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HAPPY
しおりを挟む“8808”
地図のリンクとともに送られてきた、主語のない数字。
ホテルに呼びつけられる時は、いつもこうだった。
恐ろしく無音で無振動の高級エレベーターを降り、8808号室の呼び鈴を鳴らす。
——ガチャリ
扉が開いて、冷ややかに僕を一瞥した男は、そのまま部屋を出て行く。
入れ替わるように中に入り、通路を進む。
現れたのは、当然のようにラグジュアリーな最上階の一室。
そこには大都会のラウンドマークと夜景が、窓ガラス一面に一望できるのだった。
「……さっきの人、秘書じゃないんだな」
高級そうなカウチソファには、脱いたコートが乱雑に置かれていて。
仕事の打合せをした形跡も、景色とともにワインを楽しんだ様子もなかった。
僕は愛人らしくコートを手に取り、奥の部屋に向かう。
「久我君、入るよ?」
夜景のあかりが差し込むだけの薄暗い寝室に、男はいた。
スーツも脱がず、勿論、急に呼びつけた相手に詫びなどもなく。
この世の全てが我が物かのように、男は広漠としたベッドのど真ん中でスマホ片手に寛いでいた。
「スーツ、皺になっちゃうよ。脱いだら? 一緒に掛けておくけど」
クローゼットを見つけ、男のコートを掛けて整える。
無論、彼がスーツの皺など気にする身分ではなく。
高級であろうと一度着たらゴミとみなす性分ということも、よく知っている。
僕らは幼馴染で、幼い頃はかくれんぼや素っ裸で水遊びをした仲なのだから。
「脱ぐならてめぇが先だろ。来るの遅ぇし、俺を待たせんなよ、グズが」
「………」
彼の部下であれば、今すぐ労基か踏切に飛び込むだろう。
でも僕はこの男の愛人で、大人になった今は、素っ裸で別の遊びをする仲なのだった。
「そういえば。さっきの人って、久我君の親戚?」
「は……なんで」
「いえ……なんでもない、です」
口調からして親戚に間違いなかった。
“雰囲気が似ていた”などと口走ったら、どんな酷い目に遭わされるか分からない。
男はやんごとなき家系のお坊っちゃまで、傍若無人以外の生き方を知らない。
その弊害で、嘘を吐くことと感情の隠蔽がド下手であった。
(家族の話なんてする人じゃないしなぁ。まぁ、それは僕もだけど)
着ていたニットを脱ぎながら、つい溜め息を吐いた。
すると、
「……なに。さっきの奴に、なんか嫌なこと言われた?」
いつのまにか背後から抱きしめられ、耳に吐息がかかる。
お酒の匂いがして、服の中に滑り込む手も熱かった。
「いや、何も、口きいてないから。すぐ出て行っちゃって……あッ」
「じゃあ何、溜め息ついてんだよ。服脱ぐだけなのにチンタラしやがって……怒ってんのかよ」
「え? 怒ってないよ、うわあぁ……待って、袖が」
中途半端に脱げた服が絡まり、手枷のようになっていた。
それでも男は構わずクローゼットの中へと入ってきて、僕の手を壁一面の鏡へと押し付けた。
「待ってってば……いま脱ぐから」
「レイプみたいで興奮してきた」
「ちょ……っ、アッ」
既に堅くなった自身の股間を擦りつけながら、僕のベルトを外していく。
そして肌を撫でていたもう片手は、胸の突起をクニクニと弄んでいた。
「なんだ。乳首、全然小せぇままじゃん。俺が置いてった吸引器、使ってねーの? チクニーしてデカくしとけっつったのに」
「ええぇ、あんなの、やだよぉ」
「俺は小さいままがいいけど? おまえがぶっといピアス捩じ込んだ乳首虐めて欲しいって、泣いて頼むからさ。今日はニードルまで用意したのに」
「いっ? 言ってない! ニードル……、ア、穴?! やだ、痛いの、こわぃ」
「フ……冗談だよ。俺がそんな事するわけないだろ?」
「ん……」
実際、そうなのだ。彼は僕にそんな事しないだろう。
でも僕以外には平気でする人で。
僕が浮気でもしようものならピアス穴どころか全身に風穴が開くのだ。
「じゃあ、さっさと足開けよ。男のホテルまでノコノコやってきて、処女じゃねーんだろ? おにーさん?」
「うう……初めては、意地悪な同級生に、奪われました……」
「へー。もしかしてその男とのセックス、忘れられないとか? そんなに良かった?」
かつて僕を犯した強姦魔が背にのしかかり、嬉しそうにレロレロと耳朶を舐める。
そして布目が破けそうなほど怒張した僕の股間を、下着ごと撫でまわしていた。
「ふーん? 初めての男に、便所で犯されまくってたから期待しちゃってる? おにーさん、変態だねぇ」
「ち、ちがう、これは」
すると乱暴に下着を引き下ろされ、まろびでた僕のものは、勢いあまってペチンっと下腹に弾けた。
「うわ、エッロ」
「うぅ……」
アルコール混じりの熱い吐息を吐きながら、僕のお尻を痴漢のように撫でまわす。
ついには割れ目に股間を押し付け、オナホのように擦り付けるのだった。
「おにーさんさあ。俺の好みだから、特別に生で挿れてやるよ」
「ま、待って。ここでするの、やだ……ベッド行こぉよ」
常備灯がぼんやりと灯るクローゼット内。
同然、目の前の大鏡には強姦魔と僕。
そして興奮してヒクヒクと跳ねる己の一物まで、つぶさに写し出されていた。
「そう? なら場所かえよっか、ってレイプ中になるかよ。……挿れるからな」
「アッ、ちょ、あああ……」
強姦魔の熱い肉塊が尻穴に減り込んでくる。
クローゼットという密室の中、脱げた衣服で手足の自由すら奪われている状況。
まさに不同意猥褻現場のようだが、被害者の尻は準備万端の汁だくなので、性的同意がすぎていた。
グポッ、グポッ、ヌチュ、ぐぽ、ぬぷ、ぐちゅうぅッ
腰を押さえつける手も、いつもより熱く。
二人分の喘ぐ息で、鏡が白く曇っていく。
「あー……くそ……締め付けてんじゃねぇよ……。ド変態が」
「はぁ、はぁ、ぁン……——アウゥッ」
尻肉に腰を打ち付けられ、さらに乳首をつねられた。
すると腰が抜けて、もうまともに立っていられなくなる。
「ハ……こんなんでヘタってんじゃねーよ。まだイってねえだろ、おにーさん?」
「あうぅっ」
肉槍で奥を突き上げられ、膝がガクガクと震えた。
鏡に押し付けるようにして、なおも激しく中を穿つ。
「……エロい顔すんなよ、出そうになるだろ」
鏡越しに、色めいた視線が絡みつく。
だらしなく開いていた口に指を突っ込まれ、首筋に歯をたて噛みつかれた。
(うう、お酒のせいかな。なんか、いつもより、よく喋るし……体温も熱くて、変になりそぅ)
血筋による生存本能のせいか、男は性欲が半端なかった。
初めて関係を持った頃など何度三途の川を渡り掛けたかわからない。
それでもスパルタな愛人教育により、僕の虚弱体質すら改善していたのだが——
「おまえ、顔赤くね?」
「ぇ……」
グイと顎を掴まれ、唇ではなく、オデコを重ねられる。
さらには手首を掴まれ、脈まで測られていた。
「……脈早いな。酒飲んだ時みてぇ」
「あぁ……ちょっと、寝不足、だからかも。昨日も遅くまで研究室にいたから」
「ハ? だからクソみてーな仕事やめろって。金ならやるっつってんだろ。てめぇ、自分が誰の愛人かわかってんのか」
「もぉ……そうやって頭のおかしな事ばっかいわないでよぉ」
「ん、おい、なんて言った?」
「ねぇ、なんか、ぼく、イっちゃいそぉ……おちんちん……ゴシゴシしてよ」
「……まじで酔ってんの? 俺が酒臭ぇから?」
「ちゅぅもして、よしくん」
「ハァ……おまえ、飲み会とか行ったら、まじでぶっ殺すからな」
口では物騒なことを言いながらも、口付けは優しかった。
下唇を喰まれ、ゆっくりと舌が入ってくる。
お酒の匂いで頭がふわふわして、もっとと舌を絡めた。
男もそれに応じながら、手は僕の股間にそそり勃つものを撫でた。
「ぁ、はぁ……よし、くん、もっと……ッ」
「……もっと? どうして欲しい?」
何故かご機嫌な様子で、中からもゆるゆると弱いところを擦り上げてくる。
「強く、して……いつもみたいに、おちんちん虐めてょ」
「いいの? やめてって言ってもやめねーからな?」
「ぅん……もお、イ、イきたぃ」
顎を掴まれ、もう一度キスをする。
僕の望み通りにペニスが強く握り込まれる。
そして先っぽをグリグリと親指の腹で虐めながら、中も揺すられていく。
「ぁあ、ハァ、はあ、ああっ、気持ちぃぃ……っ。ハァハァ、あっ、いぃ……イきそう、中、もっと突いて……ッ」
「中で、イけそ……?」
「ンッ、ん、イく、はぁ、はぁ、ァッ、も、もお、イく、イっちゃうよぉぉ……!」
「ハァ……ハァ……俺も、出る……ッ。——ンッ」
「あああぁぁ……っ」
——ドクッ、ドクッ
男の一物が体内で精を放つ。
流し込まれる熱い飛沫を感じながら、僕らはまたキスを交わす。
痺れるような快楽が体を走ったまま、僕の股間の屹立は、まだヒクヒクと反り勃っていた。
「暉……」
「うぅ、出さないでイっちゃったぁ」
「ん……ベッド行こ……もっとしたい」
こうして僕らは一晩中、互いの体を求めあっていた、
——のだろう。
気が付いた時には、ベッドに素っ裸で大の字で寝ていたのだった。
◇
眩しいほどの日差しが差し込むホテルの一室。
燦々と光が降り注ぐベッドの陽だまりの中で、僕は己の有り様を目の当たりにし、驚愕していた。
「う、うわぁ……」
歯形やキスマークだらけの体。
おののく声すら老婆のように枯れ果てていた。
自分で蹴飛ばしたらしき掛け布団を、慌てて手繰り寄せていると、
「あ、起きた?」
一晩中、体を求め合った相手は新品の高級スーツを着込み、猥褻ごっこをしたクローゼットから出てきた。
かたやこちらはフルチンの怒髪天ヘアーである。
「えええ。起こしてよおおぉ、いま何時?」
「九時、半ぐらい? おにーさんは好きなだけ寝てけば。俺、先に出るから」
ミネラルウォーターを手渡し「ハリネズミみてぇ」と笑って髪を撫でてきた。
そのとき、向こうの部屋からも話し声が聞こえてきた。
「……仕事の人、来てるの?」
「ああ、車呼んだから」
「そっか。土曜日なのに、忙しいんだね」
「なに、寂しい?」
「……べつに」
そうは言いつつも、実際、週末だからもっと一緒に居られると思っていた。
半月ぶりに会ったのに、ほぼ猥褻ごっこの記憶しかなかった。
すると男は、ちゅっと額にキスをして、
「エロい顔すんなよ」
「……してないから」
「してるだろ? 勃たせんなよ、出掛けられねーし」
掴まれた手を股間に押し当ててくる。
皺一つないスーツの股座で、立派なものが起き上がっていた。
「じゃあ一回だけだからな?」
「え、エエエエ? いや、え?! ちょ、なに、うわあ」
ベッドに倒され、ちゅ、ちゅ、と素っ裸の体にキスを落とされる。
そして自分でベルトを外しながら、手際よくベッドに転がっていたローションの蓋を開けていた。
慌ててそんなヤル気満々の男の体を押し戻し、
「やめて……! もう、早く仕事行ってよ」
声を顰め、チラチラと扉の向こうを窺う。
「はー? 部下の前にフル勃起したまま出て行けってのかよ」
「く、口でするから」
「ハッ、おまえのフェラじゃタイパ悪すぎだろ。逃げんなって、オラ、足開け」
「あぁっ、やだって……あッ、あううぅ」
ぐぷっ……
朝方近くまで可愛がられていた肉穴は、主の意に反して男に従順だった。
一気に奥まで貫かれ、僕は背を反らせて悶えた。
男に容赦なく腰を揺すられ、漏れ出てしまう声を必死に手の甲で塞ぐ。
にも関わらず、
「なに、抑えてんだよ。声、聞かせろって。学校でもねーのにコソコソ隠れてヤってるみてーだろ。興奮させんなよ」
「やっ、ちょっと、あっ、アッ、んっ、ンッ、やだってば、ああんッ」
両手首を掴まれ、そのままシーツに押しつけられる。
そしてわざと喘がせようと、のしかかり、奥を穿ってくるのだった。
「ああん、やだ……っ。声……、出ちゃうぅ……!」
「いいじゃん、しっかりアンアン鳴けよ。おまえ、俺の愛人だろーが」
キングサイズのベッドすら、男の行為に耐えきれずに音をたてる。
最終的には手綱のように両腕を後ろに引かれ、
「——ヤダァァ、もおイきたくないよおぉぉ、ああァンッ、やだ、だれか、たすけてぇぇ……ッ。イク、イっちゃうううう」
と。
なんと男の部下に助けを求めるほど喘いでいた。
そして真っ白なシーツの海原に、真っ白な体液を、噴水のようにぶち撒けていた……。
「はぁ……はぁ……………」
「フゥ……やべ、汗かいたな。まいっか、向こうで着替えるわ」
ベッドに崩れ落ちた愛人の頬に、満足そうにキスする男。
ついでのように名刺を一枚、放り投げて寄越した。
「うぅ、なに、なんなのぉ、今度はぁ」
「俺の可愛い愛人に招待状。そこの住所に明日19時な」
「招待状?」
「どっかの知らねぇじいさんの、汚ねぇハゲ面を拝んで早く死なねーかなって乾杯する会だってさ。メシ食えるから来いよ、すぐ帰ってもいいから」
「え……これ、本当に、僕が行っても、いいやつ、なの?」
「ん、なんで?」
「えっと……ぅうん。なんでもない、です」
ホテルの名刺でもなく、どうやら男の身内の集まりらしかった。
男には妻も、すでに七歳になる子もいる。
結婚とはいえ、一族の社会的地位と、優れた遺伝子を守るための契約。
本人すら知らぬうちに、彼の顕生を継ぐ子は他にも世に生を繋いでいるのかもしれなかった。
そういう世間の常識など通用しない一族ゆえに、愛人の存在は公然と認められていた。
でも僕は、一度もこういう場に招かれたことはなかったのだ。
(僕なんかが、この人に釣り合うわけもないし。いろいろと恥ずかしい存在なんだろうと思ってたから……はじめてだな、こういうの)
名刺を握りしめ自然と顔が緩んでいたらしい。
男は僕の鼻をつまんできて、
「なにニヤついてんだよ。ムラムラさせんな」
「フガ、フガァ」
興奮すると勝手に動いてしまう鼻をおさえつつ、まだ喜びが治まらずに、つい浮かれて男の頬にキスをしていた。
「あの、ぼく、絶対行くね。その、ごはんが、美味しそうだから、楽しみ。へへ」
「チッ……ふざけんな、一回だけっつっただろ」
「え」
唇をキスで塞がれ、再び押し倒されようとした時、さすがに男のスマホが鳴り響くのだった。
◇
選ばれし者だけが辿り着くことが出来る、隠しエリアのような洋館だった。
足を踏み入れると、会場はさらに浮世離れした豪華さで、まるで竜宮城にでも連れて来られたようであった。
「うわあ……鯛やヒラメがおしゃれなカクテルグラスに、ウニのクリームソースと春風を添えて~……。この料理、全部無料なの、すごぉ」
「はあー。そういう生娘みたいな反応、やめてください~。そういうタイプが一番うざいのよね~。引くほどセックスしてるくせに~」
傍らでシャンパンをあおっている、この男。
僕らの同級生で幼馴染の園池美晴。
今は大手電子メーカーの幹部であり、もうすぐCEOの座につく男である。
「美晴君は、よくこういう集まりに呼ばれるの?」
「はぁー? 呼ばれるわけないじゃん、久我一族の魔窟だよ~? 完全に虫除けでしょ、大事なお坊ちゃまの愛人のお目付け役兼お守り兼、ボディーガード、わかる?! やってらんないよ~」
「あ……僕のため……? そう、だったんだ。浮いてるもんね、僕だけ……。そっかぁ、知ってる人がいて助かったよ」
「浮いてる? まぁ、だろうね」
三百人はゆうに集まる大広間のパーティー会場。
主賓らしき御仁の周りには、たえず黒山の人だかりが出来ていた。
素人目にみても派閥や身分差があるのは明確で。
どこにも属さない庶民など、持ち主のいない風船の如くプカプカ宙に浮くだけだった。
(僕を招待した“持ち主”は、あんなとこにいるんだもんなぁ)
男は会場の渦の目の中心にいて、御仁の傍らで止まぬ賞賛と接待を受けていた。
この魔窟の王に君臨する存在なのは明確だった。
「あー、いいシャンパンだったから、つい飲みすぎちゃった~。暉君、私と一緒にお花摘みに行きましょ?」
「え、トイレ? いいけど……僕、別に一人でも大丈夫だよ? 向こうのオマール海老の、あれ食べてみようかなぁ」
「ハハッ、冗談はやめてよ~。親切な幼馴染が一名、役立たずだと罵られて便器に顔突っ込んだまま死んでしまってもいいの~?」
「え?」
「行きましょ~」
無理矢理に腕を組まれて、賑やかな会場を出た。
廊下の絨毯も柱も、どこかの宮殿かのように豪華である。
飾られた肖像画を眺めて歩きながら、連れション相手に尋ねた。
「今日って、あのおじいさんの誕生日会か何かなの? あの人って、久我くんの……?」
「え~? 誰かも知らないできたの?」
「知らないハゲ……おじいさんって、聞いた気がするけど」
「まじ? でも余計なこと言うとブチ切れられて会社の株価暴落するから~。あの人、好きなものは独占して隠蔽するような闇属性極めてるじゃないですか~」
「え? そうかな。意地悪だけど、闇? むしろ目立つし、いつでも頂点極めてるイメージなんだけど。今日だって一番キラキラしてるよ、久我君は光属性じゃないかな」
「はい~? なんかお前らキモ……ん、あれ、なんか腹痛くなってきた、かも」
「えええ、大丈夫?」
「ぐぅぅ……。暉君!絶対どこにも行かないで……!半径1メートル以内にいて!吉丸に殺されるから!」
「う、うん? 大丈夫だよ、近くで待ってるね」
トイレに駆け込む友人を見送り、1メートルはさすがに近過ぎるな、と洗面台の前に佇んだ。
『暉君!ちゃんと居るー?!』
「い、いるよぉ」
個室から聞こえる悲痛な声に応答し、「はぁ」と溜め息をつく。
鏡に映った自分の姿をぼんやりと見つめ、そして華やかな世界のど真ん中に立つ男を思い出していた。
(やっぱり頂点極めてるよなぁ。僕なんかとじゃ住む世界が違いすぎるもの)
二十代半ばを過ぎ、男との爛れた関係も十年を過ぎた。
僕は相変わらず大学を行ったり来たりで、時々、家庭教師のアルバイトなんかしたりして。
それでも自分の給料じゃ、この場にくるスーツ一着、まともに用意することすら出来ないのだ。
「……捨てられたら、どうしようかな。とりあえず傷心旅行とか、するのかも」
ぽつりと呟いた時、ふいに手を握られた。
驚くことに、それは小さな少女の手だったのだ。
「えっ。ここ、男子、トイレ」
「……シィ」
少女は個室トイレに目を配り、僕を廊下へと連れ出した。
そして物陰に身を隠すと、背伸びして可愛らしく囁いていた。
「あなた、パパの愛人でしょ?」
「パパ……?」
戸惑ったのは一瞬だけだった。
クスリと悪戯に笑う彼女が、誰の娘なのか——すぐに理解した。
理知的な涼やかな目元と、ふと見せる口元の笑み。
それは僕の愛人の男に瓜二つなのであった。
「もしかして、君……久我、栞さん、ですか」
「そうよ。パパの愛人さん」
「……はじめまして。お会い出来て光栄です、お嬢様」
愛する男の一人娘に、膝をつき挨拶する。
まだほんの小さな子供であるのに、すでに君主たる風格を纏っていた。
「畏まらなくても結構ですのよ、愛人さん。あなたは名前、なんていうの?」
「僕は……花井暉です」
「ヒカリ? いい名前、パパもそう呼ぶの?」
「いえ。うーん……? おまえとか、てめぇとか。そっちの方が多いと思いますけど。たまには、呼ばれるかも」
「へー、パパって案外、照れ屋なのね!」
「照れ屋?」
少女は僕の手を握ったまま、顔を近付けてくる。
そして僕の匂いをクンクンと嗅いで、目をキラキラと輝かせていた。
「こんなにマーキングって出来るのね。そうじゃないと不安なの? ヒカリ、すぐ死んじゃいそうだものね」
「死んじゃう? 僕が、ですか」
「うん。わたし、すごく鼻がいいの。ヒカリは不健全体でしょ?」
「え……はぃ」
自分から死に損ないの死臭でもするのかと、怯えながら匂いを嗅いでみたものの。
無能な庶民には、なんら分かるはずもなかった。
「なんだー。わたし、あの人のこと好きでもなんでもなかったけど。ふうん、いいかも……いいね、ヒカリ!わたしも、あなたが気に入ったよ」
そういって僕の首に抱きつき、チュッと頬にキスまでしてくれた。
「わあ……光栄です、お嬢様。僕、女の子にキスされたの、はじめてだ」
「はじめてなの? じゃあ、わたしのはじめてもあげようか? ヒカリの赤ちゃん、栞が産んであげるよ」
「わあ…‥あ、赤ちゃん?」
「そー。久我家の女はね、最初に結ばれる“せいし”だけは自由に選んでいいんだって」
「わあ……せい、し?」
僕は、僕が知っている“せいし”じゃない可能性を信じて模索した。
なにせ親類縁者もおらず、天涯孤独の身ゆえに。
子供との会話など無縁で、最近の流行にも疎かった。
(シール交換みたいに僕の知らない“せいし”が流行ってるのかな? この歳で生命誕生の仕組みを理解してるとか……ないない!万が一、本当にこの子が“精子”とか初対面の男に語ってるなら、父親の顔が見てみたいよ)
悶々とする僕の頬に、少女は両手を添えていた。
そして僕のよく知る男と、よく似た眼差しを向けて、
「十年後には、わたしがパパとあなたの遺伝子を繋いであげる。だから、それまで生きてね、ヒカリ」
「え……」
少女の唇が、僕の唇に触れた。
驚きのあまり、小さな舌が唇を割り込んできても呆然としていた。
すると、
「離れろ、下衆が」
冷ややかな声を浴びせられ、ハッと我に返った。
声のした先に視線を向けると、そこにいたのは——
「あー、パパぁ」
「ヒィィ………」
僕は今までの人生で最も最速かつ俊敏に土下座していた。
「す、すすすすすみませんんん、申し訳、ごさいませんでしたあああッッ」
まだ幼い一人娘の唇を奪った愛人など。
その場で別れ話どころか、切り捨て御免も当然の状況である。
「ごめんなさい……本当に……なんとお詫びをすれば……!」
「あはは。ヒカリにじゃないよ、わたしに言ったの。そうでしょ、パパ?」
「………」
かつてないほど怒りに満ちた男の後ろから、
「お嬢様ぁ!」
と付き人らしき方々が顔面蒼白で駆けてくる。
そういえば不思議と、ここに来るまで人の気配がなかった気がした。
少女は床に這いつくばる僕の頭を、犬同然にヨシヨシと撫でて、もう一度、耳元で囁いた。
「……さっきの話、二人だけのヒミツね? あの人がどんな顔するのか楽しみなの。またね、ヒカリ」
そういうと少女は父親に対して、目を奪われるほど美しいカーテシーで。
礼儀正しくドレスを摘み、お辞儀をする。
しかし、そんな娘を一目すら見ずに、男はこちらに向かってきた。
もしもこの世に廃刀令などなければ、今すぐ抜刀している鬼の形相である。
「ぼ、ぼうっとしてて、口が、ぶつかったのにも気付かなくて。謝っても取り返しもつかないけど、その」
「帰る」
「え……」
「あいつは?」
「あいつ? あ、美晴君? なら、トイレだけど」
トイレの個室からは、
『暉君ー? いるー?』『まじで便器に沈められちゃうからねー? 化けて出るからねー?』
悲痛な声とともに、トイレットペーパーが慌ただしく回転する音がしていた。
「……望み通りにしてやるよ、役立たずが」
◇
それから僕は、自宅に強制送還されていた。
終始無言の不機嫌な男とともに——
「あッ、ちょっと、ま、待って、イ、痛あっ」
玄関の扉が閉まると同時に、齧りつかれるようなキスをされる。
実際に下唇を噛まれ、さらには頬を首をと歯を立てられた。
「ごめんなさぃ、イタッ、ゆ、許してくださいぃ」
「許さねーよ、このクソビッチが」
「ビ……うぅ」
男が怒るのも当然のことをした。
ネクタイを首輪のように引っ張られ、シャツを破かれようとも仕方がなかった。
でも昨日までの、そして彼との十年間を思い出して、僕は——いい歳をして、号泣してしまった。
「うわああああん」
「ハ……ッ、泣いても許さねーから。こっち来いよ、立てって」
「ヤダァ、なにするの」
「はぁ? 男二人で他になにすることあんだよ!」
「せ、せっくす……そのあと、は、グスッ」
「あと? 飯? まー、ヤったら帰るけど。茶でも出すの?」
「うわああああん、じゃあここから動かないぃぃ」
僕は玄関で膝を抱えたまま、岩戸のごとく蹲っていた。
「なに、ここで無理矢理捩じ込まれてーのかよ。じゃあケツ出せよ」
「やだ……セックスしなぃ」
「——しな、い、セックス、を……?」
男は何故か雷に打たれたように、驚愕していた。
僕は僕で、高波にさらわれたように、嗚咽していた。
「す、捨てないで」
「捨てる?」
「す、好き、よし君が、好きです」
「………」
例え身分が天国と地獄ほどに離れていようとも。
ブチ切れられて便器に沈められようとも。
縋りついて、この部屋に彼を閉じ込めてしまいたい。
好きなものは独占して隠蔽するような闇属性極めてるのは、僕の方なのである。
「僕、ビッチじゃない。君の娘の方が大問題じゃないか、父親の顔が見てみたいよ!!!! うわあああん、ビッチな娘のせいで、僕がパパにフラれるなんてうわあああん」
「なに言ってんだ、おまえ。ハァ、……なんか萎えたわ」
「ぐす……帰る、の。セックス、しないから……ド、ドクズうぅ」
「ハァ……じゃあ男二人で、なにすればいいんだよ」
「うぅ、家族のはなし、とかぁ」
「おまえ、家族いんのかよ」
「ぃなぃ……」
「おまえに家族がいないなら、俺にもいない」
「え……」
男は溜め息をつき、僕の前にしゃがみ込む。
そして引き裂いたシャツを、どうにか整えようとしていた。
「顔が見たいのも触れたいのも、この世に一人だけなのに。一番好きな奴といる時に、他の人間の話する必要あんの?」
「……いちばん、って。それ、僕の、こと?」
「一番好きだから、俺の愛人なんだろ?」
「………!」
ドクズな男のせいで張り裂けそうだった胸は、いとも簡単に修繕されていく。
男の愛人は異常なまでにチョロかった。
僕は男の手を握りしめ、声を震わせた。
「じゃあ、僕と、別れない? 僕のこと、捨てないの」
「どうしてそんな話になるんだよ。おまえがフラフラして、俺以外とキスしたんだろ? 泣きたいのはこっちだから」
「う、うん……ごめんね」
「じゃあキス、してもいい?」
「ん、いいょ」
そうして僕らは結局、めちゃくちゃ仲直りセックスをした。
玄関の前で、えっちなキスしながら、お互いのベルトを慌しく外していく。
そして露わになった性器を擦り合わせながら、もっと深く舌を絡めた。
寝室まで我慢できなくて、玄関の棚にあったハンドクリームを塗りつける。
クリームで真っ白になった男の聳り立つものを、自ら跨り尻穴に咥え込んだ。
『——ああンッ、深いぃ……堅いよお、すぐ、イっちゃいそお』
『う……ニベア、やばい、これ』
めちゃくちゃ玄関セックスをした後、一緒にシャワーを浴びる。
お尻を洗われて、また勃起した堅いもので突き上げられていた。
抱きしめる男の肌が心地よくて、縋りついて何度も果てた。
そしてベッドでも声が枯れるほど激しく男を求めていた。
『よし君、大好きだよ』
『ん……』
けど、いくら離れたくないと抱き合ったとしても、男は必ず家族のもとに帰るのだ。
愛人を大切だと言っても、世間はそれを認めないし、彼も世間体を捨てないだろう。
そうやって男と過ごした十年が、いかに不純で爛れていようとも。
その歳月が、ついには僕に初めて人を愛する感情を教えてくれていた。
(僕に家族はいないけど。心から愛する人なら、ちゃんとここにいる)
そのことが僕を、また十年、その先へと歩ませる。
そしていつか、彼より先に僕の歩みが止まる時には。
どうか彼の進む未来が、今よりもっと光に満ち溢れていますように——と。
そう願いながら、僕は愛しい男の寝息を聞いて。
その暖かな胸の温もりを感じながら、今日も深い眠りにつくのだった。
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タイトルそのまんまのお話です。
テーマは『二行で結合』。三行目からずっとインしてます。
Twitterのお題で『お酒に酔ってうっかり告白しちゃった片想いくんの小説を書いて下さい』と出たので、勢いで書きました。
執着攻め(19大学生)×鈍感受け(20大学生)
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
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