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女神の愛したうさぎ
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ユリウスの呟きを耳にしたゲルトが、なんとか姿勢を正して頭を下げた。
その黒髪の後頭部を見下ろしながらユリウスは、なるほどこれがこの男の切り札か、と得心した。
飢餓と強制労働に苦しむデァモントの民を思うゲルトの気持ちは、おそらく本物だ。
中央教会で教皇の近侍として働き、信仰にすべてを捧げてきたのだろう。ときにはハーゼの世話をしたこともあったかもしれない。
その中で彼は、教皇の不正に気付きかけていた。
民がこれほどの辛苦に喘いでいる、その『原因』は誰に、なにに、あるのか。
教皇の述べるハーゼからの言葉は、真実神の言葉なのか。
デァモント教の根幹に、ゲルトの疑いは向いてしまう。
しかしそれは絶対に疑ってはならぬものだ。
デァモント教とは、おのれをおのれたらしめる、唯一にして絶対の存在なのだ。
だから彼は敢えてそこから目を逸らした。
けれど民のため、なにもせずにはいられない。
ハーゼを殺めることを決断したのは、狂おしいほどの葛藤の中、彼ができた最大限のことだったのだろう。
五感の弱い子どもを、山へ連れ出し、数口のパンだけを与えて、空腹を利用して山道を這わせた。
険しい坂を転がり落ちるハーゼを見て、彼の中に一体どのような感情が渦巻いていたのか。
罪悪感か。達成感か。
ともかく彼はおのれのできることを果たし、新たなハーゼが生まれることを願って、教皇に与えられた任務を口実にデァモントを離れた。
そしてここサーリーク王国で、実に十二年ぶりにおのれが殺したはずのハーゼと再会し、ハーゼが転生していないことを知ったのだ。さぞかしショックだったことだろう。
だが、ここにはユリウスが居た。
ハーゼを、『僕のオメガ』と呼んで大切にしている、サーリーク王国の王弟が。
ゲルトにとってこれは、千載一遇の好機であった。
ユリウスを動かして、デァモント教を……教皇を断罪する、最初にして最後のチャンスであった。
民は救いたい。
しかしそれには信仰心が枷になる。
教皇の行いはハーゼの託宣によるものだ。ハーゼは月神デァモントからの言葉を教皇へと伝えている。それを信者であるゲルトが疑うわけにはいかない。諫めることもできない。不信心を責められ、魂の救済を得られなくなることは、信者にとってなにより恐ろしいことだった。
だからユリウスを使うのだ。
ゲルト自身には難しくとも、異教徒であるユリウスならデァモントの怒りを恐れない。
ユリウスのオメガの五感を取り戻せるかもしれない、と情報を与え、デァモントまで赴かせ、教皇と直接対峙させること。
それがゲルトの描いた青写真だろう。
まんまとそれに乗るのは、バカのすることだろうか。
ユリウスは沈思し、自分へと問いかけた。
答えはすぐに出た。
リヒトを治せる可能性があるのなら、それが海の底でも、必ず行く。
ゲルトがユリウスを動かすため、出鱈目を言っている可能性もあった。秘術など存在しないかもしれない。たとえあったとしても、リヒトを治すことなどできないかもしれない。
それでも行かなければならない。
目を治すお薬はありますか、とリヒトに尋ねられたとき、ユリウスはおのれの不甲斐なさを痛感した。
あるよ、と言ってあげたかった。
あるよ、と。
あのとき言えなかったそれを、リヒトに言えるかもしれないのだ。
ユリウスはしずかに息を吸い込んだ。
「ゲルト。僕はきみが嫌いだ。とても嫌いだ。いますぐに首を刎ねたいぐらい嫌いだ」
平伏している男へ向かってそう言うと、ゲルトが一層頭を下げて、小さくなった。
「だけど、とりあえずきみの処分は後回しだ。僕を教皇とやらのところへ連れていけ」
「は……ははっ! 殿下、殿下、ありがとうございますっ!」
ゲルトの言葉の、語尾が涙で濡れた。
「全面的にきみの話を信じたわけじゃない。ひと通りの確認はさせてもらう。あと、まだ何点か確認したいことがある。出発までの身柄は僕が預かる。準備を整える間に、きみの知ることはすべて話せ」
「承知いたしました!」
「ロンバード、彼を王城へ連れていけ。この屋敷には置いておきたくない」
「はっ」
ロンバードが敬礼をして、床に這いつくばっているゲルトの腕を取った。ゲルトがふらつきながら立ち上がる。左頬を腫らした黒衣の男の顔は、汗と涙でびしょびしょに濡れていた。
それを見てもユリウスの中に、彼を憐れむ気持ちは一片も湧いてこなかった。
ゲルトの苦悩も、デァモントの民も、ユリウスにとってはどうでもいい。
リヒト。ユリウスのオメガ。
あの子だけだ。ユリウスにとって大事なのはあの子だけなのだ。
ユリウスは空気の悪い地下室を出て、リヒトの眠る自室へと戻った。
扉の前ではテオバルドが控えていた。
「なんの物音もしていませんので、眠りっぱなしかと」
テオバルドの報告に、ユリウスはひとつ頷いて寝室に入った。
寝台の上のリヒトは、やはり眠っている。
規則正しい呼吸に乱れはなく、その寝顔を見ながらユリウスは、この子の夢の世界はどうなっているのだろうと考えた。
夢の中も、ぼんやりとした風景なのだろうか。
それとも、二歳まで目が見えていたというから、その頃に見たものはきちんとした形を伴っているのか。
ユリウスはベッドの端に腰を下ろし、半身を少し捻ってリヒトの頬を撫でた。
そのまま細い顎までを辿り、その下の、金の宝石が嵌まった首輪に触れる。
ユリウスの顔も見えず、声もクリアには聞こえず、匂いもわからないリヒト。
「僕は、いまのままのきみでいいんだよ」
ユリウスはそっと、ささやいた。
「でもきみが治したいって言うなら、僕は全力でその方法を探しに行くよ」
目を治すお薬はありますか、とリヒトが言ったから。
耳を治す薬でもいいです、と言っていたから。
誰よりも彼自身が、治したいと思っているのなら、それを叶えてあげるのがユリウスの役目だ。だってリヒトは、ユリウスのオメガなのだから。
「だけどね、リヒト。治らなくても、愛しているよ。そのままのきみを愛してるんだよ」
十二年前、山の中で死にかけていた子ども。
抱き上げたときに、わかった。これは僕のオメガだ、と。
アルファの本能が、この子が運命のつがいだと叫んでいた。
それから二年間、眠りっぱなしのリヒトの世話をした。
さらに目を覚ましてからの十年、毎朝毎晩彼を膝に抱いて食事を食べさせ、お風呂に入れて、愛を囁いて抱いて眠った。
ユリウスの中には、十二年分のリヒトがつまっている。
きれいな金の瞳と銀の髪、はにかむように笑う愛らしい顔、ユリウスの役に立ちたいという健気さ、仕事から戻るユリウスを扉の前でちょこんと待っている一途さ、僕に仕事をくださいとねだってきたときの意思の強い声。
ぜんぶぜんぶ好きだし、愛してる。
リヒトを選んだのは、アルファの本能だったけれど。
いまリヒトを愛しているのは、ユリウス・ドリッテ・ミュラーのすべてだ。
「それをちゃんと覚えていておくれよ、僕のオメガ」
ユリウスはリヒトのひたいにキスをした。
鼻の頭と、頬。
それから唇にも。
これが物語なら、王子様のキスでお姫様は目覚めるのだけど。
お寝坊さんなユリウスのオメガは眠りっぱなしで。
そこに可笑しみを感じながらユリウスは、そのいとしい寝顔をしばらくの間こころゆくまで堪能したのだった。
その黒髪の後頭部を見下ろしながらユリウスは、なるほどこれがこの男の切り札か、と得心した。
飢餓と強制労働に苦しむデァモントの民を思うゲルトの気持ちは、おそらく本物だ。
中央教会で教皇の近侍として働き、信仰にすべてを捧げてきたのだろう。ときにはハーゼの世話をしたこともあったかもしれない。
その中で彼は、教皇の不正に気付きかけていた。
民がこれほどの辛苦に喘いでいる、その『原因』は誰に、なにに、あるのか。
教皇の述べるハーゼからの言葉は、真実神の言葉なのか。
デァモント教の根幹に、ゲルトの疑いは向いてしまう。
しかしそれは絶対に疑ってはならぬものだ。
デァモント教とは、おのれをおのれたらしめる、唯一にして絶対の存在なのだ。
だから彼は敢えてそこから目を逸らした。
けれど民のため、なにもせずにはいられない。
ハーゼを殺めることを決断したのは、狂おしいほどの葛藤の中、彼ができた最大限のことだったのだろう。
五感の弱い子どもを、山へ連れ出し、数口のパンだけを与えて、空腹を利用して山道を這わせた。
険しい坂を転がり落ちるハーゼを見て、彼の中に一体どのような感情が渦巻いていたのか。
罪悪感か。達成感か。
ともかく彼はおのれのできることを果たし、新たなハーゼが生まれることを願って、教皇に与えられた任務を口実にデァモントを離れた。
そしてここサーリーク王国で、実に十二年ぶりにおのれが殺したはずのハーゼと再会し、ハーゼが転生していないことを知ったのだ。さぞかしショックだったことだろう。
だが、ここにはユリウスが居た。
ハーゼを、『僕のオメガ』と呼んで大切にしている、サーリーク王国の王弟が。
ゲルトにとってこれは、千載一遇の好機であった。
ユリウスを動かして、デァモント教を……教皇を断罪する、最初にして最後のチャンスであった。
民は救いたい。
しかしそれには信仰心が枷になる。
教皇の行いはハーゼの託宣によるものだ。ハーゼは月神デァモントからの言葉を教皇へと伝えている。それを信者であるゲルトが疑うわけにはいかない。諫めることもできない。不信心を責められ、魂の救済を得られなくなることは、信者にとってなにより恐ろしいことだった。
だからユリウスを使うのだ。
ゲルト自身には難しくとも、異教徒であるユリウスならデァモントの怒りを恐れない。
ユリウスのオメガの五感を取り戻せるかもしれない、と情報を与え、デァモントまで赴かせ、教皇と直接対峙させること。
それがゲルトの描いた青写真だろう。
まんまとそれに乗るのは、バカのすることだろうか。
ユリウスは沈思し、自分へと問いかけた。
答えはすぐに出た。
リヒトを治せる可能性があるのなら、それが海の底でも、必ず行く。
ゲルトがユリウスを動かすため、出鱈目を言っている可能性もあった。秘術など存在しないかもしれない。たとえあったとしても、リヒトを治すことなどできないかもしれない。
それでも行かなければならない。
目を治すお薬はありますか、とリヒトに尋ねられたとき、ユリウスはおのれの不甲斐なさを痛感した。
あるよ、と言ってあげたかった。
あるよ、と。
あのとき言えなかったそれを、リヒトに言えるかもしれないのだ。
ユリウスはしずかに息を吸い込んだ。
「ゲルト。僕はきみが嫌いだ。とても嫌いだ。いますぐに首を刎ねたいぐらい嫌いだ」
平伏している男へ向かってそう言うと、ゲルトが一層頭を下げて、小さくなった。
「だけど、とりあえずきみの処分は後回しだ。僕を教皇とやらのところへ連れていけ」
「は……ははっ! 殿下、殿下、ありがとうございますっ!」
ゲルトの言葉の、語尾が涙で濡れた。
「全面的にきみの話を信じたわけじゃない。ひと通りの確認はさせてもらう。あと、まだ何点か確認したいことがある。出発までの身柄は僕が預かる。準備を整える間に、きみの知ることはすべて話せ」
「承知いたしました!」
「ロンバード、彼を王城へ連れていけ。この屋敷には置いておきたくない」
「はっ」
ロンバードが敬礼をして、床に這いつくばっているゲルトの腕を取った。ゲルトがふらつきながら立ち上がる。左頬を腫らした黒衣の男の顔は、汗と涙でびしょびしょに濡れていた。
それを見てもユリウスの中に、彼を憐れむ気持ちは一片も湧いてこなかった。
ゲルトの苦悩も、デァモントの民も、ユリウスにとってはどうでもいい。
リヒト。ユリウスのオメガ。
あの子だけだ。ユリウスにとって大事なのはあの子だけなのだ。
ユリウスは空気の悪い地下室を出て、リヒトの眠る自室へと戻った。
扉の前ではテオバルドが控えていた。
「なんの物音もしていませんので、眠りっぱなしかと」
テオバルドの報告に、ユリウスはひとつ頷いて寝室に入った。
寝台の上のリヒトは、やはり眠っている。
規則正しい呼吸に乱れはなく、その寝顔を見ながらユリウスは、この子の夢の世界はどうなっているのだろうと考えた。
夢の中も、ぼんやりとした風景なのだろうか。
それとも、二歳まで目が見えていたというから、その頃に見たものはきちんとした形を伴っているのか。
ユリウスはベッドの端に腰を下ろし、半身を少し捻ってリヒトの頬を撫でた。
そのまま細い顎までを辿り、その下の、金の宝石が嵌まった首輪に触れる。
ユリウスの顔も見えず、声もクリアには聞こえず、匂いもわからないリヒト。
「僕は、いまのままのきみでいいんだよ」
ユリウスはそっと、ささやいた。
「でもきみが治したいって言うなら、僕は全力でその方法を探しに行くよ」
目を治すお薬はありますか、とリヒトが言ったから。
耳を治す薬でもいいです、と言っていたから。
誰よりも彼自身が、治したいと思っているのなら、それを叶えてあげるのがユリウスの役目だ。だってリヒトは、ユリウスのオメガなのだから。
「だけどね、リヒト。治らなくても、愛しているよ。そのままのきみを愛してるんだよ」
十二年前、山の中で死にかけていた子ども。
抱き上げたときに、わかった。これは僕のオメガだ、と。
アルファの本能が、この子が運命のつがいだと叫んでいた。
それから二年間、眠りっぱなしのリヒトの世話をした。
さらに目を覚ましてからの十年、毎朝毎晩彼を膝に抱いて食事を食べさせ、お風呂に入れて、愛を囁いて抱いて眠った。
ユリウスの中には、十二年分のリヒトがつまっている。
きれいな金の瞳と銀の髪、はにかむように笑う愛らしい顔、ユリウスの役に立ちたいという健気さ、仕事から戻るユリウスを扉の前でちょこんと待っている一途さ、僕に仕事をくださいとねだってきたときの意思の強い声。
ぜんぶぜんぶ好きだし、愛してる。
リヒトを選んだのは、アルファの本能だったけれど。
いまリヒトを愛しているのは、ユリウス・ドリッテ・ミュラーのすべてだ。
「それをちゃんと覚えていておくれよ、僕のオメガ」
ユリウスはリヒトのひたいにキスをした。
鼻の頭と、頬。
それから唇にも。
これが物語なら、王子様のキスでお姫様は目覚めるのだけど。
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