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第1話 婚約破棄の書状
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婚約破棄の書状は、朝食と一緒に届いた。
私はパンを一口食べてから、封を切った。読んだ。折りたたんで、また一口食べた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
侍女のマリアが心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫です。今日の午後の予定を確認してください。公爵家との定例会議があったはずですが、それは当然なくなりますね」
「は、はい」
「代わりに、王都の穀物取引所のレポートを仕上げましょう。先週から止まっていたので」
マリアは何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
私はパンをもう一口食べた。
---
カリン・シュライバー、侯爵家の次女、二十二歳。
魔法の才能はない。剣も使えない。社交は得意でも不得意でもない。
あるのは、数字と情報を処理する力だけだ。
十年前、公爵家の嫡男アルバートに婚約を申し込まれたとき、私は自分が何の役に立てるかを最初に考えた。アルバートは優秀だが、数字が苦手だった。公爵家は広大な領地を抱え、毎年の税収管理と対外取引で問題を抱えていた。
私にできることがあった。
以来十年、私は公爵家のほぼ全ての帳簿を管理した。取引交渉の資料を作った。不正を見つけて潰した。誰にも言わずに、ただ仕事をした。
アルバートはその成果を自分のものとして使った。
不満はなかった。それが仕事だったから。
でも——十年間、アルバートが私の名前を正しく呼んだのは、指折り数えるほどだった。
---
婚約破棄から三日後、公爵家の執事が私の届敷を訪ねてきた。
顔が青かった。
「カリン様、折り入って相談が」
「内容は」
「その……アルバート様が進めておられた北部領地の開発事業ですが、銀行との契約に問題が発生しまして」
私は少し考えた。
その事業は私が資料を作り、交渉の骨子を組んだ。アルバートが仕上げた——正確には、私の作った通りに署名をした。最終段階での契約確認も、私が細部を詰めた。
「どういう問題ですか」
「第三条項に曖昧な記述があり、銀行側が別の解釈を主張してきております。このままでは、事業全体が差し押さえになると」
私は手帳を開いた。
「その条項、私が書きました。銀行側の主張する解釈は誤りです。第七条との整合を取れば明らかになります。資料を持ってきましたか」
「は、はい」
一時間後、問題は解決した。執事が帰った後、私は窓の外を見た。
アルバートは十年間、こういう仕事の存在すら気づいていなかったのだと思う。
---
翌週、アルバート本人が来た。
顔色が悪かった。髪が乱れていた。三日間眠れていないような目をしていた。
「カリン」
「シュライバー嬢とお呼びください。婚約は解消されましたので」
アルバートは止まった。
「……そうだな。シュライバー嬢」
「何の用ですか」
応接室のソファに、私は座ったままでいた。立ち上がる気にならなかった。アルバートが向かいに腰を下ろした。
「北部の件は、感謝している」
「執事が来たので対応しただけです」
「それだけじゃない。先月の王室との取引の件も、先々月の……カリン、俺はどれだけ……」
「どれだけ、何ですか」
アルバートが黙った。
私は紅茶のカップを持ち上げた。冷めていた。
「十年間、私が何をしていたか、ご存知でしたか」
「……知らなかった」
「そうですか」
「カリン——」
「シュライバー嬢です」
静かになった。鳥の声が窓の外から聞こえた。
アルバートが椅子から立ち上がった。それから——床に膝をついた。
私はカップを置いた。
「何をしているのですか」
「謝りたかった。座ったままでは足りない気がした」
「お気持ちはありがたいですが、立ってください。みっともない」
「みっともなくていい」
「私が困ります」
「カリン」
「ですから——」
「もう一度だけ、手を貸してもらえないか」
私は答えなかった。
アルバートが顔を上げた。
「頼みたいのは仕事じゃない。……俺は、お前が何をしていたかを全部知りたい。十年間、俺が見ていなかったものを、全部」
「それを知って、どうするつもりですか」
「……分からない。でも、知らないままでいたくない」
私はアルバートを見た。
十年間、この人は私を見ていなかった。でも今、見ている。
「立ってください」
アルバートが立った。
「今日の午後、時間はありますか」
「ある」
「では、帳簿を全部持ってきてください。十年分。説明します。ただし——」
「ただし?」
「次から、分からないことは自分でちゃんと聞いてください。私に押しつけるのではなく」
アルバートが、初めて少し笑った。
「……分かった」
「それと」
「まだあるのか」
「今後、私の名前を間違えたら、その場で帰ります」
アルバートはしばらく黙っていた。
「……覚えている。カリン・シュライバー」
「よろしい」
私は立ち上がった。
窓の外、昼の光が明るかった。
私はパンを一口食べてから、封を切った。読んだ。折りたたんで、また一口食べた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
侍女のマリアが心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫です。今日の午後の予定を確認してください。公爵家との定例会議があったはずですが、それは当然なくなりますね」
「は、はい」
「代わりに、王都の穀物取引所のレポートを仕上げましょう。先週から止まっていたので」
マリアは何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
私はパンをもう一口食べた。
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カリン・シュライバー、侯爵家の次女、二十二歳。
魔法の才能はない。剣も使えない。社交は得意でも不得意でもない。
あるのは、数字と情報を処理する力だけだ。
十年前、公爵家の嫡男アルバートに婚約を申し込まれたとき、私は自分が何の役に立てるかを最初に考えた。アルバートは優秀だが、数字が苦手だった。公爵家は広大な領地を抱え、毎年の税収管理と対外取引で問題を抱えていた。
私にできることがあった。
以来十年、私は公爵家のほぼ全ての帳簿を管理した。取引交渉の資料を作った。不正を見つけて潰した。誰にも言わずに、ただ仕事をした。
アルバートはその成果を自分のものとして使った。
不満はなかった。それが仕事だったから。
でも——十年間、アルバートが私の名前を正しく呼んだのは、指折り数えるほどだった。
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婚約破棄から三日後、公爵家の執事が私の届敷を訪ねてきた。
顔が青かった。
「カリン様、折り入って相談が」
「内容は」
「その……アルバート様が進めておられた北部領地の開発事業ですが、銀行との契約に問題が発生しまして」
私は少し考えた。
その事業は私が資料を作り、交渉の骨子を組んだ。アルバートが仕上げた——正確には、私の作った通りに署名をした。最終段階での契約確認も、私が細部を詰めた。
「どういう問題ですか」
「第三条項に曖昧な記述があり、銀行側が別の解釈を主張してきております。このままでは、事業全体が差し押さえになると」
私は手帳を開いた。
「その条項、私が書きました。銀行側の主張する解釈は誤りです。第七条との整合を取れば明らかになります。資料を持ってきましたか」
「は、はい」
一時間後、問題は解決した。執事が帰った後、私は窓の外を見た。
アルバートは十年間、こういう仕事の存在すら気づいていなかったのだと思う。
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翌週、アルバート本人が来た。
顔色が悪かった。髪が乱れていた。三日間眠れていないような目をしていた。
「カリン」
「シュライバー嬢とお呼びください。婚約は解消されましたので」
アルバートは止まった。
「……そうだな。シュライバー嬢」
「何の用ですか」
応接室のソファに、私は座ったままでいた。立ち上がる気にならなかった。アルバートが向かいに腰を下ろした。
「北部の件は、感謝している」
「執事が来たので対応しただけです」
「それだけじゃない。先月の王室との取引の件も、先々月の……カリン、俺はどれだけ……」
「どれだけ、何ですか」
アルバートが黙った。
私は紅茶のカップを持ち上げた。冷めていた。
「十年間、私が何をしていたか、ご存知でしたか」
「……知らなかった」
「そうですか」
「カリン——」
「シュライバー嬢です」
静かになった。鳥の声が窓の外から聞こえた。
アルバートが椅子から立ち上がった。それから——床に膝をついた。
私はカップを置いた。
「何をしているのですか」
「謝りたかった。座ったままでは足りない気がした」
「お気持ちはありがたいですが、立ってください。みっともない」
「みっともなくていい」
「私が困ります」
「カリン」
「ですから——」
「もう一度だけ、手を貸してもらえないか」
私は答えなかった。
アルバートが顔を上げた。
「頼みたいのは仕事じゃない。……俺は、お前が何をしていたかを全部知りたい。十年間、俺が見ていなかったものを、全部」
「それを知って、どうするつもりですか」
「……分からない。でも、知らないままでいたくない」
私はアルバートを見た。
十年間、この人は私を見ていなかった。でも今、見ている。
「立ってください」
アルバートが立った。
「今日の午後、時間はありますか」
「ある」
「では、帳簿を全部持ってきてください。十年分。説明します。ただし——」
「ただし?」
「次から、分からないことは自分でちゃんと聞いてください。私に押しつけるのではなく」
アルバートが、初めて少し笑った。
「……分かった」
「それと」
「まだあるのか」
「今後、私の名前を間違えたら、その場で帰ります」
アルバートはしばらく黙っていた。
「……覚えている。カリン・シュライバー」
「よろしい」
私は立ち上がった。
窓の外、昼の光が明るかった。
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