張は、すっかり解けたようだ。
むしろ、本当に俺がここにいてもいいのだろうか。
と、俺のほうが緊張しているのだが。
そもそもの話、体験者を許容できる人にのみ、お声がけをしていたらしく、まったく問題なとのことだ。
だが、そういわれたどころで、という話である。
仕事を覚えるために、まじめな表情でいたらいいのか、もっと別の表情をしたほうがいいのか、色んなことが、だんだんわからなくなってきていた。
そして、そんな俺を置いてけぼりに、話は展開していき――、
「まあ、それは、夏井くん次第ですかね。けど……、難しいよね?」
「は、はい……。できましたら、仕事を覚えるため、見学させていただきたいと、いいますか……」
またも、いらない台詞。
この場面にふさわしくない言葉だと理解しつつも、緊張で頭がまわらず、ぼんやりと返しながら、適当な椅子に腰を下ろした。
その様子に、勇次さんは苦笑いを浮かべると、
「とにかく、夏井くんは、慣れてからということで……」
「なるほど。つまり、彼をその気になれば、一緒に遊べるんですね?」
綾子さんは、少しいたずらっぽく言うと、するする、と服をぬぎだしていく。
それを受け、
「まあ、そういうことです」
肩をすくめて返す勇次さん。
そうして、目のやり場に困る俺の眼前で、彼も苦笑いをしつつ、一枚一枚、服を脱いでいき――準備が整うと、
「では――」
勇次さんはそう言ってベッドの上で、四つんばいになった。
それから、彼は、まるで犬にでもなったかのように、低音で、わんわんと、鳴いた。
もちろん、彼の趣味というわけではない。
それが、あらかじめ決められた――プレイなのである。
演技であり、なりきり。
そして、間の抜けたようなそれを、それを全力でする勇次さんの姿に、俺はなぜか美しさを感じた。
彼の心配りは、いつ始まったのかさえわからないほど、ずっと続いていた。
俺が緊張していれば、おどけて見せ。
お客さんに、たいしても、また別のやりかたで、空気を緩やかにしていく。
そして、今。
ふざけたような動作の中にも、相手を喜ばせてあげよう、というのが、伝わってくるようだ。
それにたいし、綾子さんは嬉しそうに笑みを浮かべると。
おもむろに手を――自分のしりにまわした。
そして――、
「あら、おりこうさんな、わんちゃんですね。そんなわんちゃんには……」
綾子さんはそういって、ふんっ、と。いきみ、
ぷううううぅぅううぅぅううううぅぅ~~……
と――放屁音。
もちろん、それをしたのは綾子さんだ。
そして、綾子さんはそれを手に握ると、
「ほら。よく嗅いでくださいね~」
「――わふっ!?!?」
勇次さんが苦しそうに声をあげる。
それはそうだ。
綾子さんに、強烈そうな握りっ屁を嗅がされたのだから――と。
何も知らずに見ていたら、そう思うだろう。
しかし、あれは演技だ。
受付の際に、そういった打ち合わせがあったのである。
勇次さんは、それにのっとって、苦しそうにしているだけなのである。
それにしても、すごい演技力だ。
「おっ、おげぇぇっ……、え……? うそ……」
本当に臭がっているようにしか見えない。
そんな彼の演技力に、綾子さんは興奮を覚えたのか、綾子さんは、ふふっ、と笑みを漏らす。
「そんなに喜んでもらえたら、仕込んできた甲斐があります」
綾子さんはそういって、再び自分の手を知りのほうへと持っていき、
ぷっすうううぅぅううぅぅうううぅ~~……
すかしっ屁。
彼女はそれを手にぎゅっと握ると、勇次さんの鼻へ、ぽふっ、とかぶせた。
「いぃっ!?!? ぎっ……、ちょっ……」
綾子さんから握りっ屁を受け、勇次さんの頭部が、ぐらりと揺れる。
そして、勇次さんが目を回した様子で、ベッドに横たわったのみて、綾子さんはさらに動いた。
「――むぐっ!?」
驚きの声をくぐもらせる、勇次さん。
仰向けになったところを、綾子さんに顔面騎乗を受けたのだ。
本当に、すごい――演技力だと、俺は思った。
俺はそのやり取りに、圧倒され。
迫力に、ぞっと、鳥肌を立てていた。
あんなに大人しそうだった、綾子さんに、こんな一面があったとは――。
俺は驚きを隠せずにいた。
というか――、
「ねえ」
ちらりと、綾子さんが、こちらを見る。
「あなたも、やってみますか?」
「……へ?」
話を振られるとは、思っておらず、呆然とする俺。
すると、そんな俺に、綾子さんは笑みを向けると、
「何事も、経験です。それに、これから、あなたもスタッフになるんですよね?」
綾子さんは、そんな風に俺に声をかけながらも、
むっすうううぅぅうううぅうぅぅぅぅ~~……
「おぉっ……!? ごっ……! なづ……! ずげ……っ!」
鼻先に、綾子さんから屁をすかされ。
なにやら、それっぽい叫び声をあげる、勇次。
そのほとんどが、綾子さんの尻に吸収され、言葉になっていなかった。
そして、その様子を見て、
「じ、自分は……、その……」
綾子さんへの返答に迷う俺。
仕事を見学させてもらって、数分といったところだが。
俺はすっかり、怖じ気てしまっていたのだ。
――気づいていた。
勇次さんの苦鳴が演技でないことに。
漂ってきた匂いに、俺は理解させられてしまったのだ。
本当に、しゃれになっていない。
卵の腐った臭い、なんてものを数倍通り過ぎたような。
脳を溶かされるかのような、臭いが漂っており。
今にも吐きそうだ。
それを鼻先に受けている、勇次さんの苦しみはどれほどのものか――。
それを考えただけでも、逃げ出したくなった。
だが、本当のところ、どうなんだろう。
こういうケースは稀なのだろうか。
本来なら、もう少し緩やかな、内容であったりするのかもしれない。
だが、なんともいえない。
給料は、普通にバイトをすよりは、だいぶ高い。
だとするなら、割に合っているのだろうか。
俺はいつのまにか、現実逃避をするかのように、色々と計算をしていた。
と、そのとき。
すっ、と綾子さんが、勇次さんの顔から立ち上がる。
そして、俺は勇次さんの様子を見て――。
心臓が止まるかと思った。
先ほどから、ずいぶん静かだと思っていたが、それはそうだろう。
勇次さんは、いつのまにか――白目をむき、きぜつをしていたのだから。
その様子に、俺は固まっていると、
「ねえ。まだ、物足りないんですけど……」
綾子さんは、そういって俺のほうへと近づいてくる。
「ねえ。まだ、時間ありますよね?」
綾子さんはそういって、手を自分の尻のほうまわす。
「ねえ。お願い。せっかく、今日を楽しみにしてきたんだから……」
綾子さんはそういって、
ふっしゅううううぅぅぅううぅぅううぅっぅ~~……
「ねえ、夏井さん」
綾子さんはそういって、俺の鼻先に、握った手をかぶせたのだった――。
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