【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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第3章 虚ろの淵より来たるもの

目覚め 2

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 ぞわりと刺すようなその気配に、デイガーはおろか、離れた場所にいたアグルムさえも、僅かに少年の方へと気を取られた。
 瞬間、後ろへと身体を引いたデイガーの頬を、鋭い切っ先が掠めた。
 デイガーが咄嗟に回避行動を取ることができたのは、彼自身の能力によるものではない。より野生の本能を持っているデイガーの使役魔が、彼の身体を後ろへと引いたのだ。
 頬に走った一筋の痛みに目を見開いたデイガーの視界の中で、少年がデイガーの方へと向かって地面を蹴るのが見えた。
「ッ!」
 咄嗟に、デイガーは空間魔導を発動させて己の身体を上空へと転移させた。ほとんど防衛本能のようなものだった。
「な、なんだ今のは! これもエインストラの力だと言うのか!?」
 竜の背に乗ったデイガーが地上に目をやれば、先程まで彼がいた場所には、刺青用の長い針を握った少年が立っていた。そしてその視線が、ついと上空にいるデイガーに向かって投げられる。
 凍り切った、獣のような目だ。先程までの少年とは明確に異なるそれは、まるで個が切り替わったかのような違和感を与える。
 デイガーを睨んだ少年は、しかし次にその視線を巨大な魔物へと投げた。そしてそのまま、その足が再び大地を蹴る。
 真っ直ぐに魔物へと向かっていった少年に驚いたのは、アグルムだった。慌てて魔物と少年との間に入るように身体を移動させた彼は、しかし少年の握る針の先が今度は自分に向かっていることに気づき、寸でのところでそれを曲刀で受け流した。その拍子に体勢が崩れたところに、少年の蹴りが飛ぶ。さすがのアグルムも、それを避けることはできなかった。
「っ!」
 まともに蹴りを喰らって息を詰めたアグルムの身体が、僅かに宙に浮いてから地面に転がる。大して鍛えられてもいないだろう少年の身体の何処にこれほどの力があるのか、アグルムには想像もつかなかった。
 地面に倒れ込んだアグルムに追撃をしようとした少年はしかし、背後から自分を狙う魔物に気づいたのか、ばっと振り返って標的をそちらへと移した。
 魔物が振り切った蹴りを避け、獣のような俊敏さで器用にその脛に跳躍した少年が、そのまま巨躯を駆け上がる。そして、魔物が彼を振り落とすよりも早くその肩にまで到達し、彼は巨大な目に向かって針を突き刺した。
 恐らく、そこがこの魔物の弱点だったのだろう。大きく空気を震わせる悲鳴を上げた魔物が、両手で目を覆って身を捩らせる。その勢いで振り落とされた少年は、宙で体勢を立て直して軽やかに地面に着地した。そして再び、針を手に魔物に向かっていく。
「……天ヶ谷迅か!」
 豹変した少年を見たアグルムが呟く。
 天ヶ谷鏡哉が多重人格の持ち主だということは、既に円卓の主要人物の間では周知の事実である。表を担当している『鏡哉』に、今は眠っている主人格の『ちよう』、人格の管理を担っている『グレイ』、記憶の操作を行う『アレクサンドラ』。そして最後が、嫌悪と破壊衝動の権化である『迅』だ。
 『グレイ』や『アレクサンドラ』曰く、『迅』は少年の身体が命の危機に瀕した時のみ顕現する人格である。全てを忌避し、全てを呪い、全ての死を望む、破壊という概念のみで構成された人格だ。故に、『迅』はその場にいる全てを己の敵とみなし、全てを排除するまで止まらない。味方であるアグルムすらをも敵視しているのは、きっとそのためだろう。
 二体の魔物を相手に人間とは思えない動きで立ち回る『迅』を見て、アグルムが僅かに顔を顰めた。
 少年の身体があそこまでの運動能力を発揮できているのは、人外エインストラの血を引いているからなのかもしれない。だが、仮にそうだとしても、あれほどの速度と膂力を発揮できるものだろうか。常に鍛えている自分たちならば、多少の無茶は効く。だが、あの少年はそうではない。彼の身体は、こんな無茶苦茶な動きに耐えられるような造りではない筈だ。
(『迅』が、肉体のリミッターを外して戦っている……?)
 十分にあり得る話である。『迅』にとっては自分が生き残ることと、全てを破壊することのみが目的な筈だ。恐らく、自身の肉体への負荷など考慮には入らない。
(っ、それは駄目だ!)
 刀を握り直したアグルムが、『迅』の元へ行こうと足を踏み出す。だが、そんな彼のつま先を何かが叩いた。眉をひそめて目を下にやれば、つま先にくっついていたのは赤いトカゲだった。そのままするするとアグルムの肩まで移動したトカゲが、彼の頬をぺちりと叩く。
「どうにかするだと? だがお前はもう炎を吐けないんじゃないのか?」
 アグルムの言葉に、丸い目を更に丸くしたトカゲが首を傾げた。
「何故? ……そう言えば、何故だろうな……。いや、今はそれどころじゃない。早く『迅』をどうにかしなければ」
 そう言ったアグルムが、トカゲに向かって言葉を続ける。
「何か考えがあるんだろう。聞くだけ聞いてやる」
 そんなアグルムの肩を、トカゲがぺちぺちと叩いた。
「……は? いや待て、お前それはとてもじゃないが作戦と呼べるようなものでは、」
 咎めるようにそう言ったアグルムに、しかしトカゲはそれを無視してぴょんと地面に飛び降りてしまった。
「おい!」
 思わずアグルムが叫んだが、トカゲが彼の制止を聞く様子はない。アグルムの言うことなど歯牙にもかけないトカゲに大きく舌打ちを漏らしてから、アグルムは駆け出した。何を言っても無駄だと言うのならば、癪な話ではあるがトカゲの策に乗るしかない。
 魔物を息の根を止めようと立ち回る『迅』に気を配りつつ、常に魔物の死角に来るように移動したアグルムが、両手で曲刀を構えて腰を低く落とした。そして、先程目玉を突かれた魔物の方に『迅』が狙いを定めたのを察知すると同時に、アグルムが地面を強く蹴る。
 魔物は『迅』に気を取られていて、死角から迫るアグルムには一切気づいていない。それはもう一体の魔物も同じだった。そしてアグルムの攻撃は、的確にその隙を突いた。
 魔物の背後からその足元を横切るように駆け抜けながら、膂力に任せて曲刀を振り抜く。魔物の二足を完璧に捉えた刃は、その強靭な腱を一刀の元に断ち切った。
 大きく叫びを上げた魔物の身体が、ぐらりと前に傾く。その出来事は『迅』の予想の範囲外だったのだろう。ちょうど魔物の正面に位置していた『彼』の目が、自分の方へと傾いてきた巨体を見てやや驚いたように見開かれる。そしてそのタイミングを見計らったかのように、その眼前に小さな身体が跳んできた。
 赤いトカゲである。
 いつの間にやら魔物の身体によじ登っていたらしいトカゲが、そこから『迅』の顔目掛けて跳んだのだ。
 迫ってくる小さな影に、『迅』が手元の針を振り上げて向かう。だが不意に、『彼』の動きがぴたりと止まった。軋んで動かなくなった機械のように手が止まったのは、『迅』の意思によるものではない。何故か・・・、身体が全く動かなくなったのだ。
 それに『迅』が困惑する間もなく、その顔面に向かってトカゲが落ちて来る。そして、『迅』の鼻先すれすれにまで迫ったところで、トカゲの身体が宙でくるりと回転した。
 ぺちーん。
 華麗に舞ったトカゲの長い尾が、間の抜けた音と共に少年の頬を打った。大して痛くはないそれに、少年が何度か瞬きをする。その瞳孔が徐々に丸みを帯び、乾いた瞳に急速に水分が戻ったかと思うと、少年がぽつりと呟いた。
「……ティ、ティア、くん……?」
 くるんくるんと回転しながら落ちていくトカゲを見ながらその名を呼んだ少年は、続いて握っていた針を放り投げ、慌ててしゃがんで両手を前に突き出した。その掌に、トカゲが華麗に着地をする。
 無事にトカゲをキャッチできたことに少年がほっと胸を撫で下ろしたところで、今度は横から怒ったような声が飛んできた。
「戻ったんだな! ならぼさっとするな! 魔物の下敷きになりたいのか!」
 声と共に、少年の身体が抱え上げられた。アグルムである。
 少年を抱きかかえたアグルムは、倒れ込んでくる魔物に巻き込まれないようにと大きく後退した。
「ア、アグルムさん、あの、僕、一体今まで、」
「黙ってろ! 舌を噛むぞ!」
 叫んだアグルムが、少年の身体を後方へと放り投げた。間抜けな声を上げて地面に転がった少年に見向きもせず、アグルムが倒れ込んだ魔物の方へ駆け出す。そんな彼の曲刀に向かって、トカゲが大きく火を噴いた。最後に吸い込んだ分の種火がまだ少し残っていたのだ。
 トカゲの燃え盛る炎が、曲刀の刀身に纏わりつく。疑似的な魔法憑依武器エンチャント・ウェポンとなった刀を大きく振り上げ跳躍したアグルムは、そのまま魔物の脳天に向かって刃を振り下ろした。それに呼応するように炎の刀身が肥大化し、巨大な一振りとなって魔物の頭を割る。頭を両断され、その切り口から業火に焼かれた魔物は、悲鳴を上げる間すらなく動かなくなった。
 ようやく一体を仕留めたことで僅かに気を緩めたアグルムは、しかしすぐさま耳に飛び込んで来た咆哮に、再び刀を構える。
 一体が倒されたことで、残りの一体がより一層にその怒りを膨らませたのだろうか。それは判らないが、先程までよりも明らかに興奮した様子の魔物は、アグルム目掛けて強烈な蹴りを繰り出してきた。それをなんとか躱したアグルムが反撃に出ようと刀を振り被ったところで、ふと彼は視界の端を何かが移動したことに気づいた。思わずそちらへと目をやれば、視界を掠めたのは少年へと向かう黒い影だった。その発生源は、空にいるデイガーの使い魔である。
(っ、一体がやられたことで、傍観をやめてアマガヤキョウヤを狙いに来たか!)
 竜の一部が変化して伸びているあの影は、恐らく少年を捉えようとしているのだろう。
 止むことのない魔物の猛攻を紙一重で凌ぎながら、アグルムは少年を見た。再び『迅』が現れて対処してくれることを期待しての行動だったが、少年に先ほどのような変異の兆しは見られない。人格の入れ替えというものは、そう頻繁に引き起こせる事象ではないのかもしれないとアグルムは思った。
 トカゲの様子から察するに、頼みの彼の炎も、先程アグルムに力を貸した分が最後のようだ。少年を守るように立ち塞がってはいるが、あの小さな身体ではどうすることもできないだろう。
 そんな極限状況に立たされたアグルムが迷いを見せたのは、一瞬だった。
「っくそ!」
 魔物に背を向けたアグルムが、少年の方へと走り出す。足を止めないまま曲刀を振りかぶったアグルムは、少年に向かう影目掛けてそれを投げた。空を切って飛んだ刃は狙い通りに突き刺さり、影を地面に縫い留める。その隙に、アグルムは少年の腕を引っ掴んで自分の方へと抱き寄せた。
 だが、そこまでだった。
「天下の円卓の武人が必死に戦っている様、いやはや楽しませて頂きました。しかし、魔法が使えないだけで、こうも無様なものなのですねぇ」
 すぐ背後から聞こえて来たデイガーの声に、アグルムが振り返る。その眼前に、細身の剣が突き付けられた。
「けれどもう、飽きてしまいました。そろそろ貴方を殺してエインストラを頂くとしましょう」
 そう言って微笑んだデイガーが、剣を振り上げる。
 魔法は使えない。武器も手元にはない。万が一デイガーの攻撃を躱せたとしても、後ろにはあの魔物が迫っている。もはやアグルムにもトカゲにも、敵の攻撃を防ぐ手段はなかった。
 アグルムが、少年を抱く腕に力を籠める。それは、なんとしてでもこの子だけは守らなくてはならないという思いの表れだったのだろう。だが、その行動が無意味なことは、誰よりもアグルムが理解していた。
 迫りくるデイガーの刃を前に、せめてもの足掻きだと敵の目を睨む。そしてデイガーの握る切っ先が、アグルムの喉を掻き切ろうとした、その刹那――――

 アグルムの足元から突如炎が噴き上がり、デイガーに襲い掛かった。
 使役魔に引かれ、間一髪でそれを避けたデイガーが、驚愕の表情を浮かべてアグルムを見る。それは少年やトカゲも同じで、二人とも信じられないようなものを見る目をアグルムに向けていた。
 だが、アグルムは違った。己の足元から噴き上がる炎を見てから、自分の両手へと視線を落とす。そして彼は、ああ、と呟いた。
「いや、さすがはランファ王。まさかここまで忘我の境地に至れるものとは」
 その声に、少年は目を丸くしてアグルムを見た。少年はこの声を知っている。知らない筈がない。
 アグルムの身体が、まるで陽炎のようにゆらゆらと揺らぐ。そして、唐突にとろりと溶け出したそれは、見る見るうちに全く異なる姿へと変わっていった。
 アグルムよりもずっと厚みのある身体に、くすんだ赤銅の髪。ため息が出るほどに美しい金色の瞳の中では、燃ゆる炎がちらちらと揺れている。
「……あ、」
 炎を纏った男を見つめる少年の目が、まるで恋に溺れる乙女のように甘く蕩けた。
「…………あなた……」
 小さく漏れた少年の呟きに、アグルムだった・・・・・・・男はゆるりと笑んだ。
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