迷い込んだのは、奇妙で下品な世界でした

𝐄𝐢𝐜𝐡𝐢

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03 おいしいパンは、いかがですか?

 知らない街の中を、薫は当ても無く走っていく。
 とにかく、人のいなさそうな場所へ、あわよくば、街の外へ出られたらと、走り続ける。そして、薫は運よく、人通りの無い小道を見つけると、

「……はぁ……はぁ。ちょっと、たんま」

 薫は小道に入ると、適当な石壁を背もたれにして座り込んだ。

「良い街……なんだけどなぁ」

 薫はそう言いながら、現実逃避をするように空を見上げた。
 空だけは、元いた場所と、何一つ変わらない、快晴だ。
 蒼さの中に、溶けるような白。爽やかな風と相まって、張り詰めた精神をほどいていく。
 透き通るような青空の下には、電気もコンクリートもない。
 ごつごつとした印象の芸術的な街の印象が、薫を物語の中にいる気分にさせる。
 だというのに、この状況はどういうことなんだろう。
 悲観的になるつもりは無いが、この状況は、あんまりだ。
 もしこれが何かの物語りだったなら、とんでもない駄作に違いないと、薫は溜め息を吐いた。

「それにしても。別に――逃げなくても、良かったよな」

 嫌な予感がした。
 それだけなのである。
 そこに留まってはいけないという――第六感。
 それに突き動かされて、逃げ出してしまったのだ。

「それにしても……。ああ、腹が減った……」

 恐らく、今は昼過ぎであり、体感は――日本時間とほとんど変わらない。
 日本にいた最後の記憶でも、時刻は大体、昼過ぎくらいだったような気がする――と、そんなふうに、薫が記憶を遡っていると、

「――ねえ」

「っ……!?」

 唐突に横から声をかけられて、薫は驚きの表情で、声のしたほうを見る。

「あなた、お腹がすいているの?」

 薫の視線の先には、視線を合わせるように、ブロンドの髪をした少女がしゃがみ込んでいた。
 その少女の目は青く、体格は小柄で、薫よりいくつか年下のような見た目をしている。
 フランス人形を思わせるような、優美さのある少女であり、編むように一纏めにしたアップスタイルの髪型が、少女を一層華やかにしていた。
 それでいて、淡いピンクのブラウスに、青系統の色をしたスカートといった、全体的に、シンプルさの際立つ格好をしていて、それ故に、その魅力をはっきり意識されられてしまう。
 そんな雰囲気のある少女――のはずなのだが、猜疑心が、薫の少女への印象を濁らせていた。

「もし、よかったらなんですけど……」

 少女はそう言って、肘からかけているバスケットに視線を落とす。中からは小麦とバターの甘い匂いが立ち上っており、それが焼き立てであることがわかる。
 少女はバスケットの中から、自分の顔ほどもあるパンを一つ取り出した。

「これ、一緒に食べませんか?」

「これは……。パン・ド・カンパーニュ、的なやつだっけか」

 薫はぼんやりと口にする。

「パン、ド? あなたの故郷では、これをそう呼ぶの?」

「ごめん、よく知らないんだ」

「……?」

 首を傾げる少女。
 薫が口にしたのは、なんとなく、印象に残っている程度の記憶に過ぎず、特に理解しているわけではなかった。

「まあ、いいわ。そんなことより、このパン、どうしよっか? 一人じゃ食べきれなから、手伝ってくれると助かるんだけど」

「……どうして?」

 困惑の表情で尋ねる薫。だが、
 それを気にした様子もなく、少女は笑みを浮かべて答えた。

「男の人って、沢山食べるんでしょ?」

「いや、そうじゃなくって……」

「流石に、一度に食べるには、多すぎるかな?」

「いや、多いってことはないけど……」

「よかった! それじゃあ、半分こして一緒に――」

「どうして?」

 ぽつりと、薫が言うと、少女の声が止んだ。

「どうしてそんなに親切にしてくれるのか、その理由がまったくわからないよ。だって、そんなことをしたって――何のメリットもないじゃないか」

 疑問の表情を浮かべる薫。
 すると、少女はパンをバスケットに戻し、両手のひらで、薫の手を優しく包んだ。

「驚かせちゃって、ごめんね。困っているのを見かけて、放っておけなかったの」

「…………」

 嘘だ――と、薫はそう思いつつも、少女の言葉を疑う理由を持ち合わせていなかった。
 薫を騙すメリットについても、思い浮かばないからだ。そこで、薫は考えを逆転させてみる。
 疑うのではなく、受け入れてみた――途端、薫はすんなりと、もう一つの答えに辿り着く。

「もしかして、本当に……、ただの良い人……、なのか?」

「ただのって……。まあ、悪いことをするつもりはないんだけどさ、他にも言い方があるでしょ」

 肩をすくめる少女。

「ああ、いや……ごめん」

「いいよ、別に」

 少女は溜め息混じりに言うと、ほっとしたように穏やかな表情を浮かべる。

「なんだか、誤解されてたみたいだけど、解けたんなら、よかったよ」

「ああ、うん。まあ……」

 薫は言いながら、警戒心を緩めていく。
 疑うよりも、受け入れてしまうほうが、楽なのだ。
 そんなふうに、薫が安心感に浸っていると、
 ぐう……
 腹の虫が鳴る。

「あ……」

 驚いたように自分の腹を見る薫。
 その様子を見て、少女はもう一度先ほどの大きなパンを取り出すと、やれやれといった風にパンをちぎった。
 そして、片方を極端に多く分けると、大きいほうを薫に渡し、

「はい、ちょっと多いかもしれないけど。食べられる?」

「まあ、このくらいなら、余裕で入るけど。……本当に良いの?」

「うん。もう、ちぎっちゃったし、いらないって言われても困っちゃうよ」

 肩をすくめる少女。
 薫はおずおずと、彼女からパンを受け取ると、

「……あ、ありがとう。その、いただきます」

 お礼を言う薫に、少女は「ふふっ、どうぞ」と笑みを返し、薫がパンを口にしてから、自分もパンを口に――しなかった。
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