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多すぎる偶然
翌朝の十時。
純を保育園へ送り届けた藍時は、鷹木こころのクリニックを訪れていた。前回の受診から二週間が経過していたが、仕事をクビになったことや歓楽街に赴いたこと、そして新しい職場で仕事を始め、現在もなんとか続いていることなど、この一か月のうちに起こった出来事を、この日初めて鷹木に打ち明けた。子どもに対してのみ話せるようになったことはすでに伝えていたものの、それ以外のことは咎められると思い、なかなか言い出せずにいたのだ。
鷹木はしばし黙って聞いていたが、やはりというべきかとても驚いていた。
「顔色がよくなってきていると思っていたら、まさかそんなことになっていたとはね」
『すみません。またクビになるかもしれないと思ったら、先生に伝えるのも怖くて……』
「確かに藍時君は短いスパンで職場が変わっているから、言い出せないのは無理もないことだけれどね」
鷹木はパソコン上のカルテを眺めながら、机の上をトントンと指で鳴らした。治療のために診察を受けているはずの患者が、自身に起きていることや環境の変化について虚偽の報告をしていたのだ。普段は温和な鷹木も今回に関しては呆れているのか、「ふう」と短い息を吐いた。また昨夜は眠剤なしでも眠れそうだと勝手に断薬をしてしまったため、軽く注意を受けた。
「今度から症状が軽くなったとしても自己判断で服薬は止めないこと。副作用が強く感じられるなら処方内容を変更するから、電話でもいいので相談すること。いいね?」
『はい。気をつけます』
藍時はしょんぼりと項垂れる。
「しかし、住み込みでだなんて……お子さんにせがまれて一緒に寝ることもあるんじゃないのかい? その時は眠れているの?」
『俺のために一室を用意してくださったので、夜は一人で眠っています。ストレスは感じていません』
「ストレスは何も自覚があるものがすべてじゃないよ。無自覚であっても身体が感じていることもある。安易に判断しないように」
『ごめんなさい』
今日は謝ってばかりだな、と藍時の表情はだんだんと暗くなっていく。いろんな言い訳が浮かぶものの、こうなった原因は他ならない自分自身だ。説教もお叱りも甘んじて受け入れるしかないのだが、やはり窘められるというのは気持ちのいいものではない。
(それを純は反抗も言い訳もせずに受け止めて、次に繋げて前向きに動いちゃうんだから……すごいよなぁ)
今朝も元気よく保育園へ登園した幼い我が子(仮)の顔が頭に浮かぶ。それが今は「ママ、お医者さんの言うことをちゃんと聞かなくちゃ駄目だよ!」と言われているような気さえしていた。
鷹木は藍時に向かって言った。
「怒っているわけじゃないんだ。ただ、君が声を失った状況を把握しているだけにね。いくら雇い主といえど、相手は若い男性なんだろう? しかもホストだと言うじゃないか。お子さんがいるとはいえ、その状況はとても危ういよ」
要は辞めろと言いたいのだろう。鷹木の言うことはもっともで、家庭のある家にΩが住み込みで働くことは世間体も悪いはずだ。
だが今の藍時に、「はい、わかりました」と大人しく引き下がることはできなかった。
『この仕事を辞めてしまったら、生活がままならなくなるんです。俺はΩで能力もろくにありませんが、働く意思も体力もあります。相手先にも求められる育児と家事能力を認められて、受け入れてもらっています。だから最後まで……契約期間が終わるまで、ちゃんと働きたいんです』
それはつまり、秀一の妻が戻ってくるまでということ。純が自分のことを、「ママ」と呼ばなくなることを意味していた。
(そうなったらきっと、泣いちゃうかもしれないけれど……)
だが、それでいい。自分はただの繋ぎ役。彼が心底求めているのは本当の母親だ。純に本当の幸せを与えてあげられるのは、偽りの母である自分ではないのだから。
(今の俺があるのは純のお陰だ。純の笑顔を守るためなら、何だってしてあげたい)
それにここで仕事をやり切ることができたら、次への自信にも繋がる気がしていた。
藍時の想いは強かった。鷹木にもそれは伝わったらしく、彼は本日二度目のため息を吐いた。
「その雇い主とは、ちゃんと契約書を交わしてあるんだろうね?」
藍時は千切れんばかりに首を縦に振った。
「なら、仕方ないね。いきなり辞めるだなんてことになれば、そのお宅のお子さんも困惑するだろうし」
『なら……』
「ただし、無理はしないこと。それから住み込みは止めて、通いに戻すこと。これが条件。いいね?」
まるで教師のような物言いだったが、許されたことが嬉しくて、藍時は顔を綻ばせた。
『はい。ありがとうございます』
「よろしい」
鷹木もまた、フッと微笑を漏らした。
診察が終わり、荷物置きの籠からボディバッグを身に着けると、藍時は『ありがとうございました』と伝えて診察室を出ようとした。
その時、「しかし……なんだか妙だね」と鷹木がまとめたばかりのカルテを見直しながら呟いた。
「その親子と偶然出会って、男性の出ていった妻かつそのお子さんの母親に君の顔が偶然似ていて、後日君が襲われていたところをその男性が偶然助けて雇用関係になるだなんて……ちょっと偶然が多すぎやしないかい?」
それは藍時自身も感じていたことだ。最初は神様が自分を憐れみ与えてくれた褒美なのだと思っていた。だが話を聞いたばかりの鷹木が指摘するように、これは何もかもが上手くできすぎていた。
回転椅子の背もたれに上体を預ける鷹木は、顔にかけている眼鏡のブリッジを押し上げた。
「なんだか、妙な胸騒ぎがする。この話はあまりにも出来過ぎているような気がしてならないよ」
純を保育園へ送り届けた藍時は、鷹木こころのクリニックを訪れていた。前回の受診から二週間が経過していたが、仕事をクビになったことや歓楽街に赴いたこと、そして新しい職場で仕事を始め、現在もなんとか続いていることなど、この一か月のうちに起こった出来事を、この日初めて鷹木に打ち明けた。子どもに対してのみ話せるようになったことはすでに伝えていたものの、それ以外のことは咎められると思い、なかなか言い出せずにいたのだ。
鷹木はしばし黙って聞いていたが、やはりというべきかとても驚いていた。
「顔色がよくなってきていると思っていたら、まさかそんなことになっていたとはね」
『すみません。またクビになるかもしれないと思ったら、先生に伝えるのも怖くて……』
「確かに藍時君は短いスパンで職場が変わっているから、言い出せないのは無理もないことだけれどね」
鷹木はパソコン上のカルテを眺めながら、机の上をトントンと指で鳴らした。治療のために診察を受けているはずの患者が、自身に起きていることや環境の変化について虚偽の報告をしていたのだ。普段は温和な鷹木も今回に関しては呆れているのか、「ふう」と短い息を吐いた。また昨夜は眠剤なしでも眠れそうだと勝手に断薬をしてしまったため、軽く注意を受けた。
「今度から症状が軽くなったとしても自己判断で服薬は止めないこと。副作用が強く感じられるなら処方内容を変更するから、電話でもいいので相談すること。いいね?」
『はい。気をつけます』
藍時はしょんぼりと項垂れる。
「しかし、住み込みでだなんて……お子さんにせがまれて一緒に寝ることもあるんじゃないのかい? その時は眠れているの?」
『俺のために一室を用意してくださったので、夜は一人で眠っています。ストレスは感じていません』
「ストレスは何も自覚があるものがすべてじゃないよ。無自覚であっても身体が感じていることもある。安易に判断しないように」
『ごめんなさい』
今日は謝ってばかりだな、と藍時の表情はだんだんと暗くなっていく。いろんな言い訳が浮かぶものの、こうなった原因は他ならない自分自身だ。説教もお叱りも甘んじて受け入れるしかないのだが、やはり窘められるというのは気持ちのいいものではない。
(それを純は反抗も言い訳もせずに受け止めて、次に繋げて前向きに動いちゃうんだから……すごいよなぁ)
今朝も元気よく保育園へ登園した幼い我が子(仮)の顔が頭に浮かぶ。それが今は「ママ、お医者さんの言うことをちゃんと聞かなくちゃ駄目だよ!」と言われているような気さえしていた。
鷹木は藍時に向かって言った。
「怒っているわけじゃないんだ。ただ、君が声を失った状況を把握しているだけにね。いくら雇い主といえど、相手は若い男性なんだろう? しかもホストだと言うじゃないか。お子さんがいるとはいえ、その状況はとても危ういよ」
要は辞めろと言いたいのだろう。鷹木の言うことはもっともで、家庭のある家にΩが住み込みで働くことは世間体も悪いはずだ。
だが今の藍時に、「はい、わかりました」と大人しく引き下がることはできなかった。
『この仕事を辞めてしまったら、生活がままならなくなるんです。俺はΩで能力もろくにありませんが、働く意思も体力もあります。相手先にも求められる育児と家事能力を認められて、受け入れてもらっています。だから最後まで……契約期間が終わるまで、ちゃんと働きたいんです』
それはつまり、秀一の妻が戻ってくるまでということ。純が自分のことを、「ママ」と呼ばなくなることを意味していた。
(そうなったらきっと、泣いちゃうかもしれないけれど……)
だが、それでいい。自分はただの繋ぎ役。彼が心底求めているのは本当の母親だ。純に本当の幸せを与えてあげられるのは、偽りの母である自分ではないのだから。
(今の俺があるのは純のお陰だ。純の笑顔を守るためなら、何だってしてあげたい)
それにここで仕事をやり切ることができたら、次への自信にも繋がる気がしていた。
藍時の想いは強かった。鷹木にもそれは伝わったらしく、彼は本日二度目のため息を吐いた。
「その雇い主とは、ちゃんと契約書を交わしてあるんだろうね?」
藍時は千切れんばかりに首を縦に振った。
「なら、仕方ないね。いきなり辞めるだなんてことになれば、そのお宅のお子さんも困惑するだろうし」
『なら……』
「ただし、無理はしないこと。それから住み込みは止めて、通いに戻すこと。これが条件。いいね?」
まるで教師のような物言いだったが、許されたことが嬉しくて、藍時は顔を綻ばせた。
『はい。ありがとうございます』
「よろしい」
鷹木もまた、フッと微笑を漏らした。
診察が終わり、荷物置きの籠からボディバッグを身に着けると、藍時は『ありがとうございました』と伝えて診察室を出ようとした。
その時、「しかし……なんだか妙だね」と鷹木がまとめたばかりのカルテを見直しながら呟いた。
「その親子と偶然出会って、男性の出ていった妻かつそのお子さんの母親に君の顔が偶然似ていて、後日君が襲われていたところをその男性が偶然助けて雇用関係になるだなんて……ちょっと偶然が多すぎやしないかい?」
それは藍時自身も感じていたことだ。最初は神様が自分を憐れみ与えてくれた褒美なのだと思っていた。だが話を聞いたばかりの鷹木が指摘するように、これは何もかもが上手くできすぎていた。
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