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ようこそ「L’oiseau」へ
泣き腫らした顔を、水で濡らしたハンカチで冷やしながら、藍時は秀一とともに歓楽街へと訪れていた。あまりいい思い出のないそこに、秀一が身を置く店がある。家に帰る前に、買った荷物をどうしても置いていきたいからと言われて、ついていくことになったのだ。「昼も近いし、ついでに何か食わせてもらおう」と秀一が言うので、本音はそちらかもしれない。
夜とは違い騒がしさのないそこは、パッと見ればただの街だ。いかがわしい立て看板は引っ込められており、ほとんどの店がシャッターを下ろしているが、食事処は開いているらしく、人間はその周辺でしか見当たらない。
アーチを潜り抜けてから歩くこと十分。一つの白い雑居ビルの前で秀一は立ち止まった。三階建てのそこは両隣のビルよりも幅が狭い分小さく見え、一階の扉の上には以前受け取った名刺にあったものと同じ「L’oiseau」という看板が構えられている。ホストクラブへ行ったことのない藍時の目から見て、そこは他の店とは違い主張が少なく、ひっそりと佇む隠れ家のような印象を抱いた。
「表はまだ開いてないから、裏から入るぞ」
言われるがまま、秀一に続いて裏側へと周り、彼の後ろをついて行くと、ビルの外階段が見えた。その手前に裏口と思しき扉が一枚あり、秀一はポケットから鍵を取り出して、鍵穴へと挿し込んだ。彼が扉を解錠している間、藍時はふと階段を見上げ、二階、三階へと続く扉を眺めるでもなく眺めていた。すると、見上げていた自身の頭が、自然と横に傾いた。
(ここ……何だろう。妙な感じがする……)
初めて訪れた場所だというのに既視感があった。来たことも見たこともないはずなのに、なぜか胸がざわついた。
藍時は自分の胸の前で拳を握った。そうでもしないと、この階段の先へと吸い込まれていきそうな気がしたからだ。
「藍時?」
秀一の声かけに、藍時の視線は引き戻される。ぼうっと遠くを眺める藍時を心配したのか、秀一の眉間にはやや皺が寄っていた。
『何でもないです』
藍時は短く答えた。
「暑かったもんな。中は涼しいはずだから、ゆっくり身体を冷やしていってくれ」
そう言われて、開かれた扉の中へと、藍時は誘われていった。
明かりがついていない廊下を歩き、バックヤードと思しき部屋を通り過ぎると、店内へと続く扉が開かれる。そこはテレビや写真の中でしか見たことのない、初めての世界だった。
目に優しいキャンドル色に包まれた店内は、藍時の想像していたホストクラブとは異なり落ち着きがあった。見ると、様々な洋酒のボトルが壁側にきっちりと陳列されており、向かいにはお洒落なバーカウンターが設置されている。またゆったりと間隔を空けて並んでいる丸テーブルと対になった椅子は、光沢が美しいグランドピアノを中心に囲み、藍時の目を引きつけた。
まだ営業前ということもあり客と思しき人間はいない。だからこそ、店内の清潔さがよく窺えた。どこかから流れる控えめなジャズが、美しい内装をさらに引き立たせていた。
(今のホストクラブって、こんなにお洒落なの……?)
まるで来たことがあるかのような疑問だが、それはすべてテレビで得た知識だ。
藍時が物珍しそうに、秀一の後ろでキョロキョロと視線を泳がしている中、秀一はカウンターの奥でグラスを磨いている一人の人物に声をかけた。
「お疲れ、クマ」
秀一の気軽な挨拶に、その人物は顔を上げた。藍時はぎょっとする。その人物は秀一に負けずとも劣らずの大男だったからだ。
(本当に、熊だ……)
藍時が恐れ慄くのも無理はない。男性はまさに熊のようだった。
まずはその顔。細く切れ長な両目がぎろりと勇ましく、スキンヘッドと整えられた顎髭は、秀一とは違った意味での強面で、男性としての雄々しさをその相貌がより引き立たせている。加えて筋骨隆々な身体にバーテンダーのような服を纏っているが、要人のボディガードですと言われた方がしっくりくるような出で立ちをしていた。
男は秀一を睨むように見た。だが、口を開いた次の瞬間、藍時はずるりとその場で滑りそうになった。
「あらぁ、秀ちゃん。お疲れ様! 今日はずいぶんと早いじゃなあい?」
女性のような言葉遣いで喋ったのは、秀一の前にいるこの大男だ。野太いその声は、声量は普通でも店内によく響いて聞こえた。
きゃっ! と、乙女のような仕草を見せるその大男に、藍時はしばし思考が停止してしまう。失礼とは思いつつも視線が自然と下に落ち、大男の首元を確認する。その太い首元にチョーカーはないため、まず間違いなくΩではない。いや、こんな男性ホルモンが前面に押し出されたΩがあってたまるかという話だ。
秀一の後ろで石のように固まる藍時。それに気づいた大男は、「あら?」と声を上げた。
「またそんな可愛い子を連れて来て……もう、秀ちゃんてば、Ωたらしなんだから!」
「またとは何だ、またとは」
心外だとばかりに言う秀一は、袋に入った荷物をカウンターの上に置いた。大男は中を見て、「助かるわ」と礼を口にして、再び藍時を見つめた。
「ねえ、あなた。そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て座りなさいな」
大男はカウンター前の椅子を指し、藍時に座るよう勧めた。前にいる秀一を見ると、彼はカウンター前の椅子に触れ、くるりと座面を回転させてから、大男同様に「どうぞ」と勧めてくる。
藍時は恐る恐るといった様子でカウンターに進み、頭を一つ下げてから椅子に座った。大男は細い目をさらに細めてから口角を持ち上げ、藍時に向かって片手を差し出した。
「私は店長の烏丸陽菜子よ。よろしくね」
「……っ?」
「ん? どうしたの?」
(からすま、ひなこ? ヒナって確か……秀一さんの奥さんの名前じゃなかったっけ……?)
夜とは違い騒がしさのないそこは、パッと見ればただの街だ。いかがわしい立て看板は引っ込められており、ほとんどの店がシャッターを下ろしているが、食事処は開いているらしく、人間はその周辺でしか見当たらない。
アーチを潜り抜けてから歩くこと十分。一つの白い雑居ビルの前で秀一は立ち止まった。三階建てのそこは両隣のビルよりも幅が狭い分小さく見え、一階の扉の上には以前受け取った名刺にあったものと同じ「L’oiseau」という看板が構えられている。ホストクラブへ行ったことのない藍時の目から見て、そこは他の店とは違い主張が少なく、ひっそりと佇む隠れ家のような印象を抱いた。
「表はまだ開いてないから、裏から入るぞ」
言われるがまま、秀一に続いて裏側へと周り、彼の後ろをついて行くと、ビルの外階段が見えた。その手前に裏口と思しき扉が一枚あり、秀一はポケットから鍵を取り出して、鍵穴へと挿し込んだ。彼が扉を解錠している間、藍時はふと階段を見上げ、二階、三階へと続く扉を眺めるでもなく眺めていた。すると、見上げていた自身の頭が、自然と横に傾いた。
(ここ……何だろう。妙な感じがする……)
初めて訪れた場所だというのに既視感があった。来たことも見たこともないはずなのに、なぜか胸がざわついた。
藍時は自分の胸の前で拳を握った。そうでもしないと、この階段の先へと吸い込まれていきそうな気がしたからだ。
「藍時?」
秀一の声かけに、藍時の視線は引き戻される。ぼうっと遠くを眺める藍時を心配したのか、秀一の眉間にはやや皺が寄っていた。
『何でもないです』
藍時は短く答えた。
「暑かったもんな。中は涼しいはずだから、ゆっくり身体を冷やしていってくれ」
そう言われて、開かれた扉の中へと、藍時は誘われていった。
明かりがついていない廊下を歩き、バックヤードと思しき部屋を通り過ぎると、店内へと続く扉が開かれる。そこはテレビや写真の中でしか見たことのない、初めての世界だった。
目に優しいキャンドル色に包まれた店内は、藍時の想像していたホストクラブとは異なり落ち着きがあった。見ると、様々な洋酒のボトルが壁側にきっちりと陳列されており、向かいにはお洒落なバーカウンターが設置されている。またゆったりと間隔を空けて並んでいる丸テーブルと対になった椅子は、光沢が美しいグランドピアノを中心に囲み、藍時の目を引きつけた。
まだ営業前ということもあり客と思しき人間はいない。だからこそ、店内の清潔さがよく窺えた。どこかから流れる控えめなジャズが、美しい内装をさらに引き立たせていた。
(今のホストクラブって、こんなにお洒落なの……?)
まるで来たことがあるかのような疑問だが、それはすべてテレビで得た知識だ。
藍時が物珍しそうに、秀一の後ろでキョロキョロと視線を泳がしている中、秀一はカウンターの奥でグラスを磨いている一人の人物に声をかけた。
「お疲れ、クマ」
秀一の気軽な挨拶に、その人物は顔を上げた。藍時はぎょっとする。その人物は秀一に負けずとも劣らずの大男だったからだ。
(本当に、熊だ……)
藍時が恐れ慄くのも無理はない。男性はまさに熊のようだった。
まずはその顔。細く切れ長な両目がぎろりと勇ましく、スキンヘッドと整えられた顎髭は、秀一とは違った意味での強面で、男性としての雄々しさをその相貌がより引き立たせている。加えて筋骨隆々な身体にバーテンダーのような服を纏っているが、要人のボディガードですと言われた方がしっくりくるような出で立ちをしていた。
男は秀一を睨むように見た。だが、口を開いた次の瞬間、藍時はずるりとその場で滑りそうになった。
「あらぁ、秀ちゃん。お疲れ様! 今日はずいぶんと早いじゃなあい?」
女性のような言葉遣いで喋ったのは、秀一の前にいるこの大男だ。野太いその声は、声量は普通でも店内によく響いて聞こえた。
きゃっ! と、乙女のような仕草を見せるその大男に、藍時はしばし思考が停止してしまう。失礼とは思いつつも視線が自然と下に落ち、大男の首元を確認する。その太い首元にチョーカーはないため、まず間違いなくΩではない。いや、こんな男性ホルモンが前面に押し出されたΩがあってたまるかという話だ。
秀一の後ろで石のように固まる藍時。それに気づいた大男は、「あら?」と声を上げた。
「またそんな可愛い子を連れて来て……もう、秀ちゃんてば、Ωたらしなんだから!」
「またとは何だ、またとは」
心外だとばかりに言う秀一は、袋に入った荷物をカウンターの上に置いた。大男は中を見て、「助かるわ」と礼を口にして、再び藍時を見つめた。
「ねえ、あなた。そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て座りなさいな」
大男はカウンター前の椅子を指し、藍時に座るよう勧めた。前にいる秀一を見ると、彼はカウンター前の椅子に触れ、くるりと座面を回転させてから、大男同様に「どうぞ」と勧めてくる。
藍時は恐る恐るといった様子でカウンターに進み、頭を一つ下げてから椅子に座った。大男は細い目をさらに細めてから口角を持ち上げ、藍時に向かって片手を差し出した。
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