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「この子のママになりませんか?」 5
その後、食事を終えた純は藍時の手を取るとリビングへと移り、保育園で作った玩具や、そこで描いた絵の紹介を自慢気に始めた。セロハンテープやホッチキスで固定された玩具はいったい何をモチーフにして作られたものか、藍時にはついぞ当てることはできなかったが、最後には秀一から鷲だと教えてもらった。純は空を飛ぶ動物が好きで、中でも鷲が最も好きらしく、猛禽類が特集されている図鑑や絵本を多数持っていた。
「あのね、わしさんはすごいんだよ。こうね、爪があってね、ばさーって飛んで、ぐわーってえさを取っちゃうんだよ。おーぎわしっていう、ぼくの名前と同じわしさんもいるんだよ」
嬉々として語る姿は実に無邪気で、可愛い以外の言葉が見つからない。
「それでね、ほいくえんでね。今度はねんどでわしさんを作るんだよ。はっぴょーかいがあるの。たいしょーになると、たくさんの人に見てもらえるんだって!」
純の楽しそうに話す姿を見て、藍時はふつふつと怒りを感じた。
本当になぜ、母親は出て行ってしまったのだろうか。夫に嫌気がさして出て行くというのなら、ほとぼりが冷めるまででいいし、家を空けるにしても数か月が限度だろう。関係をなあなあにしたままでは、決して解決にはならない。秀一の話すことを鵜呑みにするわけではないが、これほど長く家を空けるのであれば、いっそのこと離婚でもすればいいのだ。
(子どもを授かること……それだけでも奇跡なのに……)
自分にはそれができない。この先、絶対に授かることがないものを、この子の母親は持っているというのに、いったい何が不満なのか。それでいて夫婦関係だけは継続している顔も見知らぬ秀一の妻に、藍時は嫉妬という感情を抱いた。
(こんなんだから、俺は子どもを授かれないんだろうな……)
藍時自身もわかっていた。ただ隣の芝生が青く見えているだけだということを。どんな事情があるのかもわからない家庭のことに、自分がわかった気でいて妬むことが、どれほど醜いことかということを。
それでも、藍時は思わずにはいられない。自分なら、こんなに小さな子どもを手放すことなど、絶対にしないのに、と。
やがて、興奮が続いていた純は急に電池が切れたかのように、深い眠りについてしまった。藍時の折り畳んだ膝に顔を乗せ、腰にしがみついて心地よい寝息を立てている。綿毛のような髪を梳くように撫でると、純は心地よさそうに微笑みを浮かべた。
その間、片づけをしていた秀一が、おやつの入ったトレーを持ち二人のもとへとやってくる。
「おや、寝ちゃいましたか。じゅーん」
「ん……ままぁ……」
「完全に電池切れですね。すみません。重いでしょう?」
藍時は「いいえ」と首を振った。
「相手をしてくれてありがとうございます。こんなに楽しそうな純は久しぶりに見ました」
言いながら、秀一は純を起こさないようにして、我が子をゆっくりと抱き上げた。
急に熱を持った膝が軽くなり、同時に寂しさを感じる藍時は、名残惜しそうな顔を浮かべて立ち上がる。
『帰ります。長いことお邪魔しました』
今度はスマホのメモ機能を使って秀一に言葉を翳してみせる。すかさず、秀一は「送ります」と藍時に返した。藍時は慌てて返事を打つ。
『そこまでしてもらうわけにはいきません。自分で帰ります』
「気になさらないでください。これは先週純を見つけてくださったことと、今しがたまで純の相手をしてくださったお礼ですから」
『それでも、そこまでしていただく理由がないです』
頑として断ると、秀一は「そうですか」と言いつつ、藍時にとって痛いところをついてきた。
「まあ、絶対に送らなければならないというわけでもないんですが……失礼ながら、金銭的余裕はおありですか?」
だからあの街にいたのだろう? と、秀一の細めた目は言っていた。無論、今も睨まれているわけではない。だが、藍時にはいちいちそう感じられてしまう。
本音を言えば、秀一の申し出はありがたかった。しかし同時に、秀一と二人きりになるのを避けたかった。
αは怖い。特に、秀一のように力で人を圧倒することができる人間は。実際、屈強そうな男達でも太刀打ちできないほどの力が秀一にはある。細木のような藍時など、ひとたまりもないだろう。
(むやみに暴力なんて働かないだろうけれど、でも……)
人は見た目に寄らない。それは身をもって学んだことだ。藍時はスマホを握り締めた。
「身分証を拝見した際に、住所も確認させてもらいました。調べたところ、藍時さんの家がここから車で三十分くらいのところにあるようなんですよ。タクシーを呼ぶとなると、四~五千円はかかるでしょうね」
その金額を耳にして愕然とした。昨日の電車代も痛手だったというのに、タクシーの運賃がそんなにかかるとは。
自分自身が蒔いた種に藍時は悔やみ、頭を抱えた。
「厳しそうですか?」
藍時は秀一の顔を見上げないまま、縦に頷いた。
「失礼ですが、現在のお仕事は何を?」
今度は首を横に振った。
「ふむ」
秀一は考えているのか、しばし沈黙の時間が流れた。その間、藍時は今後の生活についてどうするのかを考えた。
(仮にどこかで雇ってもらえたとしても、その日の支払いでないと今月の生活が水だけになってしまう。その水だって、支払わなければ止められてしまうのに……ほんと、俺って馬鹿だな)
どこまでいっても悲観しかない。だから秀一の口から出された提案は、まさに寝耳に水だった。
「この子のママになりませんか?」
「…………はぇっ?」
「あのね、わしさんはすごいんだよ。こうね、爪があってね、ばさーって飛んで、ぐわーってえさを取っちゃうんだよ。おーぎわしっていう、ぼくの名前と同じわしさんもいるんだよ」
嬉々として語る姿は実に無邪気で、可愛い以外の言葉が見つからない。
「それでね、ほいくえんでね。今度はねんどでわしさんを作るんだよ。はっぴょーかいがあるの。たいしょーになると、たくさんの人に見てもらえるんだって!」
純の楽しそうに話す姿を見て、藍時はふつふつと怒りを感じた。
本当になぜ、母親は出て行ってしまったのだろうか。夫に嫌気がさして出て行くというのなら、ほとぼりが冷めるまででいいし、家を空けるにしても数か月が限度だろう。関係をなあなあにしたままでは、決して解決にはならない。秀一の話すことを鵜呑みにするわけではないが、これほど長く家を空けるのであれば、いっそのこと離婚でもすればいいのだ。
(子どもを授かること……それだけでも奇跡なのに……)
自分にはそれができない。この先、絶対に授かることがないものを、この子の母親は持っているというのに、いったい何が不満なのか。それでいて夫婦関係だけは継続している顔も見知らぬ秀一の妻に、藍時は嫉妬という感情を抱いた。
(こんなんだから、俺は子どもを授かれないんだろうな……)
藍時自身もわかっていた。ただ隣の芝生が青く見えているだけだということを。どんな事情があるのかもわからない家庭のことに、自分がわかった気でいて妬むことが、どれほど醜いことかということを。
それでも、藍時は思わずにはいられない。自分なら、こんなに小さな子どもを手放すことなど、絶対にしないのに、と。
やがて、興奮が続いていた純は急に電池が切れたかのように、深い眠りについてしまった。藍時の折り畳んだ膝に顔を乗せ、腰にしがみついて心地よい寝息を立てている。綿毛のような髪を梳くように撫でると、純は心地よさそうに微笑みを浮かべた。
その間、片づけをしていた秀一が、おやつの入ったトレーを持ち二人のもとへとやってくる。
「おや、寝ちゃいましたか。じゅーん」
「ん……ままぁ……」
「完全に電池切れですね。すみません。重いでしょう?」
藍時は「いいえ」と首を振った。
「相手をしてくれてありがとうございます。こんなに楽しそうな純は久しぶりに見ました」
言いながら、秀一は純を起こさないようにして、我が子をゆっくりと抱き上げた。
急に熱を持った膝が軽くなり、同時に寂しさを感じる藍時は、名残惜しそうな顔を浮かべて立ち上がる。
『帰ります。長いことお邪魔しました』
今度はスマホのメモ機能を使って秀一に言葉を翳してみせる。すかさず、秀一は「送ります」と藍時に返した。藍時は慌てて返事を打つ。
『そこまでしてもらうわけにはいきません。自分で帰ります』
「気になさらないでください。これは先週純を見つけてくださったことと、今しがたまで純の相手をしてくださったお礼ですから」
『それでも、そこまでしていただく理由がないです』
頑として断ると、秀一は「そうですか」と言いつつ、藍時にとって痛いところをついてきた。
「まあ、絶対に送らなければならないというわけでもないんですが……失礼ながら、金銭的余裕はおありですか?」
だからあの街にいたのだろう? と、秀一の細めた目は言っていた。無論、今も睨まれているわけではない。だが、藍時にはいちいちそう感じられてしまう。
本音を言えば、秀一の申し出はありがたかった。しかし同時に、秀一と二人きりになるのを避けたかった。
αは怖い。特に、秀一のように力で人を圧倒することができる人間は。実際、屈強そうな男達でも太刀打ちできないほどの力が秀一にはある。細木のような藍時など、ひとたまりもないだろう。
(むやみに暴力なんて働かないだろうけれど、でも……)
人は見た目に寄らない。それは身をもって学んだことだ。藍時はスマホを握り締めた。
「身分証を拝見した際に、住所も確認させてもらいました。調べたところ、藍時さんの家がここから車で三十分くらいのところにあるようなんですよ。タクシーを呼ぶとなると、四~五千円はかかるでしょうね」
その金額を耳にして愕然とした。昨日の電車代も痛手だったというのに、タクシーの運賃がそんなにかかるとは。
自分自身が蒔いた種に藍時は悔やみ、頭を抱えた。
「厳しそうですか?」
藍時は秀一の顔を見上げないまま、縦に頷いた。
「失礼ですが、現在のお仕事は何を?」
今度は首を横に振った。
「ふむ」
秀一は考えているのか、しばし沈黙の時間が流れた。その間、藍時は今後の生活についてどうするのかを考えた。
(仮にどこかで雇ってもらえたとしても、その日の支払いでないと今月の生活が水だけになってしまう。その水だって、支払わなければ止められてしまうのに……ほんと、俺って馬鹿だな)
どこまでいっても悲観しかない。だから秀一の口から出された提案は、まさに寝耳に水だった。
「この子のママになりませんか?」
「…………はぇっ?」
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