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女神の愛したうさぎ
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「我々デァモントの信者たちは、代々、神から与えられた恵みを受け、神から与えられるもののみにて生活をしております」
そう切り出したゲルトの話に、ユリウスは耳を澄ませた。
デァモントの民は、山間部に住む。
サーリーク王国のように木造や石造りの家は持たない。あるのは移動が可能な幕舎だ。気候に合わせて住む場所を移し、厳しい冬を越して、恵みの春を迎える。
だが、例外的に堅牢な建物が点在した。石造りのそれは、祈りの場である教会だ。
デァモントの中でもっとも気候が良く、もっとも安定した地盤には中央教会の大きな建物が築かれた。そこを中心に教皇区と呼ばれる区画ができた。
教皇区には宣教師らが住まい、中央教会には教皇とハーゼが住んでいた。
デァモント教は、女神デァモントによって偶像崇拝を禁じられている。それゆえ教会や各家庭に女神を象った絵画や銅像などが並べられることはない。
実体を持たない神の代わりにはひとびとは、ハーゼを拝む。
幕舎の入り口には守り神代わりにうさぎの置物が飾られるし、森や草原で野うさぎを見ても絶対に狩ることはしない。
信者はうさぎの肉も食べない。
うつくしき女神のためにいのちを落したという逸話を持つうさぎは、デァモントの民にとっては非常に神聖なものだった。
他国とデァモントの生活で、大きな違いといえば貨幣が流通していないことだろう。
清貧、勤勉、平等を掲げる信者たちは早い段階で、金銭に価値を見出すことをやめていた。
病める者が居れば皆で看病し、祝い事があれば皆で祝った。
同じ神を崇める者は、家族も同様であり、それはデァモントのどの場所へ行っても共通していた。
山の恵み、川の恵み、土の恵みはすべて神からの恩恵で、民たちは収穫したそれらをまずは教会へと貢ぎ、余ったものを均等に分配した。
慎ましやかな暮らしではあったが、皆満たされていた。
争いもなく、特別貧しい者も居らず、特別富める者も居らず、誰からも奪わず、平等に与えられ、飢えるときは平等に飢える。
平穏な暮らしだった。
しかしここ三十年ほどで、デァモントの暮らし向きは大きく変わっていっていた。
「教皇様が、代替わりをなさったのです」
ゲルトはそう語った。
繰り返し生まれ変わるハーゼとは違い、教皇は代替わりをする。
当代教皇がその地位を退く際に、次の教皇をハーゼが指名することとなっていた。
教皇は、ハーゼの言葉を解することのできる宣教師の中から選ばれる。
「ハーゼ様は、我らデァモント信者の犠牲と献身の象徴なのです。ハーゼ様は日々、我々のために月神デァモント様へと祈りを捧げる。そして神の言葉を聞き、その託宣を教皇様へとお預けになる。ハーゼ様の使うお言葉は中央教会のみで使われる特別なものです。誰もがわかるわけではない」
その『特別な言葉』を操れる者の中から、ハーゼが選び出した者が教皇の地位に就けるのだ。
ハーゼがハーゼの名を継ぐのと同様、教皇にも代々名乗る名前がある。
ヨハネスという名だ。
約三十年前、今上教皇の地位に就いたヨハネスは、二十九歳。デァモント史上でもっとも若いと言われていた。奇しくも現在のユリウスと同い年である。
「若き教皇様の誕生を我々は皆喜びました。私の両親は先々代の頃より中央教会で下働きをしており、当時十二歳だった私は新たな教皇様の晴れ姿を間近で拝見する幸運に恵まれ、感動したものです。しかし異変は徐々に起こりました」
若きヨハネスが誕生した年を境に、教会への奉納が信者たちに義務付けらるようになった。
小麦、野菜、木の実、肉、魚。始めは収穫量の一割ほどが。やがてその量がじわじわと増え始め、最終的には半分が強制的に奉納させられることとなった。
民たちの生活は当然苦しくなる。しかし月神デァモントの言葉だと言われれば従うしかなかった。
強制されたのは奉納だけではなかった。
労働力として、女も駆り出されるようになった。
男は従来通り農業や放牧、山での狩りなどを行い、女は教会へ集められ朝から晩まで働かされることとなった。
「女性はなにをさせられたんだ?」
ユリウスが尋ねると、ゲルトの視線が床にある反物へと流れた。
「機織りです。ハーゼ様より神の言葉を預かったヨハネス様が、神への捧げものを作るようにと言われ、女たちは糸車を回し続け、機を織り続けていました」
ユリウスはゲルトの言葉を聞きながら、立ち上がって部屋の隅に転がっていた反物を拾い上げた。
広げてみると細かな柄がぎっしりと入っており、手触りがとても良い。
「……なにか特別な糸を使っているのかな?」
ユリウスは自身の服と反物の生地とを触り比べながら、首を傾げた。
ユリウスの服には高級な生地が使われているが、この反物はそれ以上の価値があると思われた。
「……はい。それは、デァモントの山中にある天蚕からとれる糸です」
「発色もすごくいいね。きれいな紅だ。この柄もすごい。こんなものが作れるのか」
女たちの手仕事で織られたという生地に、ユリウスは素直に感心した。
しかしゲルトはユリウスの賛辞を少しも喜ばす、沈痛に項垂れた。
女たちの強制労働には、終わりがなかった。
織った生地は教会が回収し、中央教会へと奉納される。これで月神デァモントへの捧げものが完成したかと思うと、次の品物が要求される。その繰り返しだった。
男たちの疲労も募った。
収穫したものは幾ばくもおのれの手元に残らず、家をまもるはずの女も奪われている。
民たちは疲弊し、飢えに苦しんだ。
「なぜそんな要求に従い続けたんだ」
半ば呆れて、ユリウスはついそう言ってしまった。
ゲルトがしずかに首を振り、
「ハーゼ様が居られたからです」
と答えた。
いまから約二十年前……今上教皇がその地位について十年が経過した頃、ハーゼが身罷られた。
そして二年後に新たなハーゼが中央教会へと迎えられた。
リヒトのことだ、とユリウスは悟り、反物を手にしたまま椅子へ座り直し、改めてゲルトと対峙した。
民たちはハーゼの生まれ変わりを歓迎した。
先代のハーゼは、神への貢物ばかりを要求して、民たちを苦しめていた。
新たなハーゼとなれば、神の託宣も別のものになるかもしれない。
そうなれば以前の平穏な日常が戻り、労働と飢えからも解放されることだろう。
しかしハーゼはまだ二歳。神の言葉を聞けるようになるのは数年先のことだった。
民たちは祈った。神に、新たなハーゼに、祈りを捧げながら日々を耐えた。
そして五歳になったハーゼが信者の前に初めて姿を現した、月神祭の日。
ハーゼより初めて預言を賜った教皇が告げた言葉は。
「今年の供物の出来はいまひとつであった。神の御身を飾るための織物を、これまで以上に丹精込めて仕立てよ」
朗と響くヨハネスの声に、宣教師たちが揃って頭を下げた。
戸惑ったのは信者たちだ。
これ以上、なにをどう努めよというのか。
食べ物をお恵みください、と誰かが言った。
腹が減り過ぎて畑を耕す力が出ません、と男たちが声を上げた。
休みをください、これ以上は糸が紡げません、と女たちが啜り泣きを漏らした。
神聖なる月神際は異様な空気となった。
それを破ったのもまた、ヨハネスであった。
「ハーゼ様のお姿を見よ」
教皇の言葉と同時に、中央教会の塔の上に子どもの姿が現れた。
銀色の髪が風になびき、月の光をやわらかく弾いていた。
子どもは両脇を、黒衣の男たちによって支えられていた。
その体は小さく、ひとりで立つことも困難なのだと、説明されずとも塔を見上げたひとびとは理解した。
「飢えているのはそなたらだけではない。我々も同じだ。そしてその苦しみに、誰よりもハーゼ様が耐えておられる。『犠牲』の名にふさわしく、そなたらのために祈り、今日もほんのひと欠片のパンしか口にされていない」
ゲルトの話を聞いていたユリウスは思わず立ち上がり、持っていた反物を床に叩きつけていた。
鈍い音が地下室に響いた。反物が転がり、美麗な柄の生地が広がる。
「……ハーゼが飢えていた? 食べ物を与えていなかったのかっ」
ユリウスはゲルトの胸倉を掴み、揺さぶった。
ゲルトは抵抗を見せずに、がくがくと揺れながら頷いた。
「はい」
民が飢える中、ハーゼだけが満たされて良い理屈がない。
「それがハーゼなのです」
ゲルトが至極当然の理を話しているかのような口ぶりで、そう告げた。
「犠牲と献身。それがハーゼの役割です。女神のために火に飛び込んだように、獣に食われたように、信者のためにその身を捧げる。民が飢えればハーゼは率先してその苦しみを味わわなければならない。そして、信者の祈りを、願いを、魂の救済を、月神デァモントへ届けるのです。それがハーゼの役割なのです」
そう切り出したゲルトの話に、ユリウスは耳を澄ませた。
デァモントの民は、山間部に住む。
サーリーク王国のように木造や石造りの家は持たない。あるのは移動が可能な幕舎だ。気候に合わせて住む場所を移し、厳しい冬を越して、恵みの春を迎える。
だが、例外的に堅牢な建物が点在した。石造りのそれは、祈りの場である教会だ。
デァモントの中でもっとも気候が良く、もっとも安定した地盤には中央教会の大きな建物が築かれた。そこを中心に教皇区と呼ばれる区画ができた。
教皇区には宣教師らが住まい、中央教会には教皇とハーゼが住んでいた。
デァモント教は、女神デァモントによって偶像崇拝を禁じられている。それゆえ教会や各家庭に女神を象った絵画や銅像などが並べられることはない。
実体を持たない神の代わりにはひとびとは、ハーゼを拝む。
幕舎の入り口には守り神代わりにうさぎの置物が飾られるし、森や草原で野うさぎを見ても絶対に狩ることはしない。
信者はうさぎの肉も食べない。
うつくしき女神のためにいのちを落したという逸話を持つうさぎは、デァモントの民にとっては非常に神聖なものだった。
他国とデァモントの生活で、大きな違いといえば貨幣が流通していないことだろう。
清貧、勤勉、平等を掲げる信者たちは早い段階で、金銭に価値を見出すことをやめていた。
病める者が居れば皆で看病し、祝い事があれば皆で祝った。
同じ神を崇める者は、家族も同様であり、それはデァモントのどの場所へ行っても共通していた。
山の恵み、川の恵み、土の恵みはすべて神からの恩恵で、民たちは収穫したそれらをまずは教会へと貢ぎ、余ったものを均等に分配した。
慎ましやかな暮らしではあったが、皆満たされていた。
争いもなく、特別貧しい者も居らず、特別富める者も居らず、誰からも奪わず、平等に与えられ、飢えるときは平等に飢える。
平穏な暮らしだった。
しかしここ三十年ほどで、デァモントの暮らし向きは大きく変わっていっていた。
「教皇様が、代替わりをなさったのです」
ゲルトはそう語った。
繰り返し生まれ変わるハーゼとは違い、教皇は代替わりをする。
当代教皇がその地位を退く際に、次の教皇をハーゼが指名することとなっていた。
教皇は、ハーゼの言葉を解することのできる宣教師の中から選ばれる。
「ハーゼ様は、我らデァモント信者の犠牲と献身の象徴なのです。ハーゼ様は日々、我々のために月神デァモント様へと祈りを捧げる。そして神の言葉を聞き、その託宣を教皇様へとお預けになる。ハーゼ様の使うお言葉は中央教会のみで使われる特別なものです。誰もがわかるわけではない」
その『特別な言葉』を操れる者の中から、ハーゼが選び出した者が教皇の地位に就けるのだ。
ハーゼがハーゼの名を継ぐのと同様、教皇にも代々名乗る名前がある。
ヨハネスという名だ。
約三十年前、今上教皇の地位に就いたヨハネスは、二十九歳。デァモント史上でもっとも若いと言われていた。奇しくも現在のユリウスと同い年である。
「若き教皇様の誕生を我々は皆喜びました。私の両親は先々代の頃より中央教会で下働きをしており、当時十二歳だった私は新たな教皇様の晴れ姿を間近で拝見する幸運に恵まれ、感動したものです。しかし異変は徐々に起こりました」
若きヨハネスが誕生した年を境に、教会への奉納が信者たちに義務付けらるようになった。
小麦、野菜、木の実、肉、魚。始めは収穫量の一割ほどが。やがてその量がじわじわと増え始め、最終的には半分が強制的に奉納させられることとなった。
民たちの生活は当然苦しくなる。しかし月神デァモントの言葉だと言われれば従うしかなかった。
強制されたのは奉納だけではなかった。
労働力として、女も駆り出されるようになった。
男は従来通り農業や放牧、山での狩りなどを行い、女は教会へ集められ朝から晩まで働かされることとなった。
「女性はなにをさせられたんだ?」
ユリウスが尋ねると、ゲルトの視線が床にある反物へと流れた。
「機織りです。ハーゼ様より神の言葉を預かったヨハネス様が、神への捧げものを作るようにと言われ、女たちは糸車を回し続け、機を織り続けていました」
ユリウスはゲルトの言葉を聞きながら、立ち上がって部屋の隅に転がっていた反物を拾い上げた。
広げてみると細かな柄がぎっしりと入っており、手触りがとても良い。
「……なにか特別な糸を使っているのかな?」
ユリウスは自身の服と反物の生地とを触り比べながら、首を傾げた。
ユリウスの服には高級な生地が使われているが、この反物はそれ以上の価値があると思われた。
「……はい。それは、デァモントの山中にある天蚕からとれる糸です」
「発色もすごくいいね。きれいな紅だ。この柄もすごい。こんなものが作れるのか」
女たちの手仕事で織られたという生地に、ユリウスは素直に感心した。
しかしゲルトはユリウスの賛辞を少しも喜ばす、沈痛に項垂れた。
女たちの強制労働には、終わりがなかった。
織った生地は教会が回収し、中央教会へと奉納される。これで月神デァモントへの捧げものが完成したかと思うと、次の品物が要求される。その繰り返しだった。
男たちの疲労も募った。
収穫したものは幾ばくもおのれの手元に残らず、家をまもるはずの女も奪われている。
民たちは疲弊し、飢えに苦しんだ。
「なぜそんな要求に従い続けたんだ」
半ば呆れて、ユリウスはついそう言ってしまった。
ゲルトがしずかに首を振り、
「ハーゼ様が居られたからです」
と答えた。
いまから約二十年前……今上教皇がその地位について十年が経過した頃、ハーゼが身罷られた。
そして二年後に新たなハーゼが中央教会へと迎えられた。
リヒトのことだ、とユリウスは悟り、反物を手にしたまま椅子へ座り直し、改めてゲルトと対峙した。
民たちはハーゼの生まれ変わりを歓迎した。
先代のハーゼは、神への貢物ばかりを要求して、民たちを苦しめていた。
新たなハーゼとなれば、神の託宣も別のものになるかもしれない。
そうなれば以前の平穏な日常が戻り、労働と飢えからも解放されることだろう。
しかしハーゼはまだ二歳。神の言葉を聞けるようになるのは数年先のことだった。
民たちは祈った。神に、新たなハーゼに、祈りを捧げながら日々を耐えた。
そして五歳になったハーゼが信者の前に初めて姿を現した、月神祭の日。
ハーゼより初めて預言を賜った教皇が告げた言葉は。
「今年の供物の出来はいまひとつであった。神の御身を飾るための織物を、これまで以上に丹精込めて仕立てよ」
朗と響くヨハネスの声に、宣教師たちが揃って頭を下げた。
戸惑ったのは信者たちだ。
これ以上、なにをどう努めよというのか。
食べ物をお恵みください、と誰かが言った。
腹が減り過ぎて畑を耕す力が出ません、と男たちが声を上げた。
休みをください、これ以上は糸が紡げません、と女たちが啜り泣きを漏らした。
神聖なる月神際は異様な空気となった。
それを破ったのもまた、ヨハネスであった。
「ハーゼ様のお姿を見よ」
教皇の言葉と同時に、中央教会の塔の上に子どもの姿が現れた。
銀色の髪が風になびき、月の光をやわらかく弾いていた。
子どもは両脇を、黒衣の男たちによって支えられていた。
その体は小さく、ひとりで立つことも困難なのだと、説明されずとも塔を見上げたひとびとは理解した。
「飢えているのはそなたらだけではない。我々も同じだ。そしてその苦しみに、誰よりもハーゼ様が耐えておられる。『犠牲』の名にふさわしく、そなたらのために祈り、今日もほんのひと欠片のパンしか口にされていない」
ゲルトの話を聞いていたユリウスは思わず立ち上がり、持っていた反物を床に叩きつけていた。
鈍い音が地下室に響いた。反物が転がり、美麗な柄の生地が広がる。
「……ハーゼが飢えていた? 食べ物を与えていなかったのかっ」
ユリウスはゲルトの胸倉を掴み、揺さぶった。
ゲルトは抵抗を見せずに、がくがくと揺れながら頷いた。
「はい」
民が飢える中、ハーゼだけが満たされて良い理屈がない。
「それがハーゼなのです」
ゲルトが至極当然の理を話しているかのような口ぶりで、そう告げた。
「犠牲と献身。それがハーゼの役割です。女神のために火に飛び込んだように、獣に食われたように、信者のためにその身を捧げる。民が飢えればハーゼは率先してその苦しみを味わわなければならない。そして、信者の祈りを、願いを、魂の救済を、月神デァモントへ届けるのです。それがハーゼの役割なのです」
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