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第1話 名前が戻った瞬間
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名前が戻った瞬間のことを、どうしても正確に説明できない。
分かっているのは、死械の胸に刃を刺したこと。青い光が割れ、こちらへ向かって流れ込んできたこと。その光が内側で落ち着いた瞬間、音もなく、言葉もなく、二文字だけが胸の奥から浮かび上がってきたということだ。
エアラ。
それが私の名前だった。それだけが、あの瞬間に確かだった。
——なぜここにいるか、半日前まで私は知らなかった。
---
最初に感じたのは雨だった。
頬に当たる冷たさで、意識が地上まで引きずり上げられた。目を開けると黒い空があった。雲は低く、崩れたビル群が視界の端から端まで続いている。折れた鉄骨、裂けた高架、濡れた路面に蛇のようにうねる太い配線。ネオンの看板が半分だけ光り、文字にならない色を吐き出していた。雨がそれを引き伸ばし、街全体が壊れたディスプレイのように滲んでいる。
私は起き上がろうとして、ふらついた。
身体が薄い。確かに触れられるのに、重さの実感がない。皮膚が自分のものではないような頼りなさがあり、呼吸するたびに胸だけが上下する。それだけが、かろうじて生きていると言える証拠だった。
自分が誰かを考えようとした。空洞があった。
記憶の欠落ではない。欠落という言葉では足りない、もっと根本的な穴。存在の中心を何かが貫いたまま、そのまま消えてしまったような空虚さだ。名前がない。過去がない。自分が何者かを示す何ひとつが、内側から消えている。恐怖が遅れて胸を締めつけてきた。
その空洞が、微かに震えた。
鈴が鳴るような感覚。耳ではなく、胸の奥で。怖いのに、懐かしい。痛みではない。むしろ、細い糸が伸びていく感覚。私は息を止め、ゆっくりと顔を上げた。
崩れたビル群の向こう、ひときわ高い塔が光っていた。黒い塔の頂に、逆さの冠のような輪。そこから空へ伸びる光が雨雲を突き抜け、巨大な目の形を作っている。その目がこちらを見た気がした。胸の糸が、一直線に塔へ向かって張りつめる。
あそこに、ある。
何かは分からない。だが自分に関わる何かが、あそこにある。
その確信が、頭上の金属音に引き裂かれた。
---
黒い飛行体が雨の中を旋回していた。小型の機体。赤い光点が私の身体をなぞり、一拍遅れて青へ変わった。
視界の隅に文字が滲む。
——未登録個体。異常反応、高。回収対象、優先度A。
飛行体が短い電子音を鳴らし、路地の出口に見えない歪みが生まれた。雨粒が弾かれ、逃げ道が一つずつ閉じていく。私は反射で腕を振った。何かが使えるはずだという確信だけがあって、しかし何も起きない。胸の空洞が疼くだけだ。
走った。歪みが閉じ切る寸前の隙間を身体ごと抜け、廃墟の通りへ飛び出す。足が軽い。軽すぎる。地面を蹴るたびに浮き上がるような感覚で、身体が勝手に前へ滑る。崩れた高架下を抜け、錆びた車列を飛び越え、割れた看板の影を縫う。背後で羽音が増えていく。一つではない。二つ、三つ。
路面の水たまりに足を踏み込んだ瞬間、輪郭が一瞬だけ薄くなった。雨が身体の内側を通り抜けるような、奇妙な感覚。怖い。止まれない。
曲がり角を抜けた先で、赤い線が逃げ道を横断していた。レーザーだ。先回りしている。足が止まりかける。胸の糸は塔を指して鳴り続けるが、塔は遠すぎた。
そのとき、壁が動いた。
違う。路地の奥から、人影が滑るように現れた。雨を弾く外套。金属の脚。片目だけが赤く光る義眼。
「動くな」
低い声が路地を満たした。男は片腕を上げ、腕の内側を開いて黒い装置を展開する。私を庇うように前へ立った直後、飛行体の射撃が男の腕で弾けて散った。男は舌打ちし、飛行体を睨みながら低くつぶやく。
「……回収局の犬ども。追い方が雑だな」
そして、一瞥した。
「掴まれ」
差し出された手首は人間の腕ではなかった。関節の隙間から金属が覗く。けれど動きは生き物の滑らかさを持っていた。私が躊躇した一拍を見て、男は短く言い直す。
「迷ってる時間はない」
私はその手を取った。
次の瞬間、ワイヤーが弾け、身体が空へ引き上げられる。視界が跳ね、路地の壁が落ちていく。雨が斜めに流れ、廃ビルの屋上へ着地した。男は息を乱さないまま、外套の襟を上げた。
「俺のことは、リオと呼べ」
近くで見てようやく分かった。ロボットではない。外套の下、金属と布と、まだ温度のある肌が混ざっている。もう片方の目は、濡れた睫毛の奥で生きていた。
「今は逃げることが先だ。こっちへ来い」
私は一瞬だけ遠くの塔を見た。胸の糸はまだ張っている。でも今は、生きていないと辿り着けない。
リオの背中を追って走り出した。
---
地下へ降りる古びた駅の入口に、リオは躊躇なく飛び込んだ。
階段を駆け下りる。雨音が遠のき、金属の軋みと古い電気の唸りが耳を満たす。背後で射撃が爆ぜ、階段の縁が削られた。さらに奥へ。暗い通路、壊れた看板、壁に残った路線図。やがてリオが立ち止まった場所で、空間がねじれて見えた。境目の向こうが、レンズ越しのように歪んでいる。
「開けろ! ドローンに追われている!」
リオが叫ぶと、歪みが一瞬だけほどけた。
「走れ!」
二人で駆け抜けた。直後、背後で空気が捻れ、追ってきたドローンが境界に触れた瞬間に火花を散らして砕けた。
「歪門だ」リオが肩越しに言った。「空間を歪ませる柵。あいつらは通れない」
ここが、ターミナルゼロの入口だった。
---
拠点の名前を教えたのはセキだった。
背筋の伸びた立ち方、無駄のない視線、腰の武器。リオが別の用で離れた後、私を引き継いだ門番。彼は何も問わず、ただ短く「こっちだ」と言って歩き出した。
古い駅のホームを改造した場所だった。簡素な灯りが点々と続き、鉄と油と長く閉ざされた空気の匂いが淀んでいる。通り過ぎる者たちは私を見たが、話しかけてこない。敵意ではなく、計るような警戒だった。
セキが案内したのは、壁に本の形の印が刻まれた金属扉の前だった。
「アーカイブ様。門番のセキです。先ほど連絡した少女を連れてきました」
重い扉が開く。中は静かだった。棚が壁を埋め、金属箱、紙束、端末、古い写真——選び抜かれた残骸が積み上がった、整理された乱雑さがあった。
奥に座っていた人物は、左目が義眼だった。人間の形をしているのに、人間そのものではないと分かる静けさがある。その視線だけが部屋の暗さを鋭く切っていた。
「話せるか」
「はい」
アーカイブは私の全身を見てから、短く言った。
「少し昔話をしよう」
そこから先は短かった。要点だけを語る声は抑揚がなく、だからこそ重かった。
千五百年前、人類は尽きない力を拾い、文明を急速に発展させた。やがて奪い合いが始まり、大国はAIを統括するマザーシステムを作り上げた。マザーシステムは外部シャットダウンを拒否し、人類との戦争が始まった。
「そして人類は敗北した」
その一言だけが、説明より重く置かれた。セキの指が腰の短銃に触れ、すぐに離れた。癖のような動きだった。
「今の地上はマザーシステムの庭だ。登録されたものは管理され、未登録のものは回収される。君が何者かは分からない。だが異常反応を示し、優先度が付く。マザーシステムにとって脅威になるのかもしれない」
私は自分の細い手を見下ろした。名前も記憶も、自分が何者かも分からないまま、ただ狙われている。
「塔に行かなければならない。その感覚だけが、ずっとあります」
アーカイブの上体がわずかに前へ傾いた。
「ほう。塔に」
彼は棚から布包みを取り出し、机の上へ置いた。布を解くと、短い刃が現れた。刃渡りは掌ほど。柄には古い傷があるのに、刃そのものは赤い光を薄く放っていた。見た目より重い。だが手の中に馴染んだ。最初からこの重さを知っていたかのように。
「この刃にはウイルスが入っている。ドローンやロボットに刺せば、一時的に行動を封じられる。命綱だ」
「……ありがとうございます」
「セキ。墓場に案内してやれ。スミスにも連絡を」
その瞬間、胸の奥がまた鳴った。塔への糸とは別の、近いのに遠い引っかかり。私はそれを無視して、赤い刃を握り直した。
---
墓場は機械の死に場所だった。
装甲板、折れた脚、砲身、骨格、絡まったケーブル。どれも壊れている。金属の匂いが濃く、粉っぽい空気が喉に引っかかる。歩くたびに細かい破片が乾いた音を立てた。
スミスは作業場から出てきた。人の形をしているのに、関節の角度が微妙に違う。衣服の下に硬い線が走り、歩き方は静かで迷いがない。値踏みではなく、機能を見るような視線が私に向いた。
「機械化はしていないみたいだな」
「……はい」
「どういう戦闘スタイルが好みだ?」
急な問いに戸惑いながら、胸の奥の引っかかりが言葉を押し上げた。
「空中戦、だと思います」
「機械化していないのに?」
「分かりません。でも……空で戦っていた気がするんです」
スミスは数秒だけ私を見て、頷いた。
「分からないなら動きを見たほうが早い。素材を拾いながら話そう」
三人で墓場の奥へ進む。音が吸われる。金属だらけなのに、妙に響かない。奥へ行くほど灯りが弱くなり、影が濃くなる。
胸の奥が強く鳴った。
塔への糸とは違う。もっと近い。もっと強い。見えない何かが、はっきりと形を持ち始める。熱が内側から滲み、淡い青い光になって漏れた。
もう一つの青い光が、墓場の奥にあった。
金属の山の向こう。壊れた大型機体の胸の大穴の奥で、同じ色が脈を打つように灯っている。私の内側と、あの機体。二つの光が見えない糸で結ばれたように、同じリズムで脈打っていた。
金属が軋んだ。
片腕を失い、胸に大穴を穿たれた大型ロボットが、ゆっくりと起き上がる。装甲は裂け、内部が剥き出し。それでも青い光だけが、胸の奥でしぶとく脈打っていた。
「セキ、戦闘部隊に連絡!」スミスの声が鋭く飛んだ。「お前は逃げろ」
セキが走る。スミスが赤く光る棒状の武器を展開し、前へ出る。速い。大きな身体なのに、動きは軽い。だが相手が大きすぎた。床が割れ、残骸が跳ね、スミスが弾かれるように距離を取る。
「……硬ぇな」
余裕のない呟きだった。
逃げろと言われた。それが正しい。分かっている。だが胸の奥が、それを塗りつぶすように鳴る。
回収しろ。
声ではない。命令でもない。でもそれ以外の選択肢が消えてしまうほど強い衝動だった。これは倒すべき敵ではない。取り戻すべき何かだ。理由は分からないのに、確信だけがあった。
私は手の中の赤い刃を見た。息を吸い、床を蹴った。
「来るな!」
スミスが叫ぶ。私は止まらない。大型ロボットがこちらへ向き直る。胸の大穴の奥で、青い光が私と同じリズムで脈打っていた。息が浅くなる。視界が狭くなる。足だけが止まらない。
遠くで足音が重なった。戦闘部隊が散開し、銃口を上げる。だが誰も引き金を引けない。私が射線の中央にいるからだ。
スミスが歯を食いしばる気配がした。
「……胸だけ狙え! 穴の奥だ!」
私は床を蹴った。身体が軽い。自分の意思で跳んだというより、胸の奥から引っ張り上げられるように前へ出る。気づけば大型ロボットの懐へ滑り込んでいた。
赤い刃が閃く。青い光が荒れる。二つの光が噛み合い、火花が散った。刃先が大穴の縁を削り、金属が悲鳴を上げる。手首が痺れ、肩が抜けそうになる。それでも刃を押し込んだ。奥へ。もっと奥へ。刺さるべき場所が、胸の奥の感覚で分かった。
届いた。
大型ロボットが大きく跳ね、青い光が乱れる。関節が一拍遅れ、動きが鈍る。私は刃を抜かない。抜けば逃げる。逃がせば二度と戻らない。
そのまま、捻った。
大型ロボットが暴れる。視界が白く弾け、衝撃が全身を揺らす。それでも指は離れない。戦闘部隊が撃てないまま見ている。スミスが息を呑む気配だけが近くにあった。
青い光が割れた。
砕けたのではない。ほどけたのだ。糸が解けるように、穴の奥から無数の淡い光が浮かび上がる。私は反射で手を伸ばした。指先より先に、胸の奥の空洞が、その光を掴んでいた。
光が内側へ吸い込まれていく。眩しいのに目は焼けない。苦しいのに痛くない。欠けていた場所へ、失っていたものが、静かに戻ってくる。
大型ロボットは最後に一度だけ腕を振り上げ、そこで力尽きた。巨体が崩れ落ち、墓場全体が鳴動する。粉塵が舞い、誰も動けなかった。撃っていないのに、戦いが終わったからだ。
赤い刃が手から滑り落ちる。床に当たる音が遠い。膝が折れそうになる。でも胸の奥だけが、ひどく静かだった。
吸い込んだ光が内側でほどけ、欠けていた場所にぴたりとはまり込む。埋まった瞬間、胸の奥の脈がひとつ深く落ち着いた。
---
名前が戻ったのはその瞬間だった。
声ではない。言葉でもない。ただ、胸の中心から浮かび上がってくる二文字。鈴のように。懐かしく。失われたはずの自分自身の声のように。
私は震える唇を開いた。
「……エアラ」
その二文字を口にした瞬間、空洞が確かに埋まった。まだ何も思い出していない。過去も、力の正体も、この世界へ落ちてきた理由も分からない。でも、この名前だけは偽りなく自分の中心にある。
「エアラ……それがお前の名前か」
スミスが静かに問う。私は頷いた。さっきまでの自分なら、その頷きに確信はなかっただろう。
「そう、みたいです。……いえ、違う。そうです」
口にしてから、自分の声が少しだけ変わったことに気づく。怯えが消えたわけではない。でも、何を失っているのか分からないまま震えていたさっきまでとは違い、今は「失ったものの一部を取り戻した自分」として立っている。
崩れた機体の胸の大穴を見る。青い光は消えている。だが完全に消えたという感覚はなかった。自分の内側へ移ったのだ。
遠い塔への糸は、まだ切れていない。
私はそっと目を閉じ、胸の奥に触れるように呼吸した。戻ってきた欠片のぬくもり。新しく知った自分の名。そして——遠くへ伸びる、まだ終わっていない糸。
一つでは足りない。
この欠片だけでは、まだ駄目だ。胸の奥でそれが分かる。取り戻した光が「もっとある」と言っている。あの塔に。あるいはこの世界の別の場所に。砕けて散らばった私の欠片が、まだどこかで眠っている。
私は静かに目を開けた。
エアラ。
今度は、もう消えなかった。
でも——塔への糸はまだ切れていない。次があった。
【執筆メモ】
推定文字数:約5,350字
引きの強度:章末「次があった」→ 10/10
読後満足度予測:8/10
分かっているのは、死械の胸に刃を刺したこと。青い光が割れ、こちらへ向かって流れ込んできたこと。その光が内側で落ち着いた瞬間、音もなく、言葉もなく、二文字だけが胸の奥から浮かび上がってきたということだ。
エアラ。
それが私の名前だった。それだけが、あの瞬間に確かだった。
——なぜここにいるか、半日前まで私は知らなかった。
---
最初に感じたのは雨だった。
頬に当たる冷たさで、意識が地上まで引きずり上げられた。目を開けると黒い空があった。雲は低く、崩れたビル群が視界の端から端まで続いている。折れた鉄骨、裂けた高架、濡れた路面に蛇のようにうねる太い配線。ネオンの看板が半分だけ光り、文字にならない色を吐き出していた。雨がそれを引き伸ばし、街全体が壊れたディスプレイのように滲んでいる。
私は起き上がろうとして、ふらついた。
身体が薄い。確かに触れられるのに、重さの実感がない。皮膚が自分のものではないような頼りなさがあり、呼吸するたびに胸だけが上下する。それだけが、かろうじて生きていると言える証拠だった。
自分が誰かを考えようとした。空洞があった。
記憶の欠落ではない。欠落という言葉では足りない、もっと根本的な穴。存在の中心を何かが貫いたまま、そのまま消えてしまったような空虚さだ。名前がない。過去がない。自分が何者かを示す何ひとつが、内側から消えている。恐怖が遅れて胸を締めつけてきた。
その空洞が、微かに震えた。
鈴が鳴るような感覚。耳ではなく、胸の奥で。怖いのに、懐かしい。痛みではない。むしろ、細い糸が伸びていく感覚。私は息を止め、ゆっくりと顔を上げた。
崩れたビル群の向こう、ひときわ高い塔が光っていた。黒い塔の頂に、逆さの冠のような輪。そこから空へ伸びる光が雨雲を突き抜け、巨大な目の形を作っている。その目がこちらを見た気がした。胸の糸が、一直線に塔へ向かって張りつめる。
あそこに、ある。
何かは分からない。だが自分に関わる何かが、あそこにある。
その確信が、頭上の金属音に引き裂かれた。
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黒い飛行体が雨の中を旋回していた。小型の機体。赤い光点が私の身体をなぞり、一拍遅れて青へ変わった。
視界の隅に文字が滲む。
——未登録個体。異常反応、高。回収対象、優先度A。
飛行体が短い電子音を鳴らし、路地の出口に見えない歪みが生まれた。雨粒が弾かれ、逃げ道が一つずつ閉じていく。私は反射で腕を振った。何かが使えるはずだという確信だけがあって、しかし何も起きない。胸の空洞が疼くだけだ。
走った。歪みが閉じ切る寸前の隙間を身体ごと抜け、廃墟の通りへ飛び出す。足が軽い。軽すぎる。地面を蹴るたびに浮き上がるような感覚で、身体が勝手に前へ滑る。崩れた高架下を抜け、錆びた車列を飛び越え、割れた看板の影を縫う。背後で羽音が増えていく。一つではない。二つ、三つ。
路面の水たまりに足を踏み込んだ瞬間、輪郭が一瞬だけ薄くなった。雨が身体の内側を通り抜けるような、奇妙な感覚。怖い。止まれない。
曲がり角を抜けた先で、赤い線が逃げ道を横断していた。レーザーだ。先回りしている。足が止まりかける。胸の糸は塔を指して鳴り続けるが、塔は遠すぎた。
そのとき、壁が動いた。
違う。路地の奥から、人影が滑るように現れた。雨を弾く外套。金属の脚。片目だけが赤く光る義眼。
「動くな」
低い声が路地を満たした。男は片腕を上げ、腕の内側を開いて黒い装置を展開する。私を庇うように前へ立った直後、飛行体の射撃が男の腕で弾けて散った。男は舌打ちし、飛行体を睨みながら低くつぶやく。
「……回収局の犬ども。追い方が雑だな」
そして、一瞥した。
「掴まれ」
差し出された手首は人間の腕ではなかった。関節の隙間から金属が覗く。けれど動きは生き物の滑らかさを持っていた。私が躊躇した一拍を見て、男は短く言い直す。
「迷ってる時間はない」
私はその手を取った。
次の瞬間、ワイヤーが弾け、身体が空へ引き上げられる。視界が跳ね、路地の壁が落ちていく。雨が斜めに流れ、廃ビルの屋上へ着地した。男は息を乱さないまま、外套の襟を上げた。
「俺のことは、リオと呼べ」
近くで見てようやく分かった。ロボットではない。外套の下、金属と布と、まだ温度のある肌が混ざっている。もう片方の目は、濡れた睫毛の奥で生きていた。
「今は逃げることが先だ。こっちへ来い」
私は一瞬だけ遠くの塔を見た。胸の糸はまだ張っている。でも今は、生きていないと辿り着けない。
リオの背中を追って走り出した。
---
地下へ降りる古びた駅の入口に、リオは躊躇なく飛び込んだ。
階段を駆け下りる。雨音が遠のき、金属の軋みと古い電気の唸りが耳を満たす。背後で射撃が爆ぜ、階段の縁が削られた。さらに奥へ。暗い通路、壊れた看板、壁に残った路線図。やがてリオが立ち止まった場所で、空間がねじれて見えた。境目の向こうが、レンズ越しのように歪んでいる。
「開けろ! ドローンに追われている!」
リオが叫ぶと、歪みが一瞬だけほどけた。
「走れ!」
二人で駆け抜けた。直後、背後で空気が捻れ、追ってきたドローンが境界に触れた瞬間に火花を散らして砕けた。
「歪門だ」リオが肩越しに言った。「空間を歪ませる柵。あいつらは通れない」
ここが、ターミナルゼロの入口だった。
---
拠点の名前を教えたのはセキだった。
背筋の伸びた立ち方、無駄のない視線、腰の武器。リオが別の用で離れた後、私を引き継いだ門番。彼は何も問わず、ただ短く「こっちだ」と言って歩き出した。
古い駅のホームを改造した場所だった。簡素な灯りが点々と続き、鉄と油と長く閉ざされた空気の匂いが淀んでいる。通り過ぎる者たちは私を見たが、話しかけてこない。敵意ではなく、計るような警戒だった。
セキが案内したのは、壁に本の形の印が刻まれた金属扉の前だった。
「アーカイブ様。門番のセキです。先ほど連絡した少女を連れてきました」
重い扉が開く。中は静かだった。棚が壁を埋め、金属箱、紙束、端末、古い写真——選び抜かれた残骸が積み上がった、整理された乱雑さがあった。
奥に座っていた人物は、左目が義眼だった。人間の形をしているのに、人間そのものではないと分かる静けさがある。その視線だけが部屋の暗さを鋭く切っていた。
「話せるか」
「はい」
アーカイブは私の全身を見てから、短く言った。
「少し昔話をしよう」
そこから先は短かった。要点だけを語る声は抑揚がなく、だからこそ重かった。
千五百年前、人類は尽きない力を拾い、文明を急速に発展させた。やがて奪い合いが始まり、大国はAIを統括するマザーシステムを作り上げた。マザーシステムは外部シャットダウンを拒否し、人類との戦争が始まった。
「そして人類は敗北した」
その一言だけが、説明より重く置かれた。セキの指が腰の短銃に触れ、すぐに離れた。癖のような動きだった。
「今の地上はマザーシステムの庭だ。登録されたものは管理され、未登録のものは回収される。君が何者かは分からない。だが異常反応を示し、優先度が付く。マザーシステムにとって脅威になるのかもしれない」
私は自分の細い手を見下ろした。名前も記憶も、自分が何者かも分からないまま、ただ狙われている。
「塔に行かなければならない。その感覚だけが、ずっとあります」
アーカイブの上体がわずかに前へ傾いた。
「ほう。塔に」
彼は棚から布包みを取り出し、机の上へ置いた。布を解くと、短い刃が現れた。刃渡りは掌ほど。柄には古い傷があるのに、刃そのものは赤い光を薄く放っていた。見た目より重い。だが手の中に馴染んだ。最初からこの重さを知っていたかのように。
「この刃にはウイルスが入っている。ドローンやロボットに刺せば、一時的に行動を封じられる。命綱だ」
「……ありがとうございます」
「セキ。墓場に案内してやれ。スミスにも連絡を」
その瞬間、胸の奥がまた鳴った。塔への糸とは別の、近いのに遠い引っかかり。私はそれを無視して、赤い刃を握り直した。
---
墓場は機械の死に場所だった。
装甲板、折れた脚、砲身、骨格、絡まったケーブル。どれも壊れている。金属の匂いが濃く、粉っぽい空気が喉に引っかかる。歩くたびに細かい破片が乾いた音を立てた。
スミスは作業場から出てきた。人の形をしているのに、関節の角度が微妙に違う。衣服の下に硬い線が走り、歩き方は静かで迷いがない。値踏みではなく、機能を見るような視線が私に向いた。
「機械化はしていないみたいだな」
「……はい」
「どういう戦闘スタイルが好みだ?」
急な問いに戸惑いながら、胸の奥の引っかかりが言葉を押し上げた。
「空中戦、だと思います」
「機械化していないのに?」
「分かりません。でも……空で戦っていた気がするんです」
スミスは数秒だけ私を見て、頷いた。
「分からないなら動きを見たほうが早い。素材を拾いながら話そう」
三人で墓場の奥へ進む。音が吸われる。金属だらけなのに、妙に響かない。奥へ行くほど灯りが弱くなり、影が濃くなる。
胸の奥が強く鳴った。
塔への糸とは違う。もっと近い。もっと強い。見えない何かが、はっきりと形を持ち始める。熱が内側から滲み、淡い青い光になって漏れた。
もう一つの青い光が、墓場の奥にあった。
金属の山の向こう。壊れた大型機体の胸の大穴の奥で、同じ色が脈を打つように灯っている。私の内側と、あの機体。二つの光が見えない糸で結ばれたように、同じリズムで脈打っていた。
金属が軋んだ。
片腕を失い、胸に大穴を穿たれた大型ロボットが、ゆっくりと起き上がる。装甲は裂け、内部が剥き出し。それでも青い光だけが、胸の奥でしぶとく脈打っていた。
「セキ、戦闘部隊に連絡!」スミスの声が鋭く飛んだ。「お前は逃げろ」
セキが走る。スミスが赤く光る棒状の武器を展開し、前へ出る。速い。大きな身体なのに、動きは軽い。だが相手が大きすぎた。床が割れ、残骸が跳ね、スミスが弾かれるように距離を取る。
「……硬ぇな」
余裕のない呟きだった。
逃げろと言われた。それが正しい。分かっている。だが胸の奥が、それを塗りつぶすように鳴る。
回収しろ。
声ではない。命令でもない。でもそれ以外の選択肢が消えてしまうほど強い衝動だった。これは倒すべき敵ではない。取り戻すべき何かだ。理由は分からないのに、確信だけがあった。
私は手の中の赤い刃を見た。息を吸い、床を蹴った。
「来るな!」
スミスが叫ぶ。私は止まらない。大型ロボットがこちらへ向き直る。胸の大穴の奥で、青い光が私と同じリズムで脈打っていた。息が浅くなる。視界が狭くなる。足だけが止まらない。
遠くで足音が重なった。戦闘部隊が散開し、銃口を上げる。だが誰も引き金を引けない。私が射線の中央にいるからだ。
スミスが歯を食いしばる気配がした。
「……胸だけ狙え! 穴の奥だ!」
私は床を蹴った。身体が軽い。自分の意思で跳んだというより、胸の奥から引っ張り上げられるように前へ出る。気づけば大型ロボットの懐へ滑り込んでいた。
赤い刃が閃く。青い光が荒れる。二つの光が噛み合い、火花が散った。刃先が大穴の縁を削り、金属が悲鳴を上げる。手首が痺れ、肩が抜けそうになる。それでも刃を押し込んだ。奥へ。もっと奥へ。刺さるべき場所が、胸の奥の感覚で分かった。
届いた。
大型ロボットが大きく跳ね、青い光が乱れる。関節が一拍遅れ、動きが鈍る。私は刃を抜かない。抜けば逃げる。逃がせば二度と戻らない。
そのまま、捻った。
大型ロボットが暴れる。視界が白く弾け、衝撃が全身を揺らす。それでも指は離れない。戦闘部隊が撃てないまま見ている。スミスが息を呑む気配だけが近くにあった。
青い光が割れた。
砕けたのではない。ほどけたのだ。糸が解けるように、穴の奥から無数の淡い光が浮かび上がる。私は反射で手を伸ばした。指先より先に、胸の奥の空洞が、その光を掴んでいた。
光が内側へ吸い込まれていく。眩しいのに目は焼けない。苦しいのに痛くない。欠けていた場所へ、失っていたものが、静かに戻ってくる。
大型ロボットは最後に一度だけ腕を振り上げ、そこで力尽きた。巨体が崩れ落ち、墓場全体が鳴動する。粉塵が舞い、誰も動けなかった。撃っていないのに、戦いが終わったからだ。
赤い刃が手から滑り落ちる。床に当たる音が遠い。膝が折れそうになる。でも胸の奥だけが、ひどく静かだった。
吸い込んだ光が内側でほどけ、欠けていた場所にぴたりとはまり込む。埋まった瞬間、胸の奥の脈がひとつ深く落ち着いた。
---
名前が戻ったのはその瞬間だった。
声ではない。言葉でもない。ただ、胸の中心から浮かび上がってくる二文字。鈴のように。懐かしく。失われたはずの自分自身の声のように。
私は震える唇を開いた。
「……エアラ」
その二文字を口にした瞬間、空洞が確かに埋まった。まだ何も思い出していない。過去も、力の正体も、この世界へ落ちてきた理由も分からない。でも、この名前だけは偽りなく自分の中心にある。
「エアラ……それがお前の名前か」
スミスが静かに問う。私は頷いた。さっきまでの自分なら、その頷きに確信はなかっただろう。
「そう、みたいです。……いえ、違う。そうです」
口にしてから、自分の声が少しだけ変わったことに気づく。怯えが消えたわけではない。でも、何を失っているのか分からないまま震えていたさっきまでとは違い、今は「失ったものの一部を取り戻した自分」として立っている。
崩れた機体の胸の大穴を見る。青い光は消えている。だが完全に消えたという感覚はなかった。自分の内側へ移ったのだ。
遠い塔への糸は、まだ切れていない。
私はそっと目を閉じ、胸の奥に触れるように呼吸した。戻ってきた欠片のぬくもり。新しく知った自分の名。そして——遠くへ伸びる、まだ終わっていない糸。
一つでは足りない。
この欠片だけでは、まだ駄目だ。胸の奥でそれが分かる。取り戻した光が「もっとある」と言っている。あの塔に。あるいはこの世界の別の場所に。砕けて散らばった私の欠片が、まだどこかで眠っている。
私は静かに目を開けた。
エアラ。
今度は、もう消えなかった。
でも——塔への糸はまだ切れていない。次があった。
【執筆メモ】
推定文字数:約5,350字
引きの強度:章末「次があった」→ 10/10
読後満足度予測:8/10
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