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リヒト⑮
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ドアを背に室内を見ると、左右の壁には天井まである木の棚があって、それぞれの仕切りにはガラス戸が嵌まっていた。正面の窓際には、同じ種類で背の低い棚が置かれている。
部屋の中央にはカウチソファと丸いテーブル。
僕はきょろきょろと視線を彷徨わせた。
この部屋にドアはひとつだけ。僕たちがいま入ってきた、廊下へと続くそれだけだ。
「……もうひとりのオメガのひとはどこですか?」
どこにもひとの姿が見当たらなくて、僕はついユーリ様にそう尋ねた。
ユーリ様が苦笑いを浮かべて、
「だから居ないってば」
と、答えた。
でも、匂いがしている。
オメガの匂いが。
くん、と鼻で息を吸って、僕は壁際の棚に歩み寄った。
ユーリ様が僕の背後から手を伸ばして、ガラスの取っ手を引いた。
そこには、小さなスプーンやフォーク、カップやお皿がひとつずつ並べられている。
明らかに子ども用のものだ。
ユーリ様ともうひとりのオメガのひとの間にできた、赤ちゃんのものなのかもしれない。
心臓がぎゅうっとなって、僕は胸元を握りしめた。
触ってもいいよ、とユーリ様が言った。
「リヒトなら、いいよ」
なんでそんなことを言うのだろう。
かなしくなって、僕はふるふると首を横に振った。
ユーリ様が「あれ?」と首を傾げた。
「抑制剤のせいで匂いがよくわからないけど……もしかしてかなしい匂いになってる? リヒト、ほらよく見てごらん」
棚の一列をてのひらで示して、ユーリ様が仰った。
「この棚にあるのは、きみが食事で使ってた食器類だよ」
「……え?」
僕は目を真ん丸にして、ユーリ様を振り仰いだ。
ユーリ様がじわりと微笑を浮かべて、
「このスプーンはきみが初めて目を覚ました日に使ったものだよ。こっちはきみが初めてスープを飲むときに使ったもの。このフォークを見て。きみの口があんまり小さくて、怪我をさせるんじゃないかとヒヤヒヤしたから、先端を丸めてあるんだ。いまもリヒトの口は小さいけどね。ねぇ、僕のオメガ」
ひとつひとつを指さしながらゆっくりと僕に語り掛けてくる。
僕はポカンとしながら、ユーリ様の指を追ってきれいに並べられたスプーンやフォークを見つめた。
「隣の棚はきみの着ていた服が入ってるよ」
言いながらユーリ様が、隣の棚を開いた。
そのお言葉通り、きちんと畳まれた服が一着ずつ仕舞われている。
「衣類はさすがに多いから、向こうの棚にも入れてある。年齢ごとになってるから……ほら、リヒト、これが一番古いもの。眠りっぱなしだったきみが着ていた寝間着だよ。いまよりもずっと小さい」
ユーリ様が身を屈め、棚の一番下にあった白い服を僕の前に広げた。
ユーリ様の手にあると、服はなおのこと小さく見えた。
僕がおずおずとそれに触ると、ユーリ様が僕の頬にキスをしてくる。
「大きくなったね、僕のオメガ」
僕は周りに居る誰よりも……アマーリエ様よりも、背が低い。頭の先の先まで入れたって、ユーリ様の胸に届かないぐらいだ。
でも、昔の僕はいまよりももっとずっと小さくて……ユーリ様が僕をここまで育ててくれたのだ、という実感が胸の奥から全身に広がり、体がポカポカと熱くなるような気がした。
「うへぇ……薄々予想してましたが、想像以上にやべぇ部屋っすね」
ロンバードさんがドアの前でそう呟くのが聞こえた。
ユーリ様がロンバードさんを流し見て、
「やばいとはなんだ」
と言い返した。
「僕の宝物を侮辱するのか」
「侮辱じゃなくて、あんたの執着に震え上がってんですよ。これはさすがに団長でもしないでしょうが」
「クラウス兄上ならきっと僕の気持ちを理解してくださる」
「そりゃ理解はするでしょうけど……ほら、うちの倅も言葉を失ってる」
ロンバードさんに肘でつつかれたテオさんが、「ひぇっ」と小さく叫んでぶんぶんと首を振った。
「いや俺はべつにっ! っていうか、え? まさかそこの棚ぜんぶ、リヒト様が使用したものが詰まってるってことですか? 一番下から上まで? この棚が??」
テオさんの質問にユーリ様が頷かれると、テオさんがまた「ひぇぇ」と声をこぼした。
棚は床から天井まである。
一番下はともかく、一番上はユーリ様も、ユーリ様よりも背の高いロンバードさんも背伸びをしたって届かないけど、あれはどうやって開けるんだろう?
不思議に思った僕だったけど、よくよく見れば窓際に梯子が置かれていた。
棚の前の床にはレールが敷かれていて、そこに沿って梯子が動く仕組みになってるみたい。
なんだかすごい部屋だ。
僕が「ふわぁ」と感心していると、ユーリ様が僕を覗き込んできて、
「疑いは晴れた?」
と聞いてきた。
疑い……もうひとりのオメガが居るという僕の考えと、この部屋はたしかに全然違っている。
でも。
「でも、オメガのひとの、匂いは……」
僕がまばたきをしながら問いかけると、ユーリ様がにっこりと微笑まれた。
「きみの言うオメガの匂いっていうのはね、ここに収まっているものについていた、きみ自身の匂いだよ、リヒト」
「……え?」
「正確には、ほかの不純物がすこし混じっている、昔のきみの匂いだ」
僕自身の匂い? これが?
僕は自分の腕に鼻をつけて、匂いを嗅いでみた。でも、自分の匂いは自分ではよくわからない。
自分の匂いは嗅ぎ分けることができないのだから、ユーリ様にくっついた僕の匂いだって、自分じゃわからないはずだ。
「……ユーリ様は嘘つきです」
騙されてはなるものかと僕が唇を尖らせたら、ユーリ様が新緑色の瞳をおかしそうに細めた。
「なんでそんなこと言うの」
「だって、自分の匂いはわかりません」
「うん。僕も僕の匂いはわからない」
「ほら!」
「だから、昔のきみの匂いだって言っただろう?」
ユーリ様が僕のおでこに、コツンとひたいを合わせてきた。
「リヒト、オメガの誘惑香は……アルファもだけど、そのフェロモン香は成長に応じて成熟してゆくんだ。僕がきみを見つけたとき、きみはたぶん、オメガに分化したばかりだったんだろうね。それから二年間は眠りっぱなしで、その後も中々食事の量も増えずに僕はずいぶんと心配したものだよ。リヒト、きみの成長は遅かった。だから多分、誘惑香も成熟しきらずに、不安定な状態が続いていたんだろうね」
やさしく甘いユーリ様のお声。
そのお声で滔々と説明されて、僕はうっかり聞き惚れてぼうっとしてしまった。
「リヒト、聞いてる?」
「う……はい」
肩をやわらかく揺すられて咄嗟に返事をした僕をフォローするように、テオさんが口を開く。
「ということは、いまのリヒト様と昔のリヒト様の匂いは違うってことですか?」
ユーリ様がテオさんに視線を向けた。
その動きでひたいに金色の前髪がひとすじ落ちて、ユーリ様のお顔ってやっぱりものすごくきれいなんだなと僕は、関係のないことを思った。
「違う、というほどの違いはないよ。僕にとってはすべて『リヒトの匂い』だ。でも我々アルファにとって、匂いというものは細かく分類することができる。大まかな感情だって匂いから嗅ぎ取ることができるからね。リヒトももしかしたら鼻がいいのかもしれないね」
ユーリ様がそう言って、僕の頭をさらりと撫でた。
「それにこの棚は特別製で、匂いの劣化を可能な限り防ぐ仕様になってるんだ。だから余計に、リヒトの鼻に引っかかったのかもしれないね」
ユーリ様は棚のガラス面をコンと叩いて、説明を続けた。
ここに集められた物たちの中には、僕とユーリ様以外の『不純物』な匂いがついているのだという。
たとえば僕の世話をするときに、ロンバードさんやグレタさんが触ったものもあるし、他の使用人のひとが触ったものもあって、そういう色んなひとの匂いがすこしずつ残っているみたい。
そして、匂いが落ちないように特別に作られた棚の中で、僕と、その他の人たちの匂いが混ざり合って、居もしない『もうひとりのオメガ』の匂いが出来上がったんじゃないか、ってユーリ様は仰った。
ロンバードさんが目を半分細くして、呆れたようにユーリ様を見た。
「ずいぶんとまぁ金を掛けた蒐集部屋を作ったもんですねぇ!」
ユーリ様がふんと鼻を鳴らして、ロンバードさんに向き直った。
「僕が僕のオメガのものを残しておきたいと思うのはふつうのことだろう! それに、巣作りはオメガのするものって誰が決めたんだ! アルファがしたっていいじゃないか!」
「……開き直らんでくださいよ」
「いいやこの際だから言わせてもらう! 本当ならリヒトが使ったものはすべて、片っ端からここに入れたかったんだ! それなのにグレタが僕から哺乳瓶を強奪したんだ!」
部屋の中央にはカウチソファと丸いテーブル。
僕はきょろきょろと視線を彷徨わせた。
この部屋にドアはひとつだけ。僕たちがいま入ってきた、廊下へと続くそれだけだ。
「……もうひとりのオメガのひとはどこですか?」
どこにもひとの姿が見当たらなくて、僕はついユーリ様にそう尋ねた。
ユーリ様が苦笑いを浮かべて、
「だから居ないってば」
と、答えた。
でも、匂いがしている。
オメガの匂いが。
くん、と鼻で息を吸って、僕は壁際の棚に歩み寄った。
ユーリ様が僕の背後から手を伸ばして、ガラスの取っ手を引いた。
そこには、小さなスプーンやフォーク、カップやお皿がひとつずつ並べられている。
明らかに子ども用のものだ。
ユーリ様ともうひとりのオメガのひとの間にできた、赤ちゃんのものなのかもしれない。
心臓がぎゅうっとなって、僕は胸元を握りしめた。
触ってもいいよ、とユーリ様が言った。
「リヒトなら、いいよ」
なんでそんなことを言うのだろう。
かなしくなって、僕はふるふると首を横に振った。
ユーリ様が「あれ?」と首を傾げた。
「抑制剤のせいで匂いがよくわからないけど……もしかしてかなしい匂いになってる? リヒト、ほらよく見てごらん」
棚の一列をてのひらで示して、ユーリ様が仰った。
「この棚にあるのは、きみが食事で使ってた食器類だよ」
「……え?」
僕は目を真ん丸にして、ユーリ様を振り仰いだ。
ユーリ様がじわりと微笑を浮かべて、
「このスプーンはきみが初めて目を覚ました日に使ったものだよ。こっちはきみが初めてスープを飲むときに使ったもの。このフォークを見て。きみの口があんまり小さくて、怪我をさせるんじゃないかとヒヤヒヤしたから、先端を丸めてあるんだ。いまもリヒトの口は小さいけどね。ねぇ、僕のオメガ」
ひとつひとつを指さしながらゆっくりと僕に語り掛けてくる。
僕はポカンとしながら、ユーリ様の指を追ってきれいに並べられたスプーンやフォークを見つめた。
「隣の棚はきみの着ていた服が入ってるよ」
言いながらユーリ様が、隣の棚を開いた。
そのお言葉通り、きちんと畳まれた服が一着ずつ仕舞われている。
「衣類はさすがに多いから、向こうの棚にも入れてある。年齢ごとになってるから……ほら、リヒト、これが一番古いもの。眠りっぱなしだったきみが着ていた寝間着だよ。いまよりもずっと小さい」
ユーリ様が身を屈め、棚の一番下にあった白い服を僕の前に広げた。
ユーリ様の手にあると、服はなおのこと小さく見えた。
僕がおずおずとそれに触ると、ユーリ様が僕の頬にキスをしてくる。
「大きくなったね、僕のオメガ」
僕は周りに居る誰よりも……アマーリエ様よりも、背が低い。頭の先の先まで入れたって、ユーリ様の胸に届かないぐらいだ。
でも、昔の僕はいまよりももっとずっと小さくて……ユーリ様が僕をここまで育ててくれたのだ、という実感が胸の奥から全身に広がり、体がポカポカと熱くなるような気がした。
「うへぇ……薄々予想してましたが、想像以上にやべぇ部屋っすね」
ロンバードさんがドアの前でそう呟くのが聞こえた。
ユーリ様がロンバードさんを流し見て、
「やばいとはなんだ」
と言い返した。
「僕の宝物を侮辱するのか」
「侮辱じゃなくて、あんたの執着に震え上がってんですよ。これはさすがに団長でもしないでしょうが」
「クラウス兄上ならきっと僕の気持ちを理解してくださる」
「そりゃ理解はするでしょうけど……ほら、うちの倅も言葉を失ってる」
ロンバードさんに肘でつつかれたテオさんが、「ひぇっ」と小さく叫んでぶんぶんと首を振った。
「いや俺はべつにっ! っていうか、え? まさかそこの棚ぜんぶ、リヒト様が使用したものが詰まってるってことですか? 一番下から上まで? この棚が??」
テオさんの質問にユーリ様が頷かれると、テオさんがまた「ひぇぇ」と声をこぼした。
棚は床から天井まである。
一番下はともかく、一番上はユーリ様も、ユーリ様よりも背の高いロンバードさんも背伸びをしたって届かないけど、あれはどうやって開けるんだろう?
不思議に思った僕だったけど、よくよく見れば窓際に梯子が置かれていた。
棚の前の床にはレールが敷かれていて、そこに沿って梯子が動く仕組みになってるみたい。
なんだかすごい部屋だ。
僕が「ふわぁ」と感心していると、ユーリ様が僕を覗き込んできて、
「疑いは晴れた?」
と聞いてきた。
疑い……もうひとりのオメガが居るという僕の考えと、この部屋はたしかに全然違っている。
でも。
「でも、オメガのひとの、匂いは……」
僕がまばたきをしながら問いかけると、ユーリ様がにっこりと微笑まれた。
「きみの言うオメガの匂いっていうのはね、ここに収まっているものについていた、きみ自身の匂いだよ、リヒト」
「……え?」
「正確には、ほかの不純物がすこし混じっている、昔のきみの匂いだ」
僕自身の匂い? これが?
僕は自分の腕に鼻をつけて、匂いを嗅いでみた。でも、自分の匂いは自分ではよくわからない。
自分の匂いは嗅ぎ分けることができないのだから、ユーリ様にくっついた僕の匂いだって、自分じゃわからないはずだ。
「……ユーリ様は嘘つきです」
騙されてはなるものかと僕が唇を尖らせたら、ユーリ様が新緑色の瞳をおかしそうに細めた。
「なんでそんなこと言うの」
「だって、自分の匂いはわかりません」
「うん。僕も僕の匂いはわからない」
「ほら!」
「だから、昔のきみの匂いだって言っただろう?」
ユーリ様が僕のおでこに、コツンとひたいを合わせてきた。
「リヒト、オメガの誘惑香は……アルファもだけど、そのフェロモン香は成長に応じて成熟してゆくんだ。僕がきみを見つけたとき、きみはたぶん、オメガに分化したばかりだったんだろうね。それから二年間は眠りっぱなしで、その後も中々食事の量も増えずに僕はずいぶんと心配したものだよ。リヒト、きみの成長は遅かった。だから多分、誘惑香も成熟しきらずに、不安定な状態が続いていたんだろうね」
やさしく甘いユーリ様のお声。
そのお声で滔々と説明されて、僕はうっかり聞き惚れてぼうっとしてしまった。
「リヒト、聞いてる?」
「う……はい」
肩をやわらかく揺すられて咄嗟に返事をした僕をフォローするように、テオさんが口を開く。
「ということは、いまのリヒト様と昔のリヒト様の匂いは違うってことですか?」
ユーリ様がテオさんに視線を向けた。
その動きでひたいに金色の前髪がひとすじ落ちて、ユーリ様のお顔ってやっぱりものすごくきれいなんだなと僕は、関係のないことを思った。
「違う、というほどの違いはないよ。僕にとってはすべて『リヒトの匂い』だ。でも我々アルファにとって、匂いというものは細かく分類することができる。大まかな感情だって匂いから嗅ぎ取ることができるからね。リヒトももしかしたら鼻がいいのかもしれないね」
ユーリ様がそう言って、僕の頭をさらりと撫でた。
「それにこの棚は特別製で、匂いの劣化を可能な限り防ぐ仕様になってるんだ。だから余計に、リヒトの鼻に引っかかったのかもしれないね」
ユーリ様は棚のガラス面をコンと叩いて、説明を続けた。
ここに集められた物たちの中には、僕とユーリ様以外の『不純物』な匂いがついているのだという。
たとえば僕の世話をするときに、ロンバードさんやグレタさんが触ったものもあるし、他の使用人のひとが触ったものもあって、そういう色んなひとの匂いがすこしずつ残っているみたい。
そして、匂いが落ちないように特別に作られた棚の中で、僕と、その他の人たちの匂いが混ざり合って、居もしない『もうひとりのオメガ』の匂いが出来上がったんじゃないか、ってユーリ様は仰った。
ロンバードさんが目を半分細くして、呆れたようにユーリ様を見た。
「ずいぶんとまぁ金を掛けた蒐集部屋を作ったもんですねぇ!」
ユーリ様がふんと鼻を鳴らして、ロンバードさんに向き直った。
「僕が僕のオメガのものを残しておきたいと思うのはふつうのことだろう! それに、巣作りはオメガのするものって誰が決めたんだ! アルファがしたっていいじゃないか!」
「……開き直らんでくださいよ」
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