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「この子のママになりませんか?」 2
三人は場所を移った。廊下を出ると、つるりと滑らかな木目調のフローリングが床を張り、白い壁が天井までを包んでいる。空のような青い天井は先程藍時が寝ていた部屋だけで、そこは純の部屋だと秀一から教えてもらった。
その純の部屋から一つ部屋を挟んだ向こう側に、扉一枚を隔ててリビングとダイニング、そしてキッチンまでが繋がっている広い部屋があった。藍時の住んでいる部屋が、ちょうどこの家のキッチンと同じくらいの広さなので、その数倍も広い生活空間に彼はしばし目を瞠った。
(あの人の家も、こんな感じで広かったな……)
フラッシュが焚かれたように思い出すのは忌々しい過去。藍時が恋人に支配されていた場所は、まさにこの家のように広かった。でも不思議と、この家は息苦しさを感じない。置かれている調度品や部屋の模様が違うからだろうか。それとも、この空間に漂うコンソメとケチャップの香りがするからだろうか。
途端、藍時の腹から「クウッ」と小さな音が鳴る。それが秀一と純の耳にも入ったのか、「すぐに用意しますね」、「待っててね」と笑顔とともに返された。
喋らない癖に主張だけは一丁前だ。藍時は耳を赤くさせながら、二人に対してコクンと頷いた。
「純。箸とスプーンを出してください」
「はーい。ママ、ここに座ってね」
純に手を引かれて案内されたのは、ダイニングテーブル前だ。楕円形のチーク素材のテーブルには、すでにランチョンマットが三つ用意されている。同様に椅子も三脚あり、その内の一脚に藍時は腰を下ろした。
「ふふ~♪」
純は満足そうに笑うとパタパタと駆け出し、壁側に設置されているキャビネットに向かった。
藍時はキョロキョロと視線を泳がすと、エプロンを身に着けキッチンに立っている秀一が、皿に料理を盛りつけている姿が目に入った。もう一度全体を見渡してみたが、どうやらここにいる人間は、秀一と純と自分の三人だけのようだった。
ふと、リビングの大きなテレビ前にある写真立てに目が止まった。視力がいい藍時は、今座っている位置からでもそれを見ることができた。飾られているその写真の中には、秀一と純の二人だけが映っており、母親らしき人間の姿はない。
(お母さんは、いないんだろうか?)
純はしきりに自分のことをママと呼ぶ。これがもしも、母親がいない恋しさからくるものならば、「ママではない」と繰り返し伝えるのは、幼い子どもにとって酷なことだ。
当の本人は背伸びをしながら、順番にランチョンマットの上にカトラリーを並べている。藍時の前にもそれを置くと、
「ママ、これがママのお箸とスプーンね」
そう言って口角を持ち上げた。
「うん。ありがとう……純君」
父親の手伝いをする純にお礼を伝え、その小さな頭をそっと撫でた。純は一瞬、きょとんと目を丸くさせたものの、すぐに満面の笑顔を浮かべて嬉しそうにブンブンと首を振った。
(可愛いな)
藍時の唇が自然と緩み、弧を描いた。
そんな二人の前に、秀一が料理を乗せたトレーを持ってやって来る。藍時は純からパッと手を離すと、石のように身体を硬直させた。そんな藍時の態度にも、反応にも、気づいているだろう秀一だが、気にした様子は微塵も見せず、手にした料理を並べながら口を開いた。
「今日のは結構、自信があるんですよ。なんたって、うちのホープが卵を割ってくれたので」
「えへん!」
父親の言葉に、腰へ手を当てる純が胸を張った。
「あ、今さらですけれど、好き嫌いやアレルギーはないですか?」
尋ねられて、藍時は一つ頷いた。「ああ、よかった」と胸を撫で下ろした様子の秀一が、藍時の前にぽっぽと湯気の立つオレンジ色のスープと、黄色と赤のコントラストが鮮やかなメインの料理を置いた。
「どうぞ。秀一と純の特製オムライスです」
低くもよく透る声でコックのような台詞を口にする秀一。対してそれには似つかわしくない、ぐちゃっと形が崩れたオムライス。しかし被せられた卵からはみ出るチキンライスが、藍時の食欲をさらに刺激した。
「さあ、冷めないうちに食べちゃいましょう」
純が藍時の隣に、エプロンを外した秀一が向かい側に座ると、二人はそれぞれ手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまーす!」
元気のいい純の挨拶の後に、藍時もまた手を合わせて「いただきます」と唇だけを動かした。続いて、用意されたスプーンを使ってオムライスを一口分、口元へと運ぶ。温かい卵は半熟よりもやや固めで、チキンライスもケチャップの酸味が強く、具材の鶏肉と玉ねぎはやや焦げていて仄かな苦味を感じる。だが、噛みしめれば噛みしめるほど増していく旨味に、藍時は目を大きく見開いた。
ゴクンと喉を鳴らして飲み込んだ後、藍時の口からは零れるような感想が漏れた。
「おい、しい……」
それを耳にした秀一は「でしょう?」と微笑み、隣の純は「もっと食べてね!」と勧めた。
こんなに美味しいと感じる食事はいつぶりだろうか。先週、鷹木とともにした食事は見た目からして立派なものだったが、味がよくわからなかった。不味くはない。ただ美味しいと感じられなかった。
今、口にしているオムライスは、言ってしまえばどこにでもある家庭料理だ。プロの作るそれとは違い、卵の火入りにはムラがあり、チキンライスも米に水分を含み過ぎてベチャベチャとしている。なのにそれが、とても美味しかった。
その純の部屋から一つ部屋を挟んだ向こう側に、扉一枚を隔ててリビングとダイニング、そしてキッチンまでが繋がっている広い部屋があった。藍時の住んでいる部屋が、ちょうどこの家のキッチンと同じくらいの広さなので、その数倍も広い生活空間に彼はしばし目を瞠った。
(あの人の家も、こんな感じで広かったな……)
フラッシュが焚かれたように思い出すのは忌々しい過去。藍時が恋人に支配されていた場所は、まさにこの家のように広かった。でも不思議と、この家は息苦しさを感じない。置かれている調度品や部屋の模様が違うからだろうか。それとも、この空間に漂うコンソメとケチャップの香りがするからだろうか。
途端、藍時の腹から「クウッ」と小さな音が鳴る。それが秀一と純の耳にも入ったのか、「すぐに用意しますね」、「待っててね」と笑顔とともに返された。
喋らない癖に主張だけは一丁前だ。藍時は耳を赤くさせながら、二人に対してコクンと頷いた。
「純。箸とスプーンを出してください」
「はーい。ママ、ここに座ってね」
純に手を引かれて案内されたのは、ダイニングテーブル前だ。楕円形のチーク素材のテーブルには、すでにランチョンマットが三つ用意されている。同様に椅子も三脚あり、その内の一脚に藍時は腰を下ろした。
「ふふ~♪」
純は満足そうに笑うとパタパタと駆け出し、壁側に設置されているキャビネットに向かった。
藍時はキョロキョロと視線を泳がすと、エプロンを身に着けキッチンに立っている秀一が、皿に料理を盛りつけている姿が目に入った。もう一度全体を見渡してみたが、どうやらここにいる人間は、秀一と純と自分の三人だけのようだった。
ふと、リビングの大きなテレビ前にある写真立てに目が止まった。視力がいい藍時は、今座っている位置からでもそれを見ることができた。飾られているその写真の中には、秀一と純の二人だけが映っており、母親らしき人間の姿はない。
(お母さんは、いないんだろうか?)
純はしきりに自分のことをママと呼ぶ。これがもしも、母親がいない恋しさからくるものならば、「ママではない」と繰り返し伝えるのは、幼い子どもにとって酷なことだ。
当の本人は背伸びをしながら、順番にランチョンマットの上にカトラリーを並べている。藍時の前にもそれを置くと、
「ママ、これがママのお箸とスプーンね」
そう言って口角を持ち上げた。
「うん。ありがとう……純君」
父親の手伝いをする純にお礼を伝え、その小さな頭をそっと撫でた。純は一瞬、きょとんと目を丸くさせたものの、すぐに満面の笑顔を浮かべて嬉しそうにブンブンと首を振った。
(可愛いな)
藍時の唇が自然と緩み、弧を描いた。
そんな二人の前に、秀一が料理を乗せたトレーを持ってやって来る。藍時は純からパッと手を離すと、石のように身体を硬直させた。そんな藍時の態度にも、反応にも、気づいているだろう秀一だが、気にした様子は微塵も見せず、手にした料理を並べながら口を開いた。
「今日のは結構、自信があるんですよ。なんたって、うちのホープが卵を割ってくれたので」
「えへん!」
父親の言葉に、腰へ手を当てる純が胸を張った。
「あ、今さらですけれど、好き嫌いやアレルギーはないですか?」
尋ねられて、藍時は一つ頷いた。「ああ、よかった」と胸を撫で下ろした様子の秀一が、藍時の前にぽっぽと湯気の立つオレンジ色のスープと、黄色と赤のコントラストが鮮やかなメインの料理を置いた。
「どうぞ。秀一と純の特製オムライスです」
低くもよく透る声でコックのような台詞を口にする秀一。対してそれには似つかわしくない、ぐちゃっと形が崩れたオムライス。しかし被せられた卵からはみ出るチキンライスが、藍時の食欲をさらに刺激した。
「さあ、冷めないうちに食べちゃいましょう」
純が藍時の隣に、エプロンを外した秀一が向かい側に座ると、二人はそれぞれ手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまーす!」
元気のいい純の挨拶の後に、藍時もまた手を合わせて「いただきます」と唇だけを動かした。続いて、用意されたスプーンを使ってオムライスを一口分、口元へと運ぶ。温かい卵は半熟よりもやや固めで、チキンライスもケチャップの酸味が強く、具材の鶏肉と玉ねぎはやや焦げていて仄かな苦味を感じる。だが、噛みしめれば噛みしめるほど増していく旨味に、藍時は目を大きく見開いた。
ゴクンと喉を鳴らして飲み込んだ後、藍時の口からは零れるような感想が漏れた。
「おい、しい……」
それを耳にした秀一は「でしょう?」と微笑み、隣の純は「もっと食べてね!」と勧めた。
こんなに美味しいと感じる食事はいつぶりだろうか。先週、鷹木とともにした食事は見た目からして立派なものだったが、味がよくわからなかった。不味くはない。ただ美味しいと感じられなかった。
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