落ちこぼれの半龍娘

乃南羽緒

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第二十一章

121話 手中のぬくもり

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 深く。深く。
 水底に落ちたからだが、溶けていく。溶けていく。穢れにまみれた気は泡となり、幽湖の深淵へ。
 闇に生まれた。光にあこがれた。
 ただそれだけのことだった。この島国に来なければ光を知ることもなく、光にあこがれることもなかった。
 しかし光にあこがれていた時間は、ただ楽しい時でもあった。だから、だからこれでよかった。
(水守。……)
 泡となって消えるおのれを、彼は嗤うだろうか。なじるだろうか。あの眼で──見てくれるのだろうか。
 氷に護られたあの躯は、この世のなによりも美しかった。おそろしかった。瞳を開けたときの耽美さたるやなかった。
 瑠璃色の瞳に射すくめられたあのときから、この手が彼を傷つけることなど出来やしなかったのだ。
(水守さま!)
 さけぶ。声は泡となり消えてゆく。
 ひどく静かだ。
 あれほど胸に在った妬みも、慕情も、すべて泡になる。消える。消えてゆく。
 いい気分だ──。

 意識が途切れる間際、玉嵐の意識が掴まれた。
 いきおいよく水から引き上げられて、もはや目も耳も、口さえない今、ただほんのりとぬくもりだけを感じる。
「……ひとつ聞こうとおもっていたが」
 耳はない。
 聞こえないはずの声が、意識に響いてくる。水守。水守の声。
「遅かったな、もはや口もなしか。……では」
 すこしわらったような声色で。
 ──次世で聞こう。
 彼はいま、玉嵐であった気を手中にいれて、それはやさしく微笑んだ。
 水守を背に乗せる天羽は、龍の目を丸くする。
「聞きたいこととはなんです?」
「傷」
「へっ」
「頬の傷のワケだ」
「……そんな、どうでもよいことを聞こうと思っていたんですか。水守さまが?」
「なにが言いたい」
「躯として目覚めてからしばらく世話されたからって、なんだかんだ玉嵐のこと気にかけちゃって優しいったら。まるで雛鳥ですね」
「…………」
 水守の手が強く天羽の角を握ったので、天羽はイタタタタと顔をはげしく歪めた。水守が拾った『気』は、主人の懐でしずかに眠る。
 神社に戻ったら狛龍行きですね、とわらう天羽。
 水守は瞳を細めて南方を見据えた。
「ならばはように終わらせよう」
「承知」
 目指す先は紅来門。天羽は轟、とひとつ吼えて飛び出した。

 ※
「おや、大地だね!」
 黒安門前にて。
 使役龍についての話をしていた矢先、空からターシャが降ってきた。試練に臨んだ水緒を迎えにきたとき、一目会っている。大地はアッと笑んだ。
「ターシャさんだ」
「覚えていてくれたのか、嬉しいよ」
 と、大地の肩を抱き寄せてその頬にくちびるをおしあてた。情熱的な歓迎におどろいて、おもわず頬が染まる。ターシャはケタケタとわらった。
「ターシャどの」銀月丸が眉をしかめる。「戦況は?」
「うん。……ダキニが移動したことで、南方が激戦区になっている。そちらの若様のおかげで玉嵐が西方で泡となったから、この北方黒安門と西方白遊門の護りは龍宮軍に託しておくれ。あんたたちほどじゃないが、動ける奴らを集めたんだ」
「承知しました。ここの野良もだいぶ散らしましたゆえ妥当ですな。南は激戦区──して、東は」
「ああ、そのことで応援を頼みに来たんだよ。……」
 口ごもった。
 直後、空から降ってきた人型大龍と麒麟。ふたりは険しい顔で東方を睨み付けた。もはや空からなにかが降ってくるのにも慣れたものだ。大地はさらに嬉しそうにわらった。
「大龍さまっ!」
「大地──迷惑をかけたな。落ち着いたらすぐに現し世へ返してやる」
「あ、ありがとうございます」
「さて銀月丸、すまんが東の加勢をたのみたい」
「は、もちろんですが──しかし東方には蒼玉と庚月丸、それに戦闘狂の宿儺さまがいらっしゃるはず。それほど劣勢になる面子には思えませんが」
「ダキニが呼び集めちまったんだよ」ターシャが口をはさむ。
「呼び?」
「天狗と稲荷の大軍をさ」
 といって鼻頭にシワを寄せる。麒麟は獣にすがたを変えて銀月丸の襟首をくわえると、背に乗せた。
「銀月丸は俺が届けよう。準備はいいね」
「恐れ入ります」
「吽龍」大龍がいった。
「お前は水緒のもとへ戻ってやれ。あれはまだ使役龍のおらぬ戦い方を知らぬ」
「はい!」
 それぞれが、それぞれの目的に向かって飛び立つ。ただ呆然と見送るしかできず、大地はひとり奥歯をかみしめる。その肩に手が乗った。
 大龍だ。
「お前は、宮のうちでターシャとともに待機しておれ」
「大龍さま──でも、おれも何か」
「水緒のためにも」
「…………」
 大龍は微笑む。
 それを言われたら、言い返すことはできない。こっくりとうなずく大地の肩を抱いたターシャは、早々に彼を宮のなかへと連れていった。

(さて)
 大龍が南方を見る。
 あちらを護るは紅玉と朱月丸、炎駆だったか。東方支援を頼もうと、ひとり飛び立とうとした矢先のことである。おのれを呼ぶ声がした。
「…………」
 やかましく翼をはためかせ、大きな鳥が降り立つ。大龍はめずらしくおどろいた顔をした。
「これはめずらしい顔だ。タク、たか、…………なにゆえここに」
建比良鳥命たけひらとりのみことだッ。全八部衆の族長に対し、天津国からの指令がたったいま下された。一同会したところで話さねばならぬ。急ぎ東方青黎門へ参れ」
「……たったいま?」
「そうだ。伝達役は明星あけぼし、先ほど聳孤とともに龍宮へとやってきた」
「なんだと」
 と。
 大龍の顔が一気に険しく歪んだ。明星がもってくる話が、龍族にとってためになったためしがない。とはいえ、明星は単に天津国の意向を伝えるだけなので、彼がわるいわけではないのだが。
 なにより、ここ龍宮まで押し掛けてくるとは──ただ事ではない。嫌な予感がする。大龍はぎろりと建比良鳥命たけひらとりのみことを睨みつけた。
「その内容は」
「それは一同会したとき明星よりじかに聞け。とにかく、この広い龍宮を飛びまわり、族長へその旨を伝うるが私の役目。……いやしかし東方にて待った方が早いかもしれぬな。私は先にゆく、お前もはように参れよ!」
 早口でまくしたて鳥は空へ舞い上がる。
 ぜったいだぞ、と念押しし、まもなく東方へと飛んだ。
「つくづく勝手なところだな、天津国」
 呆れたようにつぶやいて、大龍は東方青黎門へ向かわんと左を向いた。

 ────。
「…………」
 大地はうつむいていた。
 いま、おのれの無力さにひどく腹が立っている。みながこれほど戦いにゆくなか、いったい自分は何をしているのだろう、と。
 想いが顔に出ていただろうか。ちょっと、とターシャは苦笑した。
「バカなことを考えるんじゃないよ。お前は人間なんだ。こうなるのは当然だろ」 
「分かってる。分かってるけど……さっきだって、おれがダキニに捕まらなけりゃ、いや捕まったってあの武器みてえなの取り上げちまうことは出来たんだ。クソ、いまならあのときこうすりゃ良かったって、たくさん出てくんのに!」
 と、地団駄を踏む大地。
 そのことばにターシャはいやと首を振った。
「お前があれを手にするのは無理だよ。触ったら手がふっとんじまうかもしれない。なんてったってあの鉾は、天津国の神器なのだもの」
「手が吹っ飛ぶって──」大地は目を丸くする。
「そこまでして大龍方を潰したいのか、彼女」
「……いや、それなら紫焔の逆鉾なんかを持ち出すのは逆効果じゃないかしら」
「逆効果?」
 そう、とターシャは険しい顔でうつむく。
「あの神器は穢れを嫌う。おのれの情に妬みやうらみが混ざっちまったら、たちまちおのれの身を焼きつくしちまう諸刃の剣なんだ。ほんとうに龍族をぶちのめしたいのなら、紫焔の逆鉾よりもっと効果的なのがあるはずなのに」
 神でさえ恐れる神器さ、とターシャがつづけた。
「一振りでどんな気も焼き尽くし、二振りで野を焼き払い、三振りもすればその柄を掴むおのれも紫焔が襲う──なんだってそんなものが生まれたのかは知らないけど、天津国の戒めとして古来より存在してるの」
「んな危険なもの、ぶっ壊しちまやぁいいのに」
 と、大地が眉をしかめる。
 しかしターシャは苦笑して首を振った。
「それでも残しておかねばならないほど、大切なものということなんだよ。アタシも大陸あがりの龍だから、詳しいことは知らないけれどね」
「ふうん。……」
 口を尖らせた。
 もしもあの鉾が、ダキニ自身をも焼きつくしてしまったら。大地は背中が寒くなる。
 ──祀ることをやめた神は……いつしか名前も消え去って、その存在も消えてしまうのかなァ。
 ──ダキニだと言ったろう。
 ──大人の女は、抱きしめられると涙がこぼれちまうもんなのさ。
 これまで聞いてきた様々な声が頭をよぎる。
 彼女は涙を浮かべていた。泣いていたんだ。なぜ?
 彼女は気付いているのかもしれない。同一視でもなんでもない、ダキニという神そのものが、いつの間にかこの世から消え去ろうとしていることに。
「ダメだよ」
 気がつけば、声がこぼれていた。
 ターシャがこちらを覗き込む。大地は眉を吊り上げていま一度さけぶ。
「むしろ死んでもいいと思ってるんだ。きっと、じぶんがダキニであるうちに──」
「なぁに、どういうこと?」
「そんなの絶対ダメだッ」
「あ、ちょっと!」
 大地は、駆け出していた。

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