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第四話 上弦(一)
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鬼庭綱元の所用がようやっと終わり、凝った肩をほぐしながら、梵天丸に退出の挨拶をせねば---とそちらに向かっていた矢先だった。
ガシャン!
物が割れるけたたましい音が響いた。
と同時に女がひとり、袖で顔を庇うようにして、部屋の中から走り出てきた。
小十郎は、足を早めて、梵天丸の部屋に向かった。
「如何なされた?」
女は梵天丸付きの侍女で、真っ青になった唇を震わせながら、縋るように小十郎を見た。
「梵天丸さまが---母さまからのお菓子と湯をお持ちしたら--急にお怒りになって---」
「出ていけ!みんな出ていけ!」
梵天丸は、部屋の中から尚も獣のごとく悲鳴に近い叫びを上げていた。
小十郎は、部屋の中に足を踏み入れた。
文机の上も床も乱雑に書物かわ散らばり、床の上には投げ出された菓子と器とがあっちとこっちに無惨な様相で転がっていた。
梵天丸さまは---、と見ると部屋の奥の隅で、じっと膝を抱えて踞っていた。
小十郎は、静かに、梵天丸の傍らに正座して、声を掛けた。
「梵天丸さま、小十郎めにございます。如何がなさいましたか---?」
小さな獣のように怯えた目が、一瞬、こちらを見た。---が、すぐに壁の方に顔を背けた。
「なんでもない。呼んでおらぬぞ、こじゅうろう。我れにかまうな。---出ていけ!」
やっと---の思いで喋っているのか、---少年は言葉を切ると、肩で荒く息をしながら、一層、壁に向かって縮こまった。
「承知つかまつりました。」
小十郎は、手短かに応え、様子を覗き見する侍女達に見えぬよう、気を配りながら、手早に『印』を結び、口の中で祓詞を呟いた。
少年の肩が僅かに緩んだのを確かめて、つぃ---と立ち上がった。
「それでは、これにて失礼つかまつります」
くるり---と踵を返し、袖の中に隠した手刀で、あたりを清めながら、部屋を出た。
「大事ございませぬ。ご案じ召されますな。」
真っ青になって駆けつけてきた喜多に一言告げて、小十郎は廊下に出た。
日が、西に傾きかけていた。
―逢魔が刻か---―
型通りに城を下がり、塀越しに少年の居室のあるあたりを伺いながら、帰途についた。
少年は、小十郎が思っていたより繊細だった。頭もいい、やっと習い始めた剣の稽古にも熱心だ。---だが、まだ、揺れ動く自分の心を抑えられぬ---。実際には、まだそんな年齢でもない。
―問題は---―
龍に飛び込まれたことで開いてしまった異界との境、だ。不用意にふいに開いてしまったために、雑多なものが絶え間なく覗く。
明確な姿は見えていなくても、不快な気配は、ふいに襲ってくる。その度に少年は怒り、叫ぶのだ。
事情を知らない周囲の者達は、病のために性格が変わった。内気になり、気難しくなった---と噂した。
―そんな簡単なもんじゃねぇ。---―
鬼庭左月の配下として、梵天丸の側近くに控えるようになって、はや2年。
龍の暴走を警戒しながら、朧気ながらも放たれるその光に寄ってくる異界の者達を人知れず、祓い除ける日々だった。
―だが、キリがねぇ---―
そのような雑多なものが寄り付かぬようにするには、徹底的に心身を鍛え、自らの「芯」をしっかり立てねばならない。
神域にいるなら、比較的容易いが、少年の住む城には、それでなくても雑多な想念が渦巻いている。そればかりか、いずれ少年は初陣を飾り、武士として戦場で生き死にのギリギリの瀬戸際を渡らねばならない。
―どうしたものか---―
小十郎は、頭を抱えていた。方法は、ひとつある。
ただ、それには、小十郎自身にも、相当な覚悟が求められる。
―参ったな---。―
逡巡に逡巡を重ねた末に、小十郎が梵天丸と二人きりで生活をさせてくれ---と輝宗に願い出たのは、その年の秋だった。
「一命を賭して、お護り致しますゆえ、何卒、某にお任せください。」
若輩者が---と謗る声もあったが、事情を知らぬ城の者は、事態をもて余しているのも確かだった。
許可は、思うより容易く降りた。
一番の難関は、母親の義姫だった---。
人払いをし、輝宗が、ひたすらに平身低頭する小十郎の傍らで、事情をなんとか説明する。
彼女は、最後には、しぶしぶと折れた。
「私は、人の母にはなれても龍の母にはなれませぬゆえ---」
そう言い放ち、部屋から出ていった。
―――これより後、梵天丸--伊達政宗と片倉小十郎との十数年に渡る苦闘の日々が始まる。
ガシャン!
物が割れるけたたましい音が響いた。
と同時に女がひとり、袖で顔を庇うようにして、部屋の中から走り出てきた。
小十郎は、足を早めて、梵天丸の部屋に向かった。
「如何なされた?」
女は梵天丸付きの侍女で、真っ青になった唇を震わせながら、縋るように小十郎を見た。
「梵天丸さまが---母さまからのお菓子と湯をお持ちしたら--急にお怒りになって---」
「出ていけ!みんな出ていけ!」
梵天丸は、部屋の中から尚も獣のごとく悲鳴に近い叫びを上げていた。
小十郎は、部屋の中に足を踏み入れた。
文机の上も床も乱雑に書物かわ散らばり、床の上には投げ出された菓子と器とがあっちとこっちに無惨な様相で転がっていた。
梵天丸さまは---、と見ると部屋の奥の隅で、じっと膝を抱えて踞っていた。
小十郎は、静かに、梵天丸の傍らに正座して、声を掛けた。
「梵天丸さま、小十郎めにございます。如何がなさいましたか---?」
小さな獣のように怯えた目が、一瞬、こちらを見た。---が、すぐに壁の方に顔を背けた。
「なんでもない。呼んでおらぬぞ、こじゅうろう。我れにかまうな。---出ていけ!」
やっと---の思いで喋っているのか、---少年は言葉を切ると、肩で荒く息をしながら、一層、壁に向かって縮こまった。
「承知つかまつりました。」
小十郎は、手短かに応え、様子を覗き見する侍女達に見えぬよう、気を配りながら、手早に『印』を結び、口の中で祓詞を呟いた。
少年の肩が僅かに緩んだのを確かめて、つぃ---と立ち上がった。
「それでは、これにて失礼つかまつります」
くるり---と踵を返し、袖の中に隠した手刀で、あたりを清めながら、部屋を出た。
「大事ございませぬ。ご案じ召されますな。」
真っ青になって駆けつけてきた喜多に一言告げて、小十郎は廊下に出た。
日が、西に傾きかけていた。
―逢魔が刻か---―
型通りに城を下がり、塀越しに少年の居室のあるあたりを伺いながら、帰途についた。
少年は、小十郎が思っていたより繊細だった。頭もいい、やっと習い始めた剣の稽古にも熱心だ。---だが、まだ、揺れ動く自分の心を抑えられぬ---。実際には、まだそんな年齢でもない。
―問題は---―
龍に飛び込まれたことで開いてしまった異界との境、だ。不用意にふいに開いてしまったために、雑多なものが絶え間なく覗く。
明確な姿は見えていなくても、不快な気配は、ふいに襲ってくる。その度に少年は怒り、叫ぶのだ。
事情を知らない周囲の者達は、病のために性格が変わった。内気になり、気難しくなった---と噂した。
―そんな簡単なもんじゃねぇ。---―
鬼庭左月の配下として、梵天丸の側近くに控えるようになって、はや2年。
龍の暴走を警戒しながら、朧気ながらも放たれるその光に寄ってくる異界の者達を人知れず、祓い除ける日々だった。
―だが、キリがねぇ---―
そのような雑多なものが寄り付かぬようにするには、徹底的に心身を鍛え、自らの「芯」をしっかり立てねばならない。
神域にいるなら、比較的容易いが、少年の住む城には、それでなくても雑多な想念が渦巻いている。そればかりか、いずれ少年は初陣を飾り、武士として戦場で生き死にのギリギリの瀬戸際を渡らねばならない。
―どうしたものか---―
小十郎は、頭を抱えていた。方法は、ひとつある。
ただ、それには、小十郎自身にも、相当な覚悟が求められる。
―参ったな---。―
逡巡に逡巡を重ねた末に、小十郎が梵天丸と二人きりで生活をさせてくれ---と輝宗に願い出たのは、その年の秋だった。
「一命を賭して、お護り致しますゆえ、何卒、某にお任せください。」
若輩者が---と謗る声もあったが、事情を知らぬ城の者は、事態をもて余しているのも確かだった。
許可は、思うより容易く降りた。
一番の難関は、母親の義姫だった---。
人払いをし、輝宗が、ひたすらに平身低頭する小十郎の傍らで、事情をなんとか説明する。
彼女は、最後には、しぶしぶと折れた。
「私は、人の母にはなれても龍の母にはなれませぬゆえ---」
そう言い放ち、部屋から出ていった。
―――これより後、梵天丸--伊達政宗と片倉小十郎との十数年に渡る苦闘の日々が始まる。
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